TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポと岸根公園散策、 その5

2007年05月31日 | トッポの世界
そろそろ帰ろうかと思ったとき、トッポが広場のほうに興味を持ちました。



傍で木登りをしている子どもたちを、またじっと見ています。



トッポパパ、『お前も木に登りたいのか?』
ということで、ママに乗せてもらいます



トッポはなぜか高いところが大好きで、どこでも登りたがります。


トッポ、『いい景色だね!



ママが助けてくれると安心しきっているのでしょう。
怖がることもなく、じっとしています。



トッポパパ、『さあ、帰るぞ!』
トッポ、『降りるのに、ママが大事なところを押さえているので! エヘッ!』



久しぶりに駆け回り、木登りもしたので、トッポ大満足の岸根公園の散歩でした。
では、岸根公園の紹介を終わります。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その18の5 『京都PartⅠ、竜安寺3』

2007年05月30日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
竜安寺の石庭はもちろん有名ですが、境内は広く『鏡容池』という大池周辺の景色もすばらしいものがあります。
鏡容池に浮かぶ桜満開の弁天島の写真です。



鏡容池は、春は桜、秋は紅葉など四季それぞれの景観を楽しませてくれるようです。
どこから見ても視界いっぱいに広大な眺めが広がっていて、見事な造園技術だと感心します。



見事な枝垂れ桜の下で、海外のお客さんも記念撮影です。
海外にも桜は、たくさん見られますが枝垂れ桜は少ないそうです。
通常普通の桜より2-3週間遅れて枝垂れ桜が満開になるそうで、この日満開の枝垂れ桜が見られたのは非常にラッキーでした。



昔、おしどりが群れ遊んだところから、おしどり池とも呼ばれたそうです。
季節と時間によってこの池は鏡の様に光ることから『鏡容池』といわれるのでしょう。



八重桜が満開で、八重の花がいくつも固まって咲いているので、花の鞠のようです。



鏡容池は東西約120m南北約65mの大きさで、平安時代末から鎌倉時代初期に築かれたそうです。 当時、京の貴族はここに舟を浮かべて風流に景色を楽しんだのでしょう。



この庭園は元公卿徳大寺家の別荘地だったそうです。



大きな枝垂れ桜です。 
今年はどこへ行っても、桜が満開のときで大満足です。



この池の白い部分は、すべて桜の花です。
まるで絵のようです。



では、京都の紹介は見所がたくさんありすぎて、長くなりますので、他の場所の紹介をしながら時々戻るようにします。

トッポと岸根公園散策、 その4

2007年05月29日 | トッポの世界
トッポはまだ遊び足りないようですので、今度は丘の上から下へ走らせることにしました。



下りの坂は、どうも尻尾でバランスを取りながら降りてきているようです。



普段も、このくらい尻尾を上げて歩いていると、少しは凛々しい感じになるのでしょう。



ほんとに、気持ちよさそうに走ってきます。



傾斜が緩やかになると、最後のダッシュです。
トッポパパ、『もう少しでゴール!』



トッポ、『ハイョー!、ラストスパート!』



ご苦労さんでした。



トッポも得意げな顔です。
カメラを構えたトッポパパは、丘の上の人に笑われていました。



次回は、またまたトッポの木登りです。

続く.................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その18の4 『京都PartⅠ、 竜安寺2』

2007年05月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
きれいに模様を描いた白砂とわずかに15個の石だけの簡素に見える庭園ですが、観光客はここで、それぞれの思いをこめて鑑賞しているのでしょう。



写真は、ミニ石庭で15の石の配置を説明しています。
『虎の子渡しと』呼ばれるのは白砂の模様をまるで大海か大河に見立て、石の配置が中国の伝説にある虎の子渡しに似ているところから、そう呼ばれているようです。



