TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

2010年 年末特集 その3 『 トッポ総集編 』

2010年12月31日 | 年末年始特集
2010年、最後の大晦日になりました。
恒例のトッポ総集編です。

トッポも13歳になり、人間の歳に換算すればトッポパパより高齢になってきたようです。



いくつになっても、お出かけは楽しいようで、嬉しそうな顔を見せてくれます。



珍しく他のワンちゃんと正対したトッポ、心臓バクバクの写真です。



紫陽花を観に出かけた時の、記念写真です。



日当たりのよい芝生の上で、微笑んでいる感じのトッポです。



寒い時は、すっかり板に付いたバッグ犬のトッポです。



誕生日、ケーキを待つ嬉しそうなトッポの表情です。



砂浜を走るトッポです。



まだまだ元気に走れるようです。
トッポパパも負けないように身体を鍛えないといけませんね。



ちょっと思案顔のトッポの顔です。



今年になってトッポは、また毛の長さが長くなってきたようです。



毛が長いので太って観えますが、現在4.6Kgです。
もう少し痩せさせた方がいいと言うお医者さんもいますが、健康で元気なので、このくらいの体重がトッポにはちょうどいいのかもしれません。



トッポパパ二度目の手術で入院し、退院して帰宅したトッポパパを喜んで迎えたくれたトッポです。



昨年に続き、トッポパパは激動の年でしたが、トッポ家族一同穏やかに新年を迎えることができそうです。
トッポパパ、ママ、そしてトッポも、本当に皆さんの応援で無事1年を乗り越えることができました。
どうもありがとうございました、家族一同、心より感謝しています。

どうぞ、よいお年をお迎えください。

2010年 年末特集 その2 『 トッポパパのお気に入り写真、国内編 』

2010年12月30日 | 年末年始特集
2010年、トッポパパお気に入りの国内編です。

最初はやはり、富士山でしょう。
富士山写真のベストスポットと聴いて、田貫湖に何度足を運んでも天候に恵まれず、納得の行く写真は撮れませんでした。
雲海が下から湧きあがり、湖の逆さ富士に雲海が写った時間はたった5分ほどで、雲海が富士山の中腹あたりに居た時間は数十秒だったと思います。
写真の出来栄えより、この瞬間にここにいたことの幸運に感謝した写真です。



岸和田城です。
大きなお城ではないのですが、二の丸広場越しの天守閣は独特の美しさがあります。



札幌の雪まつりに海外のお客さんと出かけました。
なれない寒さに震えながら、シャッターを押し続けました。



トッポママと一緒に厳島神社を訪問しました。
嚴島神社は平安時代の寝殿造りの粋を極めた建築美で知られる日本屈指の名社です。



青森の弘前城です。
東北旅行の途中、雨降る中到着した弘前城ですが、トッポパパが写真を撮っていた1時間だけ晴天になりました。
ほんとに神がかり的な天気の変化に、晴れ男であると自慢できました。



