魚沼WEBニュース

新潟県魚沼市や周辺市のニュース・情報をお届けします!週刊「魚沼WEBニュース」 ★★ 提携 「小出郷新聞社 」

安全と早期降雪を願って

2007-12-31 | ニュース

須原スキー場で安全祈願祭

319_1914_2 魚沼市営須原スキー場のスキー場開きが1222日に行われ、シーズン中の安全を祈るとともに早期の降雪が願われた。

 スキー場開きには関係者約30人が出席、安全祈願祭では同スキー場や観光関係者が玉串を捧げてシーズン中の安全を祈った。神事に続いて魚沼市の内田一商工観光課長補佐が「事故防止に留意してお客様から楽しんでもらえるスキー場にしたい」とあいさつ。

佐藤守市議会議長が「昨シーズンは雪不足や風評被害などから厳しいシーズンとなったが、今シーズンは須原スキー場に相応しい入り込みを期待しています」とシーズン中の賑わいを期待した。

同スキー場では雪を待って今シーズンの営業を開始する。


地元の子どもたちも出演

2007-12-30 | ニュース

ちびっこクリスマスステージ

319_1937 響きの森キャンドルスノー2007「ちびっこクリスマスステージ」が1222日、小出郷文化会館大ホールで開かれ、大勢の親子連れが地元の子どもたちのステージやきぐるみショーを楽しんだ。

 このステージは地元の子どもたちが出演する「ちびっこステージ」と、子どもたちに人気の「ぜんまいざむらい」きぐるみショーの2部構成。午前の公演のちびっこステージには、めぐみ幼稚園、午後には小出保育園の園児も出演し、元気にパフォーマンスを披露していた。


舟山への有機センター建設中止を

2007-12-29 | ニュース

反対署名添えて要望書出される

318_1892 地域住民による「魚沼市吉水甲区の環境保全を考える会」(大屋景嗣発起人代表)は1218日、同市舟山を予定地として建設計画が進められている有機センターの、同所への建設中止を求める要望書を星野芳昭市長に提出した。

 要望書は吉水103人、和田原37人、増沢10人、舟山6人の合計156人の署名を添えて出されたもの。舟山に有機センターを建設することにより、農業用水として使われている増沢川などの河川汚染による環境悪化、原材料及び製品の運搬に伴う交通量の増加による交通環境の悪化、臭公害及び害虫による周辺環境の悪化が予想されるとして舟山への有機センター建設の中止を求めている。

 要望書を手渡した大屋代表は「吉水、増沢への説明は区長が申し入れて1128日にようやく開かれた。コミュニケーションをしっかりとって欲しかった。住民は不安に思っている」と述べ、同席した会員からも河川の水質悪化を心配する意見が出された。

 要望を受けた星野市長は「地元の理解を得ることを優先したため、説明が遅れたことはお詫びしたい。有機センターはかねてより必要だった施設。位置もほぼ確定しており、排水はどんなことがあっても汚い水は流さないなど、地域の人たちの心配のないよう最大限配慮する」と理解を求めた。


「FORZA魚沼」県大会へ

2007-12-29 | ニュース

少年フットサル魚沼柏崎大会

 第15回東北電力杯新潟県少年フットサル大会中越地区・魚沼柏崎ブロック大会(主催=新潟県サッカー協会)が121516の両日、魚沼市の広神東小学校と広神西小学校で開催された。

 今大会には県内の4地区8ブロックに過去最多の146チームが出場。魚沼・柏崎ブロック大会には14チームが出場し、来年1月2627の両日、五泉市総合体育館で開催される新潟県大会への出場権(上位2チーム)をかけ、熱戦を繰り広げた。

 大会は15日が4つのブロックに分かれてのリーグ戦、16日がリーグ戦上位2チームによる決勝トーナメントが行なわれ熱戦の結果、塩沢サッカー少年団が優勝、FORZA魚沼サッカークラブが2位、十日町サッカークラブジュニアが3位となった。これにより塩沢サッカー少年団とFORZA魚沼が県大会の出場権を得た。


年末特集・・新魚沼風土記 (下)

2007-12-28 | インポート

~行雲流水筆に託す~

星野修美

魚沼分化史寸描

町の昭和史から(3)

