TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

海外の都市の紹介、 その94の1 『BEIJING (北京)』

2011年05月30日 | 海外の都市の紹介
今ままでに多くの世界の都市を紹介してきましたが、中国北京の紹介は今回が初めてです
久しぶりに北京に1日宿泊したので、空港に移動する前に天安門、紫禁城へ足を延ばしてみました。



天安門広場です。
天安門広場は都市の広場としては、世界の都市の中でも最大規模の広場です。
南北880メートル、東西500メートル、面積は44万平方メートルもあります。
毎朝、荘厳な五星紅旗が旭日が昇ると同時に掲揚され、夕日が沈むと同時に降ろされます。
1999年の建国50周年には一新され、広場の北側に天安門、西側は人民大会堂、東側に中国歴史博物館と中国革命博物館、南側は人民英雄紀念碑と毛主席紀念堂があります。

写真奥の大きな建物は天安門広場東側にあり、もとの中国歴史博物館と中国革命博物館です。
中華民族の悠久な文化と歴史を系統的に展示する総合博物館です。
収蔵されている文物は40万点余りもあり、出土文物、貴重文化財、貨幣、民族文化財、文献拓本などが含まれ、展示品は170万年前の元謀人から1912年の最後の封建王朝が幕を閉じるまでのさまざまな文化財と資料が9000余点もあります。
中華民族の偉大な歴史、沿革と光り輝く文化を全面的に展示しています。



西側には中国の国会議事堂にあたる人民大会堂があります。
人民大会堂は全国人民代表大会などの重要な会議が開催されます。
建国10周年を記念して、ボランティアの手によって10ヶ月(1958~1959年)かけて建造された建物です。
17万平方メートルを超える床面積を有し、300室の会議場・休憩室・事務室を備えています。
人民大会堂の中央ホールでは5年に一度、中国共産党の総会が開かれます。



広場のほぼ中央に1958年に建てられた人民英雄紀念碑があります。
天安門からみえる北面には、毛沢東による金文字「人民英雄永垂不朽」(人民の英雄は永遠に不滅だ)が書かれています。

南面には周恩来による言葉として、「ここ3年来の人民解放戦争と人民革命によって犠牲になった人民の英雄達は永遠に不滅だ!(1946年からの国共内戦を表す。)
ここ30年来の人民解放戦争と人民革命によって犠牲になった人民の英雄達は永遠に不滅だ!(1919年の五四運動以降の抵抗運動・抗日戦争を表す。)
ここから1840年まで溯った時から内外の敵に反対し、民族の独立と人民の自由と幸福を勝ち取るための毎回の闘争の中で犠牲になった人民の英雄達は永遠に不滅だ!(1840年のアヘン戦争以降の諸抵抗運動(太平天国の乱や義和団の乱・辛亥革命等を含む)をあらわす。)の大意の中文が書かれています。



台座部分には中国近代史における主な事件(アヘン戦争の原因となった1839年の林則徐の広東省虎門でのアヘン焼却事件「虎門銷煙」、太平天国の乱のきっかけになった1851年の「金田蜂起」、辛亥革命のきっかけとなった1911年の「武昌蜂起」、1919年の北京での「五四運動」、1925年の上海での労働者のデモにイギリス軍が発砲した「五・三〇事件」、1927年に江西省で起こった国共内戦の始まりであり中国人民解放軍の誕生とされる「南昌蜂起」、1937年からの「日中戦争」、1946年からの第2次国共内戦の一つで中国共産党の勝利を決定的にした1949年4月の「長江渡江戦争」)のレリーフが彫られています。
完成当時は直接触れることが出来ましたが、度重なる革命運動や二度の天安門事件の舞台になったことにより、現在では警備兵が常に監視し近寄れなくなっています。



天安門のほうへ歩いていきます。



天安門は黄金色の瑠璃瓦、ベンガラ色の城壁、白い大理石の欄干が印象的な城門で、北京の象徴です。
中央門上部には中国共産党の初代主席である毛沢東の像が掲げられ、楼閣の上部には国章が飾られています。

