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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ナタリー・コール/アンフォゲッタブル

2010年01月16日 23時23分21秒 | JAZZ
 ナタリー・コールは元々今で云うR&B、当時ならソウルやブラック・コンテンポラリー(ブラコンね、今やこれも完全に死語となりました-笑)の分野で歌って人だったが、マンハッタンからエレクトラ・レーベルへの移籍に伴って、心機一転の一作という感じで作り上げたのがこの作品である。彼女の父親はナット・キング・コールであり、彼女は元々そうした親の七光り的なデビューしたところはあったけれど、前述のように一貫して父親の立ち位置とは違うポジションとは違う立ち位置で活躍してきてた人ではあったのだが、当時の活動が思わしくなかったのか(セールスの降下、麻薬中毒などもあったらしい)、このアルバムでは一転して父親のブランド力を最大限に活用したアルバムになっている。なにしろ収録曲全てがナット・キング・コールの十八番、アレンジは瀟洒極まりないジャズ・オーケストラやビッグ・バンド(クレジットを見れば、集まった面々の多彩さ、豪華さ一目瞭然である)、おまけにラストでは編集によって亡き父親とデュエットしてしまうというオマケまでついていたのだから、まさに「ナット・キングコールの娘」以外の何者でもないというアルバムである。

 この起死回生の一作は、彼女自身のボーカルの熟成と豪華なブロダクション、そしてナット・キング・コールのような音楽が受ける時代的素地が組み合わさって、なんと彼女の最大のヒット作となってしまう。げにおそろしきは家系というブランドである。このアルバムはナット・キング・コールのやっていた音楽を、彼以外のボーカルによって聴くアルバムといってもいいが、これを例えばナタリー・コールではなく、ダイアン・シューアだとかやっていたら、きっとジャズ的にはもっと素晴らしいアルバムにはなったかもしれないが、多分ここまで資本をかけられなかったろうし、大ヒットにもならなかったと思う。要するに娘がナット・キング・コールをリスペクトするというエクスキューズがあったからこそ可能になったアルバムなのである。ブックレットに散りばめられた父親との写真の数々などを見ながら、ちょいと幸せな気分でこのアルバムを聴いていると、こういうのはつくづく「良い世襲」だったと思う。今の日本は総理大臣を筆頭に、アホな世襲が多すぎて、すっかり「世襲=悪」になってしまっているが、彼女がこのアルバム以降、活動をモダンなR&Bではなく、ジャズ・ボーカル路線にシフトし、なおかつ成功していることを考えれば、いわずもがなである。
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ティエリー・ラング&フレンズ/リフレクションズ3

2010年01月16日 18時21分36秒 | JAZZ-Piano Trio
 エンリコ・ピエラヌンツィを聴いたところで、ふと思い出してこちらも聴いてみた。私の持っているティエリー・ラングのアルバムとしてはたぶんこれが最後の1枚だ。2003年の作品で、ここまでのんびりとレビューしてきた「リフレクションズ」シリーズの第三作でこれが完結編となる。第1作がピアノ・トリオ、第2作がテナー・サックスとトランペットを加えたオーソドックスなクインテット編成で演奏だったのに対し、こちらはピアノ・トリオにアルトサックス、ヴァイオリン、ハーモニカという3人のソリストが曲毎に参加して、ヴァリエーションに富んだ曲を並べている。ピアノ・トリオ+アルトサックスという編成は、まぁ普通のジャズに聴こえるだろが、ヴァイオリンやハーモニカだと、ジャズの響きとしては多少ユニークなものになる....本作ではそうした表現の拡大みたいなところを目論んでいるのだろう。