魚沼自由大学の特色

 一九二二年(大正一一年)八月二五日、ヨーロッパの思想と哲学がいきなり堀之内に舞い降りてきた。その名を「魚沼夏期大学」という。

 隙間風と思われていた自由主義思想と哲学が今で言う「生涯学習講座」として定着し暴風となって六年間吹き荒れ、町の文化形成に多大な足跡を残して去っていった。

 日本の社会教育史において燦然と光を放っている自由大学がなぜこの地で開花し、六年間で終わってしまったのかは資料や文献だけでははっきりしない。堀之内町史によれば土田杏村の「教育の基礎としての哲学」という三回の講義がスタートとなっている、と記している。哲学の講義が受講者の心を捉えているのである。教員の参加者が多数を占めていたことからこのテーマとなったこともうなずけないことではないが、農民や商業などに従事している人々も混じっていたことに驚かされる。なるほど諸学の基礎は哲学であり、日常生活に行動指針を与えるのも哲学の力である。ヨーロッパ生まれのこの論理と理論がストレートに受講者の心に届いたことは特筆すべきことである。

響倶楽部と土田杏村

 この夏期大学は「響倶楽部」(ひびきくらぶ)という自主団体によって企画・運営されその中心人物は丸末書店に勤務する中条登志雄であった。鉄道が堀之内まで開通した記念事業として中条は中央より講師を招いて勉強会を開くことを発案し、前記土田の講義となったのである。

 よく知られているように、土田は上田市、山梨、伊米ヶ崎などに「自由大学」を創設し生涯教育の理論の普及と実践を展開した歴史に残る優れた教育者である。自らの精神と知識の練磨がなければ自律の力は育たない。それを生涯にわたって継続することの必要性を説いた。土田の主張は受講者の心を強く捉えた。

 第二回から「魚沼自由大学」と名称は変わり「性教育論「音楽実地指導」などもみられるものの、「近代思潮論」「文学論」「政治学」「現代哲学」などと形而上学がそのほとんどを占めている。生活に直接役立つ学問よりも形而上学が人の心を動かした。当時の経済事情は決して豊かではなかった。観念論よりも実学が求められるこの時代に心のよりどころと精神の自由を希求する願望が如何に強かったかを知らされる。しかもヨーロッパ思想のそれである。この思想と哲学は斬新なものであり論理的であった。加えて何よりも人々の自由への渇望が強く働いていたのではないかと私は感じている。

大正デモクラシーと魚沼

 自由大学を支えた社会的背景に大正デモクラシーの影響が見られる。民本主義を主張した吉野作造や河上肇の影響が書物を介して伝わってきたであろう。それよりも明治から取り入れられていたルソー・カント・マルクスなどの思想や哲学が強く影響していることも見逃すことはできない。

 響倶楽部と土田杏村によって帆をあげた自由の光はその光源を大学や高等学校などの教育機関に見ることができる。ヨーロッパ思想は大学から地方へと伝わってきた。

 いくつかの理由が重なって魚沼自由大学は六年間で終わった。しかしこれがもたらした影響は決して少なくない。その後多くの自主的な学習グループが形成されたことが何よりの証である。

明治時代・二つの顔

明治時代の国家は二つの顔をもっていた。ひとつは国粋主義に繋がる天皇制イデオロギーを貫く顔であり、もうひとつはヨーロッパの自由主義思想を背景としたリベラリズムの顔である。明治時代はこのふたつのバランスの上に成立していた。魚沼自由大学はいうまでもなく後者の立場にあった。

 この考え方は当然自由の確立と社会変革を目指す運動へと連動してくる。自由と平等を求める実践と運動は激動の昭和時代を迎えることによって国家と対立し、挫折していった。しかし、魚沼自由大学での教育と学習によって農民運動や労働運動が生まれただけではない。中条登志雄は東京で「ロゴス書院」を創立し魚沼自由大学講師の著書を刊行した。産業や農業の振興においても活躍した人も少なくないのである。

ざい」と「まちば」

根小屋からの問いかけ

 魚野川は決して凍らない。どんなに冷えたときでも、どんなに大雪のときでも顔を隠すことはない。根小屋に住む人々は毎日のように「根小屋橋」を渡って町に用足しに出かける。その都度、否応なしにこの橋から魚野川の姿を眺める。そして様々な想いを抱く。川は一日として同じ表情をしていない。

