TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

動物園 動物写真その55 『シロテテナガザル』

2017年03月31日 | 動物園 動物紹介
今回は上野動物園の『シロテテナガザル』の紹介です。



シロテテナガザルは中国南部やミャンマー東部、タイ、マレーシア、そしてインドネシアのスマトラ島など、南および東南アジアのジャングルの木の上に生息し ています。



シロテテナガザルは、その名の通り手首から先が白くなった長い手を持ち、ほとんど樹上生活をしています。



掌は平たく、前足の親指は短くて、ほかの四本は長くなっています。
この手の構造は、物をつかんだり、木の枝につかまったりするのに大変役に立っています。



胸の筋肉はよく発達していて、腕の力や握力も強く、樹上では長い腕を使って枝から枝へと敏捷に移動します。
跳躍力にもすぐれていて、ひと跳びで10m程も跳ぶことができます。



毛色は生息域や固体によって異なり、黒色、黒褐色、黄褐色、クリーム色、茶色などと変化がありますが、シロテテナガザルは、いずれも顔のまわりと手足の先が白くなっています。



活動は昼間に行い、主に果実や若葉、花や茎などの植物質を食べるが、昆虫や鳥の卵なども食べます。



シロテテナガザルは樹上生活をしているので、肉食動物に襲われることは滅多にありませんが、危険が迫ると大きな叫び声をあげて仲間に知らせます。



枝から枝へ長い腕をつかってブラキエーション(=うでわたり)をして移動します。
動物園でも高い木の枝やロープを飛び移るようにして移動する姿が見られます。



野生での寿命は25年ぐらいで、飼育下では30~40年程度と考えられていますが、飼育下では50年近いものも知られています。



次回は善光寺の紹介です。

動物園 動物写真その54 『エゾヒグマ & ツキノワグマ』

2017年03月30日 | 動物園 動物紹介
今回は上野動物園と野毛山動物園の『エゾヒグマ & ツキノワグマ』の紹介です。
紹介はネット情報の動物図鑑より引用しています。



世界には8種類のクマがいて、日本国内には北海道に生息するヒグマと、本州以南に生息するツキノワグマの2種類のクマがいます。
環境省の調査によると、北海道の約55%の地域はヒグマが、本州の約45%の地域にはツキノワグマが生息しています。
最初は上野動物園のエゾヒグマです。



エゾヒグマは北海道に分布するヒグマの亜種で、サハリンや南千島列島、スタノヴォイ山脈辺りから中国北東部、朝鮮半島などにも分布しています。



森林や原野・高地などに生息し、国内では最大の陸上哺乳類で、体格はがっしりとして大きく、腰よりも肩の方が高く、肩の部分は盛り上がっています。



体の大きさは体長1.8-2m、体重150-300kgです。
嗅覚(きゅうかく)が特に敏感で、数kmも風上のにおいをかぐことができます。



野生下のものは、冬には山の斜面に穴を掘ったり、岩穴や木の洞を利用して冬眠しますが、秋にあまり餌を充分に食べることができなかったものは、冬眠しない場合もあります。



外敵はトラが挙げられますが、トラのいない国内では、人だけが外敵となっています。
食性は雑食性で、果実や草類のほか、木の葉や木の実、球根や樹皮・樹脂などの植物質の他、昆虫や魚、ザリガニ、鳥や鳥の卵、小動物など何でも食べます。



雄の方が雌よりもひと回りほど大きく、毛色は褐色や赤褐色・黄褐色・黒色などですが、ふつう体が黒く、頭部が黄褐色のものは胸に白い斑紋が見られ、全身赤褐色のものはエゾヒグマの中でも体が大きく、爪もよく曲がっています。



日本国内には、北海道に生息するヒグマ(亜種としてのエゾヒグマ)と、本州以南に生息するツキノワグマ(亜種としてのニホンツキノワグマ)の2種類のクマがいます。
ツキノワグマです。



アジア大陸に起源をもつツキノワグマは、現在、イラン、アフガニスタンの西アジアから、日本、韓国、台湾の東アジアにかけて広く分布しています。



主に木の実や木の根、果実などの植物質を食べるが、アリや昆虫、鳥やげっ歯類など、ツキノワグマは何でも食べます。
嗅覚は優れていて、1m程の地下にいる昆虫なども嗅ぎだすことが出来ると言われています。