 1曲目の「チョコレート・ブルース」は、かなりアーシーなセンスを持ったアルト・サックスをフィーチャーしたブルージーな作品で、これまでのラングが持っていた透明感だのヨーロッパ的抒情とかいうイメージからすると、こういう音楽性はちらほら出てはいたものの、さすがにしょっぱなからこうだと「かましているな」という感じがする。2曲目の「ヌンツィ」はヴァイオリンのディディエ・ロックウッドをフィーチャーした作品(彼はある種のロック・ファンにはとても有名な人で、私も彼の名前をみたときちょっと懐かしくなった)。原曲は「プラベート・ガーデン」に入っていたメランコリックな曲だが、ここでのヴァイオリンはかなり技巧的で、途中スイッチして展開されるピアノ・ソロもよく、こちらはラングのイメージを裏切らず、しかもジャズ的感興溢れる仕上がりになっている。3曲目の「ブルヴァール・ペロール」はハーモニカをフィーチャー、ジャズでハーモニカというと、私はトゥーツ・シールマンスくらいしか知らないのだが、ここで聴けるオリヴィエ・ケル・オウリオという人のハーモニカも、彼と同じ都会的な場末の哀愁みたいなブルーなイメージである。この楽器とラングのピアノとの相性は非常に良く、後半を受け持つピアノ・ソロとも違和感がなくいいムードを演出している感じだ。

 一方4曲目「オンリー・ウッド」は、ハーモニカとヴァイオリンをフィーチャーしたクインテット編成。かなりボサノバを基調としたエキゾチックな曲というせいもあるが、さすがにここまでくるとアンサンブルはかなりユニークな響きである。7曲目の「トイ・ボックス」はアルトサックスとハーモニカが加わったクインテット編成、こらちは新主流派風のスタイルをとっていて、先行するのがソロもアルトサックスだから、けっこうオーソドックスに楽しめる。ラストの「プレイヤー・フォー・ピース」はピアノとハーモニカによる瞑想的なデュオである。こうして聴いていくと、このアルバムではやはりハーモニカの出番が一番多く、またサウンド的にも目立つものになっている。ラングはピアニストとしてだけでなく、アレンジャーやコンポーザーとしての自負心もかなり高いと見受けるけれど、こういう情景系の楽器を多用したがるところにもそうした片鱗が感じられると思う。ところで、先も書いたとおり私の持っているラングのアルバムは一応これが最後なのだけれど、最近の彼は何をしているのだろう。このシリーズの流れからすると、ピアノトリオはもう見限っているようにも感じなのだが....。
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ENRICO PIERANUNZI / Special Encounter

2010年01月16日 16時34分07秒 | JAZZ-Piano Trio
いつものジョーイ・バロンとマーク・ジョンソンではなく、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンという重鎮を迎えてのトリオによる作品だ。ピエラヌンツィはヘイデンやモチアンともアルバムでもけっこう共演しているようで、私が持っているアルバムでも、しばらく前に取り上げたフェリーニのトリビュート・アルバムでも共演していた。ヘイデンやモチアンといえば、60年代後半からフリー・ジャズ的ムーブメントの一翼をになかったり、かのビル・エヴァンスやキース・ジャレットとの共演歴などもある「生きるジャズ・ヒストリー」的な人達だから、ピエラヌンツィと比べれば「格上」になると思うのだが、そのせいか、ここでのピエラヌンツィは決して萎縮している訳でもないだろうが、けっこうおとなしい....いや、おとなしいというので語弊があるというのなら、非常に静的、スタティックなプレイが続くアルバムである。

 ピエラヌンツィというのは、基本的にオーソドックスな4ビートからアブストラクトなフリージャズまでスタイル横断的なプレイをする人だけれど、自らが完全に主導権を握れる(のだろう、多分)「+バロン&ジョンソン」のトリオに比べると、あんまり両巨匠に「あぁせい、こうせい」とはいえなかったような事情もあるのかもしれない。本作では従来の自由闊達でトリッキーなところはあまり出さず、比較的オーソドックスなヴォキャブラリーを使い、ヨーロッパ・ジャズ的なトーンでもって、ヘイデンやモチアンと隠微な音楽会話をしているような印象である。要するにかなり枯れた「大人のジャズ」といった風情なのだが、これか実にいいムードを醸し出している。日本のアルファ・ジャズで作った2枚のアルバムも比較的スタティックなピエラヌンツィが出ていたアルバムだと思うけれど、こちらは受け狙いのスタンダード作品も少なくとも、ピエラヌンツィを主体にとしたオリジナル作品ばかりでアルバムを構成しているのも、そうした印象を倍加している。

