20代の頃の私は山女だった。日本の3000m級の山を登攀し、その仲間とヒマラヤを登る計画をしていた。
しかし、両親の反対で諦めざるを得なかった。
そう、弟が24で海で心臓マヒで亡くなった悲しみに暮れる両親にこれ以上の心配はかけられなかった。
そして今年、友人3人とアンナプルナ山群を歩くことができた。
標高は大分低く、2200が最高地点の山旅で1日2から5時間と言う5日間の日程だった。
最初、ちょっと物足りないかなと思っていたが、結局3、4、5、6時間のアップダウンのある行程で今の自分にあっていた。
むしろ同年代の人と比べても歩けた方で、自信がついて帰宅するとまた行きたくなっていた。
若い頃頂上を背にして下ると、また登りたくなっていたあの頃と全く同じ自分がいて、苦笑している。
あの頃、きっと見上げる角度が違うだろう、そのスケールが違うのだろうと夢見ていた。
それは3日目の夜明け前だった。
私たちの願と添乗員さんの寝ずの祈祷?によってその山容を浮かび上がらせた。
青紫の中に、紅色とオレンジとバイオレットの薄衣を纏ってそれこそしずしずと現れた。

「うわぁー。」言葉はそれだけだった。どのように形容したらいいのかわからない。
唯唯、朝日が当たり刻々と変るその色、浮かび上がる雪の山並み、山容に魅入った。
後ろで誰かが言った。「この時季にしたら、こんなの最悪の風景だよ。」
出し惜しみなのか、恥ずかしがり屋なのか、演出なのか、私にはこれだけでここまで来た甲斐があったと思った。

各ロッジはアンナプルナの展望の絶景ポイントに用意してあった。
次の日から声を掛けるように私たちの道に寄り添うように隠れたり出たりしながら、見守っていて暮れる母のような、大地のような頼もしい伴侶となってくれた。
歩き出して4日目、オーストラリアンキャンプ、アスタムコットではもうお友達、むしろ私たちに付いてきたいような素振りも見せてくれた。

地球のてっぺん、それは神々しくて近寄り難い美しさと厳しさを持ち合わせていた。
まだそこは地球の一番高いところではなかったがその風貌は地球の大自然と大きさ、偉大さを感じさせてくれた。
考えると、ここも一つの地球のてっぺんに違いない。
それでもやはりあの大きさを前にすると人間とは何なのか、対峙しているあの山は何なのか考えてしまう。
その中のマチャプチャリ、現地語で魚の尻尾を言うらしい、この頂上だけは人間が登ってはいけないことになっていると聞いた。
現代の知恵や装備などを駆使すれば何でもできてしまう。その傲慢さを戒めることになっているのだろう。
人が踏み込んではいけないならない神聖な場所があってもいい。
そう、そのマチャプチャリの山容は、坐禅をしている姿にも見えた。
その当時は一眼レフのカメラでスライドにしていたが、今回のカメラは小さくて、しかもギガも小さくてその迫力が出ていません。
山に申し訳ないです。
見てくださる方々にも、その美しさが伝えられず、残念です。
是非、足を運んで、ご自分の目で、身体で感じてください。