入り口を入ると正面に、写真のような立派な書が見られます。
すいません、迫力は感じますが、内容は分かりません。



竜安寺の壁紙写真です
竜安寺は侘び寂びの心を現す禅寺で、正式名称を『大雲山 竜安寺』と言うようです。



竜安寺は細川勝元が1450年に徳大寺家から譲り受けた山荘を禅寺にし、禅の高僧義天玄承を初代住職にしたとされています。



竜安寺は石庭だけが有名なわけではなく、紅葉の時期の竜安寺は苔の緑とカエデの紅葉と、鏡容池を中心に広がる池庭回遊式庭園も大変有名です。
その前に、方丈の裏側に回ってみました。



この方丈の裏に、手水鉢がありました。
水戸光圀が『大日本史』の編纂の時、什宝『太平記』を参考にしたお礼に寄進したものだと説明されています。
手水鉢には、『知足の者は、たとえ貧しいといえども富めり。
不知足の者は富めりといえども貧しい。』の意味の『唯我知足(われただたることをしる)』を中央の口の字に図案化されています。



竜安寺の裏庭も、写真のように大変綺麗な庭園で秋のもみじの季節も見所のようです。



庭園の一画に日本最古の椿の木が、植えられていました。



次回は、鏡容池周辺を見て回りたいと思います。

続く..........................................................。

トッポと岸根公園散策、 その3

2007年05月27日 | トッポの世界
しばらく駆け回ったら、気温も高いせいかトッポもアヘアヘ状態です。



トッポ、『喉が渇いた! 水ちょうだい!』



持参の水筒から、水をもらってトッポもちょっと落ち着きました。



少しベンチで休憩です。
実はトッポパパが疲れたのです。



トッポ、『可愛いワンちゃんが傍に来たよ。



まだ、幼さが残るワンちゃんでおとなしくトッポの前に座っていました。



トッポは社交性がないので、ただおとなしく見つめているだけでしたけど、嫌がる様子でもなかったので、少しは慣れてきたようです。



少し移動して、水場の石の上で記念撮影です。
トッポ、『今度は、大きなワンちゃんが来た!



こちらのワンちゃんも、お年寄りなのかのんびり散歩でした。
老犬は、やはりおとなしく散歩を楽しんでいるように見えます。



岸根公園も、たくさんのワンちゃんが遊んでいて楽しい公園です。
トッポは運動不足なので、あとでもう一回空いている場所で走らせようと思います。

続く......................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その18の3 『京都PartⅠ、竜安寺1』

2007年05月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
中学の修学旅行以来、初めて竜安寺を訪問しました。
世界遺産にも選ばれている竜安寺の入り口です。



有名な『枯山水』の石庭がある『方丈』の入り口で、階段を上りきると庫裡です。
禅の心を表す石庭として大変有名な寺です。



中に入ると石庭を見ようと、多くの観光客が席についています。



龍安寺は、枯山水の庭園として世界的に有名です。
柿(こけら)ぶきの油土塀を背景に白砂に一木一草を用いず白砂を敷きちめ、七・五・三に組んだ大小15の石を配しています。



方丈のどの位置から眺めても同時に15の石を見ることができない配置がされています。
『1、2個欠けても足るを知る』という禅の教えで、『虎の子渡しの庭』とも呼ばれています。



石庭の塀は西に行くほど塀を低く、地は東に行くほどに低く、遠近法を利用しています。



石庭の石は鶴亀を表しているとも、また七五三に並べたとも、心の字を描いたとも諸説があります。
七五三にもあるように、十五という数字は究極的な数字で、十五の石の全部を、けしてみることができないことに禅の教えがあり、この庭は、何処から見ても十五個の石の姿を全部見ることができないと説明されています。
つまり、二、三足らなくても、足るを知るという禅の教えのようです。



幅30メートル、奥行10メートルの小さな庭ですが。見えない石を心眼によって見抜くのが『禅の境地』ということになるのでしょう。



作家の井上靖の言葉に、『人はいつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りにも小ささを思わされ、慰められ、暖められ、そして美しいと錯覚して帰るだけだ』と詩を詠んでいます。