全国にある稲荷神社の総本宮、伏見稲荷大社の千本鳥居です。
鳥居がみっしりと連なってトンネルのようになっています。



仙台の七夕です。



今年も花火に挑戦してみました。
シャッタースピードを長くして撮った写真ですが、その数秒の間にうまく花火の打ち上げがまとまった写真です。



花火が直線的に写された写真です。
おそらく100回撮っても撮れない、偶然そのタイミングが合った花火の画像です。



こちらは、何故このような写真になったのかトッポパパも分からない花火の空中花でした。
おそらく人間の目には、ここまでの画像は焼きつかないのではと思っています。



ねぶたの里での、お気に入りのねぶたです。



浅虫温泉から日没を撮りました。
砂浜に立つ人影が、この写真のポイントにもなっています。



奥入瀬の魚止めの滝です。



川崎大師のサンバ・カーニバル観に出かけた時のスナップです。
リーダー格のお姉さんと子供たちの真剣なまなざしと踊りが印象的でした。



200mmの望遠で狙った写真です。
手持ちでこれだけ撮れるのであれば、来年はもっと使用してみようと思います。



最後は直近の六義園のライトアップです。



写真の選び方は、素人の場合は思い込みがほとんどです。
写真の出来栄えは度外視していますので、ご容赦ください。

2010年 年末特集 その1 『 トッポパパのお気に入り写真、海外編 』

2010年12月29日 | 年末年始特集
今年もあと何日かを残すだけになりました。
トッポパパ恒例(自分で思っているだけですけど)の年末特集を始めます。
最初は、2010年の海外のお気に入り写真です。

シンガポールのSingapore Flyerと呼ばれる大きな観覧車です。
ちょっと変わったアングルから撮った、お気に入りの写真です。



オランダ、ザーンダムの河口の風景です。
べた凪の好天で、これだけの景色の中に人ひとり見当たらない風景に感動しました。



オランダ、ザーンセ・スカンセの景色です。
何度か訪れている風車の街ですが、素敵な構図の写真が撮れるので気に入っています。



ローマにある、サンタンジェロ城近くの景色です。
特に理由はないのですが、観ていて飽きない写真です。



タイのカンチャナブリ二ある、映画になった戦場に架ける橋があった場所です。
68年前、ここで起きた悲劇を伝える橋なのでしょう。



同じく、ローマのトレビの泉です。
世界各国から、この地を訪れているのでしょうが、この人ごみに驚かされる写真です。



ローマ、コロッセオの競技場です。
人の大きさと比べることで、その当時としてはとてつもなく大きな競技場だとわかります。



ローマの休日で有名なスペイン広場です。
昔、オードリ・ヘップバーンの映画をたくさん観ましたが、やはり撮っておきたい場所です。



オランダの古都、ハーレムの街の家の壁に描かれたお洒落な壁画です。
じっくり観ると、楽しくなる壁画です。



エジプトの有名なギザの三大ピラミッドです。
うまく車が入ってくれたので、アクセントになっているようです。



これは、説明はいらないでしょう。
幸せになってくれれば、それが一番です。



スフインクスです。
風化との戦いが続いているそうですが、いつまでもこの姿を保っていて欲しいと思っています。



オランダ、フォレンダムのヨットレースです。
昔ながらの帆船と、近代的なヨットが混在しながら大海原を埋め尽くしていました。



トルコ、イスタンブールのブルーモスクです。



イスタンブール、アヤソフィア博物館です。
ライトアップされて、よい記念写真になりました。



他にもお気に入りの写真(本人の思い込みだけですけど)はあるのですが、2010年はこんなところでしょう。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その108の3 『六義園』

2010年12月27日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
六義園もすっかり日が落ち、この時期、限定期間のライトアップが始まりました。
歴史的な価値だけで言えば、六義園以外にも他の庭園がいくつかありますが、当時の状態に近いままで現存しているという庭園は少ないようです。



ライトアップの写真の説明は必要ないので、この六義園を創った『柳沢吉保(1658~1714)』という人物をネット情報を基にちょっと調べてみました。
柳沢吉保は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人で、六義園は自らの下屋敷として造営した大名庭園です。
元禄8年 (1695) に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢吉保は、約27,000坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園、六義園を創ったのです。



忠臣蔵にもたびたび出てくる柳沢吉保は、万治元年(1658年)12月に、3代将軍・徳川家光の弟・忠長に仕えていた柳沢安忠の長男として、江戸は市ヶ谷で生まれました。
忠長は非業の死を遂げ、吉保の父は家光に仕えた後、、当時は館林藩(群馬県)の藩主だった綱吉の家臣となります。
その関係で、吉保18歳の時に家督を継ぐと同時に、綱吉の小姓となります。



後の5代将軍、綱吉と吉保は、ちょうど一回り離れた同じ戌年生まれの二人でした。
『天下の悪法』と言われている『生類憐みの令』は、綱吉と同じ戌年生まれのためだと、その理由として書かれているものもありますが、これには諸説あるようです。、



