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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

チック・コリア・エレクトリック・バンド/ライト・イヤーズ

2010年01月19日 23時12分19秒 | JAZZ-Fusion
 1987年にリリースされたCCEBの第2作である。昨夜も書いた通り、いわゆるチック・コリア・エレクトリック・バンドの5人が揃うのがこのアルバムであり(一部、前作にも参加したカルロス・リオスのギターも参加)、このバンドの一般的なサウンドのイメージを確立したのも、だいたいこの作品あたりだと思われる。多分、この作品も私はこれまで聴いたことがなく(初めて聴いたとはとても思えない曲もあるので、ひょっとすると聴いていたかもしれない)、先日急遽購入してきて、さっきから聴いているところなのだが、アルバム全体の印象としては、基本的には前作の延長線ではあるものの、全体にやけにポップであり、それぞれの曲もかなりコンパクトにまとめたといった感じである。前作にあったMIDIやシーケンサー、そしてデジタル・シンセといった最新の飛び道具に目がくらんで(?)、やや作り込み過ぎ、音を詰め込み過ぎなところを、すっきりとさせたサウンドということもできるかもしれない。また、新しい拠点がトミー・リビューマとデイブ・グルーシンが仕切るGRPという売れ筋の作品を量産しなければいけないメジャー・レーベルだった....という影響も大きかったと思う。

 そんな訳で出来上がったアルバムは前述の通り、非常にポップである。相変わらず最新鋭のデジタル・シンセやMIDI機器を駆使した非常にきらびやかなサウンドだが、長いインプロ、トリッキーな仕掛け、複雑な変拍子といったチック・コリア的にゴリゴリしたところは、ほぼ一掃してしまっており、あの時代に猫も杓子も追いかけていた「ポップなファンク・フュージョン」というスタイルにCCEB自身が埋もれてしまっている感がなくもない(ひょっとすると、この手の音楽はCCEBが「走り」「元ネタ」だったのかもしれないが、なにしろあっという間に一般化してまった)。なので、新加入のフランク・ギャンバレとエリック・マリエンサルという逸材も、本作ではチック・コリアの作り出すデジタル・シンセ中心のバンド・アンサンブルの中に妙に神妙に収まってしまっているのはちと残念だ。曲目としては5曲目の「タイムトラック」が、全体をスムースに流しつつ、隠し味的にソロをバランス良く配置してなかなかの仕上がり。また、「ビュウ・フロム・アウト・サイド」はいくらかチック・コリア的ゴリゴリ感が感じられる歯ごたえのある作品になっているくらいか。残りはFMに乗せてもなんの違和感もない、実に口当たりのいいサウンドになっているが、だからこそ食い足りないというのもまた事実だ。
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シェーンベルク 山鳩の歌/ブーレーズ、ノーマン&EIC

2010年01月19日 00時33分10秒 | マーラー+新ウィーン
 このお正月にシェーンベルクの「グレの歌」をウィグルスワース指揮ベルギー王立歌劇場管弦楽団その他で演奏した映像を観て以来、実はあれこれとCDを聴いているところなのだけれど、単独でよく聴くのがこれだ。「山鳩の歌」というのは「グレの歌」の第1部の最後に置かれた山鳩に扮したメゾ・ソプラノによって、現世での主人公のふたりの悲劇的顛末が歌われる曲のことだが、シェーンベルクはこの悲しみ湛えた曲を気に入ったのか、後年、大規模な管弦楽を簡素な室内管弦楽に縮小し、単独の楽曲として編曲している。実際にこれを単独演奏したCDはあまり沢山はないようだが、ジェシー・ノーマンの歌にブーレーズとアンサンブル・アンテルコンタンポランが伴奏を付けたこの演奏は、その少ない演奏例のようである(少なくとも、自宅にはアサートンが振った演奏があるくらいか?)。

 「山鳩の歌」は「グレの歌」の1パートとしても魅力的だが、こうして単独で聴いてもなかなか素晴らしいものがある。オリジナルはあまり派手ではないが、芳醇としかいいようがない絶妙な色合いの管弦楽がバックについている訳だけれど、こちらは伴奏を小規模な室内楽に編曲しているだけあって、全体としてはリートみたいな落ち着いた風情とこれを編曲した時のシェーンベルクの音楽的嗜好と無縁ではなさそうな、新古典主義的なある種の乾いた感触を持ち、かつクリアな響きを持ったオーケストレーション(木管の響きがいかにもそれ的、ブーレーズとアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏の威力も大だろうが)が独特の効果を上げている。オリジナル版が間近に起きた出来事を生々しく伝えていたような風情だったとすると、こちらは悲痛な回顧録を聞くようなモノクロ的な雰囲気があるとでもいったらいいか。

 ジェシー・ノーマンはこれかなり力強い凛々しい声で歌っている。大管弦楽が伴奏ならもう少しリリカルな声の方が雰囲気があると思うが(実際、そういう例が多いのではないか)、こういう伴奏なら彼女の豊かな声が実に合っている。後半転調してから終盤の絶叫的な部分などは、素晴らしい緊張感とドラマチックさがあり、すっかり聴き惚れてしまった。さて、なにしろ「グレの歌」というのは長い曲なので、聴き比べをしたいと思いつつ、それをするとかなると、けっこうな大作業となってしまいそうなのだが、とりあえず「山鳩の歌」の部分だけなら、10数分なのでけっこう敷居が低そうだ。うーむ、今度、やってみようかな。
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The Chick Corea Elektric Band