平日にも関わらず、中国内外を問わず多くの観光客が天安門、そして紫禁城(故宮)へ向かいます。



トッポパパ記念撮影です。
サングラスは気取っているわけではなく、最近若干白内障気味なので、炎天下ではサングラスをかけないと目が疲れるので、ご勘弁ください。



ようやく人波が途絶えた瞬間に、落ち着いた天安門を正面から撮ることができました。
天安門は明の永楽15年(1417年)に建てられ、承天門と名付けられました。



地下道を潜り、天安門に向かいます

続く.................................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その114の4 『白川郷』

2011年05月29日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
展望台から観た白川郷の合掌造りの集落群の写真です。
白川郷では、合掌造りの民家の殆どは、妻面をほぼ南北に向くように建てられています。
これが全体として整った集落を形成しているように見えます。



冬場は豪雪地帯として知られるこの場所も遅い春が訪れています。
今頃は清流・庄川から届く水が田畑を潤し、美しい農村風景が広がっているのでしょう。



パン屋さん?と思われるお店の可愛いディスプレイです。



これも、奥深い集落ならではのお店の飾り付け?です。



茅葺きの大屋根は約20~30年ごとの葺き替えをするそうです。
1軒替え終えるまでには1週間以上の日数と大変な労力を要するため、昔の人々は互いに助け合う『結(ゆい)』という制度に基づき、村人総出で行っていたそうです。
現在は森林組合に委託し、職人の手で主に春先に行われます。



『幸ヱ門』の合掌造りは江戸後期(約200年前)の建築と推定されています。
幸ヱ門は1972年に営業を開始し、合掌民宿「幸ヱ門」が誕生しました。
民宿を開始するに際し、文化財修理のため、一年間の日数とそれ相当の工事費を要し、まさに平成の大修理となりましたが、美しい古さを残した合掌造りに生まれ変わりました。
白川郷周辺には20軒ほどの民宿があるので、趣向を凝らしたおもてなしを受けながら、宿の主人や旅人たちと囲炉裏を囲んで談笑に興じるのも面白いでしょう。
世界遺産の宿で一泊するのもお勧めです。



荻町地区の中央部浄土真宗の寺『明善寺』がある。
写真は『明善寺鐘楼門』です。
木造二階建ての鐘楼門の一階は寺への通路、二階には銅鐘が吊られており、屋根は茅葺きという特異な形をしています。
明善寺鐘楼門は享和元年(1801年)に建てられたとされており岐阜県文化財に指定されています。



合掌造り家屋の外観上の特徴は勾配の大きい茅葺きの屋根、切妻造り、平入りで、屋内は3~5層構造になっていて、妻面(屋根の両端の三角形になった壁面)には明かり採りのための障子窓が付けられています。



かつては、居室空間は一階のみであり、二層目より上は養蚕の作業所であったといわれています。



豪雪地帯で冬を越すには欠かせない囲炉裏は、どこの家でも時代を超えて大切に維持されてきたのでしょう。



それでは白川郷より

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その114の3 『白川郷』

2011年05月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
春を迎えた白川郷の写真を紹介しながら、ネット情報による白川郷の歴史を少し紹介します。
白川郷の深い谷間にいつ頃から人が住むようになったのか、詳しいことは分からないようです。
源平合戦の初期、越中倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたとされていますが、これも伝説の範疇を出ないようです。



白川郷がようやく歴史に登場するのは鎌倉初期の建長5年(1253年)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教してからです。
その頃、白川郷をはじめ飛騨の多くは、美濃・白山神社長滝寺の社領地で、白山信仰を中心とする天台系密教の強い影響下にありました。
白川郷の鳩ヶ谷に道場を構えた善俊は熱心に教えを説き、農民たちの間に浄土真宗が広まります。



相次ぐ戦乱の後、寛政元年(1460年)内ヶ島氏が進出して白川一帯を治める豪族になりました。
内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら、大きな勢力を誇りました。
当時、越前や加賀、越中といった北陸諸国では真宗門徒が武家勢力を追い出し、農民が実権を奪い取る一向一揆が猛威を振るい、白川郷にも一揆の勢力が流れ込んできました。



