TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパのメランコリー、 その1 『衝撃的激痛 !』

2009年04月30日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
トッポ、『トッポパパが体調不良で、僕も毎日心配しています。』



いつもは毎日のように更新しているトッポのブログが突然、不定期になった。
ご心配の言葉をたくさん頂き、心苦しく思っています。

取り敢えず、トッポパパに何が起きたのかを、概略報告します。
4月中旬にヨーロッパ方面へ、出張に出かけました。 
ドイツ滞在中までは、それほど異変を感じなかったのですが、オランダへ移動してから首から背中にかけて、鈍痛を感じはじめた。

出張後半は無理をしないで、夜は休養につとめましたが、首、肩、肩甲骨、脇、二の腕、そして小指から中指までに痺れ、激痛が走り始め、結局ダウン寸前での帰国となる。

成田到着が日曜日早朝のため、取り敢えずこの痛みをとらなければと、休日でも開いていたカイロプラクテイックにて、多少なりとも痛みをとるための処置をしてもらう。
カイロプラクティックの院長先生の診断では、頚椎5-6番目のヘルニアと思われるとの話でした。
痛みを感じながら、トッポの頚椎ヘルニア手術を思い出す。
トッポも自転車が急ブレーキをかけたような悲鳴を上げていたが、トッポパパも痺れから始まり、ジーンという疼痛から、急転直下激痛に変わる痛みに、今も頭を抱えています。

家で考え込んでいても、事態は好転するわけがないので、頚椎ヘルニアだとこれからMRI他いくつかの検査が待っているだろうし、どこでこの手術をするか決めなければならない。

トッポの場合と同じように、ネットで調べまくり、頚椎ヘルニアが初期なら、PLDDという手術があることを知る。
PLDDとは、Percutaneous (経皮的)、Laser (レーザー)、Disk (椎間板)、Decompression (減圧術)の略で、簡単に言えば、ヘルニアになっている椎間板軟骨を従来のように切開して取り除くのではなく、椎間板軟骨の中心部をレーザーにより「蒸散」させることによって、腰痛や下肢痛、首や肩の痛みを解消または軽減させる療法のことです。

手術実績が抜群の、某病院に連絡をいれ、週末のMRI他の検査の予約を取り付ける。
最新の設備による手術とかで保険も効かず、頚椎の場合は小型車が一台楽に買える手術代がかかると聞いたが、痛みには勝てないので手術を受けようと思った。

ここまでは、予定内の行動だったのですが.........................。

続く....................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その65の8 『河津七滝』

2009年04月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
河津七滝を全部見終わり。、帰路に着きます。





トッポはまだまだ元気なようです。





滝以外の景色も、なかなかいいですね。







最後に、今では季節はずれになってしまった河津桜をみながら、トッポと食事になりました。



それでは河津七滝から

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トッポパパは、現在ちょっと左手が不自由なので、キーボードを長く打てない状態です。
皆さんのブログを拝見していますが、コメントを残せません。
まだ暫く不定期な更新になります。 
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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その67の6 『小石川後楽園』

2009年04月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
水戸光圀があつくもてなした明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋です。



水面に映る様子が満月のように見えるので、この名がつけられました。



鴨が気持ちよさそうに、水浴びをしています。
仲のよい夫婦のような雰囲気でした。



江戸時代になると江戸や各地の大名屋敷の庭園に、滝がつくられるようになりました。



ネット情報によると、水戸徳川家の小石川後楽園は、1697年の『常陸帯(ひたちおび)』に「滝をきくには音羽堂」とあることから、当初はこの滝は「音羽滝」といわれたようです。
1784年の『後楽園の記』には、「池の汀にいて、かへりみ見れば滝おとし」というように、現在の「白糸の滝」ができていたそうです。
ただし、当時の呼び名は「素麺の滝」だったそうです。