 収録曲ではヘイデン作の「Waltz For Ruth」「Hello My Lovely」「Secret Nights」あたりは都会的なセンスをもったミディアム・テンポの演奏で、アブストラクトなプレイまでスポーティーに感じさせてしまうピエラヌンツィらしいピアノの片鱗が多少味わえる他は、ほぼ総体的にほの暗い内省的な抒情と、硬質なリリシズムがベースにした作品がずらりと並んでいる。「Miradas」 「Nightfall」など深い幻想が実にしっとりとした感触の音楽からわき上がり独特なムードを醸成している。うーむ、こういうピエラヌンツィも悪くない。調度、今みたい休日の午後のリラックスタイムにゆったりとして聴くにはもってこいの作品だ。ちなみにヘイデンとモチアンは、かつのフリー時代が嘘のような枯れたプレイだ。特にヘイデンはいくたの修羅場を越えて、完全に先祖返りした枯淡の境地といった感じのベースになっている。
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ハイドン 交響曲 第46番「ゲネラルパウゼ」/フィッシャー&オーストリア・ハンガリー・ハイドンPO

2010年01月16日 12時40分59秒 | ハイドン
 46番もシュトルム・ウント・ドランク期の作品のようです。この時期は交響曲のナンバリングがクロノジカルにだいたい並んでいるようなので、20番代や30番代のように時代があっちこっち飛ばないので、作品の立ち位置を考えるには分かりやすいですね。さて、作品ですが、第1楽章は精力的で伸びやかな第一主題がおもむろに登場してきますが、むしろ目立つのは第二主題の方。これが短調へと動いて展開部では大きな存在感を発揮するため、長調の楽章でありながら、むしろシュトルム・ウント・ドランク期らしい、激情的なドラマを感じさせる佇まいになっています。展開部後半などは44番、45番あたりと共通する疾風怒濤なハイドンになっていて、転調を重ねていく部分などかなり劇的です。

 続く第2楽章は短調のシチリアーノになっています。この形式独特な哀感と静謐を感じさせるムードでもって進んでいきますが、こういう曲だけに主体となるのは当然弦楽で、一見なだらかに進んでいくようでいて、いろいろリズム的な仕掛けが施されているようです。個人的には第二主題の多少弱々しいものの楚々として風情が印象に残りました。第3楽章のメヌエットは約2分半で終わる非常に短い音楽です。主部はヴィオラのソロなども配置された格調高いものですが、トリオになるとやはり短調に転じて、ほの暗い雰囲気になっていきます。最終楽章は第1楽章の第一主題のムードに戻り、活気があり動きの激しいプレストで進みますが(ホルンがいい隠し味になってます)、45番「告別」のそれと似たような感じで、直線的に少し進んでいきそうなところでプイと休止が入ってしまうのがおもしろいですね。とにかく一筋縄ではいかない音楽という感じで、こういう流れの断絶して、余韻を残すみたいなやり口(?)は、ちょっと後年のブルックナーを思い出させたりしますね。

 さて、お約束のニックネームですが、ハイドンの交響曲もシュトルム・ウント・ドランク期に入り、どうやら一番最初の「名曲の森」に入っていているのか、デフォルトでニックネーム付いていた曲が続いたので、こちらはけっこうラクチンでしたけれど(笑)、この曲の場合、第4楽章の随所に織り込まれるいるこの休止にちなんで、ゲネラルパウゼ(Generalpause)とでもしておきましょうか、カッコつけて略称の「G.P.」でもいいですどね。ともあれ、この時期の交響曲ともなると、以前と違い曲自体の個性が古典期の様式を越えてきたこと感じさせる場面がしばしばあり、ニックネームは付けやすい感じがします。
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