浄土真宗のもとで団結した農民たちと領主の内ヶ島氏は激しく対立し、文明7年(1475年)数度にわたって武力衝突します。
内ヶ島為氏は正蓮寺に籠った僧・明教を焼き討ちし、対立は頂点に達しますが、本願寺・蓮如上人の仲裁で和解し、それ以降は共存共栄を図ることになりました。



時代は戦国時代になり、天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が討たれた頃、白川郷を除いて飛騨をほぼ統一した三木自綱は内ヶ島氏理と共に越中領主・佐々成政と反豊臣秀吉連合を組みました。
豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、天正13年(1585)金森長近の軍勢は越前から白山の山脈を越えて白川郷を攻撃しました。金森氏は事前に照蓮寺勢力と手を結んだため、越中に出陣中の内ヶ島氏はたまらず降伏します。



金森長近は白川郷の鉱山資源に目をつけたのか、領地を安堵したうえ内ヶ島理氏を居城の帰雲城に帰してやりますが、直後の天正大地震で内ヶ島氏は居城、城下町もろとも山崩れの中に埋まってしまいました。
金森長近は真宗門徒の功績を称えて照蓮寺を高山に移転させ、広大な寺域を与えました。



江戸時代の中頃になると、現金収入として養蚕業が盛んになります。北陸系の寄棟茅葺屋根が主流だった白川郷では、養蚕スペースを設けるために民家が大型化して合掌造り民家が誕生しました。
特に農地が乏しい下白川郷では、農地と労働力の確保のために3層、4層の切妻合掌造りが発達し、分家を認めず、長男以外に正式な結婚を許さない大家族制度が生まれました。



養蚕が主要産業だった白川郷では、成人した子どもたちが貴重な労働力になります。
特に養蚕作業に欠かせない女手は、家業に精を出すため嫁がずに子どもを生むのが習慣でした。
合掌造りの茅葺屋根は30年から50年の耐久性がありますが、その葺き替えには数百人もの人手が必要です。村中が協力して役割を分担し、共同で屋根葺き作業を行う「結」はこうして生まれました。
また、白川郷や越中五箇山ならではの産業が、火薬の原料である煙硝の生産でした。家の床下に刈ったヒエやヨモギを敷き、蚕糞を混ぜた土に人尿を撒いて、数年かけて煙硝土を作ります。煙硝土を灰汁で煮詰めると純度の高い煙硝ができました。秘境の地だった白川郷は、軍事秘密である煙硝生産に最適の土地でもありました。



明治8年(1868年)下白川郷が白川村、上白川郷が荘川村に再編されます。
社会制度と経済の変革によって、白川郷の生活は大きく揺らぎます。煙硝生産が規制され、チリ硝石の輸入によって煙硝作りが廃れると、現金収入を求めて男は鉱山労働者、女は信州の製糸工場の女工に、出稼ぎをするようになります。
第二次世界大戦後には、化学繊維の普及や農業用水整備による桑畑の水田化により養蚕業が廃れて大型合掌造り民家の必要がなくなりました。
昭和36年(1961年)戦後の経済成長を支える御母衣ダムの建設は、300戸以上の合掌造り民家を湖底に沈め、過疎化が一気に進みます。

合掌造りの屋根葺き替えには、現在の金額で3千万円以上の金額がかかります。
村人総出で行う「結」の共同作業も大変なものです。
その後、全国的に伝統家屋保存の機運が高まると、白川郷の危機を感じた荻町集落では昭和46年(1971年)『売らない、貸さない、壊さない』の三原則を定め、茅葺屋根の葺き替えに補助金を出したり、民家の外観を壊す改装は行わないようにんり、観光立村へと歩き出します。
平成7年(1995年)白川郷荻町合掌集落世界文化遺産へ登録されると、人口1900人の集落に年間100万人を越える観光客が押し寄せるようになりました。



以上がネット情報の抜粋です。

続く....................................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その114の2 『白川郷』

2011年05月27日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
白川郷には約100軒の合掌造りの家屋が建ち、そのうち50軒が人の住む民家です。



