goo blog サービス終了のお知らせ 

よろみ村くらし暦

奥能登の禅寺での山暮らし。野菜作りと藍染め,柿渋染め,墨染めのくらし暦。来山者への野菜中心のお料理が何よりのおもてなし。

秋を拾う−2ー

2022-09-23 10:19:34 | 自然の不思議

ネットの不都合で、今開山堂で書いている。
ここだとネットが繋がることを知った。
それにしても、私にはよく分からない。



9月の暦 象形文字のボク

秋を歩きながら、走りながら、道側に目をやる。
私が見落としていたのか、時期になって花を咲かせたのか、新しい発見がある。
釣船草の多くはピンクか黄色なのだが、ほとんど白に近いものを見つけた。
ただし、水揚げが悪いのでそのままそっとしておいた。



散歩の帰りには手に何かしらの野草を摘んで家に飾って季節を愛でている。
家の庭がようやく雑草を刈り、スッキリした。
庭と言っても8畳ほどの大きさを囲ったもので、春は鉄線、今はコスモスが咲いている。
でも、屋根雪と積雪でその鉄線のほとんどが見られない。
あるのはドクダミだ。これの繁殖力は強く、少しでも根があると瞬く間に広がってしまう。
宿根草を植えてもいつしか途絶えてしまっている。
また水捌けが悪いので雨が降ると水浸し。
さて、これからどうしよう。

朝顔の季語は秋だと聞いた。
零れ種から咲き出した朝顔が毎日30個近く咲いている。
その中に白い花びらでそれが切れているのを発見。
突然変異なのかな?



夏野菜から冬野菜の間引き菜、さて、どれだけ大きくなってくれるだろう。









秋を拾う

2022-09-15 09:53:58 | 自然の不思議

暑い暑い夏もいつしか朝晩は風が秋を感じさせる。
ふと気付くと、足元の花が秋の幕開けを教えてくれる。
釣船草、黄釣船、時鳥、吾亦紅、秋の定番の花が揃っている。

ところが、散歩をしながら周囲に目を向けるとそこには今まで目に入らなかった花たちが楚々と咲いている。
あまりに小さすぎて見落としていたり、知っていると思っていても名前さえ知らなかったり、目を凝らすとほとんどは知らない所謂の雑草たち。
家に戻り図鑑で調べても分からなかったり、新たな発見があったり、同じ道なのに飽きることがない。



ノササゲと臭木

今年初めての花との出会い、ボタンヅル、ノササゲ、そういえば、去年は展覧会場の清滝で見た曙草。
よくよく見ると多田多恵子さんではないがその作りの巧妙さ、芸術性に驚かされる。



ハキダメギクと?
掃き溜めとは、他につけようがなかったのかな?

分かったことは、知っているのはほんの一部、どころかほとんどが私の知らない世界を生きていること。
畑では花もつけない雑草が蔓延って邪魔者にされている。
そして虫たちは、その雑草でなく、野菜の葉を食用にしている。
やはり、美味しいのかな?



おんぶバッタを見つけた。

そうそう、大事にしていた吾亦紅を草刈りで切られてしまった。がっかり!







野菜の美術館

2022-09-10 10:39:14 | 自然の不思議

畑をするようになって、気付かされたことがあった。
その一つが野菜の花、あまりの造形、色彩の豊かさに畑を野菜の美術館と称している。

今日は十五夜、朝の散歩の際、お月さまにお供えしようと秋の野草を摘んできた。
野山には秋の花々が咲いている。
しかし、野菜の花はいくら綺麗だからといって摘むことはできない。
花が咲くことで実る準備ができ、それを蜂たちが受粉させ初めて実る。



ナスと蜂

野菜畑に行くと、つい花より実の方ばかり目が行ってしまう。
今朝、あまりの青い空に導かれ野菜の花を撮影した。
知っているようで知らない、見ているようで見ていない、そのことに気付かされた。
一応、マメ科、ナス科など科毎の特徴は見られる、それにしてもその見事な造形や色彩にため息が出る。
形はひまわり型、釣船草型、ラッパ型、色は黄色、紫、ピンク、緋色と色とりどり。



紅花豆の花

太陽みたいに大きく花びらを広げるもの、俯いて蜂の来るのを待っているもの様々だ。
今年もズッキーニがたくさん採れ、お裾分けしたが、その苗をあげた人から実らなかったという報告を受けた。
多分そこには蜂がいなかったのだろう。改めて蜂の恩恵を知った。



ズッキーニの花

野菜の花の美術館はそろそろ閉館になる。
冬野菜のほとんどは葉物、さて、虫たちに負けず立派な大根や白菜になってくれるだろうか。

今日は十五夜、朝から青い空が広がり、今晩は満月の十五夜が見られそうだ。
そうだ、ススキを忘れている。






夏休みのプレゼント

2022-09-03 20:04:02 | 日記

この夏、初めて藍が建たず、展覧会もなく夏休みとなった。
今日は天気さえよければ燕登山をしていた筈。

そこでここに来て以来初めて写真、手帳、仕事をしていた頃の書類などを整理した。
出て来たのは登山手帳、24の時、私は表銀座、立山連峰を縦走していた。
その頃は紙の地図一枚で3000メートル級の山を踏破していた。
その地図は畳じわがセロテープで補強され、登山道が縦横無尽に赤く塗られていた。私の歩いた足跡だ。
何も知らないということと若さがさせていたのだろう。



また高校から始めていた書道、展覧会に出品した作品が数十点出てきた。
最初は漢字だったが、途中からかな書道に変更。
仮名の線、墨の色、空間の妙と日本の古典の和歌に魅せられた。
大きなもので衝立大、小さなものは手のひら大の軸物。さて、これらをどうしよう。
今の私の目で見て気に入ったものは襖にでも貼ろうか、また軸は季節に合わせて床の間に飾ろう。



夏休みがなかったら、まだそれらは押し入れに眠ったままだったかもしれない。
昔が蘇り、思いがけない夏休みのプレゼントになった。
形に残ったもの、思い出の中に残ったこと。
あの時代に生きていた、そして今がある。