ツキノワグマはふつう全身黒色で、頭は幅広く、耳は離れていて突き出した感じで、鼻面は長いです。
胸には月の輪の形をした白斑が見られるが、この白い斑は細くて真ん中で切れているものや、中には白斑がないものなどもいます。



ツキノワグマの分布は、ブナやミズナラに代表されるブナ科の落葉広葉樹林(ただし紀伊半島では照葉樹林)の分布と重なっていることが指摘されています。



頭は幅広く、耳は離れていて突き出した感じがし、四足で立つと肩の方が低いです。



ニホンツキノワグマは昼夜共に活動するが、主として夜行性が強いと言われている。
これは人との接触を避けるためと言われていて、元来は日中によく活動します。



性質は荒く、野生のヤギやヒツジ、スイギュウなどの大型獣を倒すこともあり、時には家畜を襲うこともあります。
相手に襲いかかるときは手で殴りつけるようにして攻撃しますが、人に向かってくることもあり、特に繁殖期には気が荒くなります。



ツキノワグマは雑食性ですが、植物を主食としています。しかし、ウシやヒツジのように食物繊維を消化するための特殊な消化器官を持っていないので、硬くて繊維質の多い植物は避ける傾向があります。



次回は『シロテテナガザル』の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その183 『松本市内・旧司祭館』 その6

2017年03月29日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
開智学校は小学教育を第一の使命としましたが、それにとどまらず中学校、女学校、師範学校などの諸学校、さらに博物館や図書館などの社会教育施設に至るまで、その発祥の母体となった学校です。



旧開智学校の隣に旧司祭館があります。
旧司祭館は、明治22年(1889)にフランスのクレマン神父によって建築された西洋館です。
明治10年代の後半に布教のため来松したクレマン神父は、定住して布教するための教会を旧三の丸武家屋敷跡に建てることを求め、現在地に移築されました。



長野県では現存する最も古い宣教師館です。
平成6年の松本市重要文化財を経て、平成17年に長野県宝に指定されました。



外壁の下見板張りは、遠くアメリカ開拓時代の船大工の技法を残す、アーリー・アメリカン様式の特徴を備えた貴重なものです。



1,2階ともにベランダを備えている、今では珍しい純西洋館です。
窓ガラスは、昔のガラスが一部使用されています。



2階への階段も素晴らしいデザインです。



司祭館の構造は左右対称の二階建てで、各部屋に現在も使用できる暖炉が設けられています。



この司祭館はセスラン神父が明治34年から27年の歳月を費やし、日本で初の本格的な「日仏辞典」を編纂しはじめた建物でもあります。
 


100年近くカトリック教会の宣教師住居として使用されました。
家具も歴史を感じます。



旧開智学校の近くに、現在の開智小学校があります。
地元の人の話では、人気のある学校とのことでした。
校舎も独特の雰囲気です。



それでは松本よりお別れです。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その183 『松本市内・旧開智学校③』 その5

2017年03月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
陳列室には、当時の様子がうかがい知れるような昔の教育資料などが並べています。



トッポパパも昔を思い出して、座ってみました。
こんな小さな机と椅子だったのですね。



教室の小型黒板も、昔の日本の学校を感じます。
昭和20年代は戦後の貧しい時代背景もあり、思い出すのはカタカタ音がした食器、コッペパン、脱脂粉乳のミルクです。



開智学校押絵雛は、開校当時の授業の様子を表現しています。羽織・袴に靴をはいた先生が洋算を教え、子どもたちは腰かけに座り授業を受けています。



娘のリクエストで、誰もいなかったのでトッポパパ先生になりました。



生徒は一人です。



廊下の洋灯の吊元も凝った装飾がされています。



校舎内にも竜が飾られています。
荒々しい海の上を鳥が飛んでいるように見えますが、近づいてみると顔が竜です。



階段も重厚さを感じます。



今ではほとんど見られなくなった木造校舎のあたたかさのようなものを感じることができます。



続く.............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その183 『松本市内・旧開智学校②』 その4