丸屋と呼ばれる、昔のわびた茶屋を現しています。



全体を見渡す景色です。
本庭園の特徴である各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。



大泉水沿いに『一つ松』の看板がありました。



この松の名前の由来は、琵琶湖の唐崎の一つ松にちなんでいるそうです。



続く....................................................................。


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久しぶりの更新になります。
先週の日曜日に帰国し、今頃は別の地域への海外出張の予定でした。
ところが前回の出張中に体調不良になり、対症療法と治療を模索中です。
ワンコは飼い主に似るとよく言われますが、今度は飼い主が飼い犬に似たようで、どうも症状からトッポと同じ病気に罹ったようです。
もしかすると、トッポの闘病記のようにトッポパパの闘病記になりそうです。
今しばらく皆さんのブログ訪問やコメンとを返すことが出来ませんが、ご容赦ください。
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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その65の7 『河津七滝』

2009年04月11日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
一番奥の釜滝へ向かいます。



ここまで歩いてくると、急に緑が深くなり、体感温度も2-3度下がっているような感じです。
清流の音とマイナスイオンで、リフレッシュされます。



高さ22m、幅2mとの釜滝の看板の前で、トッポの記念撮影です。



滝の周辺は、道が険しく、トッポはずっとバッグの中なので、少し不満そうです。



覆いかぶさるような、玄武岩の上から美しく流れ落ちるこの滝も、昔は地獄谷と
恐れられていたそうです。



この滝は、迫力満点の滝です。



折り返して、戻ることにします。



トッポも頑張りましたので、何か食べさせてあげないといけませんね。



続く....................................................................。

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明日より暫く海外出張が続きます。
訪問していただく皆さんには申し訳ありませんが、ちょっと掲載をお休みいたします。
帰国後、また継続いたしますので、よろしくお願いいたします。
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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その67の5 『小石川後楽園』

2009年04月10日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
この辺りの桜は、まだ3分咲き程度です。



大泉水に戻り、池沿いに見て回ることにします。



中央の蓬莱島には、まだ白鷺が陣取っています。



水戸光圀も、この大泉水に船を浮かべて蓬莱島を眺めていたのでしょう。



水戸徳川家7代治紀は将軍家から賜った鷹を大切にしていました。
鷹は治紀が没した4年後に亡くなったため、8代斉脩が、これを悲しみたてた石碑です。



江戸時代の風流な酒亭の様子を表した、『九八屋』と呼ばれる東屋です。
この名の由来は、『酒を飲むに昼は8分、夜は9分にすべし』と酒飲みながら万事控えるを良しとする、との教訓によるものです。



水路が造られています。



水戸光圀が、嗣子綱條の婦人に、農民の苦労を教えようと作った田端です。
現在でも文京区内の小学生が5月に田植えをして9月に稲刈りを行っています。



こちらの井戸はいかなる旱魃にも水が枯れず、またいかなる洪水にもあふれ出すことがなかったことから『不老水』と呼ばれます。



続く....................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その65の6 『河津七滝』

2009年04月09日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
初景滝を過ぎると、道が階段状になり、登りになります。
初景滝より、徒歩5分ぐらいのところにえび滝があります。



途中、道に沿って水路が作られています。
流速も早く、きれいな水ですので、飲料水にもできそうです。



えび滝の標識です。



周囲にいくつかの小さい滝がありますが、これはえび滝ではないようです。



えび滝は、奥まった薄暗いところにあり、つり橋の上から眺めるようです。



トッポ、『変な滝があるよ!』



えび滝です。
えび滝は滝の形が海老の尾ひれに似ていることからつけられています 。
高さ5m、幅3mで、大きな滝ではありませんが、滝は2段になっていて、水しぶきに見える階段状の横筋が、えびの尻尾に見立てられているようです。



橋の上から反対側の景色です。
この道を歩いてきたのですが、振り返ってみる景色もなかなかいいものです。



続く................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その67の4 『小石川後楽園』

2009年04月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
奥の庭園に向かう延段と呼ばれる階段があります。



これも中国式なのでしょう、切石と玉石を混ぜた延段です。



水戸黄門もこの庭園の散策を楽しんでいたと思うと、興味が湧いてきますね。
ちょっと水戸光圀について、ネットで調べてみました。



天下の名君と呼ばれた徳川光圀は、徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖・頼房の3男です。
頼房は徳川家康の11男として生まれたので、水戸光圀は徳川家康のお孫さんになるようです。



