UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

知ったかぶり日本文化講座:夕日に輝く桜花は、大和心ではないのでせうか?

2021-03-28 22:52:51 | 日記
数日前、某知人が山桜を観にいこうと申しました

GGIは桜を観にわざわざ山の中にでかけるほどの風流人ではありませぬ。それほど行きたいとは思わなかったのですが、義理人情や同調圧力など諸般の事情により優柔不断名人のGGI、押し切られてしまいました

かようなしだいで、一昨日の午後、湖国から京の都へと通じる峠を風流人たちに引かれて善光寺参りならぬ桜観とあいなりました。

もう、ほぼ満開でありました。密集して咲いている桜も悪くはないのですが、山中の一本桜もなかなか趣があり、また西日に輝く桜もなかなか華麗でありました

今日の写真は湖国から京の都へ通じている人工水路「疎水」の脇に咲いていた、西日のなかに浮かぶ桜花を撮ったものです。まだお花見をしておられない方はぜひクリックしてご覧になってくださいませ

ところで、桜の花といえば、江戸時代の国学者、本居宣長がキザなことを申しております

敷島の やまと心を 人とはば 朝日に匂ふ 山さくら花

大和心、大和心ってもっともらしく言われているけれど、いざ「大和心」っていったい何のことや尋ねられると困ってしまうよなあ、でもあえて言うならば、まあ朝の光のなかで心地よい香りを放って光り輝いている山桜の花みたいなものやなあ

と宣長氏は言っているのですが、みなさん、この宣長氏の答、どうお考えでしょうか?宣長さん、あなたは世界に冠たる日本人すなわち我が「大和民族」のバックボーンを成しているのは「大和心」であると確信しておられるのではないのですか。もしそうであるならば、このような春霞のごとく曖昧模糊としたお答え、これは果たしてまともな答になっていると言えるのでありませうか?

これがまともな答になっているとお考えであれば、それは昨今の無能な政治家や高級官僚たちがわけの分らない、ひとを欺く答弁をして澄ましているのとと同じことではないでせうか?彼らが特技とする、ヒトを煙に巻くための、意味なき、内容なき、その場しのぎの答弁となんら変わるところがないのではないでせうか・・・

宣長さん、あなたは大和心なるものは朝日に輝く桜花のように「華麗」なもの、このうえなく美しきものであるとでも言いたいのかもしれませんが、そんなことでは「大和心とは何か」ということの説明にはまったくなっておりませぬ。宣長さん、大国学者であるあなたは、小手先でごまかすようなことはせず、「大和心」の真髄とは何か、もっと明確な言葉で語るべきです

朝日に輝く桜花が大和心であるならば夕日に輝く桜花も「大和心」であるのであろうか、あるいは夕日に輝く桜花は「大和心」とは縁なきものであるのであろうかなどと、GGIは愚考に愚考を重ねました。いくら考えても、結局「大和心」などというものは訳の分からないもの、意味不明なもの、つまり玉ねぎの皮をいくらむいていっても何も出てこないがごとく、いくら核心に迫ろうとしても捉えどころのない、中身のない空虚なものではないか、というのが浅学の徒GGIの結論でございます。そうです、「大和心」の中核を占めているのは「空虚」なのです・・・

まあ、宣長さん、困り果てていいかげんな答で済ましてしまったのであろうと同情はいたしますが、でもあなたの言葉、影響が大きいのですよ、後の世に与えた影響の大きさが問題なのです・・・

と申しますのは、この中身のない空虚な「大和心」は後に大変身を遂げることになるからです。時を経るにつれ、やがて「大和魂」なる勇ましき存在へと大変身を遂げ、このため開国後、世界の列強にならんと欲する近代戦において、とりわけ先の大戦において、食料も弾薬も尽きたなかでわが兵士たちは「玉砕」することにより大和魂を見せることを強いられることになったのです。あげくの果て「大和魂」は生身の人間を兵器に仕立て揚げ、「神風特攻隊」などと称して、数多くの若者を意味なき死に追いやることになった、というのが浅学GGIの歴史解釈であります。宣長さん、あなたが苦し紛れに出来心で「大和心=朝日に匂う桜の花」と口から出まかせにいいかげんなことを言ったものですから、その後、日本人の精神、その内部において、桜花は欠かすことのできない、わけもなく大きな存在と化してしまったのですよ

宣長さんは「そんなこと言われてもなあ、そんなことにまで責任を負えと言われてもなあ・・・」とおっしゃるかもしれませんが、その証拠の一つして、以下のような句も作られているのです

《散る桜 残る桜も 散る桜》  

GGI、はじめてこの句を目にしたとき、これは特攻隊で死ぬことを求められた青年の辞世の句ではないかと思ってしまいました。と申しますのは、この句が想起させるのは「散華」(さんげ)という言葉であるからなのです。この言葉、もともとは仏の供養のために花を撒く(散らす)という意味なのですが、いつのころからか「大和魂」の歴史的帰結であるところの「玉砕」による戦死を美化するための言葉に転じてしまいました。帝、大君の兵であるわが日本軍兵士、最後は「大和魂」を発揮して「花と散る」というわけです。ここでいう「花」とは、もちろん「大和心」の中核をなす「桜花」であります、華麗に散る桜花のごとくわが兵士の死は美しい・・・・

たとえば、先の大戦中に流行った歌に、GGIもよく記憶している「同期の桜」と題された歌(作詞:西条八十)がありますが、この歌のテーマは一言で申し上げれば「散華」です。一番の歌詞だけ紹介しておきませう

貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため

つまりこの戦時流行歌は「散華のすすめ」なのです。

この歌を聴いてみたい方はユーチューブをご覧になってください

などと書きましたが、実はあとで知ったのですが、これは特攻隊の青年の句作ではなく、世に広く知られている良寛さんの辞世の句でありました。浅学GGI、お恥ずかしい限りでございます。でもあの良寛さんも桜花のごとく散りたかったのかもしれませんね・・・・

まあ、今日はGGIの気まぐれで宣長さんにからんでしまいましたが、それでも風に舞い散る桜の花びらを目にしますと思わず見とれてしまいますね

《久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るなむ》  紀友則

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!
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