2017年03月27日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
旧開智学校は昭和38年から現在地への移転修理工事を行い、昭和40年に教育博物館として公開開始しています。
各窓に舶来の当時としては高価なギヤマン(ガラス)が取り付けられています。



校舎の裏側も、お洒落な建築です。



正面の門は天皇陛下と皇太子閣下が御訪問される時にだけ開門されるそうです。
中央には東西南北の風見を配した八角塔が高くそびえ立っています。



明治9年に新築された校舎の工事費はとても高価で、当時の県知事の月給が20円のときに1万1千円の巨額がかかったそうです。



工事費の7割は松本市民からの寄付で、残り3割は特殊寄附金及び廃寺をとりこわした古材受払金などで調達したそうです。



校舎内を見学することにします。
中にも校名の額を掲げたキューピッドがありました。



廊下もきれいに整備されています。



教室の学童用の机や椅子を見た時、トッポパパの小学校時代も多少の違いはあっても、同じような雰囲気だったように思います。



鬼瓦が展示されています。
1887年(明治20)頃に取りつけられたもののようですが、現在は新築当時の銅板飾りに復元されています。



続く............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その183 『松本市内・旧開智学校①』 その3

2017年03月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
旧開智学校は松本城から徒歩で10分ほどのところにあります。
長野県公式観光情報を抜粋して紹介します。
重要文化財の指定を受けた時の記念碑です。



開智学校は、明治6年5月6日、筑摩県学を改め学制による小学校として、廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮の校舎として開校しました。
新校舎は明治9年に全久院跡地に竣工し、昭和38年3月まで約90年間使用された、わが国で最も古い小学校のひとつです。



明治時代初期の洋風校舎です。
文明開化における学校の役割を絵解きしたようなデザインで、文明開化時代の小学校建築を代表する建物として広く知られています。



日本最古級の木造2階建、寄棟造り、桟瓦葺きの擬洋風小学校建築です。
東京大学の前身である開成学校などを参考に作られたそうです。



中央に八角塔が高くそびえ立ち、各窓に舶来のギヤマンが取り付けられています。



擬洋風の校舎は、白壁に茶色の窓枠がアクセントになり、お洒落な校舎です。 
現在は教育博物館として教育資料約3万点が保存されています。



開智学校の校舎正面部分のバルコニーの彫刻は、流水の上に龍が躍っています。



竜の上には、青空が広がりわき立つ雲の上でキューピッドが校名の額を支えています。



開智の校名は、明治5年8月学制発布の前日に公布された「被仰出書」の文中にある「身を修め、智を開き、才芸を長ずる」から命名されたといわれています。



昭和36年(1961)、明治時代の擬洋風学校建築としては、わが国で初めて重要文化財の指定を受けました。



続く...............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その183 『松本市内・縄手(なわて)通り』 その2

2017年03月25日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
中町通りの女鳥羽川を挟んで対岸に縄手通り(ナワテ通り)があります。
東京芸術大学デザイン科寄贈の『ガマ侍』が迎えてくれます。



その昔、「縄手」は松本城のお堀と女鳥羽川の清流にはさまれていて、縄のように細い土手だったことから名付けられました。
明治12年に四柱神社が建立され、縄手はその参道として発達してきました。



四柱とは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)・天照大神(あまてらすおおみかみ)の四人の神をさし、すべての願い事が叶う願い事むすびの神社です。
そのため、すべての願い事を叶えてくれるパワースポットとして大人気です。



縄手通りではいたるところにカエルがいます。
こちらは『メトバ』ちゃんと呼ばれています。



縄手商店街の人たちが縄手のシンボルとして何かふさわしいものはないか思案したところ、昔女鳥羽川でカジカガエル(河鹿蛙)が鳴いていた頃、縄手が大変賑やかだったことから、シンボルとしてカエルに決定したようです。



明治9年に南惣堀が埋め立てられ、四柱神社の参道として整備されて現在の礎が築かれました。
昔の町並みを再現した下町情緒溢れる商店街です。



玩具屋、骨董品屋、駄菓子屋、食べ物屋等、色々な店があり、店先を見て歩くだけでも楽しいです。



レトロで懐かしい感じの店が多くあります。



カエルの置物や、カエルモチーフの雑貨の並ぶ店を覗くのも楽しそうです。



カエル大明神です。
江戸時代の城下町松本の雰囲気を今に残す通りでした。



旧開智学校へ向かいます。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その183 『松本市内・中町通り』 その1