徳川五代将軍綱吉の治世で行われた生類憐みの法令も、綱吉の評価と共に、最近は見直されようとしているそうです。
歴史小説やテレビドラマにおける、この法令の成り立ちは、綱吉に世継ぎが出来ないことを心配した母桂昌院は、子が出来ないのは前世で行った殺生が原因なので、特に戌年生まれの将軍は犬を大切にするようにと進言したとされています。

綱吉に提案すると迷わず従い法令化し、以後、飼犬に限らず野犬に至るまで傷をつけたり、殺したりすれば、厳しい処罰が与え、庇護するものは犬のみならず、馬・猿・鳥類・虫にまで及び、食料の為に鳥獣を捕ることもできず大変苦しんだと伝えています。



学校の授業や、大手出版社の大学受験の参考書にも、『特に犬を殺傷したものは厳罰に処すという悪法と化し、民衆生活に重大な悪影響をおよぼした。』という内容で記載されています。



ネットに記載されてていた説明では、徳川綱吉は篤学の人物で、幼い頃から桂昌院に学問を勧められ、その教えを守り、将軍になってからは諸大名に経書の講義をするまでになります。
特に孝道を儒教から学び、多いに感化され、その影響で諸大名、諸旗本も武芸はそっちのけで勉強をするようになります。
その結果、林信篤をはじめ、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠などの高名な儒学者を大量発生し隆盛を極めます。



そもそも綱吉が考える生類を憐れむ心は、儒教の仁愛、慈愛の精神に基づいているとされています。
この法令も犬や動物ばかりが有名ですが、実際には社会的弱者や貧者を保護することが目的のようでした。



当時は捨子が大変問題になっていたので、捨子や子殺しを防止するために、妊婦と七歳以下の子供を登録させたそうです。
また乞食や流民についても、役人が保護する義務を規定したともあります。
この令状の最後に、 『一、犬ばかりに限らず惣じて生類、人々慈悲の心を本といたし、あはれみ候儀肝要の事』(訳:犬ばかりでは無く、人々は全ての生類へ慈悲の心で憐れみをほどこすことが必要である。)とも書かれています。



それでは何故、これほど評判が悪くなった原因は;

・これだけの法令を取り締まるためには、役人たちの仕事を増やさなければならないので、それを快く思わない者が悪評を流した。
・将軍の権力が強大だったため、迎合した役人たちが拡大解釈をして違反者を厳しく罰しすぎた。
・将軍近習の権力争いの争点に利用された。
などが原因とされています。

諸説あるので、どれが正しいのかはわかりませんが、いろいろな観点から判断することも大切なのでしょう。



綱吉は、自らが率先して政治を行うために側用人(そばようにん)という新たな役職を儲け、吉保は31歳で、格上の人たちに混じって大抜擢され、石高も1万2千石となります。
その2年後には2万石に、さらにその3年後には従四位下という官位も賜り、元禄七年(1694年)には、37歳にして川越7万2千石を賜り、城持ち大名となります。
この時には、大規模な新田開発に成功します。
その3年後には、出羽守から美濃守に出世し、松平の姓を名乗る事も許されるようになり、
やがて、綱吉の後継者に甲府藩主の徳川綱豊(後の家宣)が決まると、その後任として甲府15万石の藩主となる出世街道を辿ります。



宝永三年(1706年)、大老格にまで昇進して頂点へと達しますが、そのわずか3年後の宝永六年(1709年)1月、可愛がってくれた綱吉が亡くなります。
新将軍・家宣には、政治顧問として学者の新井白石が側近になり、吉保は引退し、駒込の別荘に隠居します。
駒込の別荘にいて、その後、7年がかりで六義園を完成させ、その風雅な庭を愛でながら、四季折々の風情を楽しむ老後を5年間過ごした後、正徳四年(1714年)静かにこの世を去ったのです。