なかでも萩町は、合掌造りの民家が一番よく集積している集落として知られ、大きい家には20~30人もの大家族が生活していたそうです。



雪解けの水が流れる小川の水は澄んでいます。



観光客に配慮しての歩道が整備されてきました。



中央の合掌造りの家が和田家です。



和田家入館のしおりによると、白川村の合掌造り集落で最大規模を誇る和田家住宅は、式台付きの玄関など格式の高い造りをもち、江戸初期と見られる建築文化の粋を今日に偲ばせています。 



萩町合掌集落で最大規模を誇る合掌造りです。
江戸期に名主や番所役人を務めるとともに、白川郷の重要な現金収入源であった焔硝の取引によって栄えました。
白川村では最大級の合掌家屋で庭や生垣、周囲の田畑、水路を含めよい保存状態が保たれています。
国の重要文化財に指定されています。



現存する和田家住宅は、江戸末期に建てられた主屋(おもや)、便所、土蔵などが残っていて、式台玄関を備えるなど、質、格式ともに優れた建築であるようです。



合掌造りは、広い屋根裏を使い、昔は蚕を飼育していました。
そのため、家の中を何層にも分け、格子状の床や風通しを良くする側面窓が取り付けられ、独特の美しい形をしています。
これは、蚕に繭を作らせる為に使う道具で『回転まぶし』と呼ぶそうです。



囲炉裏の間や仏間があり、昔、実際に使われていた生活用具や民具、農具などが展示されています。



ワラやマンサクを使い、柱と屋根を固定しています。



続き....................................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その114の1 『白川郷』

2011年05月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
今回は白川郷の初春の紹介です。



白川郷・五箇山の合掌造り集落は、1995年12月、ユネスコの世界遺産に登録されました。
合掌造りの民宿に宿泊するバスツアーもあり、都会から高速観光バスでたくさんの観光客が訪れます。



5階建て600坪という白川郷でも最大級の合掌造りの家屋が長瀬家です。



樹齢150~200年のヒノキや、300~350年の栃(とち)などの巨木を利用し、長さ11mもの柱(合掌柱)が5階建の合掌造りを貫いています。
250年続く長瀬家は初代から3代目当主までが医者で、加賀藩前田家の御典医を勤めていました。



かつて白川郷は、平家落人の隠れやと言われ、外部との接触が閉ざされた土地でした。村人の心をいやすものは酒以外にはなく、粟・稗の雑穀類で地酒をつくっていました。



白川郷では毎年9月下旬から10月上旬にかけて、どぶろく祭りが開催されます。
白川八幡宮内のどぶろく資料館では、試飲もできるそうです。



歴史を感じさせる合掌造りの家がたくさんあります。



世界遺産登録された理由は白川郷の荻町、五箇山の相倉・菅沼の3集落からなり、『人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例」などの基準を満たすもの』として、1995年に世界文化遺産に登録されました。



一帯は日本有数の豪雪地帯であり、周辺地域との道路整備が遅れたことが、合掌造りに特色づけられる独特の文化が奇跡的に残ることにつながったのでしょう。



続く...............................................................................................。

海外の都市の紹介、 その93の5 『イスタンブール PartⅡ』

2011年05月24日 | 海外の都市の紹介
アジアとヨーロッパを結ぶ最初の高速道路橋がファティフ・スルタン・メフメット大橋です。



ここから折り返しに入ります。
写真の説明は省いて、ガイドブックに日本とトルコの交流が書かれていましたので紹介します。



トルコには、『友情の真偽は暗い日に分かる』、『家を買うな、隣人を買え』とう格言があるそうです。



人と人との絆を大切にする国民性の表れなのでしょう。
そのトルコの人々が、世界でもっとも親近感を抱いている国が日本のようです。



日本とトルコの親密な交流は100年以上も前にさかのぼります。
以前に紹介したエルトゥールル号難破事件、イランイラク戦争時の邦人救出劇はよく知られています。



そうした交流の結晶が1988年に完成したファティフ・スルタン・メフメット大橋です。



この巨大な大橋には日本の高い技術が導入され、多くの日本人が参加し、日本の円借款が建設費に使われました。



ファティフ・スルタン・メフメット大橋は、日本の同じ年に開通した本州四国連絡橋(南北備讃瀬戸大橋)との姉妹橋を記念したプレートが設置されています。



現在ボスポラス海峡の」地価を潜る鉄道トンネルプロジェクトも円借款を用いて進行中です。
この鉄道トンネルが開通すると、真のオリエント・エクスプレスが2大陸を結ぶようになります。