2010年01月18日 23時37分57秒 | JAZZ-Fusion
 1986年に発表されたチック・コリア・エレクトリック・バンド(CCEB)のデビュー作。録音時期としては先に取り上げた「ライヴ・フロム・エラリオズ」の方が早いが、あれは後年発表された一種のレア音源であり、一般リスナーが彼らを知ったのは、当然この作品が最初のものである。この時期のCCEBは当初の構想通り、メンバーはコリアにパティトゥッチとウェックルの3人で、ゲスト的にギターのカルロス・リオスとスコット・ヘンダーソンが参加してサウンド補強するという形をとっている。フランク・ギャンバレのギター、エリック・マリエンサルのサックスが加わって、バンドの布陣が固定するのは、これの翌年に発表された「ライトイヤーズ」からである。
 実をいうと、私がCCEBを聴いたのは、これより更に後の「アイ・オブ・ザ・ビホルダー」あたりからで、初期の2作は聴いたこともなければ、CDも持っていなかった。どうせ、かなりポップなフュージョン路線だろうと、あまり触手が伸びなかったせいだが、先日、聴いた最初期の音源「ライヴ・フロム・エラリオズ」があまりにも良かったため、これは看過出来ないと思い、数日前に急遽購入してきた。

 さて、この初めて聴く彼らのデビュー作だが、エレクトリック・バンドというのがバンド名に込められた意図が非常によく分かる内容だ。「ライヴ・フロム・エラリオズ」はなんだかんだといいつつも、インプロ重視のトリオ演奏だったのに比べると、こちらはとにかく当時最新鋭のデジタル・シンセ、シーケンサー、シモンズ系のパーカスといった飛び道具のオンパレードである(クレジットにはヤマハのTX系、フェアライト、リン、そしてシンクラヴィアなど錚々たるシンセ並ぶ)。これが発表された頃、私は打ち込み音楽に夢中で、デジタルシンセやドラムマシンなどを何台も購入して、Cubaseというシーケンスソフトでもって、自ら打ち込み音楽をやっていた時期なので、この手のサウンドは実に懐かしくもある。
 デジタル・シンセ特有のマリンバを金属的にしたようなクリアなエレピ系、重厚さはないがキレ味の良いブラス系、シンセ・ベース、遠近感のあるシモンズのドラム・サウンドなどをデジタル・リバーブ特有の光沢感....といったものは、当時のまさに「最先端のサウンド」であり、こういうものを多少なりともかじっている人間にとっては(私は下手の横好きだったので全く物になりませんでしたけどね-笑)、ものすごく金のかかる「憧れの音」だったのである。

 本作を聴くと、そうした最新のテクノロジーに触発された音楽という感が非常に強い。なにしろこの時期は音楽テクノロジーという点は、ある種「産業革命」のような時代だったので、テクノロジーの発達が音楽の創作に直接的な動機となるようなことが、いろいろなところでみられたけれど、それがテクノやロックの世界だけなく、ジャズの分野からもチック・コリアのような人からもアクティブに発信されていたということだろう。
 まぁ、そういう音楽なので「ライヴ・フロム・エラリオズ」のような長尺インプロはあまりなく、全体は尺はかなり刈り込まれ、全体はきっちりかっちりアレンジされかなりポップな楽曲が続いている。比較的インプロ度、ゴリゴリ度(?)が高い楽曲としては、 デイブ・ウェックルお得意のラテン・リズムがフィーチャーしつつ、自在に4ビート行き交う「ゴット・ア・マッチ」、RTF的ゴリゴリ感を口当たりの良いサウンドに還元させてみせた「シルヴァー・テンプル」あたりが楽しめる。また「キング・コックローチ」もその系列だ。これらの曲では、コリアもさることながら、若武者ウェックルとパティトゥッチのリズムが圧倒的だ。ありがちな求道的に楽器を追求していくシリアスなタイプではなく、妙に明るい開放感と天衣無縫なプレイ、いろいろな意味で当時衝撃的だったけれど、それがよく分かるプレイだ。
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ミクロス・ローザ/プロビデンス

2010年01月17日 18時09分13秒 | サウンドトラック
 アラン・レネといえば「24時間の情事」や「去年マリエンバートで」といったヌーベル・バーグ期の歴史的名作を残したフランスの監督である。そのアラン・レネが70年代後半に往年の手法を再び駆使して作り上げた作品が、この「プロビデンス」だ。往年の手法とはトリッキーな時間の流れや客観主観が判然としないショットといったものだが(この最たる作品が映画史上の名作「去年マリエンバートで」である)、「プロビデンス」はこうした手法を再び使った作品という評判だったと思う。
 ストーリーはもはやあまり覚えていないので、解説文をそのまま引用させてもらうと、『78歳の誕生日の前夜、宏壮な館の奥深くで病魔に苦しむひとりの老作家が死の強迫観念に襲われながら、最後の力をふりしぼって構築する物語と現実を、重層的に交錯させて描く。』というもので、記憶によれば「去年マリエンバートで」のようなキレはなかったものの、ジョン・ギールグッド扮する老作家の妄執と、誕生日の当日に集まる家族らによって、それまでの映画語られてきた来た「事実らしい出来事」がそうでなかったことが判明するあたりはアラン・レネらしいところだった。