2017年03月24日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
松本城探索のあと、松本市内を少し歩いてみました。
松本市は400年に及ぶ城下町で、中町通りは西から東へ抜ける善光寺街道 (北国街道西街道)沿いにあり、主に酒造業や呉服などの問屋が集まり繁盛してきました。



1970年創業の松本市の名店、老舗のカレー屋です。
建物は明治に建てられたもので、昔の建物をそのまま利用していて趣があります。



栗菓子の店で有名な竹風堂です。
松本市中町蔵の会館は、蔵の町・中町の拠点となっています。
もともとは造り酒屋で、母屋、蔵、離れの3棟を移築、改修したものです。
軒先には、その象徴である杉玉がゆれています。



蔵シック館の喫茶店は明治建造の蔵です。
城下町松本の商家の繁栄を伝える土蔵造りの建物が、現代に伝えられています。



創業100年の老舗漆器店の伊原漆器専門店です。



中町通りは、主に酒造業や呉服などの問屋が集まり繁盛してきました。
しかし江戸末期や明治に南深志一帯が大火に見舞われ主要な施設や町家が多数失われました。
再三にわたる火災から守るため、商人たちの知恵で「なまこ壁の土蔵」が造られました。



千国街道、野麦街道、伊那街道、北国西街道が交差する要衝として発展してきた松本には、土蔵造りの商家や店舗が数多く残っています。



江戸末期や明治に南深志一帯が大火に見舞われ主要な施設や町家が多数失われました。
市内には町のあちこちに井戸があり、綺麗で冷たい水を楽しむことができます。



なまこ壁の土蔵の白と黒との簡潔なデザインが、古き松本の雰囲気を漂わせています。



中町通りは民芸・工芸などの店が集まり、松本でも一種独特の町並みをつくっています。



これから縄手通りに向かいます。

続く...............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その12

2017年03月23日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
長きにわたり松本城を紹介してきました。
今回が最後の紹介です。
日本の主要名城は150ほどありますが、国宝に指定されているのはわずか5城です。
2015年に松江城が追加されたので、現在『彦根城(滋賀県彦根市-1606年(慶長11年)』、『松江城(島根県松江市-1607年(慶長12年)』、『姫路城(兵庫県姫路市-1609年(慶長14年)』、『犬山城(愛知県犬山市-1601年(慶長6年)』、『松本城(長野県松本市-1597年(寛永10年)』の5城です。



現存天守があるのは弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城、の12城です。
江戸時代以前から残っているお城で、改修・修復等はありますが、焼失したり倒壊したりすることなく約400年以上、残っている貴重なお城の一つが松本城です。



「埋の橋」越しの松本城は記念写真の定番スポットです。



松本城の歴史をもう一度振り返ってみます。
松本城は、もともとは山に囲まれた松本盆地に作られた山城が元になっています。
16世紀前半に、当時の信濃守護であった府中小笠原氏によって築城され、当初は、松本城ではなく、深志城と呼ばれていました。



武田信玄は、深志城を筑摩・安曇野地方の郡代(代官)を置き、松本一帯を支配し、その後、越後の長尾景虎と争い、信濃を統治することになりました。
武田氏の支配は、おおよそ30年ほどにわたって続けられました。
武田氏が滅亡した1582年に、小笠原貞慶が徳川家康の後ろ盾を受けて深志城を復興した際に、松本城という名前に改称しました。
その後徳川家康の関東移封により、小笠原氏に代わって石川数正が松本城に入ります。
石川数正は城の大改築に乗り出し、本丸、二の丸、三の丸などの整備を始めます。
改修工事は息子の康長に受け継がれ、1592年(諸説あり)、現在に残る国宝指定の天守・乾小天守、渡櫓が完成しました。



松本城は戦国末期、鉄砲戦を想定した戦うための漆黒の天守の典型として、現存する唯一の城です。
石川康長は大久保長安事件により改易となり、再度小笠原氏が飯田藩から再び松本に入りますが、小笠原氏も播磨明石へ転封となりました。
その後は、徳川家光の守り役として知られている松平康長、松平(越前)直政など、城主が次々と変わりました。



