今までほとんど歩くことを意識したことがなかった。
そのくらい歩くことは普通の行動様式で、歩けることは自分の中では当たり前のことになっていた。
母が転んで圧迫骨折となり歩くことが不自由になって、歩くことがどれほどのたいへんなことであるかを知った。
歩くことは、単に歩くだけのことでなかった。その不自由さはその人の心まで不自由にした。
そして、気持ちまでベッドに縛り付けた。動かない、動けないことがだんだんと気持ちを萎えさせた。
動かないと筋肉が落ちてゆく。するとますます動けなくなる。その悪循環だ。
コルセットが作られた。それを装着した途端歩き出した。その時の母の顔が忘れられない。
自分でも信じられない表情と動けないことからの抜け出せた晴れ晴れとしたという得意げな表情が混ぜ合わさった。
自分の足で行きたいところにゆける。それがどれほどその人を支え助けるか、それを目の当たりに見た。
1ヶ月と言われていたのが2週間で退院することが出来た。先生も同室の同年代の人をも驚かせた。
退院した翌日,私は母に伴って歩いた。ゆっくり、ゆっくり1歩1歩,母の肘を持って土の上を歩いた。
母の病室に私はハナの写真を飾っていた。そのハナも散歩のお供をした。
入院前と同じ風景が戻った。
母とハナの老老散歩,どちらが欠けてもここでの散歩にはならない。
入院中は夜中に帰ると言いだして歩き出したと聞いていた。
ここに戻ってそれはもうない。よく眠れるとうれしそうに言っていた。
歩くことは、人を人と生らしめることに他ならない。では歩けない人は人ではないかということではない。
歩くことを奪われた人の気持ちを思うと胸が詰まる。
歩くこと,歩けることって、ほんとうはすごいことなんだとつくづく感じさせてくれた出来事でした。
先日のNHKの「ためしてガッテン」でプレイス細胞が記憶に深く携わっていることを知った。
移動することによって記憶されやすくなると。
歩くことの意義は大きい。




だった。