また少年期から歴史への関心を持っていた光圀は、侍塚古墳の発掘を行い、さらに『大日本史』編纂事業も始めます。
これは一国の通史編纂を一大名である水戸光圀が開始し、編纂は光圀没後も続けられ、完成はなんと1909(明治39)年までかかりました。



水戸黄門のテレビドラマや映画を観ると、天下の副将軍の水戸黄門が、諸国を漫遊し悪代官を退治するという印象が強いと思いますが、実際には諸国漫遊は行わなかったようです。。



実際には、副将軍という役職は無く、ただ水戸藩主が、ほかの大名と異なった点は、老中などの幕府要職者と同様に参勤交代せず江戸に常住することと定められていました。
これが徳川一門の補佐役の意味があったと考えられ、いつのまにか副将軍と呼ばれるようになったようです。



『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与えます。



水戸光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っています。
日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメン、餃子、チーズ、、黒豆納豆等があるそうです。
肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐みの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉なども食べていたと言われています。



時代の先取りをした水戸光圀も、当時小石川後楽園を作庭した時に、まさか後の世に現在のような近代ビルに後楽園が囲まれると思わなかったでしょうね。

続く,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その66の5 『熊本城』

2009年04月07日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
今回が熊本城の最後の掲載になります。
帰りがけに階段を見ると、敵の侵入に対して戦略目的で石が無秩序のように並び高さも違えていることが分かります。



階段の右側が踊り場になっていて、『地図石』と呼ばれる表面を平らに加工し、隙間なく組み合わされた石の平面になっています。



地図石は何のために作られたのかについては、補説あるようです。
そのため、その謎を解こうとして先人たちは、日本地図、熊本城下町図、熊本城平面図を表現したものなどと諸説を出したが、実際はまだ分かっていないようです。



一説には、この石組みは99個の石の組み合わせによるものから、城の長寿を願ったまじないではないかと言う人もいます。
実際には、意味があったのか、なかったのかはもう誰も分からないのでしょう。



首掛石の説明板がありました。
これもネット情報ですが、熊本城の築城に際して、横手の五郎の物語が伝えられています。
五郎は熊本城下にあたる横手に住んでいた若者で、怪力の持主として知られていました。この大きな石も、数人がかりで運べなかったものを、五郎が首に掛けて一人で運んできたと伝えられています。



しかし実は、五郎は仏木坂(ぶっきざか)の戦い(天草)で清正に殺された木山弾正(きやまだんじょう)の遺児で、城づくりを手伝ったのは父の仇を討つためだったそうです。
ある日、清正を襲った五郎は家来たちに取り押さえられ、古井戸に投げ込まれてしまいます。
清正の命令で井戸の上から大きな石が次々と投げ落とされましたが、五郎はそれを片手で受け止めては足下に置きながらどんどん上ってきました。そこで、今度は砂が投げ込まれ、とうとう生き埋めにされてしまったという逸話が残されています。



この石の重さは推定1800Kgもあるそうですから、首に掛けたら即死しそうです。
ロマンあふれる歴史上の話として聞いておくことにしましょう。



雨も強くなってきたので、そろそろ熊本城を後にします。



それでは熊本城より

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その65の5 『河津七滝』

2009年04月06日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
5番目の滝、蛇滝へ向かいます。



周囲の木立で、ちょっと暗いのでアップで撮影しました。
ママが隠れるのに大変です。



蛇滝です。
木立に囲まれて暗いので、うまく撮れませんので、少し移動してみます。



こちらのほうが明かりが取り込めてよい感じです。



しかし何故、蛇滝という名前の滝なんでしょうね。



ヘビのようにくねっている滝なので、蛇滝かと思いました。



最後にネットで調べてやっと分かりました。



玄武岩の模様が、伝説の七つの頭の大蛇が持つウロコを連想させることから、蛇滝と呼ばれるようになったそうです。



残り二つの滝へ向かいます。
この辺りから道が狭くなります。



続く..................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その67の3 『小石川後楽園』