日本とトルコの夢のプロジェクトが両国の関係をさらに親密にしてくれると思います。
素晴らしい景色を堪能し、クルーズが終了しました。



それではイスタンブールより

海外の都市の紹介、 その93の4 『イスタンブール PartⅡ』

2011年05月22日 | 海外の都市の紹介
ファティフ・スルタン・メフメット大橋(第2ボスポラス大橋)のたもとにあるオルタキョイ・ジャミィと新市街、オルタキョイ地区が見えてきました。



新市街のオルタキョイは若者で賑わう、『トルコの渋谷』のような街です。
ここは海峡沿いに住むリッチな若者が集まり、毎週日曜日には周辺で大きなフリーマーケットが開かれるようです。



オルタキョイ・ジャミィは19世紀中頃に建て直されたバロック様式の割と小さなジャミィですが、結構印象的な眺めです。



第海峡最狭部に架かる第2ボスポラス橋は、1988年、日本の政府開発援助により架設されました。
施工はIHI(石川島播磨重工業)、三菱重工業などが行い、車専用で歩行者は通行できません。
全長1510m、幅員39m(8車線)です。
名前は、コンスタンチノープルを陥落させた、オスマントルコのスルタン・メフメット二世にちなみ付けられた。



途中にリッチな海上のリゾート船?の傍を通過します。



たしか、某サッカーチーム専用の優雅なリゾートエーリアと聞きました。
それにしても優雅ですね。



ルメリ・ヒサルが観えてきました。
オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープル郊外(現在のイスタンブル)に造営した城塞で、『ローマの城』という意味です。



ルメフメト2世が東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略中の1452年に、わずか4か月ほどの短期間で造営し、攻略の拠点となりました。
トルコ語でルメリとはヨーロッパ、アナドルとはアナトリア(小アジア)を意味し、ヒサルは要塞、ルメリ・ヒサルはヨーロッパ側の要塞、アナドル・ヒサルはアジア側の要塞ということになります。



ボスポラス海峡の要衝に位置するルメリ・ヒサルは見通しが良く、風光明媚であることから、廃墟が修復されて一般に公開されました。



続く................................................................................................。

海外の都市の紹介、 その93の3 『イスタンブール PartⅡ』

2011年05月20日 | 海外の都市の紹介
トッポパパ、カメラ片手に準備態勢万全です。



クルーズを開始してすぐ観えるのが、ドルマバフチェ宮殿(ジャミィ)です。



ルマバフチェ・ジャミィは、とても美しい宮殿で、始まりは、この土地を最初に埋め立てを行なった、メフメト2世で、イスタンブールを征服したときのオスマン帝国皇帝でもあります。
メフメト2世が庭園を築いたあとに、トプカプ宮殿が時代遅れとなっていたためここに宮殿を建ててオスマン帝国が崩壊するまで6人の皇帝が居住したそうです。



その後、初代大統領であるアタチュルク大統領も、ここで執務を行なったそうです。
アブドゥルメジトの命により有名なアルメニア人建築家ニコゴス・バルヤンによって1853年に建てられました。



ボスポラス大橋を目指して進みます。



海峡を見下ろす高台には、豪勢な建物が並びます。



この辺りはイスタンブールでも、有数の高級リゾート地域なのでしょう。



チュラーン宮殿です。
現在のチュラーン宮殿はチュラーン宮殿は最後の皇帝私邸です。



ガラタサライ大学です。
最難関大学のひとつで、この大学のサッカークラブがもととなったチームがプロリーグのサッカークラブ・ガラタサライです。
稲本潤一がこのチームに2006年~2007年のあいだ所属していました。



続く...............................................................................................