 根小屋・田戸・下倉地区は昔、「城下村」(しろしたむら)と言われていたとも聞いている。「田戸の渡し」で堀之内のまちと往来していた城下村の住民にとって橋が架かることは悲願であったことであろう。

 堀之内の「まちば」から見れば根小屋は「ざい」である。以前からそういわれていたしひょっとすると今もこの言葉は生きているかもしれない。「ざい」とは在郷のことである。在郷の意味は広い。広辞苑では「都会から隔たった田舎の地方。ざい。」と説明している。根小屋は都会ではない。魚野川によって根小屋の「ざい」と堀之内の「まちば」は明確に峻別されていた。橋は文化の架け橋となり得るか。

 では堀之内の「まち」は都会かといえば必ずしもそうとは言えない。だがここは町文化の中心であり続けた。かつては三国街道の宿場町として栄え、越後縮の産地のひとつとして広く知られていたし、鈴木牧之もたびたびこの地を訪れ名著「北越雪譜」にも堀之内の奇祭「花水祝い」を紹介している。さらに俳人宮徐々坊を生み、大の阪踊りや屋台ばやしなどの京文化も花開かせた。 

「ざい」の文化

 根小屋はこれらの町の文化と全く関係がなかったとはいえないが独特な「ざい」の文化を形成してきたことも事実のようである。

 「ざい」の文化は「まちば」には伝わりにくい。〇七年一〇月某日、私は堀之内の文化人数名と夕食を共にした。その折に戦後に作られた「根小屋小唄」を歌ったが誰も知らなかった。町の歴史に精通しているBさんもはじめて聞いたという。この唄は是非とも記録にとどめるようにとも付け加えた。その一番はたしか「根小屋城山たなびく霞、昔ながらの山桜いいそれやれそれ花が咲く」である。村人が楽しんだタツワリのスキー場、笹が沢の田毎の月見は根小屋の名物として描かれ、根小屋橋での夏の夕涼みなどが歌となっている。これを作詞した人は戦後初の根小屋小学校校長で歌人でもある俵山喜秋氏である。

 一〇年近く学校長の任にあった俵山氏は学校教育のみならず青年団、婦人会などの育成そして公民館活動にも力を注ぎ社会教育や地域文化の振興に多大な功績を残された方である。だが、根小屋小唄は町へ届かなかった。

 根小屋は小学校を拠点として文化活動が展開されてきたがこの地域は五つの村落共同体によって支えられている。新田・寺村・本村・立・桜又の自然村は今日でも健在であるが「ざい」の文化の原形はこの共同体によって形成されているように私は感じている。

「雪掘り」と「ワラ仕事」

 村落共同体は農業によって成立している。自然と闘い、共生しながら長い歴史を積み重ねてきた。およそ六五年前、私は雪に埋もれて生活していたムラの中でどうしても「雪掘

り」と「ワラ仕事」の情景を思い出してしまう。毎年数メートル降り積もった雪の中で耐え忍んで生きていかなければならない。屋根の雪掘りをする。家の出口は「掘り上げ」と称して玄関から雪を掘り上げていく。道は積もった雪を踏み固めて人が歩けるようにする。いわゆる、道踏み、を重ねながら毎日の生活道路を人力のみによって作っていく。外部との接触は極めて限られたものとなり、隣近所の結びつきはいよいよ強くなっていく。人々のコミュニケーションは徒歩の範囲ということになるからだ。

 雪掘りのほかに冬の仕事といえば春に備えての「足中」「わらじ」「荷縄」「背中こうじ」など農作業に欠かせないものづくりの「ワラ仕事」があった。グループで話を交わしながら家々を廻ってワラ仕事を毎日繰り返す。ある者は足中を、ある者は荷縄を、または蓑まで作ることもあった。同じメンバーによってこの作業がそれぞれの家を巡回して行われそこでの談笑はムラ文化の形成に欠かせないものとなっていた。農作業の手順やムラの行事、イベント、そして村落共同体が成り立つための数々の約束事の確認と実行、そして役割分担などが談話の中で交わされ暗黙の了解事項となって人々を拘束する。

 ムラ文化形成の原点がここにあった。しかしそれも一九五三年頃から大きく変貌することになる。冬期の副業としての「カマス織り」が各農家に現金収入をもたらし、たちまち村落全体に広まったことによるためである。カマス織りは「村中ひとつになって夢中になり堀之内全体で42万枚を突破し冬期副業を不動のものにした」(阪西省吾編・わがまち昭和おもいで集、昭和小史 第二集)のである。

