~行雲流水筆に託す~
星野修美
魚沼文化史寸描
町の昭和史から(1)
九月二四日、稲荷町の農家からさつまいもを戴く。一人に二本宛。
一〇月五日、学校で蓮根掘り。
一〇月九日、学校で大根にこやしをやる。
一〇月一〇日、いなご取りの後、奉安殿用の石を魚野川から三回運ぶ。
(ある六年生、疎開児童の日記、わがまち昭和おもいで集・第二集より)
一九四四年(昭和一九年)の記録である。淡々とした記述のなかに当時の状況を彷彿させ説得力のある日記である。さつまいもは「もらう」と書かないで「戴く」と書いている。
蓮根掘りやいなご取り、奉安殿用の石運び。「奉安殿」も死語となりつつある。
私は六三年前の子どもの生活と今日とを比較して考えてみた。食べるものや住むところに不自由だった時代と物がありあまる今日と、子どもにとってどちらが幸せであるかと。
「昭和のおもいで」について
昭和は今から八一年前にはじまった。私は最も近い過去である八〇年の歴史が良く判らない。昭和史を多くの歴史家が語りその文献は五万と巷間に出回っている。様々な角度から昭和を論じ事実について説明する。読んでみて正史は何かと問われてもはっきりしない。歴史教科諸問題をみても明らかである。したがってそこで生まれた文化も良く判らない。なにかがないまぜとなって混沌としているからだ。
しかし、一九四五年八月十五日から時代状況が大きく変わり新しい時代に突入したことは誰でも知っている。時代は一八〇度変わったというがその基層をなす文化は急には変わらない。生活のスタイルや物の見方や考え方は戦前のそれを引きずっていくことになる。
今、堀之内の阪西省吾さん編著の労作「わがまち昭和おもいで集(全二集)」を通読した。堀之内の「町史」が町の正史であるとすればこれは「野史」である。前者は客観的な事実を間違いなく記述することを本旨としているのに対してこの本はひとり一人の「私の思い出」であり、心の襞や思いのたけを叙述しているところに重要な意味がある。
心に残る歴史は文化を創る。体験した事実は文字や言葉となって人から人へと伝わっていく。悲しいこと、感動したこと、嬉しかったこと、いじめられたこと、などなどである。これらの感情や情操は事実そのものでない場合もある。強い印象はデフォルメされ誇張されて伝わる場合も少なくない。しかし人間の歴史はこれがないと生きてこない。想像や幻想、これが文化を創造する。
第一集は七〇の話が、第二集には五九の話を、書き手の心を動かした出来事が物語として展開されている。堀之内の生きた昭和史といっても差し支えない。しかもそれぞれの思い出の記には必ず貴重な写真が添えられていることがなによりも臨場感を強く感じさせ説得力がある。
六年生の日記は語る
昭和の前半は戦争の時代であった。東京の子ども達が疎開というかたちで堀之内へ来た。思い出集の中で桜井豊さんがこのことを簡素に述べている。それにしても冒頭に載せた日記はなぜか物悲しい。敗戦直前の匂いを子どもの直感が鋭く捉えているようだ。
「一九四四年八月三一日、世田谷国民学校三~六年男女児童七七名、願念寺、大浜屋、大桝屋、に分宿した。そして(七ヵ月後の)四五年三月四日、町の人達、級友達に見送られて帰京」(同書第二集一二五ページ)している。敗戦直前の時である。日記も世相を反映して暗くなる。それもそのはず、帰京から僅か五日目の三月九日から一〇日にかけて東京は大空襲に見舞われたのであった。
B二九約三〇機、無差別夜間爆撃、二二万戸焼失、死傷一二万人、罹災者一〇〇余万人と歴史は記録している。帰京の五日後この大災難が訪れるとは誰も予想できなかった。
東京が火の海になる五日前、七七名の児童を返してしまった。悔やんでも悔やみきれるものではない。幸いにも世田谷は爆撃を免れたという。しかし、同様な状況で災難に遭った子どもの数はどれほどであったであろうか。考えただけでもゾッとする。この七七名はその後どう過ごしたであろうか。今では七一歳~七四歳である。堀之内での田舎暮らしは優しくしてくれた人々や仲間の子どもたち、そして学校の先生、いじめられたことなど人生の中で忘れられない思い出として心に刻まれているに相違ない。