海外の都市の紹介、 その93の2 『イスタンブール PartⅡ』

2011年05月16日 | 海外の都市の紹介
ボスポラス第一大橋のつり橋の高さは水面から64m、橋の全長は1,074mで開通は1973年です。



ボスポラス海峡を通行する船を観ているうちに、どうしてもボスポラス海峡のクルーズをしてみたくなりました。



早速クルーズ船乗り場へ出かけました。



綺麗なクルーズ船に乗ることができました。
やく2時間ほどでボスポラス海峡廻りができるそうです。



混雑もなく、のんびりと景色を楽しめそうです。



世界各国から観光客が来るので、船内は国際色豊かです。



出航です。



イスタンブールを貫く海の流れは、黒海からボスポラス海峡を経てマルマラ海へ注ぎます。
さらにマルマラ海からダーダネルス海峡を通り、水はエーゲ海へと至ります。



暫し、ゴージャスな景色を堪能します。



続く...............................................................................................。

海外の都市の紹介、 その93の1 『イスタンブール PartⅡ』

2011年05月14日 | 海外の都市の紹介
イスタンブールの続編です。



イスタンブールは長さ約30Kmのボスポラス海峡でヨーロッパとアジアに分かれています。



イスタンブールには、オスマン帝国時代の華やかな宮殿がいくつか残されています。



アジア側・ボスポラス海峡沿いに建つ瀟洒なベイレルベイ宮殿の庭園から、ボスポラス大橋を臨みます。
ボスフォラス海峡側にある門です。
当時、船での行き来に使われていました。



ベイレルベイ宮殿は第一ボスフォラス大橋のアジア側の麓に建つ優美な宮殿です。
オスマン帝国後期に建てられたスルタンの夏用の宮殿で、良く整備された広大な庭園に囲まれています。



元庭園に建てられたオスマン・バロック様式の建物で、この地はビザンティン帝国時代の広大な庭園だった所が、オスマン帝国になってからはスルタン所有の庭園となった場所です。



16世紀になってから、この場所に夏の別荘や邸宅が建てられ、スルタン達の寛ぎの場として使われてきました。
現在の建物は、1865年に第32代スルタン・アブドゥルアジズが建てたものです。
トルコとヨーロッパの建築様式を巧みに取り入れた豪華な建築は、オスマン・バロック様式と呼ばれます。ギリシャ風の優美で繊細なレリーフが施され、見る者を圧倒します。



もともとはスルタンたちの夏用の住居であったが、海外からの訪問客の滞在にも使われていました。



スルタンアブドゥルハミト2世は青年トルコによって失脚した後、この宮殿で監禁され晩年を過ごした。
アブドゥルハミト2世は腕のよい大工でもあり、宮殿には彼自身がつくった家具などもあります。



続く...................................................................................................。


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トッポパパ、1週間ほど海外出張になります。
しばらくコメントが遅れると思いますが、ご容赦ください。
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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その113 『氷見漁港』

2011年05月12日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
富山湾です。
富山湾は、西側に大きく突き出した能登半島に抱かれる、日本海側最大の湾です。
最深部は1200m以上もあり、太平洋側の駿河湾、相模湾と並んで、
日本三大深湾のひとつです。



富山といえば全国に名を馳せる最高級ブランド『氷見の寒ブリ』が良く知られています。
富山湾で獲れるブリは、古くは『越中ブリ』と呼ばれ、その中でも寒ブリは、東京の築地市場などでも高値で取引されるブリの最高級ブランドです。
その歴史も古く、江戸時代、京都にいた加賀藩主の前田利家は、氷見から京都へブリを取り寄せていたそうです。



美しい藍色をたたえる神秘的な海です。
富山湾は、大陸棚が狭く、沿岸から急激に深くなっているのが大きな特徴で、海底斜面は、深い谷(海底谷)が数多く刻まれた複雑な地形をしています。
とくに湾奥部で海岸近くまで海底谷が迫った海域は、周囲に比べて海の青さが一段と濃く見えるため「あいがめ(藍瓶)」と呼ばれ、深海に生息するシロエビやベニズワイガニなどの格好のすみかとなっています。
海越しに3000m級の連峰を望む世界でもまれな絶景の海といえます。