そして、三菱財閥の創業者が購入して、後に東京都に寄贈し、六義園が都立庭園となります。
ネット上の情報で、またちょっと勉強できました。

それでは六義園より

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その108の2 『六義園』

2010年12月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
六義園の渡月橋です。



六義園パンフレットによると、六義園には6つの橋が架かっていて、その中で重要な動線上にある石橋が渡月橋(とげつきょう)です。
『和歌のうら芦辺の田鶴の鳴声に夜わたる月の影そさひしき』の歌から名付けられた石の橋で、2枚の大岩からできています。



『出汐の湊』と呼ばれる、大泉水の池畔からの眺めです。
右手に中の島を、左手には蓬莱島が、そして対岸には吹上浜がみえます。



暗くなって、ライトアップされた紅葉を撮ってみました。



バックが黒になると、紅葉も浮き上がってきます。
三脚がないと、手元がブレてしまいますね。



茶屋で日没後のライトアップ待ちは、茶屋で甘味をいただきました。



これだけの大木が深紅に染まっています。



次はライトアップの写真をアップします。

続く......................................................................。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その108の1 『六義園』

2010年12月25日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
やっと、申請していた仮の決済 Password が送られてきました。
残念ながら、クリスマス特集は諦めることにします。

ちょっと時期遅れの掲載になってしまいましたが、『六義園』を訪問した時の紅葉の写真をアップいたします。



六義園は当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられています。



JR駒込駅から出るとすぐに六義園の染井門が見えます。
ライトアップの時期だけ、この染井門も開かれます。
染井門から千里場を抜けていきます。



元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅を、池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけることで回遊式築山泉水庭園を創り上げました。



御殿を六義館、庭園を六義園と呼びます。
見事な紅葉です。



『詩経』の六義(りくぎ)から園名が名付けられたそうです。
江戸初期に完成した桂離宮の庭園の様式を採用した回遊式築山泉水庭園です。
元禄時代の明るいおおらかな気風を反映した江戸大名庭園の代表的なものです。



紅葉の時期には開園時間を延長してライトアップを行うと聞いて、リハビリを兼ねながら訪問しました。



庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来するそうです。



明治時代に入り岩崎弥太郎氏(三菱創設者)の所有となった当園は、昭和13年に東京市(東京都)に寄付されて一般公開されることになります。
昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定されます。



続く.........................................................................。

トッポ! 大変だぞ! ブログは暫くお休みです。

2010年12月18日 | トッポの世界
数日前のことですが、画像フォルダーに新規写真を張り付けようとしたところ、何度張り付けても受け付けてくれません。

画像フォルダの容量を超えましたとの警告です。
すでに、15,000枚近くの画像が張り付けてありましたが、来年春ぐらいまでは、まだ余裕があると思っていました。
どうも安心しきっていたのが間違いのようでした。

すぐに容量アップを試みましたが、ウイルス対策で登録時のメイルアドレスはその後何回と変更していますので、なんだったか記憶になし、またその他のパスワードも控えていたつもりが、前回コンピュータ交換時にデータ消滅で、ちょっと手間のかかる手続きをしなければならないようです。

いつも、トッポのブログに訪問していただいている皆様には申し訳ありませんが、暫く復旧まで時間がかかりそうです。
なんとか、年末特集までには間に合わせたいと思いますが、どうなるかわかりません。

よって、暫く開店休業状態になりますので、ご容赦ください。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その107の3 『旧古川邸』

2010年12月15日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
古川邸の日本庭園は名手『植治』こと小川治兵衛の手によるものです。
この日本庭園の佇まいが屋敷全体の風格を極めて高いものにしているのでしょう。



日本庭園は、池を中心にした庭園で周りに滝、梅林、見晴らし台、 茶室などを配してあります。
 


池には、 橋で繋がった島が二つあり、 小石の敷かれた池のほとりには大型の雪見灯篭が置かれて風情を深めています。
心字池に突き出す形でそびえる、『雪見灯籠』の雰囲気がとても素晴らしいです。
心字池に映る紅葉もきれいです。