 で、これは後で気がついたのだが、この映画のサントラを担当していたのが、最晩年のミクロス・ローザだったのは意外だった。ローザといえば、ハンガリー出身とは国籍はアメリカで、1940年代から「白い恐怖」や「ベンハーなど」ハリウッドで数々の名作を作ってきた人だから、その最晩年によりによって難解をもって知られるフランスの映画監督の作品に音楽を付けるというのは、普通ならありえない人選だったからである。
 さて、実に久しぶりにこのサントラを聴いた印象だが、ピアノが哀しげだが優美な旋律を奏でるメインタイトル(ワルツ)など、「えっ、これがあのミクロス・ローザ?」と思うほど、ヨーロッパ映画らしいエレガンスを感じさせる仕上がりだ。少なくとも「ベンハー」や「クウォデバイス」の豪快さやスケール感は薬にしたくもないという感じ。当時ローザは70歳、そろそろ枯淡の境地に達していた故の作風なのだろう(そもそもヨーロッパの人ではあるし)。

 また、もともとはニューロティックな音楽を得意としていた人だけあって、「白い恐怖」を思わせるドラマチックな展開を見せるところもあるし、ハリウッド風でやや時代がかったが「愛のテーマ」のような楽曲も一部登場ないでもない。レネの作品には完全ミスマッチな作風だとは思うか、思うにこの映画が「かつては前衛だった手法を懐古的に使って作られた作品」だとすれば、こういう古臭い音楽をあえて入れるのは、かなり意識的なものだったのかもしれない。
 という訳で、晩年のローザの音楽を味わうにはいいアルバムだ。ちなみにローザはこれと同じ年に、ビリー・ワイルダーが監督した、これまた回顧的な作風そのものがトリックになっている「悲愁」という作品の音楽もつけているが、こちらもサントラは確か「懐古的偽ハリウッド音楽」のような作風だった気がする。残念ながら私はサントラを持っていないので(CDになっているのだろうか?)、なんとなくこちらもを独立して音楽だけを聴いてみたいになってしまった。
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カーリン・アリソン/バラード~コルトレーンに捧ぐ

2010年01月17日 17時09分30秒 | JAZZ
 年末に取り上げたイヴォンヌ・ウォルターの「アイ・ウィッシュ・アイ・ニュー」と同じアイデア、つまりコルトレーンの「バラード」を丸ごと歌ってしまったアルバムである。カーリン・アリソンという人は寡聞にして初めて聴く人だが、1992年にレコード・デビューし、本作が7作目か8作目となるようだから、中堅白人ジャズ・シンガーといったポジションといったところだろう(このアルバムの後、現在まで5作くらいあるようだ、ボサノバ・アルバムなどもあるようだ)。レーベルはコンコードだし、本作もかなり豪華な布陣(ジョン・バティトゥッチ、ルシス・ナッシュ、ジェームス・カーター、ボブ・バーグ他)で収録されているから、それなりにステータスもセールスも実績のある人なのだろう。ちなみに本作は2000年に制作されており、当然イヴォンヌ・ウォルターのそれに先行している。なんでも同じ頃イヴォンヌ・ウォルターも同じ企画を温めていたのだが、本作が出てしまったので、しばらくアルバムを制作を凍結していたのだそうだ。

 さて、本作の内容だがイヴォンヌ・ウォルターがベースとピアノという極めてシンプルでストイックなバッキングで歌っていたのに比べると、こちらはピアノ・トリオ+サックスというバッキングが付いているから、聴こえてくる音楽はこちらの方が数段豪華であるし、GRPを思わせるリッチな音質という点でもポイントが高い。カーリン・アリソンのヴォーカルは、妙なアクのない素直である意味ポップな声である。また、こういうバラードばかりを歌うというのは、かなりしんどいハズだが、全く危なげなく非常に安定して歌っているので(スキャットもそつなくこなしている)、瀟洒なバックとともに安心して音楽に身を任せていられるという感じだ。そんな訳で、本作はまるでGRPのアルバムを聴いているような上質感があり、どこといって、欠点がないのは良作であるのは確かなのだけれど、なんでいうか、コルトレーンの「バラード」にあった、異様に隔絶したストイックな佇まいのようが、ちと欠けるような気がしないでもない。その意味では、イヴォンヌ・ウォルターの方が、本家のDNAを感じさせたような気がしないでもなかったが....。
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ジャネット・サイデル/ディア ブロッサム

2010年01月17日 12時24分54秒 | JAZZ
 ジャネット・サイデルは寺島靖国氏のお気に入りシンガーということで、一時かなりジャズ・ファンの間で話題になった人で、きちんと国内盤も発売されていた。私はその話しを聴き、興味津々で何枚か購入してきたものの。どうも「夜と酒とタバコとジャズ」みたいなイメージとは対極にある、なんていうかあまりに健全な趣味性とあっけらかんとしたオプティミズムが横溢したキャラクターに、自分のイメージしてるジャズとはちとかけ離れたものだったので....と思い、何度か聴いてはみたものの(今調べてみたら、クリスマスアルバムまで購入していた)、そのまま放置してあった。確か4,5年くらい前だったと思う。今は日曜の午後のということもあって、ちょいとリラックスした気分でなにか毛色の違った音楽でも聴いてみようかと思い、久しぶりにこれを取り出してきた、久しぶりに聴いたら、また違ったイメージがあるのでは....みたいな期待もある。

 さて、ん年ぶりにジャネット・サイデルだが、けっこういい。この人はブルースがかったところが全くなく、音楽はジャズといっても基本的に脱色ラウンジ系みたいな感じだし、ボーカルも非常に乾いていて飄々としたところが特徴なので、こういうのを夜に酒飲みながら聴いてみたいとは、相変わらず思わないものの、今みたいな気怠い真っ昼間に聴くにはいい感じである。本作はタイトルからも分かる通り、ブロッサム・ディアリーへのトリビュート作品ということで、多分彼女の十八番を中心に歌われているものだろう。サイデルもディアリーも共にウィスパー声ということで、多分に共通点は感じるが、サイデルにはディアリーのような毒気がなく、ある意味健康的なチャーミングさとコロコロと玉を転がすような声がポイントで、9曲目の「アイムヒップ」などそうした特徴がよく出ている。また彼女はピアノ弾き語りということで、12曲目の「ブルース」などそうしたスタイルで歌っているが、ジャズというよりはミュージカルか都会的なシンガー・ソングライターのような感じである。

