あの展覧会の場と時は何だったのだろう。
すぐ隣には家があるのだけれど,ほとんど人の気配がない古民家にひとり、
最初の夜は川の音と余りの静けさに、寝付かれなかった。

清滝、テラのギャラリー。
そして、ようやくその場に慣れ、その場と時を読書に当てることができた。
読んだ本、「アメリカ人禅僧、日本社会の構造に分け入る」ミラー和空さんに夜13人との対話、講談社。
それにはここの住職も名を連ねているのだが、ようやく全部を読み終えることができた。
日本の経済など何も知らぬ私に、少しだけその構造の一旦を垣間みることができた気がする。
こちらから持参したのは、鷲田清一の「なぜ人は服を着るのか。」
京都で求めた、内田樹の「ワンランク下の自分を目指す?」
そして「小林カツ代と栗原はるみ」これは途中。
帰りには鞄に入れておいたデパートの商品券で「新 世界の窓」「新 世界の家」と娘のクリスマスプレゼントとしてシロクマの写真集。
何と充実した場と時だったろうか。
日常を離れ、世間と隔絶したところに置かれないと私には読書タイムは訪れない。
帰山すると、与呂見盆地は紅葉に染まっていた。
夕日に照らされた銀杏は黄金のごとく輝き、楓は炎のごとく燃え上がっていた。
夕方、一人畑の真ん中に立つと落ち行く葉の最後の祭りの賑わいと哀れさが見えるようだった。
美しさと哀れさはもしかして同じかも知れない。
あでやかさの中に儚さがあり、それ故に美しさは増すのだろう。


10日ほど留守にすると畑仕事がどっさり待っていた。
小豆を穫り、落花生を掘り起こし、人参と蕪の間引きをして、唐辛子を抜き、葱に籾殻を被せ、今日は黒大豆と柿酢用の柿を捥ぐのを住職にしてもらう。
これからそれらのからを取り除く仕事が残っている。
まだまだ、冬の前まで畑仕事は続く。

そうだ、帰山前に寄った友人の家での時間を、次回に。
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