冬の勉強会の一つが28、29日にあった。
仏教の何も知識のないものが、坐禅もしていないものが、道元の現成公案を勉強して分るのか、何に成るのか。
これは私にとっての公案かもしれない。
ここに来て毎年同じものを教本として講師を招き講義を受けているのだが、分るかと言われると「分らない」としか言いようがない。
では、おもしろくないか、と問われると、けしてそう言うこともない。
今回は兵庫から能勢老師にきていただいた。
まず、老師の知識の広さ深さに感動を覚えた。と言ってもけしてひからすこともなく、ことぼのひとつひとつをその歴史的背景や仏典から紐解いて丁寧に説明してくださった。
では、分ったか、と問われると、自分の言葉に翻訳できない。その中にいくつか気になる言葉があった。
我、自分とは思う通りに成らぬもの、その我はない、そのことをただ受け取るものとしてある。
その人間を超えた神聖なものに対して手をあわせたくなるこころがある。それは説明できない、理由が立たない。それが仏教心。
結果として今在る、判決文として在る。自分がやっていることではない。
自分を認める、自分のためにしかできないのが、生命であり、人間なのだと。
どうもそこから、出発しているようだ。
人間、その人間を超えたものとのかかわりをこの公案が導いてくれる。
東京から4人、金沢からも来て、夜は宴会となり、延々と仏教論は続いたのでした。
頭の中に冷たい雪が降ったり、氷柱が伸びて来て、熱くなった頭を冷やしてくれると、もうそこには水しか残ってなくて、それもいつしかなくなって、「あれは、なんだったのだろうか?」その繰り返しの冬の勉強会です。
凡夫は、我執でなく、念として究かにしてゆくこと。
難しい、分らない。そのわからない、ということが大事のようです。
その日は雨となり、今日は雪になりました。
また新しく更新された雪景色が私を迎えてくれました。