 という訳で、夜の酒のお供にはちとなんだが、今みたいな時間帯のBGMにはなかなかいい、「そっか、こういう時には聴けば行ける音楽だったんだねぃ」とちょっと目から鱗である。つまりチェスキー・レーベルでやっているような音楽なのだろう。ちなみに最長でも4分くらいの短いナンバーが18曲という構成も肩が凝らなくていい感じである(ただ、日本人のイラストレーターが日本用に作ったと思われる、いかにもOL向けな可愛い系のジャケはいかにも過ぎてなんだかなぁ....という感がなくもないのだが-笑)。
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伊福部昭/映画音楽全集3

2010年01月17日 12時02分06秒 | サウンドトラック
 このシリーズは伊福部先生が手がけた映画音楽から代表作を選りすぐり、作品毎に主要曲を小組曲風にまとめたアルバム10枚からなっている。先生の手がけた映画音楽は膨大なものがあるので、このアルバム10枚ですら、実のところ「抜粋盤」といった感はまぬがれないのだが(これの補遺のような形のシリーズもあり、それはそれで貴重だが、結果的に音源が分散してしまったのは残念なことである)、伊福部昭の映画音楽といえば、まずはゴジラ・シリーズという感がなきにしもあらずの状況が今も続いていることを考えれば、先生が作ったいわゆる一般映画からの音楽を多数含んだこのシリーズの存在は、実に貴重といわねばならない。今夜はその中から第三巻を聴いてみた。

 何故、唐突に第三巻なのかといえば、このアルバムには「暗黒街の顔役」が収録されているからだ。実は先日、日本映画専門チャンネルでオンエアされた同名作品を今し方観たところであり、実はオープニング・タイトルが流れるまで気がつかなかったのだが、冒頭のピアノのイントロが流れた瞬間、「あっ、そうか、これは先生がサントラ担当していたんだね」と思い、映画の内容もさることながら、一般映画での先生の音楽がどんな風だったのか、実は私はよく知らないので、検証するのにいい機会とばかりに、本来の目的である三船敏朗はどうでもよくなって(三船敏朗特集の一本としてオンエアされた)、もっぱら映画音楽に耳をそばだてることになってしまったのだった。

 観ていて、いや聴いていて感じのは、一般映画(今回の場合、和製フィルムノアールだが)では、先生はあまり劇中に音楽をつけていないということだ。冒頭から流れるピアノに導かれてオケが重厚に響くメインテーマが、劇中ではいくつかのヴァリエーションでもって流れるという感じで、特撮物のようにいろいろな音楽素材がつるべ打ち状態になっているものに慣れている私には、ストイックな風情すら感じさせるものだった。実は劇中にあふれかえる音楽というのは特撮映画ならでは事態で、一般映画はおおむねこのようなものだったのだろうとは思うし、先生ならではの見識もあるとは思うが(自動車修理工場での銃撃戦には全く音楽を付けていない)、それにしても「意外に目立たないな」という正直な印象だ。なお、度々繰り返されるテーマは、暗鬱で人生の悲劇を感じさせる重厚なもので、時にバンドネオンやアコスティック・ギターを交えて、場末に生きる人間達のドラマをマクロ的にクローズアップしている。ハイライトはやはり息子への土産を買って公園を歩く場面あたりだろうか。

 ちなみに映画自体はまずまずの仕上がりだ。東宝の映画で鶴田浩二というのは、「電送人間」でもそうだったけれど、後年のイメージからすると違和感を感じないでもないが、ただしこちらは心に傷を負った人間性溢れるヤクザという設定で、基本的にはその後の東映でのキャラと全く同じだから、まぁ、普通のフィルノアールとして楽しめたといったところだろうか。日活のそれと比べると、全体的に都会的で舞台も台詞もソフィスティケーションされているのは、やはり東宝ならではという感じである。
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ナタリー・コール/アンフォゲッタブル

2010年01月16日 23時23分21秒 | JAZZ
 ナタリー・コールは元々今で云うR&B、当時ならソウルやブラック・コンテンポラリー(ブラコンね、今やこれも完全に死語となりました-笑)の分野で歌って人だったが、マンハッタンからエレクトラ・レーベルへの移籍に伴って、心機一転の一作という感じで作り上げたのがこの作品である。彼女の父親はナット・キング・コールであり、彼女は元々そうした親の七光り的なデビューしたところはあったけれど、前述のように一貫して父親の立ち位置とは違うポジションとは違う立ち位置で活躍してきてた人ではあったのだが、当時の活動が思わしくなかったのか(セールスの降下、麻薬中毒などもあったらしい)、このアルバムでは一転して父親のブランド力を最大限に活用したアルバムになっている。なにしろ収録曲全てがナット・キング・コールの十八番、アレンジは瀟洒極まりないジャズ・オーケストラやビッグ・バンド(クレジットを見れば、集まった面々の多彩さ、豪華さ一目瞭然である)、おまけにラストでは編集によって亡き父親とデュエットしてしまうというオマケまでついていたのだから、まさに「ナット・キングコールの娘」以外の何者でもないというアルバムである。

