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よろみ村くらし暦

奥能登の禅寺での山暮らし。野菜作りと藍染め,柿渋染め,墨染めのくらし暦。来山者への野菜中心のお料理が何よりのおもてなし。

四国遍路-花ー

2015-03-31 21:29:20 | 旅行

春はこんなにも花があっただろうか。
春の花は、これほど色とりどりの花に溢れていただろうか。

ここ与呂見も春になると一斉に花を咲かせるが、四国と言う土地柄か気候か庭に山にお寺にそれこそ百花繚乱。
歩くとそんな花々に出逢える。
同じ椿も薮椿、乙女椿、八重や一重、
同じ梅も白、紅。中には桃の花も白いのがあって、これって実がなるのかしら?
同じ蒲公英でも初めて見た白い蒲公英、確かにたんぽぽの筈。
上を見上げ、下を見つめ、時に手に取って香りを楽しむ。

まだ桜には早かったけれど、でも山桜は遠目にも山肌をピンクに染めていた。
そして川は黄色い菜の花が、もう1本の流れを作っていた。



私が知っている花の名前を掲げてみよう。
ムラサキハナナ、ツルニチニチソウ、スミレ、オオイヌノフグリ、レンゲソウ、ハマエンドウ、イチリンソウ、
ミモザ、沈丁花、木瓜、三つ葉木通、
チューリップ、水仙、菖蒲、ムスカリ、クリスマスローズ、
他にもたくさん咲いていたけれど、名前を忘れたり、知らなかったり、
どの花も歩くものにやさしく迎えてくれた。
時折薮の中に日本蜜蜂の養蜂箱が置いてありました。
ここにも毎年設置するけれど、中々蜂さんは入ってくれません。
四国には花が溢れているから、蜂に取っては居心地がいいのだろう。

自然の中に花が咲き、人様の庭先に花が植えられ、お寺にも花を大事にするところもあって、それだけで歩き疲れた者を和ませてくれた。
歩くと言う速度と遍路と言ういわゆる特権なのか、春の道は花の道でした。












四国遍路-歩くー

2015-03-30 10:18:38 | 旅行

19日から28日まで四国遍路を歩いてきた。
1日3、4時間、愛媛と香川のお寺30寺を8日間で歩いてきたことになる。
歩いたと言っても時に電車やバスを使いながらの遍路になった。

四国は春だった。
庭先には紅白、黄色、紫、
足元には白、
目の先には柑橘系の様々な黄色い実がたわわに吊るさっている。
その樹の下にもどっさり実が落ちていた。
誰の口にも入らぬ実が何ともったいないような、哀れのような。
どこからか花の香りとみかんの香りが折り重なって息が上がっている鼻先に届く。

歩く足元からヒバリが舞い上がり空で高らかに鳴く。
歌を覚えたばかりの鶯が空で音符を描くように歌い上げる。
名も知らぬ鳥がソプラノを奏でる。

歩く、遍路道の赤い矢印を頼りに歩くのだが、時々見失いながら引き返したり、遠回りしたり、
落ち葉の山道を自分の足音を聞きながらひたすら歩く。
街の中を、家々の間を、車の走る道路をエンジン音にまくしたてられながら歩く。
小川のせせらぎを聞きながら歩く。
まだ始まっていない田んぼの中を、畑の青青したねぎのとんがりを横目に歩く。
500段の階段をひたすら足元だけを見つめながら歩く。

お寺とお寺を結ぶ道を黙々と歩く。
なぜ歩くのか、そんな問いもどこかに行ってしまった。
道があるから歩く、お寺があるから歩くことができる。
もしお寺がなかったならば、歩くことはできなかったのではなかろうか。
私にとってお寺はけして信仰の対象でなく、むしろ歩くために、歩かせていただくためにあるような気がした。
次のお寺までは遠かった。遠い故に歩くことができた気もしている。
歩くとぐっしょり汗を掻いて、冷たい風にあおられてそれでも歩く。
歩いても何もないけれど、それでも清々しくて歩き続ける。
足があるから、いや、私がここにいるから歩く、歩けるから、歩こうとするから歩く。

春の光の中を歩く。
可憐な花々に祝福されて歩く。
鳥たちの春の歌に励まされて歩く。
届けられた香りの先を目指して。



本山寺を目指して。



浄瑠璃寺を目指して。







春彼岸

2015-03-17 14:08:00 | 日記

明日から春の彼岸になる。
秋の彼岸に母が亡くなり、もう半年経つことになる。

秋の彼岸からだんだんと日が短くなり、だんだんと寒くなり、雪になった。
そして半年、その雪が解け出し木の下のところから土が見え始めた。
1日1日陽が長くなり、1日1日明るさが増してきた。

留まることのない日々、後戻りすることのない時間、それを私は見てきたような、見ていないような気がする。
私は明日から四国のお遍路に出る。
母を最後に私の身近な生山の家族がいなくなってしまった。
じっとしていられなくて、歩きたいと思った。一人になりたいと思った。

ところが、今回は思いがけずドイツ人の友人も行きたいと連絡があり一緒に歩くことになった。
これも何かのご縁だろう。

この20日、愛犬秋田犬ハナが13歳になる。
最近は歩きながらも時々足を引きずるようになり、目にもマイボーム腺ができ、老化が進んできた。
でも、どんな時も、いつも愛くるしいハナだ。
どれだけ慰められ、元気付けられたことか。
まだまだ、これからも一緒に散歩しようね!