2009年04月05日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
都会の中のオアシスの感じです。



奥へ進んでみました。 
こちらの桜もほぼ5分咲きで、結構見ごろです。



西行堂跡地と書かれていました。



この石の階段だけが、いまに歴史を伝えているのでしょう。



近くに咲いていた可憐な花です。
スノードロップとかいう花のようですが、別名、ユキノハナ(雪の花)、マツユキソウ(待つ雪草)とも呼ばれているようです。
どれもお洒落な花の名前です。
....と、紹介したのですが、あんれにさんよりこの花は、『スノーフレーク』でしょうと、ご指摘をいただきました。
訂正させていただきます。



富士見堂です。 昔はここから富士山が見えたのでしょうかね。
残念ながら周囲はビルに変わってしまい、今では観ることができないでしょう。



水仙の一種です。
1花茎に1花がつき,ラッパの長さが花弁より長いか同長いので、ラッパズイセンと呼ばれるようです。



藤田東湖先生遺跡と描かれています。
藤田東湖は、水戸学を世に広めた学者であり又天保改革派の中心人物として秀れた政治家でもあります。
藩主徳川斉昭を助け国政に尽力し、その思想は明治維新をうちたてる原動力となったと紹介されています。



ブドウの様な房が特徴のムスカリと呼ばれる花です。
花色は青紫、白色、青、紫など、色々あるそうです。
...........こちらも、アセビという花だとあんれにさんより教えていただきました。 あんれにさんによると、ムスカリは球根種ですのでチューリップのように下から伸びて花を咲かせるそうです。
花の名前は苦手なので、間違いを訂正しお詫びいたします。



続く..................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その66の4 『熊本城』

2009年04月04日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
宇土櫓(うとやぐら)の前の広場です。



『三の天守』とも呼ばれる宇土櫓は、3重5階地下1階で、熊本城では最大の櫓です。



最上階に外廻縁を持ち、清正の創建した初代天守ではないかという説もあるようです。
ネット情報を基に、加藤清正の紹介です。
加藤清正は、1562年に尾張(現在の名古屋市中村区)に生まれ、幼い頃は虎之助と呼ばれます。



豊臣秀吉の生家の近くに生まれ、清正の母と秀吉の母は従姉妹同士であったこともあり、清正は9歳のとき秀吉の小姓になります。
その後、秀吉のそばで侍に成長し、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは活躍を見せた7人として『賤ヶ岳七本槍』と呼ばれます。
その功労で3千石を与えられると、清正は秀吉の戦の度に従軍し、その後肥後の北半分を治める大名となります。



関ヶ原の合戦では徳川家康に味方して九州で戦い。肥後の南半分も領することになり、加藤清正は肥後一国を治める領主となります。
明治10年の西南戦争では、西郷隆盛軍の攻撃の前に、天守閣が焼失するも実勢の戦闘では落城せず、加藤清正の縄張りの凄さを見せつけます。



ここ茶臼山丘陵地帯には、各地に自然の浸食による崖があり、周囲を白川・坪井川・井芹川がながれ、北・西・南の三方は湿地帯や沼地であったそうです。
清正はこの攻め難く守りやすい地形に目をつけ、築城を開始します。
そのうえ、井戸を掘ると良質な水に恵まれた場所であることも好条件でした。



この熊本城築城に従事した石工は、加藤清正が近江(滋賀県)から長崎で石橋の技術を習得した石工たちを連れてきます。
熊本城の武者返しは、長崎の黒川の眼鏡橋や門前川橋(御船町)などを造った技術が応用されたようです。
だからアーチ橋を横にしたような武者返しが出来たのでしょう。



1607年に大規模な城が完成すると、城名を熊本城にし、町の名前も隈本から熊本に改名されました。
当時の加藤清正の町割りが、城下町の面影を残す現在の熊本市中心地の原型です。



続く...................................................................。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その65の4 『河津七滝』

2009年04月03日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
初景滝に向かう途中で、大願成就ならぬ『大岩成就』の看板があります。