 この起死回生の一作は、彼女自身のボーカルの熟成と豪華なブロダクション、そしてナット・キング・コールのような音楽が受ける時代的素地が組み合わさって、なんと彼女の最大のヒット作となってしまう。げにおそろしきは家系というブランドである。このアルバムはナット・キング・コールのやっていた音楽を、彼以外のボーカルによって聴くアルバムといってもいいが、これを例えばナタリー・コールではなく、ダイアン・シューアだとかやっていたら、きっとジャズ的にはもっと素晴らしいアルバムにはなったかもしれないが、多分ここまで資本をかけられなかったろうし、大ヒットにもならなかったと思う。要するに娘がナット・キング・コールをリスペクトするというエクスキューズがあったからこそ可能になったアルバムなのである。ブックレットに散りばめられた父親との写真の数々などを見ながら、ちょいと幸せな気分でこのアルバムを聴いていると、こういうのはつくづく「良い世襲」だったと思う。今の日本は総理大臣を筆頭に、アホな世襲が多すぎて、すっかり「世襲=悪」になってしまっているが、彼女がこのアルバム以降、活動をモダンなR&Bではなく、ジャズ・ボーカル路線にシフトし、なおかつ成功していることを考えれば、いわずもがなである。
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ティエリー・ラング&フレンズ/リフレクションズ3

2010年01月16日 18時21分36秒 | JAZZ-Piano Trio
 エンリコ・ピエラヌンツィを聴いたところで、ふと思い出してこちらも聴いてみた。私の持っているティエリー・ラングのアルバムとしてはたぶんこれが最後の1枚だ。2003年の作品で、ここまでのんびりとレビューしてきた「リフレクションズ」シリーズの第三作でこれが完結編となる。第1作がピアノ・トリオ、第2作がテナー・サックスとトランペットを加えたオーソドックスなクインテット編成で演奏だったのに対し、こちらはピアノ・トリオにアルトサックス、ヴァイオリン、ハーモニカという3人のソリストが曲毎に参加して、ヴァリエーションに富んだ曲を並べている。ピアノ・トリオ+アルトサックスという編成は、まぁ普通のジャズに聴こえるだろが、ヴァイオリンやハーモニカだと、ジャズの響きとしては多少ユニークなものになる....本作ではそうした表現の拡大みたいなところを目論んでいるのだろう。

 1曲目の「チョコレート・ブルース」は、かなりアーシーなセンスを持ったアルト・サックスをフィーチャーしたブルージーな作品で、これまでのラングが持っていた透明感だのヨーロッパ的抒情とかいうイメージからすると、こういう音楽性はちらほら出てはいたものの、さすがにしょっぱなからこうだと「かましているな」という感じがする。2曲目の「ヌンツィ」はヴァイオリンのディディエ・ロックウッドをフィーチャーした作品(彼はある種のロック・ファンにはとても有名な人で、私も彼の名前をみたときちょっと懐かしくなった)。原曲は「プラベート・ガーデン」に入っていたメランコリックな曲だが、ここでのヴァイオリンはかなり技巧的で、途中スイッチして展開されるピアノ・ソロもよく、こちらはラングのイメージを裏切らず、しかもジャズ的感興溢れる仕上がりになっている。3曲目の「ブルヴァール・ペロール」はハーモニカをフィーチャー、ジャズでハーモニカというと、私はトゥーツ・シールマンスくらいしか知らないのだが、ここで聴けるオリヴィエ・ケル・オウリオという人のハーモニカも、彼と同じ都会的な場末の哀愁みたいなブルーなイメージである。この楽器とラングのピアノとの相性は非常に良く、後半を受け持つピアノ・ソロとも違和感がなくいいムードを演出している感じだ。

 一方4曲目「オンリー・ウッド」は、ハーモニカとヴァイオリンをフィーチャーしたクインテット編成。かなりボサノバを基調としたエキゾチックな曲というせいもあるが、さすがにここまでくるとアンサンブルはかなりユニークな響きである。7曲目の「トイ・ボックス」はアルトサックスとハーモニカが加わったクインテット編成、こらちは新主流派風のスタイルをとっていて、先行するのがソロもアルトサックスだから、けっこうオーソドックスに楽しめる。ラストの「プレイヤー・フォー・ピース」はピアノとハーモニカによる瞑想的なデュオである。こうして聴いていくと、このアルバムではやはりハーモニカの出番が一番多く、またサウンド的にも目立つものになっている。ラングはピアニストとしてだけでなく、アレンジャーやコンポーザーとしての自負心もかなり高いと見受けるけれど、こういう情景系の楽器を多用したがるところにもそうした片鱗が感じられると思う。ところで、先も書いたとおり私の持っているラングのアルバムは一応これが最後なのだけれど、最近の彼は何をしているのだろう。このシリーズの流れからすると、ピアノトリオはもう見限っているようにも感じなのだが....。
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ENRICO PIERANUNZI / Special Encounter

2010年01月16日 16時34分07秒 | JAZZ-Piano Trio
いつものジョーイ・バロンとマーク・ジョンソンではなく、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンという重鎮を迎えてのトリオによる作品だ。ピエラヌンツィはヘイデンやモチアンともアルバムでもけっこう共演しているようで、私が持っているアルバムでも、しばらく前に取り上げたフェリーニのトリビュート・アルバムでも共演していた。ヘイデンやモチアンといえば、60年代後半からフリー・ジャズ的ムーブメントの一翼をになかったり、かのビル・エヴァンスやキース・ジャレットとの共演歴などもある「生きるジャズ・ヒストリー」的な人達だから、ピエラヌンツィと比べれば「格上」になると思うのだが、そのせいか、ここでのピエラヌンツィは決して萎縮している訳でもないだろうが、けっこうおとなしい....いや、おとなしいというので語弊があるというのなら、非常に静的、スタティックなプレイが続くアルバムである。

