備忘録として

タイトルのまま

神田川・仙台堀

2011-02-06 10:16:29 | 江戸

先週、湯島聖堂へ行ったとき、御茶ノ水駅から聖橋を渡りながら、神田川の写真を撮った。聖橋の下を東京メトロ丸の内線の電車が通っている。電車の右手すぐ上、川の右岸沿いに走る鉄道は中央線で、さらにその上を走り川をまたぐ鉄橋の昌平橋を渡るのが総武線で、鉄道が3層になって交錯している。写真の丸の内線電車の下、神田川を横断して千代田線が走っているので実際は4層である。神田川は江戸の初期には江戸城(皇居)方面に流れていたのを、人工的に流路を変えるため本郷台地の南端を開削して、まっすぐ江戸湾に流し込んだことが、以前NHKの「ブラタモリ」で紹介されていた。写真でも川が深く掘りこまれていることがよくわかる。

司馬遼太郎の「街道をゆく36・神田界隈」を紐解くと、

ともかくも家康入国以来、江戸でおこなわれつづけた土木工事は大変なものであった。一例をあげると、「神田御茶ノ水掘割」である。いま聖堂のある湯島台地と、神田山とはもとはつづいた台地だったが、ふかく濠を掘ってこれを切りはなし、その人工の渓に神田川の水を通したのである。現在の聖橋は、関東大震災後、昭和3年にかけられた橋で、湯島台と駿河台をむすんでいる。下はふかぶかと渓をなし、神田川が流れている。この掘削は江戸初期の工事である。施工いっさいは、仙台の伊達政宗がうけもったという。着工は大坂夏の陣(元和元・1615)のあとで。元和年間というから、その間、家康の死があった。家康は命じただけで、着工の風景は見なかったにちがいない。工事ははかどらなかった。おそらく断続しておこなわれたのだろうが、完工したのは約40年後の万治2年(1659)という大工事であった。

とある。だから、このあたりの神田川は仙台堀と呼ばれる。江東区にある仙台堀川や仙台にも仙台堀があるので注意。下のGoogle3Dで聖橋を真ん中に、神田川の左岸・湯島台に湯島聖堂、右岸・駿河台にニコライ堂が見える。

ついでに、「街道をゆく36」の湯島聖堂とニコライ堂の個所も読み返した。昌平黌の昌平は、孔子の生まれ故郷である魯の曲阜県のなかにある昌平という郷村の名からとったそうである。学生は主に幕臣で科挙と同じように5年に一度卒業試験があったそうだ。明治になると神田には60もの私塾が林立し、その後、明治大学、東京理科大、法政大学、中央大学、日本大学、共立女子大学などの私学になった。古本屋が多いのもこの所為である。聖橋から大学のビルの谷間を神保町方面に歩いていると楽器屋が集まる界隈もあった。ニコライ堂は函館に正ハリストス教会を開いたロシアのニコライさん(1836~1912)がのちに東京に出てきて建てたギリシャ正教(ロシア正教)の教会である。ニコライ堂の入り口まで行った私と妻は、入場料を取ることもあって、”どうせイタリアで見た壮麗なステンドグラスで飾られた教会には及ばないに違いない”と決めつけて中には入らなかった。。函館のハリストス教会に入った司馬遼太郎は、”壮麗としかいいようがない”と感嘆している(「街道をゆく15・北海道の諸道」)ことを後で知り、入らなかったことを悔いている。


最新の画像もっと見る