『せいめいのはなし』福岡伸一/新潮社
■ 生物学者の福岡伸一さんが『日本辺境論』新潮新書で有名な論客・内田樹さんとどんな話をするのか、大学で生物学を専攻した作家の川上弘美さんとどんな話をするのか。こんな本を見つけたら読みたくなる。
昨日(4月30日)、『生きのびる からだ』南木佳士/文春文庫を読み終えて、この対談集も読んだ。
**実は分子生物学者が顕微鏡の向こうに見ているのは科学者自身の自画像なのではないかと書いたことがあるんです。(中略)つまり、自分が見たいものを見ているんじゃないかって。(後略)**(37頁)
**分子生物的レベルで起きている個々の細胞のふるまいと、社会活動のレベルで起きている個々の人間のふるまいの間には構造的な相同性があるんじゃやないかとぼくはずっと考えてきたんですけれど、(後略)**(55頁)
この発言は内田樹さん。すごい人だなと思う。この本に収録されている対談の中でもっとも印象に残る発言だ。
**私が若い頃に「三高」という言葉があって、女の人が結婚する時に望むのは、身長が高くて学歴が高くて年収が高い男の人だと言われていました。(中略)三つも高いことがあったら、確率的には三つ低いことがあるはずだから(笑)。ともすると私たちは、プラスのことばかりを望みがちですよね。でも、もし今すべてがいいことばかりだと、将来にはものすごく怖いことが待っているかもしれないんですね、「動的平衡」の考え方でゆけば(笑)。**(76頁)
この発言は川上弘美さん。「動的平衡」のおもしろい解釈。三高にはマザコン、DV、浮気、浪費みたいな四低が付きものだという福岡さんの返答もおもしろい。
**解剖学というのは要するに、体を切って分けて、名前をつけていく学問なんです。(後略)**(162頁)という養老孟司さんの発言に対する**そこに揃っているものを一層ずつ分けて、名づけていく。名づけてからもう一度組織を見るとちゃんと一層ずつ分かれて見えるんですよね。**(162頁)という福岡さんの発言も鋭い。
これは以前このブログで取り上げた「サピア・ウォーフの仮説」、言語が世界の見え方を規定する、認識の仕方を規定するという仮説と本質的に同じ指摘だ。「言語は存在の住処」というハイデッガーの言葉にも通じる。
おもしろい対談集を読んだ。「動的平衡」については機会を改めて書きたい。