 ピエラヌンツィというのは、基本的にオーソドックスな4ビートからアブストラクトなフリージャズまでスタイル横断的なプレイをする人だけれど、自らが完全に主導権を握れる(のだろう、多分)「+バロン&ジョンソン」のトリオに比べると、あんまり両巨匠に「あぁせい、こうせい」とはいえなかったような事情もあるのかもしれない。本作では従来の自由闊達でトリッキーなところはあまり出さず、比較的オーソドックスなヴォキャブラリーを使い、ヨーロッパ・ジャズ的なトーンでもって、ヘイデンやモチアンと隠微な音楽会話をしているような印象である。要するにかなり枯れた「大人のジャズ」といった風情なのだが、これか実にいいムードを醸し出している。日本のアルファ・ジャズで作った2枚のアルバムも比較的スタティックなピエラヌンツィが出ていたアルバムだと思うけれど、こちらは受け狙いのスタンダード作品も少なくとも、ピエラヌンツィを主体にとしたオリジナル作品ばかりでアルバムを構成しているのも、そうした印象を倍加している。

 収録曲ではヘイデン作の「Waltz For Ruth」「Hello My Lovely」「Secret Nights」あたりは都会的なセンスをもったミディアム・テンポの演奏で、アブストラクトなプレイまでスポーティーに感じさせてしまうピエラヌンツィらしいピアノの片鱗が多少味わえる他は、ほぼ総体的にほの暗い内省的な抒情と、硬質なリリシズムがベースにした作品がずらりと並んでいる。「Miradas」 「Nightfall」など深い幻想が実にしっとりとした感触の音楽からわき上がり独特なムードを醸成している。うーむ、こういうピエラヌンツィも悪くない。調度、今みたい休日の午後のリラックスタイムにゆったりとして聴くにはもってこいの作品だ。ちなみにヘイデンとモチアンは、かつのフリー時代が嘘のような枯れたプレイだ。特にヘイデンはいくたの修羅場を越えて、完全に先祖返りした枯淡の境地といった感じのベースになっている。
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ハイドン 交響曲 第46番「ゲネラルパウゼ」/フィッシャー&オーストリア・ハンガリー・ハイドンPO

2010年01月16日 12時40分59秒 | ハイドン
 46番もシュトルム・ウント・ドランク期の作品のようです。この時期は交響曲のナンバリングがクロノジカルにだいたい並んでいるようなので、20番代や30番代のように時代があっちこっち飛ばないので、作品の立ち位置を考えるには分かりやすいですね。さて、作品ですが、第1楽章は精力的で伸びやかな第一主題がおもむろに登場してきますが、むしろ目立つのは第二主題の方。これが短調へと動いて展開部では大きな存在感を発揮するため、長調の楽章でありながら、むしろシュトルム・ウント・ドランク期らしい、激情的なドラマを感じさせる佇まいになっています。展開部後半などは44番、45番あたりと共通する疾風怒濤なハイドンになっていて、転調を重ねていく部分などかなり劇的です。

 続く第2楽章は短調のシチリアーノになっています。この形式独特な哀感と静謐を感じさせるムードでもって進んでいきますが、こういう曲だけに主体となるのは当然弦楽で、一見なだらかに進んでいくようでいて、いろいろリズム的な仕掛けが施されているようです。個人的には第二主題の多少弱々しいものの楚々として風情が印象に残りました。第3楽章のメヌエットは約2分半で終わる非常に短い音楽です。主部はヴィオラのソロなども配置された格調高いものですが、トリオになるとやはり短調に転じて、ほの暗い雰囲気になっていきます。最終楽章は第1楽章の第一主題のムードに戻り、活気があり動きの激しいプレストで進みますが(ホルンがいい隠し味になってます)、45番「告別」のそれと似たような感じで、直線的に少し進んでいきそうなところでプイと休止が入ってしまうのがおもしろいですね。とにかく一筋縄ではいかない音楽という感じで、こういう流れの断絶して、余韻を残すみたいなやり口(?)は、ちょっと後年のブルックナーを思い出させたりしますね。

 さて、お約束のニックネームですが、ハイドンの交響曲もシュトルム・ウント・ドランク期に入り、どうやら一番最初の「名曲の森」に入っていているのか、デフォルトでニックネーム付いていた曲が続いたので、こちらはけっこうラクチンでしたけれど(笑)、この曲の場合、第4楽章の随所に織り込まれるいるこの休止にちなんで、ゲネラルパウゼ(Generalpause)とでもしておきましょうか、カッコつけて略称の「G.P.」でもいいですどね。ともあれ、この時期の交響曲ともなると、以前と違い曲自体の個性が古典期の様式を越えてきたこと感じさせる場面がしばしばあり、ニックネームは付けやすい感じがします。
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ウラジミール・シャフラノフ/Portrait in Music