崩石積 (くずれいしづみ)です。
石を垂直に積む方法はいろいろありますが、この崩石積は京都で発達した伝統的な工法です。



石と石が噛み合って崩れそうで崩れない姿が美しいとされています。
これも小川治兵衛の力作とされています。



紅葉の写真も難しいですね。



バックの色合いと葉の形に焦点を合わせて、アップで撮るといいのでしょうが、全体を撮ろうとするとこんな感じになってしまいます。
今度、勉強してみます。



最後に旧古川邸の花壇を眺めながら、旧古川邸とお別れです。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その107の2 『旧古川邸』

2010年12月14日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
英国貴族の邸宅にならった古典様式です。
外観からは想像しがたいですが、2階には仏間・居間・客間などの純和室が並んでいるそうです。
外壁は赤紫色の新小松石で覆われていて、落ち着いた色調がとても綺麗です。



夕暮れ前でしたので、紅葉がいまいち鮮明に撮れませんでしたが(腕のせいですけど)雰囲気だけ味わってください。



庭園は、数少ない大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在とのことです。
伝統的な手法と近代的な技術の融和により、和洋の見事な調和を実現している代表的な事例との説明があります。



バラ園の周囲はツツジもたくさん植えられ、モミジも多いことから、春からモミジの季節までがこの庭園の花のシーズンです。



庭園内の遊歩道も綺麗に整備されています。



古河財閥についてのネット情報です。

古河市兵衛を創業者(1832~1903年)は、明治期の実業家で、足尾銅山などの鉱山経営を中心に財をなし、『銅山王』と呼ばれ、古河財閥の基礎をつくります。



その後、潤吉(陸奥宗光の次男)、虎之助(旧古河邸を建設した人)、従純の4代にわたり、足尾銅山経営を基盤として財閥を形成します。



日露戦後、潤吉により、古河工業会社が設立され、銅加工業など関連事業に進出し、自社製品取扱中心の貿易業、海運業にも事業を拡大した。第一次大戦のブーム期に、金融業への進出を果たし、三井、三菱、住友に続く、第2グループの財閥に位置しています。
関連事業には、古河電工を中心とする銅加工業、富士電機、富士通、横浜ゴムなどがあり、ます。

しかし、1920年恐慌期に、貿易業からの撤退、銀行閉鎖(第一銀行に合併)などを、余儀なくされ、15年戦争期には、軍需ブームに乗って、再度、急成長したが、戦後、財閥解体されました。



旧古川邸、関東大震災の時は2000人もの避難者を収容したそうです。



続く......................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その107の1 『旧古川邸』

2010年12月13日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
都内の紅葉を観ようと駒込駅の近くにある『旧古川邸』を訪問しました。



都立旧古川庭園 明治の元勲陸奥宗光の邸宅を宗光の次男が古川財閥の養子になったときに譲り受けたものです。
現在の所有権は国に移っていますが、東京都が無償で借り受けて有料で一般公開しています。



総面積3,078,086平方メートル、シンボルの洋館は英国貴族の邸宅にらった古典様式のレンガ造りです。
設計は英国人ジョサイア・コンドル博士(1852~1920)の設計、日本庭園は、京都の庭師、小川治兵衛作とされています。



見事な紅葉です。



武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。



ジョサイア・コンドル博士博士は当園以外にも、旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計し、我が国の建築界に多大な貢献をしました。



日本庭園の作庭者は、京都の庭師植治こと小川治兵衛(1860〜1933)であり、彼は当園以外にも、山県有朋の京都別邸である無鄰庵、平安神宮神苑、円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭し、その後の造園界に多大な貢献をしました。



数少ない大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在で、昭和57年に東京都文化財に指定されています。



洋館前のテラスの薔薇園です。

  