心静かに、石庭を見て、自問自答しなさいということなのでしょう。

続く............................................................。

トッポと岸根公園散策、 その2

2007年05月25日 | トッポの世界
周りで遊ぶ子どもたちに刺激されたのか、トッポも走りたかったのでしょう。
トッポパパが誰もいない丘の上に先に上がって、トッポを呼んでみます。



トッポパパ、『よし、いいぞ! 走って来い!』



あまり最近は走らせていませんでしたが、元気に走ってきます。



上り坂なので、軽快にに飛び跳ねながらとはいきませんが、今年は10歳になるトッポにとって、まだ元気に走れるようなので安心しました。



手術をしてから、少し白髪がめだつようになったトッポですが、まだまだ元気です。



トッポパパ、『もうちょい、頑張れ!』



やはり、芝生の上を走るのは楽しいのでしょうね。



ダックスの耳が、動きに合わせて色々変化します。



トッポ、『ゴール!』
誰も拍手してくれませんが、ちょっと満足げな顔で、ハァハァいってます。



では、ちょっと休憩です。

続く.....................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その18の2 『京都PartⅠ、嵯峨野竹林の道』

2007年05月24日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
渡月橋のある嵐山から天龍寺へ抜けると、そこは野宮神社へと続く竹林が続いています。
嵯峨野めぐりの一番の人気スポットになっていて、ガイドブックの表紙に飾られる景色が目の前に広がります。



嵯峨野の竹林の道は、笹ずれの音を聴ける静寂な空間です。
ここが一番京都らしい空間なのでしょう。
初めて見る長い竹林に、海外からのお客さんも感激していました。



小路の両側は柴の垣根が連なり、青緑の竹が風にザワザワ鳴る音を聞きながら歩くと、異次元の世界にいるようです。



長く伸びた青々とした緑の竹林に、木漏れ日がそそぎ、心地よい風を送ってくれます。
思わず微笑みながら歩いてしまいます。



この小路はとても清掃が行き届いていて、観光客に良い想い出をという現地の人は整備環境に力を入れてくれているのでしょう。
ここは、また青い竹と対照的に現れる紅葉が有名な場所でもあるそうです。



嵯峨野の竹林は、日本の音風景100選にも名を連ねています。
左に大河内山荘の石碑が見えます。
大河内山荘はかつての時代劇の大スター大河内伝次郎が、映画の出演料の大半をつぎ込んで造りあげた借景庭園がるそうです。



大河内伝次郎はトッポパパでも名前しか知りませんが、水戸黄門、丹下左膳を演じた初代の名俳優のようです。
今回は、庭園の中に入る時間がありませんでしたが、ここもお勧めの観光スポットのようです。



そろそろお腹が空いてきたので、嵯峨野の雰囲気溢れるレストランで昼食をとりました。



途中、佐助というお店の釜出しの焼き物を拝見して嵯峨野を後にしました。



この後、竜安寺の石庭を見に行く予定です。

続く........................................................。

トッポと岸根公園散策、 その1

2007年05月23日 | トッポの世界
前から一度トッポを連れて行こうとしていた横浜の岸根公園へ出かけました。
子どもさんが楽しく遊べるこの公園は人気があるのですが、駐車場に車を停めることが今までできなかったので、今回は地下鉄でトッポと移動です。
トッポ、『ここどこ!』
公園に入って、すぐ目の前に篠原池があり、トッポと記念撮影です。



横浜の港北区のほぼ南端に岸根公園があります。
最初は第二次世界大戦中の1940年に防災緑地を兼ねた公園として整備され、戦時中は軍の基地となり、戦後は米軍に接収されたそうです。
1970年代になって接収解除になり、再整備された西側の遊び場とあわせて子どもたちの人気を集めていると紹介されていました。