2010年01月15日 23時49分13秒 | JAZZ-Piano Trio
 「Movin' Vova!」から4年を経た2002年にリリースされた第4作。「Movin' Vova!」が7年振りの作品だったのに比べれば短いが、それにしても4年後というのはかなり悠々たるペースである。よく分からないが、前作がアルバム・アーティストとしての「様子見」的な作品だったとすると、本作は「本格始動」といったところかもしれない。事実、この作品を出した翌年には「ロシアン・ララバイ」をリリースする訳だし、それ以降のシャフラノフはかなり定期的にアルバムをリリースするようになるのだ。音楽的に見ても、この作品は多少落ち着き払ったような佇まいだった前作に比べ、あるの種の勢い、活気にとんだ歌心といったものが色濃く出ていて、なんらかの理由でシャフラノフがかなり「ノっていた」ことを伺わせるに十分な内容なのである。

 なにしろ1曲目の「Minority」がいい。ドラムに導かれてラテン・リズムのイントロ、早々とかなり熱っぽい演奏を展開していき、本編に入るさらりと4ビートにチェンジする呼吸がなんともカッコいいし、例によってキレのあるリズムで、要所要所をビシっと決めるあたりはいかにもシャフラノフらしさがあって実に楽しいし、後半のアウト気味に展開されるドラムの4バース・チェンジもかなりエキサイティングであり、約8分半を一気に聴かせてしまう。これを聴けば、「おっ、今回のアルバムはかなり気合い入ってるなぁ」と、誰でも感じるのではないだろうか。続く「Hush A Bye」は、寡聞にして私はこの原曲を知らないのだけれど、なんとなく「ジャンゴ」を思わせるクラシカルなムードとブルージーなセンスが入り交じったテーマを弾き終えると、ミディアム・テンポでかなりグルーヴィーなソロを展開する、こちらも9分近い長い演奏だが、ソロではウィントン・ケリーとトミー・フラナガンを中間をいくようなノリの良さと端正さが絶妙にバランスした、素晴らしい演奏を展開している。

 一方、バラード演奏としては「Emily」や「A Child Is Born」「Young And Foolish」あたりでは、これもまたシャフラノフの一面であるヨーロッパ的な低めの温度感+ジャズ的なムーディーさをほどよくバランスさせた味わい深い演奏になっていて楽しめる。「Movin' Vova!」ではどちらかといえば、こうしたタイプの作品が目立ったが、やはりバランス的には本作くらいの構成で配置される方が逆にしっとり感が楽しめるような気がする。「I Should Care」はオスカー・ピーターソン的な明るいセンスを感じさせるミディアム・ナンバーで、これは私の大好きな曲なので、ニコニコしながら楽しませてもらった。という訳で、本作はかなりいい出来である。こうなると次の「ロシアン・ララバイ」もかなり期待できるような気がする。
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ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル

2010年01月15日 21時07分01秒 | クラシック(一般)
 ユジャ・ワンは中国出身で、現在23歳の若手女流ピアニストである。なんでも、ボストンのアルゲリッチの公演に代打で出演して大絶賛、その後にグラモフォンと契約という、絵に描いたようなデビューをしたシンデレラガールのような人らしい。私もそのことが気にかかって、昨年にN響の定期に登場した際のラフマニノフの「パガニーニ・ラプソディ」を弾いた時のパフォーマンスを録画で視聴したが、その不敵な面構えから繰り出される圧倒的なテクニック、ものおじしない思い切りのよさ、激しいテンペラメントと、現代にありがちな優等生とはちょっと異質な華を感じさせてくれる新人という感じで惹きつけられてしまった。このプログラムは先日NHKのBS2でオンエアされた2008年のヴェルビエ音楽祭のもので、今度はソロピアノによるステージであるので彼女のピアノを堪能できた。

 特に楽しめたのはリストの「ピアノソナタ」で、これは圧巻であった。演奏技術を完璧に制覇した者のみが持つ天衣無縫な自在さに加え、あの晦渋な「ピアノソナタ」を実に華麗なるロマン派のピアノ曲として、演奏していたのは瞠目した。第2楽章では若い女性らしい瑞々しい感受性のようなもの発揮して、ややスリムではあるもののロマンティックさを披露したかと思えば、第三楽章のスケルツォでは豹のような俊敏さとを持った運動性でもって、頭がぐらぐらしてきそうな技巧を見せつけるといった具合で、その激しいテンペラメントとスポーティーな技巧の両立は、確かにアルゲリッチの代役として出てくるには相応しいキャラクターに感じた(中国の舞踏団でくるくる踊っていそうな、彼女のちょっとはすっぱなルックスがまたいい。ダイナミックな部分で歯を食いしばって、鍵盤を打ち付けている様はなかなか絵になるし、ロマンティックところで見せる陶酔的な表情もなかなか魅力的だ)次いで演奏されたショーピースの「熊ん蜂の飛行」(シフラ編曲って、ジョルジュ・シフラのこと?)も、女の細腕で豪快に弾きとばし、まさに若さ故のはじけるような推進力とスピードを感じさせる実に痛快な演奏だった。

 後半のスクリャービンのピアノ・ソナタ第2番は初めて聴く曲だ。「幻想」というニックネームがついているが、第1楽章の瞑想的な趣から来ているのだろう。また、印象派風なところもちらほらする美しい音楽である。デモーニッシュな第2楽章は難易度の高そうな技巧が満載の華麗な音楽で、ここでも彼女はパンチの効いた爽快さで一気に弾ききっている。最後はラヴェルの「ラヴァルス」、例によって、彼女はこの難曲を非常に達者に弾いてはいるのだが、さすがにこの曲の持つ交響詩的なドラマ、例えば、雲の間に見え隠れする舞踏会の情景みたいなところだとか、世紀末風な退廃的な官能みたいなところになると希薄な感じもなくはない。まぁ、彼女の若さからすれば当然だろう。
 そんな訳で、やはりリスト、そしてスクリャービンが良かった。彼女のデビュウ・アルバムはこの2曲がフィーチャーされているのが、それも当然という演奏だったと思う。このアルバム、購入してみようかな。ヒラリー・ハーン、アマンダ・ブレッカーに続いて、どうやら彼女のファンにもなりそう(笑)。
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ジャシンタ/枯葉(SACD)

