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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
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フランコ・マンニーノ/家族の肖像

2010年01月08日 23時57分59秒 | サウンドトラック
 今では信じられないことだが、70年代最後の頃から数年間、日本の映画界ではヴィスコンティがブームだった。78年に岩波ホールで公開された「家族の肖像」がけっこうなヒットを記録したことがきっかけだろうが、その後「イノセント」「ルードヴィッヒ」「郵便配達は二度ベルをならす」などが公開されたし、名画座で「地獄に堕ちた勇者ども」や「ベニスに死す」はいつもけっこうな人が入っていた。私もご多分にもれず当時は大のヴィスコンティ・ファンだった。豪華な美術や貴族趣味、左翼思想にかぶれた青年期から次第に支配階級ある自ら血の世界に戻っていった経緯など、背伸びしてある種のハイブロウな趣味を嗜好していたあの時期の私(笑うしかねー)にとって、きっと格好の対象だったというところかもしれない。

 この「家族の肖像」はほとんどヴィスコンティの晩年の心境を伝える、ほとんど遺言、遺作ともいえる作品である。舞台を主人公(これを演じているのが「西部の男」バート・ランカスターなのが今もって凄い)が住むアパート内に限定し、共演のヘルムート・ベルガーやシルヴァーナ・マンガーノなどとのディスカッションに終始するような、一種心理劇ともいえるようなものだったが、その緊迫感あるやりとりと終末感ただようムードに私はとても魅了され(当時は英国病だったし、ヨーロッパはECの前で没落ムードが強かったのだ)、今もってヴィスコンティといえば「ベニス」と「家族の肖像」と思うくらいなのである。で、この「家族の肖像」で忘れられないもののひとつが、フランコ・マンニーノの音楽である。マンニーノはヴィスコンティとは長い付き合いなる作曲家で、特に晩年はほとんどのヴィスコンティ作品で、既成作品のアダプテイションも含め音楽を一手に担当していた人(映画音楽専業ではなくシリアス系の作曲家らしい)。この「家族の肖像」は、恐らく彼の最高傑作ではないかと思う作品なのだ(「イノセント」も良かったが、これに比べるといまひとつ落ちる)。

 この映画(サントラ)にはモーツァルトだの、モダンなカンツェーネなども含まれているが、メインタイトルや劇中の音楽はほとんどマンニーノが書いたオリジナル作品で、確か弦楽合奏によるものだったと思うのだが、これが実に素晴らしい音楽だったのである。内容的にはプラームスをより沈痛にして、絶望感とある種の終末感を漂わせたような、痛ましいほどに美しい音楽だったが、それはまさに映画にぴったりのものだったし、サントラ単体で楽しんでも十分に感銘を受けるものだったと思う。しばらく前にテレビで「山猫(完全版)」や「白夜」がオンエアされたのをきっかけに、このところなんとなくヴィスコンティのことを思い出したりすることが多いのだが、そうなると聴きたくなるのがこのサントラという訳だ。ただ、残念ながらこのサントラもアナログはともかく、CDの方を私は持っておらず、現在聴けない環境なのがかえすがえす残念なのだが....。
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ザ・トニー・ウィリアムス・ライフタイム/エマージェンシー

2010年01月08日 23時15分59秒 | JAZZ-Fusion
 恥ずかしながらトニー・ウィリアムスのライフタイムは、これまでマトモに聴いたことがほとんどなかった。このバンドから輩出したメンバーは錚々たるものがあるし、マイルス門下のバンドとしても有名なバンドだったのだが、トニー・ウィリアムというとどうしても「フォア&モア」のレガート・シンバルによる超高速4ビートか、70年代中盤以降のパワフルなどすこいドラムみたいなイメージが強かったのか、どうも彼の作ったジャズ・ロック系の音楽は敷居が高い感じがしたのだ。このアルバムも購入したのは、多分数年前くらいになると思うが、本当にようやっと聴いたという感じである。データ的なところを押さえておくと、マルイス・バンドを脱退したウィリアムスが、ギターとジョン・マクラフリンとオルガンのラリー・ヤングを誘ってトリオとして結成、制作は1969年の5月に2日間で録音された(ライナーを読むとマイルスの「ビッチズ・ブリュウ」の数ヶ月前の録音とある、ほうほう)。なお、オリジナル・アルバムは2枚組だ。

 さて、本アルバムだが、一聴して60年代終盤~70年代初頭特有の渦巻くようなカオスが一杯である。なんだか聴いていて、ジャズ/フュージョンというより、同じ時期にB級ブリティッシュ・ロック(ヴァーティゴ・レーベルあたりのあの音ね)を聴いているような気分になってくる。なにしろ2日で録られたアルバムである、フリー的なインプロの途中に4ビートも交えるなど、アレンジ的にもいくらか作り込んだ気配があるが、おそらくレコーディング現場の実体はジャム・セッションに毛の生えた程度のものだったのだろう。司令塔ウィリアムスの繰り出すリズムに乗って、ジミヘン的な歪んだエッジに振りまきつつ、異常にテンションの高いフレーズを繰り出すマクラフリンに、それこそ70年代初頭、サイケの残光という感じのラリー・ヤングのオルガンが自由に絡み合い、フリー・ジャズ一歩手前のところで独特なカオス空間生み出しているが、こういうのはお互い手の内があまり見えない、初顔合わせ状態だからこそ可能なサウンドだったともいえる。ともあれ、この混沌とざらついたサウンドの感触は、いかにもあの時代特有のもので、聴いているとなんだかローティーンの頃にタイムスリップしたような気分になる(また、意図したのかどうか、ベタっとして、妙に分離の悪いナロウな録音がなんとも風情がある)。

 マクラフリン視点で見ると、「ホエア」のギターはマハビシュヌ以前のブリティッシュ・ジャズ的なスタイルで、その後の彼を知っていると、まだ突き抜けていない憾みはあるが、これはこれで別の感興があるプレイだ。「スペクトラム」はいかにもマクラフリン、随所に出てくるユニゾンによるキメ、細かいフレーズを組み合わせたソロなど、こちらはその後のマハビシュヌがうっすらと見える曲である。アルバム中では珍しく全編4ビートで通しており、ウィリアムスはいつも彼のプレイ、ヤングの左手のベース・ラインが絶妙のグルーブ感を出しているし、このアルバムの全8曲の中ではもっともタイトにまとまっている。このギターを聴いてマイルスは自分のバンドに彼を呼んで、「ジャック・ジョンソン」みたいなプレイをさせる構想を思いついたのでは....なんて勘ぐりをしたくなる曲でもある。「スペクトル・ロード」はボーカル入りのアーシーで珍しくブルージーな作品だが、中間部で切れ切れに、まるでオブジェのように配置されたソロの中にマクラフリンらしいフレーズがけっこう見え隠れしているのがいい。
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