魚沼WEBニュース

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年末特集・・新魚沼風土記 (下)

2007-12-28 | インポート

~行雲流水筆に託す~

星野修美

魚沼分化史寸描

町の昭和史から(3)

魚沼自由大学の特色

 一九二二年(大正一一年)八月二五日、ヨーロッパの思想と哲学がいきなり堀之内に舞い降りてきた。その名を「魚沼夏期大学」という。

 隙間風と思われていた自由主義思想と哲学が今で言う「生涯学習講座」として定着し暴風となって六年間吹き荒れ、町の文化形成に多大な足跡を残して去っていった。

 日本の社会教育史において燦然と光を放っている自由大学がなぜこの地で開花し、六年間で終わってしまったのかは資料や文献だけでははっきりしない。堀之内町史によれば土田杏村の「教育の基礎としての哲学」という三回の講義がスタートとなっている、と記している。哲学の講義が受講者の心を捉えているのである。教員の参加者が多数を占めていたことからこのテーマとなったこともうなずけないことではないが、農民や商業などに従事している人々も混じっていたことに驚かされる。なるほど諸学の基礎は哲学であり、日常生活に行動指針を与えるのも哲学の力である。ヨーロッパ生まれのこの論理と理論がストレートに受講者の心に届いたことは特筆すべきことである。

響倶楽部と土田杏村

 この夏期大学は「響倶楽部」(ひびきくらぶ)という自主団体によって企画・運営されその中心人物は丸末書店に勤務する中条登志雄であった。鉄道が堀之内まで開通した記念事業として中条は中央より講師を招いて勉強会を開くことを発案し、前記土田の講義となったのである。

 よく知られているように、土田は上田市、山梨、伊米ヶ崎などに「自由大学」を創設し生涯教育の理論の普及と実践を展開した歴史に残る優れた教育者である。自らの精神と知識の練磨がなければ自律の力は育たない。それを生涯にわたって継続することの必要性を説いた。土田の主張は受講者の心を強く捉えた。

 第二回から「魚沼自由大学」と名称は変わり「性教育論「音楽実地指導」などもみられるものの、「近代思潮論」「文学論」「政治学」「現代哲学」などと形而上学がそのほとんどを占めている。生活に直接役立つ学問よりも形而上学が人の心を動かした。当時の経済事情は決して豊かではなかった。観念論よりも実学が求められるこの時代に心のよりどころと精神の自由を希求する願望が如何に強かったかを知らされる。しかもヨーロッパ思想のそれである。この思想と哲学は斬新なものであり論理的であった。加えて何よりも人々の自由への渇望が強く働いていたのではないかと私は感じている。

大正デモクラシーと魚沼

 自由大学を支えた社会的背景に大正デモクラシーの影響が見られる。民本主義を主張した吉野作造や河上肇の影響が書物を介して伝わってきたであろう。それよりも明治から取り入れられていたルソー・カント・マルクスなどの思想や哲学が強く影響していることも見逃すことはできない。

 響倶楽部と土田杏村によって帆をあげた自由の光はその光源を大学や高等学校などの教育機関に見ることができる。ヨーロッパ思想は大学から地方へと伝わってきた。

 いくつかの理由が重なって魚沼自由大学は六年間で終わった。しかしこれがもたらした影響は決して少なくない。その後多くの自主的な学習グループが形成されたことが何よりの証である。

明治時代・二つの顔

明治時代の国家は二つの顔をもっていた。ひとつは国粋主義に繋がる天皇制イデオロギーを貫く顔であり、もうひとつはヨーロッパの自由主義思想を背景としたリベラリズムの顔である。明治時代はこのふたつのバランスの上に成立していた。魚沼自由大学はいうまでもなく後者の立場にあった。

 この考え方は当然自由の確立と社会変革を目指す運動へと連動してくる。自由と平等を求める実践と運動は激動の昭和時代を迎えることによって国家と対立し、挫折していった。しかし、魚沼自由大学での教育と学習によって農民運動や労働運動が生まれただけではない。中条登志雄は東京で「ロゴス書院」を創立し魚沼自由大学講師の著書を刊行した。産業や農業の振興においても活躍した人も少なくないのである。

ざい」と「まちば」

根小屋からの問いかけ

 魚野川は決して凍らない。どんなに冷えたときでも、どんなに大雪のときでも顔を隠すことはない。根小屋に住む人々は毎日のように「根小屋橋」を渡って町に用足しに出かける。その都度、否応なしにこの橋から魚野川の姿を眺める。そして様々な想いを抱く。川は一日として同じ表情をしていない。

 根小屋・田戸・下倉地区は昔、「城下村」(しろしたむら)と言われていたとも聞いている。「田戸の渡し」で堀之内のまちと往来していた城下村の住民にとって橋が架かることは悲願であったことであろう。