トッポパパも日本各地を回りましたが、食にこだわれば個人的には富山が一番ですね。
氷見の魚が美味いわけは、まず氷見沖に、プランクトンが豊富な「ふけ(海底谷)」があることと、二番目が「魚を傷つけない定置網」漁法にあるそうです。
越中式定置網は、魚が誘いこまれるように、それぞれの機能をもった各網が、うまく組み合わせてあり、一網打尽式の網とはちがって、魚をなるべく傷つけず、生きたまま水揚げできるように工夫されています。 



天然のいけすと称される魚介の宝庫です。
富山湾の表層には、日本海側を北に流れる対馬暖流の一部が能登半島に沿って入り込み、この流れに沿って暖流系の魚が入ってきます。
一方、水深300m以下に存在する日本海固有水(深層水)と呼ばれる海水は、常に水温が2度以下と冷たく、そこには冷水系の魚がすんでいます。
このように富山湾は、暖流系と冷水系の両方の魚がすめる環境となっており、日本海に分布するとされる約800種のうち約500種の魚が泳ぐ、水産資源の宝庫となっています。



加えて、大小の急流河川が注ぎ、常に新鮮な栄養が補給されること、沿岸から急激に深い海となり、漁場と漁港が近いことなども特徴で、美味しい魚を抜群の鮮度で供給できます。
それが富山湾が「天然のいけす」と称される所以です。



春は冷たい雪どけ水が注ぎこむ春の富山湾。季節の訪れを知らせるホタルイカにはじまり、ハチメ、サヨリ、バイ貝、ニギス、イワシ、アジなど、多彩な味わいが膳を賑わせてくれます
夏になると、海底谷で獲れる珍しいシロエビ(これは絶品です)を筆頭に、岩ガキ、サザエ、スルメイカ、キス、クロダイなどが旬の味になります。



秋は寒流系と暖流系、二つの海流が交じり合う富山湾になります
とくに秋は、フクラギ、タチウオ、ゲンゲ、アオリイカ、カマスをはじめ、多彩の海の幸が楽しめる季節です。
ベニズワイガニ漁も9月から解禁となり、鮮やかな彩りで膳を賑わせます。
冬になると脂ののったブリやヒラメが獲れ、身がぎっしり詰まったベニズワイガニも出回ります。
深海の宝石のようなアマエビ。スケトウダラ、マダラ、アンコウ、ヤリイカなど、寒い季節ならではの美味さも揃います。



初冬の富山湾の雷鳴は、ブリの豊漁を告げる『ブリ起こし』と呼ばれています。
この時期、氷見沖にやってくるブリは産卵前で、最も脂がのった状態になります。
これを定置網でキズつけに捕獲、漁船で大量の氷水につけ「沖じめ」(仮死状態)にしてすぐに氷見漁港へ運ぶため、その鮮度が維持されています。



富山県では、ブリは成長によって「ツバイソ(コズクラ)」「フクラギ」「ハマチ」「ガンド」などと呼び名が変わり、重さ10kg前後になって初めて「ブリ」と呼ばれるようになります。
縁起のいい出世魚のブリは、正月にも欠かせない食材です。
富山の方言番付です。



横綱、『きときと』は、活き活きの意味で新鮮なということになるのでしょう。



では、きときとの刺身をいただきます。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その112の4 『立山黒部アルペンルート』

2011年05月09日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
GWでも、標高2390mの高地では天候が変わりやすく、すぐに気温も氷点下近くの吹雪状態になります。