この時期、薔薇の数は少ないようですが、それでも大きな薔薇が奇麗に咲いています。



続く......................................................................。

トッポパパの再闘病記?『脳動脈瘤と耳下腺腫瘍発見、どうなるの?』  その12

2010年12月12日 | トッポパパ再闘病記 脳動脈瘤と腫瘍発見
トッポパパは、おかげさまで術後経過も順調です。
顔の腫れもだいぶ治まり、皮膚の感覚も耳タブ周辺を除いては、少しずつ感覚が戻ってきました。

今週の月曜日、そして土曜日と、通院治療(傷口の消毒とテープ交換程度)に行きました。
最後に、ドクターより病理組織診断報告書が届いたので、その説明がありました。

内容は;

病理組織学的診断 : ワルチン腫瘍

コメント : 『検体では、白色と褐色の入り混じる色調の周囲耳下腺組織との境界が明瞭な充実性腫瘍を認めます。 
組織学的には、リンパ組織を背景に好酸性に富む上皮細胞の官腔状あるいは乳頭状増生を認めます。
ワルチン腫瘍の所見です。 断端は陰性です。
悪性所見は認めません。』


医療関係の専門用語は、難しくてトッポパパにはよく分かりません。

トッポ、『結局、どうなった?』
トッポパパ、『悪性所見は認めません。 ここはよく分かるので、問題無いということだ。』
トッポ、『よかったね、これで終わりだね。』

当初、良性の確立80%、術後97% そして、これで100%良性と証明されたのでしょう。
それほど深刻に考えてはいませんでしたが、これで少しの不安材料も一掃されたようです。



せっかく病理診断報告を受けたので、ちょっと調べてみました。

唾液腺は基本的に,腺房部,導管部(介在部,線条部,小葉間導管)から成り、大唾液腺と排泄管、小唾液腺に分類されるようです。
大唾液腺と排泄管に耳下腺、顎下腺、舌下腺があるようです。

一応耳下腺は良性腫瘍の比率がほかの唾液腺(ツバを作る臓器)に比べ多い。

よく見かける良性腫瘍は、1,良性混合腫瘍(多形性腫瘍)発育緩徐、頻度としては一番多い。2,単形性腺腫 3,粘表皮様腫瘍(ワルチン腫瘍など,これも組織によって分けられます。)4,脂肪腫、血管腫などです。

トッポパパの耳下腺腫瘍は、最初多形成腫瘍かワルチン腫瘍でしょうとの診断でしたが、最終的には3,のワルチン腫瘍でした。  

ワルチン腫瘍は、唾液腺腫瘍の中で、比較的稀な良性上皮性腫瘍の組織型です。
ワルチン腫瘍の発育は遅く、無痛性の境界明瞭な腫瘤で、周囲組織との癒着はありません。
(無痛性なのでトッポパパも自覚症状が無かったのでしょう。 周囲組織との癒着なしが充実性腫瘍となるようです)

ワルチン腫瘍の統計では、男性に多く、多発年齢は50歳以上、多発部位は耳下腺となるようです。
ワルチン腫瘍の予後は、再発は少ないとされています。

断端は陰性というのは、切取った部分の断端(切り口)に癌あるかどうかを調べ、癌細胞が残っている場合を断端陽性と言うようで、陰性であるから問題ないということでしょう。

結局、トッポパパの腫瘍は、トッポパパ的には大変おとなしく、行儀のよい腫瘍であったため、周囲に干渉することなくポコっと摘出できたようです。
(このほうが分かりやすいですね。

これで皆様にご心配かけたトッポパパの再闘病記を閉じたいと思います
また、現在も同じ耳下腺腫瘍に罹られ、頑張っている皆様の早期回復を願っています。

上記説明も、医療関係情報からの抜粋で、トッポパパには詳細を理解する頭脳が伴なっていませんので、間違いがある場合はご容赦ください。

今回も、トッポパパは強運だったのでしょう。 
これからも、まだまだ頑張りますので、トッポともども宜しくお願いいたします。
 

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その106の3 『鎌倉八幡宮』

2010年12月11日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
階段下から鎌倉八幡宮の本宮を見上げます。