さらに1633年(寛永10年)に入封した松平直政によって辰巳付櫓、月見櫓が付けられた。



城主が落ち着いたのは、松平康長を祖とする、戸田松平家の松平光慈が移ってきた江戸時代の半ばごろでした。
その後、明治時代まで戸田松平氏によって治められました。



松本城の五重天守は姫路城とともに現在2基しか現存していない非常に貴重な建物となります。
また天守の外壁は、どの階も下部を黒漆塗りの下見板で覆っていることもあり、松本城は別名、烏城ともいわれています。
松本城が黒いのは、石川氏の秀吉への忠誠のしるしといわれています。



明治時代になると、城郭破却という新政府の意向で、日本各地で城郭が壊されていきました。
松本城も解体される危機となりましたが、危機を乗り越え保存会が結成され、老朽化によって傾いていた天守は、明治36年から10年かけて大修理が行われました。



トッポパパもこれが最後の松本城訪問でしょう。
富士山、日本のお城などは、やはり日本の顔ともいえるので、これからも大切に保存されることを願っています。
この後松本市内を、少し歩いてみます。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その11

2017年03月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
ひととおり松本城内部を見学してきたので、本丸御殿跡に戻りました。



本丸御殿跡も、これから春になるともっと緑濃いきれいな広場になるのでしょう。
本丸御殿跡の手前に桜の木が1本あります。
これは「清正公駒つなぎの桜」と伝えられているものです。
豊臣秀吉の家臣として仕えた加藤清正が、熊本城主となり、熊本から江戸に出向いた際、帰りにこの松本城に立ち寄り、その時にこの木に馬を繋いだとされています。
こんなエピソードがネットで紹介されていました。

当時城主だった石川玄番頭は、遠くからわざわざ寄ってくれた清正に対して、2頭の馬を見せ「土産にどちらでもお気に召した方を1頭差しあけましょう」と言いました。
すると清正は「貴殿の目利きで取り立てた駒(馬)を、我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない」と言い、
そしてなんと、「2頭とも申し受けるのが礼儀と心得る。」と言って、2頭とも持って帰ってしまったというのです。



松本城の天守の高さは29.4mもあり、ビルの高さにすると、ほぼ10階建てに相当します。



黒門より外に出ます。
気がつけば、立派な石灯篭がいくつもあります。



もう一度、甲冑武者と記念撮影です。



内堀の外側を回ってみます。
ネット情報で、月見櫓の建立理由の記述がありました。
将軍家光は京都からの帰りに善光寺参詣するため、松本城に立ち寄ることになり、直正は家光のために急遽、辰巳櫓と月見櫓を造りました。
この時、時代は太平の世となり石川康長が造った戦国末期の松本城の雰囲気とはまったく違った、風雅な建物が増築されたのです。しかし、中山道のがけ崩れにより家光の善光寺参詣は中止され、松本城を訪れることはありませんでした。



天守の築造年代は文禄2-3年(1593~4)と考えられています。
松本城は、激動の歴史を乗り越えてきた500年以上の長い歴史を有しているお城です。
何度も存続の危機に遭いながら存続してきた貴重な城であるとわかります。



姫路城は、白鷺城とも呼ばれる事からわかる通り「白い城」である事に対し、松本城は別名「烏城」と呼ばれるほどに「黒い城」です。
これらの色は、実は築城の際、徳川家康と豊臣秀吉のどちらが関わったかで決まっているようです。



家康の息がかかったお城は白い城(宇和島城など)、秀吉の息がかかった城は黒いお城(大坂城など)となっています。
大阪城も、戦国当時は金箔の瓦と黒漆の壁で造られたお城だったそうです。
家康と秀吉の趣味の違いが顕著に反映された結果と紹介されていました。



続く.................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その10

2017年03月21日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
急な階段なので足を踏み外さないように、ゆっくりと月見櫓まで下りていきます。



月見櫓から大天守の本丸側です。
戦国大名が領国をめぐる争いを繰り返してきた戦国時代、常に敵と戦う備えを持っています。



松本城は戦うことを想定した大天守・渡櫓・乾小天守の三棟が戦国時代末期に、それから40年後の江戸時代初期の平和になった時代に、戦う備えをほとんどもたない辰巳附櫓・月見櫓の二棟が建てられました。