 誤解を恐れずに言えば「ざい」には農民の文化があり「まちば」には商人の文化がある。農民は自然と共に暮らし、商人は物流と交易によって生活が成り立っていた。根小屋橋はこのふたつの文化圏を繋ぐ上で大きな役割を担っている。文化活動のひとつとしての祭りはその地域の歴史と生活を象徴している。前に触れたが大の阪踊りと十五夜祭りの屋台ばやしに加えて雪中花水祝いが復活した。根小屋の盆踊りや春祭り、そして毎年五月八日に行われる城山祭りはそれぞれ根小屋固有の文化をにじませたものとなっている。文化は地域によって異なっている。その違いを大切にしてこれを認めながら交流を進めたらどうか。「ざい」と「まちば」の文化には決して優劣はない。根小屋橋から魚野川の川面をみつめているとこの川は堀之内と根小屋を分断してきたもののふたつの文化を繋げる上で重要な意味をもっているような気がしてくる。


年末特集・・新魚沼風土記 (中)

2007-12-27 | 小出郷新聞コラム

~行雲流水筆に託す~

星野修美

ふれあいの効用

 田舎での生活は辛くとも楽しく感動的な体験も少なくなかった。雪の中を根小屋の友達の家で何度も白いご飯を腹いっぱいご馳走になったこと。正月用に町内七校の児童の農家から大豆、小豆、さつまいもを戴いたこと、地域や親戚の人からも親切にされたことなどである。

 八八年六月一一日、疎開当時同級生だった人々の招きで東京から五名の来訪者が願念寺を訪れた。実に四三年振りの再会である。大湯温泉での語らいの中で疎開時の思い出が熱く語られたという。そして翌年には世田谷の方から招待を受けさらに交流が深められたと桜井豊さんは記している。(思い出の記、第二集一二一ページ)

 子どもの日記には「いなごとりで五五匹とる」とある。さらに農作業の手伝いや学校での芋掘り、とり追いで役場から餅を戴いたことなど地域社会の一員として参加していた様子が手に取るように描かれている。毎日のように子どもたちは社会に参加し、そこで様々な人々と出会い、地域によって育てられていた実態を垣間見ることができる。

 今日、地域の教育力低下が大きく問われているが、当時は明らかに違っていた。生活に困っていた人々への支え合いの思想が生きていた。よそ者を排除するいじめもなくはなかったがそれに優るおもいやりによる支援の手が家庭・学校・地域社会の中で差し延べられていたことに圧倒されてしまう。

新しい交流を求めて

 二十一世紀の今日、新しい交流への模索が脚光を浴びている。都会の子どもたちに農業体験をさせるプログラムもいよいよ具体化されるという。

 六四年前に行われた交流とふれあいの体験は明確な教育的意図をもって展開されたわけではない。「戦争と疎開」という異常事態の中でとられた、止むを得ない「処置」であった。しかしそこには力いっぱい生きようとする人々のエネルギーが感じられる。疎開してきた子ども達の眼差しが地域の大人に届いた。そして両者は互いに共鳴し合えたのである。

 大都会の子どもが一週間の農業体験をする。それを学校教育の中で教育的意図を持って取り組まれるという。既に成功例もあると聞くが物とカネのなかった六四年前のそれと溢れるほどの物に囲まれ、文明の光を全身に浴びている今の子ども達とどこか共通点は見られるのであろうか。

 魚沼の地も首都圏が通勤圏となりうるほど時間的距離は縮まった。加えてネット社会である。言葉も生活様式も画一化されている。都市との交流はかつての時代に比べれば新鮮さと好奇心の少ない状況の中で新しい発見はあり得るのか、農業体験は都市の子ども達に感動を与えることが出来るのか、これからの課題である。

 文化交流は画一化を求めて展開されるのではない。文化の違いを認識し、その文化に触れることによって自らを再発見する営みである。それは他者を排除することでもなければ、同化させることでもない。ましていじめは絶対にあってはならない。新しい交流の原点はここにあるような気がする。


年末特集・・新魚沼風土記 (上)

2007-12-26 | 小出郷新聞コラム

~行雲流水筆に託す~

星野修美

魚沼文化史寸描

町の昭和史から(1)