河津七滝を擁する川は時として激流となることがあるそうです。
そんな川の中に腰を据えたのかのごとくデンとした大岩があります。



ネット情報によると、村人が『あの岩のようになにがあってもデンと構えて事に当たりたい、生きてゆきたい』との思いから、岩を磨きしめ縄をまわし岩の信念にあやかりたいと、岩を祭るようになったそうです。



トッポママも早速、願いをこめて?小石を投げています。
100円で3個の石を買って、見事に輪の中に入れば願いが叶うそうです。
上の小さな輪に入れば大きな望み、下の大きな輪には入ると小さな願いが叶うのでしょうかね。



大勢の人が、願掛けをするので小さな輪の中は、もう石がいっぱいでした。
神様も、願い事をかなえてやるにも限度があるようです。(笑)
で、トッポママは...........でした。



初景滝です。
初景滝にある『踊り子と私』の像が建てられたのは、昭和52年、西伊豆の彫刻家、堤達男氏によって制作されました。



踊り子のなかで、湯ヶ野までの道のりを『私(一校生)』が励まそうと、踊り子の肩に手をかけようとするが思いとどまった表情と、踊子が踊るときの指の(親指と中指を結んだ)しぐさなどが表現されているそうです。



初景滝でちょうど中間の4つ目になります。
ここは水量が多く、3つに分かれて流れる様子はダイナミックです。
河津七滝の中でも最も美しい滝のようです。
岩肌が苔むしていて、風情があります。



ちょっと、シャッタースピードを調節して、アップで撮ってみました。
初景滝の名前の由来は、これまた諸説あるようです。
その一つは、昔1人の行者が滝の洞に住んで修行をしていたところ、ある日、持っていた小金に目をつけた悪人に殺されて、滝壺に投げ込まれてしまいます。
その後悪人は、その罪がたたり子孫まで良いことがなかったそうです。
この行者の名前が初景だったことから命名されたそうです。



続く..................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その67の2 『小石川後楽園』

2009年04月02日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
見事なピンクの枝垂れ桜です。



青空に向けて高く伸びた枝も満開です。



こちらは山桜の枝垂れのようです。
こちらは白ですが、こちらも素晴らしい枝垂れ桜です。



後楽園の中央に位置する大泉水です。
小石川後楽園は国の文化財保護法によって特別史跡・特別名勝に指定されています。
この二重指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮とここの二つだけで、全国でも京都の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島の厳島を合わせ7ヶ所だけです。



以前紹介した岡山の後楽園も有名ですが、後楽園の名前の謂れは『天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ』という中国の『岳陽楼記(がくようろうき)』からのようです。
トッポパパも初めて知りました。



水面に垂れ下がる枝垂れ桜、これも絵になりますね。



大泉水の中心に、蓬来島と徳大寺石があります。
昔は大名もこの池で舟遊びをしたといいます。



徳大寺石の前で白鷺が、存在を誇示しているようです。



蓬来島はカメの形をしていて、先端の鏡石は、庭師徳大寺佐兵衛の名前から徳大寺石と呼ばれています。



続く..................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その66の3 『熊本城』

2009年04月01日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
天守閣は地上50m、3層6階の天守閣は、白と黒を基調に造られた雄大重厚な構えです。



加藤清正は、賤ヶ岳の七本槍、天草での木山弾正との一騎打、朝鮮での虎退治ほか、数多くの武勇伝が残る豪壮武勇の将でした。



屋根の部分に曲線で構成された華麗な唐破風が4ケ所に配され、優雅さを与えてます。



最上段からの景色は遠く阿蘇の山々、熊本市街が一望でき、熊本平野の雄大な景色を満喫できそうです。



トッポパパも知りませんでしたが、ネット情報によると加藤清正は正室を水野家(徳川家康の従姉妹)から迎え、生まれた娘を紀州徳川家の初代頼宣に嫁がせ、やがて清正のひ孫が8代将軍徳川吉宗となったそうです。



裏側から見た、天守閣です。



加藤清正は特に石垣造りを得意とし、写真のような始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる『武者返し』と呼ばれる形状の石垣を多用しました。



この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことが要因の一つとされています。



続く.................................................................。