備忘録として

タイトルのまま

共同体主義と正義

2011-01-29 23:26:00 | 話の種

NHKでやっていたハーバード白熱教室で、サンデル教授が、アメリカで殺人容疑者の兄である政治家が、捜査当局への情報提供を拒否したことをどう思うかと質問したとき、学生の多数派は兄の行動に賛成するものだった。別の質問ではルームメートがカンニングをしたことを知っても告発しない方を選ぶ学生が多かった。また、南北戦争で奴隷制に反対しながら故郷の南軍に参加した将軍についても同じように、賛同する意見が多かった。すなわち、殺人犯やカンニングの告発や奴隷制度の廃止という公共の正義よりも、身近な共同体に対する忠誠を大切にすることが道徳的に正しいとする意見(コミュニタリアリズム=共同体主義という)が多数派だった。これは少し衝撃で日本人の道徳観とは違うのではないかと思った。

孔子に同じような話があり、

葉公、孔子に語りて曰はく、吾が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子之(これ)を証す。孔子曰はく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なるり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。   (子路18)

葉公(楚の重臣)の村に躬(きゅう)という男がいて、父親が羊を盗んだのを役所に知らせてきたと自慢した。孔子は、私たちの村の正直者は逆に父は子をかばい、子は父をかばって隠す。正直はそこに自然に備わるといった。

正義論ではなく、徳の政治と法の政治を説く話で孝悌や社会秩序の問題として語られている。法家の韓非子はこの孔子のことばを、親子の情は守られても社会秩序は守られないと批判している。しかし、最近読んだ「孔子」の著者の金谷治は、親子の間でさえ悪事を暴きあうようになったのでは、法のためとはいいながら、世の中はすっかりとげとげしい非人間的な世界になってしまう。人々の温かい思いやりもなくなって徳治の根底はまったく失われる。孔子はそれを考えてあえて反対したのであった。という。儒教的な道徳観と共同体主義は近いのかもしれない。あるいは孔子は父子の縦の孝悌、血縁秩序を尊重したから告発しないとしているだけであって、ルームメイトなど朋友への忠誠については(たぶん)言ってないので、孔子はカンニングをしたルームメイトの告発を支持したかもしれない。(PS.この推測は間違いで、1月31日 ”子曰はく、老者は之を安んじ、朋友は之を信にし、少者は之を懐けん。  (公冶長26)”、孔子は友人には信頼されたいと言ってるので告発しない可能性が高い。)

ハーバードの学生の多くが共同体主義を選んだことに、私が違和感を持ったということは、日本人の道徳感は身内より社会の秩序を守るという葉公の村人を支持する、法治主義を優先すると感じているからだ。小さい時から、身内の悪より公共の正義を優先するように教育されてきたような気がするのである。少なくとも私の母親は私の悪(いたずら)をかばうことをせず、何度、母親と学校や近所に謝罪に回ったかしれない。これは教育の問題で共同体主義とは無関係なようだが、人格形成においては共同体主義ではなく公共の道徳と正義を優先することを家でも学校でも植え付けられたように思う。

息子とハーバード白熱教室の話をしたら、息子もハーバードの学生と同じ意見で、公共の正義より身内をかばうそうだ。最近読んでいるという宮部みゆきの本を例にだしてきて、寝たきりの父親の介護に疲れた息子が父親を殺そうとするが妹はそれを止めさせようと兄を殺してしまうのだが、事情を知っている近所の人たちは告発しなかった。山本周五郎の江戸の人情長屋のような話だ。これは共同体への忠誠心や連帯感の共同体主義とは少し違い、人間の情や仁義に類する話でもっと情緒的なものが判断基準になっている。長屋の住人にとっては殺人は悪ではなく、妹を守ることが正義なのである。

家族やルームメート、故郷などの自分が所属する共同体への忠誠心を優先する場合、その所属する共同体の意見が道徳的に間違っていても無条件で従うのか?サンデル教授は、”正義とはただ単にその時代、そのコミュニティおいて、たまたま是とされている価値観や、ならわしからつくられるものに過ぎない、ということか?と疑問を呈する。すなわち、正義は普遍的ではないのだという疑問である。

孔子が弟子の性格に合わせてまったく矛盾する教訓を授けているように、宮部みゆきの小説のように、普遍的な道徳や正義は存在しないのである。その場その場で合理的な判断をするしかないのだ。と思う。

もうすぐアジアカップ決勝戦が始まるので、筆をおくことにする。


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