 九月二四日、稲荷町の農家からさつまいもを戴く。一人に二本宛。

 一〇月五日、学校で蓮根掘り。

 一〇月九日、学校で大根にこやしをやる。

 一〇月一〇日、いなご取りの後、奉安殿用の石を魚野川から三回運ぶ。

 (ある六年生、疎開児童の日記、わがまち昭和おもいで集・第二集より)

 一九四四年(昭和一九年)の記録である。淡々とした記述のなかに当時の状況を彷彿させ説得力のある日記である。さつまいもは「もらう」と書かないで「戴く」と書いている。

蓮根掘りやいなご取り、奉安殿用の石運び。「奉安殿」も死語となりつつある。

 私は六三年前の子どもの生活と今日とを比較して考えてみた。食べるものや住むところに不自由だった時代と物がありあまる今日と、子どもにとってどちらが幸せであるかと。

昭和のおもいで」について

 昭和は今から八一年前にはじまった。私は最も近い過去である八〇年の歴史が良く判らない。昭和史を多くの歴史家が語りその文献は五万と巷間に出回っている。様々な角度から昭和を論じ事実について説明する。読んでみて正史は何かと問われてもはっきりしない。歴史教科諸問題をみても明らかである。したがってそこで生まれた文化も良く判らない。なにかがないまぜとなって混沌としているからだ。

 しかし、一九四五年八月十五日から時代状況が大きく変わり新しい時代に突入したことは誰でも知っている。時代は一八〇度変わったというがその基層をなす文化は急には変わらない。生活のスタイルや物の見方や考え方は戦前のそれを引きずっていくことになる。

 今、堀之内の阪西省吾さん編著の労作「わがまち昭和おもいで集(全二集)」を通読した。堀之内の「町史」が町の正史であるとすればこれは「野史」である。前者は客観的な事実を間違いなく記述することを本旨としているのに対してこの本はひとり一人の「私の思い出」であり、心の襞や思いのたけを叙述しているところに重要な意味がある。   

 心に残る歴史は文化を創る。体験した事実は文字や言葉となって人から人へと伝わっていく。悲しいこと、感動したこと、嬉しかったこと、いじめられたこと、などなどである。これらの感情や情操は事実そのものでない場合もある。強い印象はデフォルメされ誇張されて伝わる場合も少なくない。しかし人間の歴史はこれがないと生きてこない。想像や幻想、これが文化を創造する。

 第一集は七〇の話が、第二集には五九の話を、書き手の心を動かした出来事が物語として展開されている。堀之内の生きた昭和史といっても差し支えない。しかもそれぞれの思い出の記には必ず貴重な写真が添えられていることがなによりも臨場感を強く感じさせ説得力がある。

六年生の日記は語る

 昭和の前半は戦争の時代であった。東京の子ども達が疎開というかたちで堀之内へ来た。思い出集の中で桜井豊さんがこのことを簡素に述べている。それにしても冒頭に載せた日記はなぜか物悲しい。敗戦直前の匂いを子どもの直感が鋭く捉えているようだ。

 「一九四四年八月三一日、世田谷国民学校三~六年男女児童七七名、願念寺、大浜屋、大桝屋、に分宿した。そして(七ヵ月後の)四五年三月四日、町の人達、級友達に見送られて帰京」(同書第二集一二五ページ)している。敗戦直前の時である。日記も世相を反映して暗くなる。それもそのはず、帰京から僅か五日目の三月九日から一〇日にかけて東京は大空襲に見舞われたのであった。

 B二九約三〇機、無差別夜間爆撃、二二万戸焼失、死傷一二万人、罹災者一〇〇余万人と歴史は記録している。帰京の五日後この大災難が訪れるとは誰も予想できなかった。

 東京が火の海になる五日前、七七名の児童を返してしまった。悔やんでも悔やみきれるものではない。幸いにも世田谷は爆撃を免れたという。しかし、同様な状況で災難に遭った子どもの数はどれほどであったであろうか。考えただけでもゾッとする。この七七名はその後どう過ごしたであろうか。今では七一歳~七四歳である。堀之内での田舎暮らしは優しくしてくれた人々や仲間の子どもたち、そして学校の先生、いじめられたことなど人生の中で忘れられない思い出として心に刻まれているに相違ない。