月見櫓から見る内堀です。



月見櫓は東西四間×南北三間で、月見櫓の北側、東側、南側の三方向が開口部です。



朱色の漆が塗られた刎ね勾欄を施した回縁が巡っています。



月見櫓の前からは、大天守・乾小天守が臨めます。



本丸御殿は5棟、部屋数は60余り、建坪は830坪の広さでした。



藩の正政庁で、城主の居館でしたが、享保12年(1727)火事により焼失しました。



御殿は、城主の住居であると同時に、家臣がその主従関係を確認する対面の儀式が行なわれる場や藩政のための庁舎であり、城内で最も重要な施設でした。



続く..................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その9

2017年03月20日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
これから松本城の最上階まで上がります。



4階から5階への階段の勾配は60度に及び、階段というよりハシゴに近いです。



最上階の6階へ通じる階段は、天井が高い分途中で折れ曲がる構造になっています。
床と天井の間は4mあるため、斜度があり、踏み板の幅が狭く踏み板の段差も高くなっています。
有事に簡単に敵に昇らせないように、とにかく昇降しにくく造られています。



上り下りが交錯するので、上った人も下りるタイミングに躊躇しています。



天守六階は、3間の一部屋となっています。
無目敷居が回っているので、畳を敷くことも可能で、階段を除き、京間16畳の大きさとなります。
有事には、司令塔(城主の座所)となるところでもあります。



天守最上階の天井は、柱が複雑に入り組み、瓦屋根の軒先が重さで下がらないようにする桔木(はねぎ)構造と呼ばれます。
テコの原理を使い、太い梁を井の字に組み、四方へ出て軒をつくる垂木の下に軒先を支えるための桔木を放射状に配置します。
鎌倉時代の寺院建築から採用されている技法です。



天井中央にまつられているのは、二十六夜神という松本城を守る神様です。



奥に見えるのは、天守内部から見た千鳥破風です。
格子窓がつけられ、内側に数人が入れるスぺースを設けて攻撃拠点にしています。



天井板は無く太い梁が縦横に走り、天守は層塔型のため四方に窓があり遠くから真下まで見ることができます。



本丸御殿跡の広さがよくわかります。



6階の床面は、地上22.1m、堀水面上23.9mあり、東は美ヶ原高原、南は塩尻・木曽方面、西は安曇平が広がり、その向こうに北アルプス、北は城山方面が一望できます。



続き.................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その8

2017年03月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
黒い天守と呼ばれる松本城は、白漆喰の壁の腰部に黒漆塗りの下見板を貼り付けた構造をしています。
天守・乾小天守・渡櫓の石垣は修理を施していますが、400年前に積まれたままで積み替えは行われていません。
天守台の石垣は野面積(乱積)で未加工の自然石を使用した石垣です。
未加工の自然石ですが、大きさの揃った石材を横方向に並べて、横目が通った積み方を「野面布積」というそうです。



1575年(天正3年)に、信長と徳川家康の同盟軍が武田勝頼(信玄の子)の軍と三河(愛知県の一部)の長篠で戦いました。
信長は戦国最強の騎馬軍団を持つとされる武田軍に対し、それまでの戦と異なり鉄砲を有効に使った戦いをしました。
鉄砲は威力はあるものの1発撃つのに時間がかかるのが難点で、戦いの最初に打つだけで、後は刀や弓で戦うことが多かった時代でした。
信長はその難点を克服し、鉄砲3000丁を使用し1000人ずつの3段構えになって、鉄砲の連続打ちで狙い撃ちしたそうです。
この戦いで、これまでの鉄砲の常識を覆し、信長が後世まで天才とたたえられる結果となった戦のひとつです。



ここも鉄砲による対戦を考慮して、武者窓/竪格子窓が造られています。



1-2階を通柱で組み立て、その上に3-4階、5-6を通柱で組んだものを積み上げていくという構造で、高層化をはかっています。



3階は窓がないので、4階に上ります。
敵の侵攻を少しでも防ぐために階段は急な傾斜となっています。



4階は、倉庫然とした雰囲気から一転し、明るく天井も高くなります。
御座所と書かれています。
書院造り風の御座の間は、いざというときに城主がいる(御座所)場所です。