ここに樹齢1000年とも言われた大銀杏があったのです。
平成22年3月10日4時40分頃に、強風のために根元から倒れたそうです。
トッポ、『で、どうなったの?』



これは数年前に撮った、在りし日の大銀杏の写真です。
昭和30年より神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボルとして親しまれ、トッポパパもここへ来た時には、必ず記念写真を撮ったものです。
鎌倉幕府の3代将軍実朝(さねとも)を暗殺した公暁(くぎょう)が、身を隠していたとの伝説も残っています。



根本から横倒しになった大銀杏は、幹を輪切りにして、年輪を見せる姿に形を変えて保存保存されることになりました。
根の部分は再度、植えなおしたようです。
小さな緑色の物は銀杏の葉で、すでに自分の力で再生が始まっています。



この根っ子部分の葉の繁茂ぶりには目を見張ります。
奇跡的とも言える大銀杏の再生です!
観光客も、その生命力に驚き、感動しています。



倒れた大銀杏は3つに切断され、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植されました。
写真は、その移植された幹から小枝を出し、若葉をつけた大銀杏の分身です。
他の輪切りの幹は、本堂に保管されました。
結局、大銀杏は二つに別れ、これから新しい歴史を刻んでいくのでしょう。



大銀杏に成長するには、気の遠くなる年月が必要ですが、同じ木であることで大銀杏の歴史を継ぐことになるのでしょう。
トッポパパが生きている間に、どのくらい成長するのか楽しみです。



舞殿では、今日も結婚式が執り行われていました。
静御前が源義経を慕う舞いを踊ったといわれる舞殿とされていますが、当時はまだ舞殿は建立されてなく、実際に静御前が舞ったのは若宮社殿の回廊だといわれています。



源頼朝の求めに応じて舞った静御前が、源義経を慕い詠んだ歌です。

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
しづやしづ  しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
                           


大銀杏の再生に、少し元気をもらい帰路に着きました。
それでは鎌倉八幡宮より

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その106の2 『鎌倉八幡宮』

2010年12月10日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
この旗上げ弁財天社は源氏池にあります。
この弁財天社は、昭和55年に文政年間の古図をもとに復元したものです。
この社殿の裏に『政子石』と呼ばれる石があり、別名『姫石』とも呼ばれています。
頼朝が政子の安産を祈った石と言われていますが、現在では夫婦円満の祈願石らしいです。



橋の上でトッポの記念撮影です。



太鼓橋横から景色を観ていた時、白鷺?が1羽いることに気がつき、70mmの望遠でアップしましたが、70mmではこの程度のアップ写真です。



今回は、200mmの望遠も持ってきていたので、どの程度焦点が合うのかトライしてみました。



目いっぱいズームアップしましたが、結構鮮明に撮れました。
三脚なしで、それほどのブレがなく撮れるので、結構使い勝手のよい中望遠レンズです。



こちらは、ちょっと横を向かれてしまいました。



源氏池の奥に行くと、見晴らし台のようなところから、カモメ?に餌を与えていました。



撒き餌方向へ、あわてて飛来するカモメです。



大倉山の紅葉をバックにした白旗神社です。
白旗神社は源頼朝をご祭神としてお祀りしている神社である。
白旗神社は、源頼朝を祀っていた法華堂を白旗神社に改めたそうです。
神社は大倉山の麓に鎮座。大倉山の中腹には源頼朝の墓や大江広元の墓があります。

源氏の白旗、平家の赤旗ということで、源平の戦いでは紅白別れての戦いだったのでしょう。
運動会で紅白に別れるというのは、こういう習俗的なところが受け継がれているようです。