荻原健司さんが来場

2007-12-24 | お知らせ

歩くスキーフェスティバル

南魚沼市で来年2月10日開催

 第19回「にいがた南魚沼市歩くスキーフェスティバル」が来年2月10日、南魚沼市の五日町クロスカントリースキーコースで開催されることになり、1210日から参加申し込みの受付が開始された。

 昨年は雪不足により中止となった同大会であるが、今大会では1600人を目標に開催準備を進めている。

大会のチャレンジ部門は30km15km10kmのコースがあり、年齢、性別による組分けあり。タイムを計測し、各組とも8位までに賞状と賞品が贈られる。ファミリー・ビギナー部門は5km、2kmのコースで組み分けなし。大会の参加者全員に参加賞と抽選会の賞品、完歩者には完歩証が贈られる。

参加費は一般2000円、高校生・中学生1000円、小学生700円、幼児500円。申し込み締め切りは来年1月10日。今回はノルデックスキー複合で1992年アルベールビル、94年リレハンメルの冬季オリンピック大会で2大会連続の団体金メダリストとなった荻原健司さんが来場。スタート前に模範滑走と選手への激励を行う。

また、競技終了後には「こまっかち大会」「小学生リレー競技」「雪上ステージショー」も行われる。申し込み、問い合わせは、歩くスキーフェスティバル事務局《電》025-773-6700へ。


寄稿

2007-12-23 | 小出郷新聞コラム

学校給食の目的法改正と子供達の食事

魚沼市佐梨 酒井吉雄

 子供の「食生活の乱れ」を改善すべく二〇〇五年に食育基本法が成立し二〇〇六年に「伝統文化を学び地産地消費で生産者と子供達をつなぎ感謝の念や愛着を育てる」ための改正教育基本法が成立した。

 「学校給食法」の大幅な改正は53年ぶりとのこと。53年と言えば私の人生とほぼ同じ年数になり、この間の「食べ物事情」は様変わりしている。

 まず、私のワープロでは「食育」は一発で出てこないし、この単語の意味するところがよく分からない。「栄養改善」の方が分かりやすい。

 50数年の自分の食を振り返ると、とにかく「一生懸命食べて来た」と思う。給食の脱脂粉乳も好きだったし、動物性タンパクと脂肪を求めていた。

 ごちそうは「カレーと中華そば」が定番で腹いっぱい食って大満足だった。カレーに肉のカタマリなどが入っていればびっくり仰天、最高だった。

 農林水産省が推薦する「ピラミッドフードパターン」は体感的にわかる。炭水化物、果物・野菜、タンパク質、油と砂糖に分けてバランスの良い食事を説明しているが、人それぞれ生活の仕方で求める栄養素が違うし、これは日々変化する。

とにかく、今の日本は物がたくさん有り過ぎるくらい有る。何を選ぶのかが大切ではなかろうか。05年に導入された「栄養教員」の果たす役割は大きくなってほしいと願う。

「いま口に入れようとしている物」が「何回噛む」と「自分の体をつくる物に変化する」かを「感じ取れる子供達」に育ってほしい。


高齢者とその家族の相談窓口

2007-12-23 | お知らせ

高齢者とその家族の相談窓口

 新潟県高齢者総合センター(新潟市中央区上所2-2-2新潟ユニゾンプラザ3階)では、お年寄りや家族が抱える悩みごとや心配ごとの相談を無料で受けている。相談・予約電話は025-285-4165。来年1月の相談日程は次のとおり。

【よろず相談】毎週月曜から金曜、9時~17

【専門相談】(要予約)▼法律=7、152128日▼医療=9日▼心の相談=16日▼公的年金・公的保険=8日▼税金=11

 また、中高年に役立つテレホンサービス(《電》025-281-5550・24時間年中無休)の1月の予定は次のとおり。

「確定申告で戻る税金」~1月10

「花粉症の予防と対策」1月11日~31


雪合戦大会の参加チーム募集

2007-12-22 | お知らせ

来年2月10日に開催

280_8010 雪合戦発祥の地・小出の恒例イベント第20回「国際雪合戦大会」の参加チームが募集されている。

 昔ながらの雪国の遊び「雪合戦」をスポーツ化したこの大会、来年は2月10日に「雪合戦王者決定戦!そして新たなる出発!」をキャッチフレーズに魚沼市干溝の県立響きの森公園で開催される。