2010年01月14日 22時16分44秒 | JAZZ
 ジャシンタの第2作である。1998年に製作されたデビュー作の翌年にすぐ作られていているので、おそらく第一作が-例えオーディオ・ファンを中心とした購買層だったにせよ-かなり好評だったのだろう。集められたメンバーは全く同じ面々に加え、曲によってはジョン・ラバーブラ(ビル・エヴァンスの最後のトリオでのドラマー)、アンソニー・ウィルソン(この人は後年、ダイアナ・クラークのアルバムで有名になる)のギター、あとトランペットやオルガンなどが加わり、前作より多少サウンドにバラエティを出した内容になっている。録音の方は例によって、真空管マイクを使用したオーバーダビングなしのアナログ2チャンネル一発録りで、SACDというオーバースペックな器を生かした問答無用な超優秀録音である。

 さて、内容だが選曲的には前作と同様、日本人にもポピュラリティのある大スタンダードを中心としているが、まずはベースの深々としたソロから始まる「アンド・ザ・エンジェルス・シング」がいい、彼女にしては珍しいミディアム・テンポのスウィンギーな曲調だが、例によって気怠く囁くよう官能性の高いボーカルが心地よく、テディ・エドワーズのテナーのソロとあいまって極上のムードを醸し出している。2曲目の「スカイラーク」はアンソニー・ウィルスンのギターが参加してるだけに、なんとなくダイアナ・クラールを思い出してしまう、もっとジャシンタのボーカルはもっと退廃的でけだるいのだけれど....。4曲目の「ミッドナイト・サン」はエラ・フィッツジェラルドのヴァージョンを下敷きしたようなアレンジだが、アルバムでも随一のムーディーさである(ケイ赤城のピアノが美しい)。5曲目の「枯葉」はフランス語と英語のチャンポンで歌っているのがおもしろいが、基本はナット・キングコールのようだ。

 6曲目の「酒とばらの日々」は再びアンソニー・ウィルスンのギターをフィーチャーした非常にミッドナイトなムードな仕上がりになっている。8曲目の「トラヴェリング・ライト」はウィル・ミラーのトランペットをフィーチャー、9曲目「サムシング・ゴッダ・ギブ」はアルバム中、唯一のアップテンポの作品。バックはともかく、ボーカルはどちらかといえばポップス系みたいになっているが、こうのも悪くない。10曲は「ムーンリバー」は、最初の2分半はアカペラで歌っていて、後半はケイ赤城のちょっとアブストラクトなピアノ・ソロが続く変わった構成になったアレンジである。という訳で第2作は内容のヴァリエーション、彼女の歌の存在感というかクウォリティなどなど、以前は同じようなものだと思っていたが、じっくりと聴いてみると前作より明らかに良い内容になっていると思った。
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ウラジミール・シャフラノフ/ Movin' Vova!

2010年01月14日 21時30分07秒 | JAZZ-Piano Trio
 ウラジミール・シャフラノフが1998年に録音した第3作。シャフラノフといえば、長らく81年の「Live At Groovy」と1990年の大傑作「ホワイト・ナイツ」しかカタログがなく、澤野工房で彼を知ったファンとしては、当然新作を期待した訳だけれど、これがなかなか出ず、おそらく澤野工房からのオファーによって、ようやっと制作されたのがこのアルバムということになるのだろう。前作の「ホワイト・ナイツ」はジョージ・ムラーツとアル・フォスターという超豪華なオマケが付き、仕上がりの方もエクセレントなものだったけれど、こちらは拠点となるフィンランドのペルオラ・ガッド(ベース)とユッキス・ウイトラ(ドラムス)を伴ってのトリオで制作されている。8年振りのアルバムとのことだが、「Live At Groovy」で横溢していた小気味よさ、「ホワイト・ナイツ」のピアノ・トリオとして非の打ち所がない完成度といった部分と比較すると、全体としてはもう少し普段着な佇まいというか、これは良い意味でいうのだが、気負ったところがないピアノ・トリオ・アルバムとなっている。

 収録曲はスタンダード中心(だと思う、私の知らない曲が多い)の選曲で8曲が収められている。1曲目は「Namerly You」という曲で、しっとりしたピアノ・ソロからスタートし、トリオとなってからミディアム・テンポの快適なスウィング感を振りまいている。自分の形容をもう一度引用させていただくと、シャフラノフは「ウィントン・ケリーばりの軽快なスウィング感+トミー・フラナガン的センスによるスタンダード解釈/ヨーロッパ的洗練」といったところになると思うが、この曲はウィントン・ケリーばりの軽快なスウィング感を感じさせる演奏だ。2曲目の「あなたと夜と音楽と」はトミー・フラナガン的センスによるスタンダード解釈といったところか、ちょっとオーバーにいえば、かの「セブンシーズ」を思わせる流麗なスウィング感が楽しめる。ついでに書けば、残ったヨーロッパ的洗練を感じさせるのは、ソロで演奏された「But Beautiful」あたりに感じられたもする。オリジナル作品である「Geta Way」は「Live At Groovy」での小気味よさを思い出させる、リズムをシャープに決める非常に小気味よい仕上がりになっていて、前述の3曲と並んでアルバム中のハイライトになっている。
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