これから、本宮階段下にあった、あの大銀杏はどうなったのか観てきます。

続く........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その106の1 『鎌倉八幡宮』

2010年12月09日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
銭洗弁天から鎌倉駅まで歩き、もう少し鎌倉の紅葉を見ようと鎌倉八幡宮へ向かいます。



鎌倉の有名な飲食店やお土産屋が並ぶ、有名な小町通りは多くの観光客が集まってきます。



小町通りは混雑するので、鶴岡八幡宮の参道である若宮大路に出て、二の鳥居から中央の 段葛をバックに記念撮影です。



観光用の人力車も忙しそうです。



こちらが三の鳥居になります。



鎌倉八幡宮周辺の紅葉は遅いのですが、ここにきて紅葉も少し進んだようです。



銀杏の木もきれいな黄色一色です。



三の鳥居をくぐると目の前に太鼓橋があります。
昔は、太鼓橋を一気に渡ると出世するという言い伝えがあったようですが、現在は柵が置かれ通行禁止になっています。
滑ってけがをする人が出たので、通行禁止にしたのでしょうかね。
少ししゃがんで、本宮をバックに撮ってみました。



太鼓橋の右(東側)に北条政子が造ったと伝わる源氏池があります。
今はその時期ではありませんが、源氏の象徴の「白」の蓮華を植え、三つの島を配したそうです。
三は産に通じ、子孫の繁栄を意味しています。
現在二つの島があり、写真の島は旗上弁天社(はたあげべんてんしゃ)です。
ここには北条政子が平家の滅亡を祈願した弁財天座像が祀られていたそうです。



続く..........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その105の3 『源氏山公園、銭洗い弁天』

2010年12月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
源氏山公園より銭洗弁財天宇賀福神社に到着しました。
銭洗弁財天への入り口で休んでいるところを写真に撮られました。



銭洗弁財天宇賀福神社(通称・銭洗い弁天)は、昔かくれ里と言われていたそうです。
山の斜面の小さく開けた場所にあります。



入口より岩のトンネルを抜けると境内に出ます。
平安末期、鎌倉は災害が続き貧困にあえぐ庶民のために、源頼朝が世の救済を祈願した場所です。



巳の年の文治元年(1185年)の巳の月、巳の日の巳の刻、宇賀福神から『この地に湧き出す水で神仏を供養せよ、そうすれば天下泰平の世が訪れる』と源頼朝の夢にお告げがあり、そこで源頼朝はこの地に社を建てて宇賀福神を祀った。
その後、世の中の混乱は収まったと伝えられています。



広場の奥・右手に小さな本殿があり、その左側の洞窟に弁財天が祀られています。
本殿右手の社務所を中心に幾つかの小さな社殿が裏山の中腹まで建っています。
銭洗い弁天の御本体「宇賀福神」は水の神で身体は蛇・頭は人間の老人の形をしていると言われる。そんな所から「巳の日」は特に大勢の参詣者が多く賑わうそうです。



ここ弁財天にお参りして、その前の小さな池でお金を洗うと「お金が増える」と信じられていて、何時も大勢の人が硬貨やお札をざるにいれて洗っている風景が見られる。
このお金を洗う事の歴史は古く、鎌倉時代の第5代執権北条時頼はこの福の神を信仰し、自らこの水で銭(通宝)を洗ってお祈りして、巳の日を選んで人々に参拝させたところから始まったようです。



「お金が増える」と言うのは確か5代執権の北条時頼が「この湧水で金銭を洗い清めると心身の不浄を洗い清めて福徳利益をいただく」、つまり「欲にまみれたお金を洗って、心も清めれば自然と富もたまる」と言ってここを崇拝させたそうです。



最近はザルでお札を洗う人が多く、増えるなら大きなお札のほうがいいと思う人が多いのでしょう。



ここは、本来お金を乾かす場所ではないように思いますが.........



お参りを済ませて、これから鎌倉八幡宮へ寄ってみたいと思います。