4階の突上戸より、昔の絵図にあった位置に架橋した「埋の橋」を見下ろします。



埋の橋と呼ばれる赤い橋は、昭和の修理の際に復元架橋され、埋門の名に因んで、埋の橋と命名されています。



松本城の北側にある赤い欄干の埋の橋は、松本城の黒とのコントラストもあり絶好の撮影観光スポットになっています。



続く...................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その7

2017年03月18日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
こちらは内部から見た5連の武者窓/竪格子窓です。
このように戦いを想定した備えとして、松本城は、狭間という弓や鉄砲を放つための小さな窓が115ヶ所設置されています。
天守の壁は1,2階で約30cmと厚く、また内堀幅を火縄銃の高い命中精度が維持できるぎりぎりの約60mとして、鉄砲戦の備えをしています。



天守1階から3階までは柱の数が多く、4階から上は柱の数も減ってやや広い空間が設けられています。
下層は特に骨組みがしっかり造られています。



格子窓から本丸御殿跡を覗きます。



内堀側です。



2階が鉄砲蔵で、火縄銃や鉄砲に関する資料などが展示されています。



日本に鉄砲が伝来してから50年後には、もういろいろな種類の鉄砲があったようです。



この階には、松本市出身の故赤羽通重・か代子夫妻から寄贈された、火縄銃と関連資料を集めた「松本城鉄砲蔵」となっています。



これは火をつけて飛ばしたものですかね??



船載砲(城塞砲)と呼ばれるようです。
口径33mmの弾を500mまで飛ばせたそうです。



甲冑も展示されていました。



続く...............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その6

2017年03月17日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
2階を見て回っています。



曲がった大きな梁があります。
大天守と乾小天守とをつなぎ、自然の木をそのまま使用して梁として使っています。
自然のままの木の使用は、強度の面ですぐれていると言われています。



3連の武者窓/竪格子窓が見え、ここから火縄銃を撃ったのでしょう。



頑丈な太い丸太柱が何本も立っています。
天守内には四角の窓(狭間)が何か所もあり、攻めて来た敵に対して火縄銃を撃つ穴になります。



こちらは内側から見た石落とし用の狭間で、石垣を登ってくる敵を防ぐ工夫です。
石落は狭間と同じように鉄砲を使っての攻撃も可能な武備です。



松本城の往時の様子が描かれています。
城づくりが始まったのは1580年代で、豊臣大名としてこの地に入った石川氏が城郭と城下町一体の都市計画を推進しました。
3重の水堀と塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭としました。
内郭には天守、御殿、蔵など城主と藩の施設を置き外郭は城主の親衛隊である上級家臣の屋敷地としました。
厳重な城門を構える虎口(桝形と馬出し)だけが城内への通路です。



頑丈で太い梁は表面がきれいで、手作業での加工?がわかります。



鯱真木です。
鯱真木は天守に据えられた鯱を支えるための芯木です。
190cmの真木を棟木に取り付け、先端約80cmが鯱の中に入っていました。
天保14年(1843)取替と墨書きがあり、江戸時代末に取り替えられていたことがわかります。



鬼瓦も展示されています。
鬼瓦とは、屋根の棟の両端に用いる鬼の面にかたどった瓦です。
鬼の面をもたなくても鬼瓦といいます。
日本書紀によると、588年に4人の瓦博士が大陸(中国)より渡来し、飛鳥寺の建立をきっかけに瓦の技術をもたらしたとあります。
瓦の形状は、社寺を中心に発展していきますから、仏教と瓦は密接な関係にあるといえます。



鯱瓦(しゃちがわら)です。
この鯱は大天守につけられていたものです。
鯱は火災の際に水を吐くという想像上の魚で、口が空いているのが雄、閉じているのが雌です。
松本城の鯱は南側が雄、北側が雌で、雌の方が若干小さく作られています。
説明板に、昭和の修理の際に新しい鯱瓦と取り替えられたもので、高さは雄127cm、雌124cmと書かれていました。



続く..........................................................。