バス専用道路の片側が特別に歩行者用に開放され、ロータリー除雪車が除雪した雪の壁の中を歩きます。



このあたりは世界でも有数の豪雪地帯で、雪の壁の高さは積雪量の多い年では20m近くなります。



吹雪くと視界が悪く、どこまでが雪の壁なのか判別しにくくなります。



500m前後が高い雪の壁で、そこを過ぎるとこんな感じになります。



暖かいところからくると、寒さは半端じゃないようです。



ホテル立山は立山黒部アルペンルートの中心地にあります。
標高2,450メートルの室堂平に位置する日本最高所のリゾートホテルです。



信濃大町駅からバスで約40分の扇沢に行き,トロリーバス・ケーブルカー・ロープウェイを乗り継ぎ,黒部ダム経由約1時間半ぐらいでこちらに到着します。



立山駅です。 こちらから富山に向かいます。



それでは立山黒部アルペンルートより

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その112の3 『立山黒部アルペンルート』

2011年05月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
アルペンルートの春の風物詩、雪の大谷へ向かいます。



立山連峰の玄関口、室堂から始まる雪の大谷ウォークは4月始め頃より始まります。



標高2390mのこの付近は4月といってもまだ真冬の様相です。



立山室堂平は世界有数の豪雪地帯で、積雪の深さは平均で約7メートルにもなるそうです。



室堂駅から徒歩5分にある雪の大谷は、吹きだまりのため特に積雪が多く、その深さは時には20メートルを超えることがあります。



この大谷内を通る立山有料道路に積もった雪を除雪してできるのが有名な「雪の壁」で、壁が連なる約500メートルの区間を「雪の大谷」と呼びます。この雪の大谷」を歩行者天国として一般開放します。



標高2450mのバス専用道路の片側が特別に歩行者用に開放され、ロータリー除雪車が除雪した雪の壁の中を歩きます。
このあたりは世界でも有数の豪雪地帯で、雪の壁の高さは積雪量の多い年では20mにもなり、10階建てビルに相当する圧倒的迫力です。



気温もすぐマイナスになる自然環境がきびしい所です。
人間と機械の力で道を開き、多くの人達がこの大自然を満喫できる事は素晴らしいです。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その112の2 『立山黒部アルペンルート』

2011年05月07日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
立山黒部アルペンルートの案内です。



黒部ダムといえば、その昔、石原裕次郎と三船敏郎共演の『黒部の太陽』に感激したことを思い出します。
難工事と言われた黒部ダムのトンネル工事を描いていた映画です。



2009年には、テレビドラマとして、香取慎吾主役で放送されました。
関西電力が黒部川最上流域に日本一のアーチ型ダム、黒部川第四発電所建設に着工します。
関西電力と熊谷組を中心として、ダムサイト工事現場へ資材を運ぶために北アルプス山中を貫く大町トンネル掘削工事描いたものです。



確かに完成されたダムを見ると、これだけの建設資材を現場に運ぶことが、いかに過酷な仕事だったのかを想像できます。



ダムの建設により、黒部湖という大きな人造湖が出来上がりました。



夏ならエメラルドグリーンに輝く黒部湖を見ることができるのですが、この時期は雪と氷でどこも白銀の世界です。



パノラマロードや雪ふれあい広場で雪景色を楽しみます。



しかし、これはスキー場と同じですね。



遠くに立山(大汝山)でしょう。
見事な眺望です。



続く......................................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その112の1 『立山黒部アルペンルート』

2011年05月05日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
新宿発、そして向うは立山黒部アルペンルートです。



『白馬』にて、信濃大町駅を目指します。



立山黒部アルペンルートの長野県側の玄関口、信濃大町駅です。



路線バス、関電トンネルトローリーバスを乗り継ぎ、黒部ダムに到着。



黒部ダムは富山県南東部、北アルプスの立山と赤沢岳間の黒部峡谷地点にあるダムです。



1956年関西電力が着工以来、6年10か月で513億円と延べ990万人の労務者を投じて、63年に黒部川第四発電所とともに完成しました。



展望台から観る景色も雄大です。



ダムの高さ186メートル、堤長492メートル、体積157.5万立方メートルのアーチ式ドームダムです。
黒部湖の広さは甲子園球場の237倍で、貯水量2億トン。建設中は黒部川第四発電所のダムというので黒四ダムとよばれています。



総貯水容量は約2億tで北陸地方屈指の人造湖黒部湖を形成しました。



続く..................................................................................................。