 大会は大人の部(中学生以上・募集数120チーム)と子どもの部(小学生・同42チーム)があり、チーム編成は1チーム5人(男女混合可)。参加費は大人の部が1チーム10000円、子どもの部が5000円。各部とも5位まで表彰するほか、審判長特別賞、実行委員長特別賞もあり、賞品には賞状、優勝カップのほか、魚沼産コシヒカリ、地酒など地元特産品が用意される。

また、大会では「コスチューム&パフォーマンス大会」や大抽選会、玉ノ井部屋ちゃんこ配布、FMXバイクショー、スノーモービル体験試乗、模擬店、売店など楽しい催しが行われ、前日の9日には前夜祭交流パーティーや、小出スキー場でのイベントが計画されている。申し込み締め切りは1月15日。問い合わせは小出雪まつり実行委員会(魚沼市役所湯之谷庁舎商工観光課内《電》025-792-9754)へ。


絵画と創作楽器、陶芸のコラボ展

2007-12-21 | お知らせ

池田記念美術館で開催中

 南魚沼市浦佐の池田記念美術館では、3人の作家による絵画、創作楽器、陶芸の展覧会「ソラとちと…」を1214日より開催している。

 同展は、きんとき青龍さんの絵画、和田英夫さんの創作楽器、駒形孝志郎さんの陶芸の作品を展示しているもので、1月29日までの会期中にはワークショップや講演会も開かれる。

 ワークショップは和田さんを講師に開かれるもので、和田さんが集めた民族楽器の紹介、演奏をはじめ、「すかんぼの鳥笛」「クルミのシャカシャカ」「王冠のシャカシャカ」の創作楽器から1つを選んで製作、演奏してみる。参加費は大人1000円(ワンドリンク付き・入館料別)、小人500円。

時間は14時から16時。

 講演会は毎週土曜、日曜の14時から開かれるもので、きんときさんが「空よりの交信 ウガンボーとは?」と題して講演する。

 いずれも申し込み、問い合わせは同館《電》025-780-4080へ。


晴れ間

2007-12-20 | 魚沼百景

318_1817 空は厚い雲に覆われて、なかなか青空を見ることができない、魚沼の冬らしい天候となる日が多くなった。雪化粧した越後三山が久しぶりに顔を出したので車を止めてカメラを向けたが、そうしているうちにも頂には、また雲がかかってしまった。


記者日記

2007-12-20 | 小出郷新聞コラム

記録的な暖冬少雪で始まった2007年(平成19年)も残すところ半月となってしまった▼振り返れば少雪の中、1月には県中学校スキー大会が須原スキー場で開催され、県内の中学生レーサーが全国大会を目指して体力と技術を競った。3月、小出高校では昨年度で閉課となった定時制課程の最後の卒業式が行なわれ、定時制最後の卒業生13人が学び舎を巣立った。また、堀之内高校では単位制移行後初めての卒業生75人が卒業した▼4月、任期満了による県議会議員選挙が行なわれ、無所属新人の皆川雄二氏が初当選を果たした。5月、アルプス電気株式会社磁気デバイス事業部が魚沼市の小出工場を休止することを発表、地域経済に大きな衝撃が走った。6月、良寛を敬慕する個人、団体による「全国良寛会」の総会が魚沼市で開かれ、全国各地から参加した同会員をはじめ地元からも多数が出席し盛大な大会となった。また、魚沼干溝歌舞伎「やまびこ座」の旗揚げ公演も延べ1200人が来場し盛会だった▼7月、新潟県中越沖地震が発生、柏崎市を中心に長岡市、刈羽村などが大きな被害を受けた。小出高校の平成20年度募集学級数を6学級から5学級に削減する計画が示され、地元関係団体が学級数維持を強く要望、その後20年度については現行の6学級のままとされることになった。8月、参院選が行なわれ、改選2議席の新潟選挙区では自民党新人の塚田一郎氏と民主党現職の森裕子氏が当選した▼尾瀬地域を日光国立公園から独立させた「尾瀬国立公園」が正式の発足、新潟県の玄関である魚沼市では9月に誕生記念イベントを実施し、尾瀬国立公園の誕生を祝った。11月只見線開業65周年を祝う記念イベントが実施され、祝賀会の開催や記念入場券の発売、「只見紅葉号」の運行、写真展などが行なわれた。夏の猛暑、記録的な残暑も強烈な記憶として残るであろう▼あっという間の一年であるが、振り返ると色々とあった一年であった。