 堀之内の「まちば」から見れば根小屋は「ざい」である。以前からそういわれていたしひょっとすると今もこの言葉は生きているかもしれない。「ざい」とは在郷のことである。在郷の意味は広い。広辞苑では「都会から隔たった田舎の地方。ざい。」と説明している。根小屋は都会ではない。魚野川によって根小屋の「ざい」と堀之内の「まちば」は明確に峻別されていた。橋は文化の架け橋となり得るか。

 では堀之内の「まち」は都会かといえば必ずしもそうとは言えない。だがここは町文化の中心であり続けた。かつては三国街道の宿場町として栄え、越後縮の産地のひとつとして広く知られていたし、鈴木牧之もたびたびこの地を訪れ名著「北越雪譜」にも堀之内の奇祭「花水祝い」を紹介している。さらに俳人宮徐々坊を生み、大の阪踊りや屋台ばやしなどの京文化も花開かせた。 

「ざい」の文化

 根小屋はこれらの町の文化と全く関係がなかったとはいえないが独特な「ざい」の文化を形成してきたことも事実のようである。

 「ざい」の文化は「まちば」には伝わりにくい。〇七年一〇月某日、私は堀之内の文化人数名と夕食を共にした。その折に戦後に作られた「根小屋小唄」を歌ったが誰も知らなかった。町の歴史に精通しているBさんもはじめて聞いたという。この唄は是非とも記録にとどめるようにとも付け加えた。その一番はたしか「根小屋城山たなびく霞、昔ながらの山桜いいそれやれそれ花が咲く」である。村人が楽しんだタツワリのスキー場、笹が沢の田毎の月見は根小屋の名物として描かれ、根小屋橋での夏の夕涼みなどが歌となっている。これを作詞した人は戦後初の根小屋小学校校長で歌人でもある俵山喜秋氏である。

 一〇年近く学校長の任にあった俵山氏は学校教育のみならず青年団、婦人会などの育成そして公民館活動にも力を注ぎ社会教育や地域文化の振興に多大な功績を残された方である。だが、根小屋小唄は町へ届かなかった。

 根小屋は小学校を拠点として文化活動が展開されてきたがこの地域は五つの村落共同体によって支えられている。新田・寺村・本村・立・桜又の自然村は今日でも健在であるが「ざい」の文化の原形はこの共同体によって形成されているように私は感じている。

「雪掘り」と「ワラ仕事」

 村落共同体は農業によって成立している。自然と闘い、共生しながら長い歴史を積み重ねてきた。およそ六五年前、私は雪に埋もれて生活していたムラの中でどうしても「雪掘

り」と「ワラ仕事」の情景を思い出してしまう。毎年数メートル降り積もった雪の中で耐え忍んで生きていかなければならない。屋根の雪掘りをする。家の出口は「掘り上げ」と称して玄関から雪を掘り上げていく。道は積もった雪を踏み固めて人が歩けるようにする。いわゆる、道踏み、を重ねながら毎日の生活道路を人力のみによって作っていく。外部との接触は極めて限られたものとなり、隣近所の結びつきはいよいよ強くなっていく。人々のコミュニケーションは徒歩の範囲ということになるからだ。

 雪掘りのほかに冬の仕事といえば春に備えての「足中」「わらじ」「荷縄」「背中こうじ」など農作業に欠かせないものづくりの「ワラ仕事」があった。グループで話を交わしながら家々を廻ってワラ仕事を毎日繰り返す。ある者は足中を、ある者は荷縄を、または蓑まで作ることもあった。同じメンバーによってこの作業がそれぞれの家を巡回して行われそこでの談笑はムラ文化の形成に欠かせないものとなっていた。農作業の手順やムラの行事、イベント、そして村落共同体が成り立つための数々の約束事の確認と実行、そして役割分担などが談話の中で交わされ暗黙の了解事項となって人々を拘束する。

 ムラ文化形成の原点がここにあった。しかしそれも一九五三年頃から大きく変貌することになる。冬期の副業としての「カマス織り」が各農家に現金収入をもたらし、たちまち村落全体に広まったことによるためである。カマス織りは「村中ひとつになって夢中になり堀之内全体で42万枚を突破し冬期副業を不動のものにした」(阪西省吾編・わがまち昭和おもいで集、昭和小史 第二集)のである。

 誤解を恐れずに言えば「ざい」には農民の文化があり「まちば」には商人の文化がある。農民は自然と共に暮らし、商人は物流と交易によって生活が成り立っていた。根小屋橋はこのふたつの文化圏を繋ぐ上で大きな役割を担っている。文化活動のひとつとしての祭りはその地域の歴史と生活を象徴している。前に触れたが大の阪踊りと十五夜祭りの屋台ばやしに加えて雪中花水祝いが復活した。根小屋の盆踊りや春祭り、そして毎年五月八日に行われる城山祭りはそれぞれ根小屋固有の文化をにじませたものとなっている。文化は地域によって異なっている。その違いを大切にしてこれを認めながら交流を進めたらどうか。「ざい」と「まちば」の文化には決して優劣はない。根小屋橋から魚野川の川面をみつめているとこの川は堀之内と根小屋を分断してきたもののふたつの文化を繋げる上で重要な意味をもっているような気がしてくる。