テレビでターシャ、チューダーさんの番組の再放送していた。
91歳の彼女は年老いたとは言え記憶も確かでその生き方に学ぶことが多かった。
何かを成し遂げるまでの努力と辛抱、待つと言うことの愉しさも語ってくれた。
そして好奇心と想像力の豊かさ。できる限り自分自ら手作りをする工夫と実行力には言葉を失ってしまう。
自然の中に身を置き、自然と共に生き、花や草木の中で、動物たちと楽しく暮らす生き方は私の理想だ。
いくつになっても生きることの歓びを自ら作り出す生き方はこれからの私へのエールにもなった。



クリスマスローズとハナ








春はあけぼの。

2015-03-15 20:55:47 | 日記

春はあけぼの やうやうしろくなりゆく、、、。
これは「枕草子」の1節、朝が明るくなった。いや、私が起きる同じ時刻が明るくなってきた。
お弁当作りの朝が電気を点けなくてもできるようになり、夜の台所は初めてストーブがいらなくなった。
あの暗く寒かった冬が遠のいてちょっとほっとしている。

冬はつとめて、雪のふりたるはいふべきにあらず。
冬は白い食べ物の毎日になる。
じゃがいも、タマネギは勿論のこと、白菜、大根、蕪、これらの野菜の繰り返しになる。
ほとんど野菜を買わないので、冬は献立にちょっと苦労する。
冷凍しておいたグリーンピース、ブロッコリー、パプリカもほとんど底をついてきた。
そんな時スーパーに行くと緑の野菜が目に飛び込んでくる。
つい法蓮草や小松菜、ニラ、貝割れ大根に手が伸びる。
それを胡麻和えや白い野菜に彩り程度に使う。
しかし、それらには緑の匂いがしない。でもそんなわがままは言えない。緑がほんの少し入っただけで食卓に春の気配がする。



冬の白い食べ物は、1年に溜まったからだの不純物を浄化して休ませくれる、そんな役割を果たしてくれているのではないだろうか。
体を清めて、また始まりの春を迎える。
そんな始まりの緑の食べ物は蕗の薹。
しかしそれは眠って休めていた体を叩き起こすかのようなその姿に似つかわしくないちょっといたずら者。
その蕗の薹も春の雪の下に隠れてしまった。
今度顔を出すときは、もっともっと苦みをもってもてなしてくれるだろう。
この苦みが、鈍っていた体を解きほぐし、目覚めさせてくれる。



春の雪の中のハナ。
春の雪は重く、今日には木の上の雪も解けてしまった。














サーターアンダーギーとドーナッツ

2015-03-13 15:04:04 | グルメ

サーターアンダーギーとドーナッツを戴いた。
サーターアンダーギーは沖縄出身の親戚から、ドーナッツは自動車整備会社の景品だろうか。

以前自分でサーターアンダーギーを作った。黒砂糖と卵と小麦粉だけを練りそれを揚げたもの。
戴いたそれもお手製で中は卵色でしっとりしていて外はかりっとして油ぽくない、甘さも程よい上品な味。
油がきついとすぐ胃が痛くなる私でも軽く二つは食べられる。
ところが、市販のそれは一口食べて袋に返してしまった。
先ず、甘さに付いて行けない、次に油のベタベタ感に嫌悪感に近い感覚がある。
中は空洞があり、そこに油が染み渡っている。これは小麦粉だけでなくベーキングパウダーが多く入っているのか、それとも私の知らない何かが混ざっているのか、私には分らない。

私の個人的な好みなのか、みんなはこれをおいしいとする感覚に大きな隔たりを覚えた。
より甘く、より油っぽくするのはいわゆる成人病の元を作ることになりかねない。
一定の甘さや味に慣れるとよりもっと刺激的なものを求めるもの。

日本人の将来が危ぶまれる、と思うのは私ばかりだろうか、、、。



南国の花のように開いたサーターアンダーギー。



庭木に降り積もった雪を娘に落としてもらった。
樹に降り積もった雪の姿は美しいが、それをしないと下手をすると折れてしまう。
この冬、甲府から持ってきた百日紅の大きな枝と泰山木が折れた。
北陸の雪は重い、甲府育ちの樹には酷だったのだろう。
私の都合で持ってきたことに、ちょっと申し訳なさを感じている。