途中で見つけた、綺麗な人口の滝です。



さて、どこで遊ぼうか、ベンチに座り周囲を見ながら作戦会議です。
とりあえず公園の中の方へ進んでみます。



公園中央は、すり鉢状の『せせらぎ広場』があります。
夏場にこの広場で水遊びができるようです。



階段のある丘になった広場は『ゆうゆう広場』といって児童公園のようで、滑り台やブランコ、砂場があるので、小さい子どもたちがたくさん遊んでいます。
 


階段を登り、上から子どもたちの遊んでいる様子をしばし見ていました。



トッポ、『早く遊びに行こう!』



下の広場にもどりましたが、トッポは周りで遊んでいる人をみて自分も走り回りたくなったようです。



トッポを走らせる場所を探しに、移動することにします。



次回から、公園で遊ぶトッポを紹介します。

続く.......................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その18の1 『京都PartⅠ、嵐山』

2007年05月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
4月後半に、ブログにも再三登場するオランダの友人が、初めて奥さんを連れて日本に遊びに来ました。
トッポパパが京都を案内することになりましたので、そのときの写真で京都の紹介を何回かに分けて紹介します。



まずは嵐山と渡月橋の紹介です。
渡月橋の名前の由来は、亀山上皇が曇りのない夜空に月が橋を渡るよう見えるとて『くまなき月の渡るに似る』と感想を洩らしたことから『渡月橋(とげつきょう)』と呼ばれるようになったようです。



嵐山の大堰川に架かるこの橋は嵐橋とも呼ばれています。
古くは平安時代の836年に空海の弟子、道昌が大堰川を修築した時に架橋したものといわれています。



橋の奥に見える山が高さ375mの『嵐山』で、桜の名所として有名で、この桜は後嵯峨上皇が奈良の吉野から移植させたものです。
春の桜、夏は緑、秋の紅葉、冬は雪景色と四季折々の景色を楽しめます。



一般的にはこの周辺全体を『嵐山』と呼んでいます。
訪問したときには、まだ桜が咲いていて対岸の桜がとても綺麗に見えます。



渡月橋は、嵐山の大堰川(桂川)に架かる全長約250メートルの橋です。
応仁の乱により焼失しましたが、その後、何度か架け替えが行なわれており、現在の橋は昭和9年に改修されたものです。
この渡月橋を境に上流は大堰川(保津川)、下流は桂川と名前が変わるそうです。



平安初期の最初に橋は、空海の弟子である道昌(どうしょう)僧正により、現在よりも100mほど上流に架けられたようです。 
現在の橋の位置へ架けたのは、1606年に嵯峨の富豪である角倉了以(すみのくらりょうい)が保津川の開削工事をした時のようです。



古人も多くここに来ている事を史料が伝えています。
ここ嵐山は、桜だけでなく、紅葉が全山を覆う秋も素晴らしい景観を楽しめるようです。



始めて日本訪問の奥様も喜んでいました。
ブログに写真を載せてもいいですかと聞いたところ、日本語は文字化けして分からないけど写真は見ることができるので掲載OKの了解を得ました。
海外の人は、実におおらかのようです。



この日は、中国の首相が同地を訪れる予定なので、警備の人が数万人京都に集まったそうです。

では、この後、嵯峨野の竹林の道を訪ねてみます。

続く......................................................。

神奈川の景勝50選、 その1の8 『山下公園 PartⅡ』

2007年05月21日 | 神奈川の景勝50選
トッポ、『氷川丸だね。』
昭和35年に航海はやめていますが、その後や真下公園に係留され観光スポットとして、色々な催し物がおこなわれてきました。
現在は、ただ静かにその歴史ある船体を見せているだけのようです。



氷川丸の全体像を、写真に残しておこうと撮ってみました。
第一次世界大戦後、日本郵船は政府の支援をうけ1万7千総トン・20ノットの高速客船3隻と1万2千総トン18ノットの高速貨客船3隻を建造しました。
この時のシアトル航路向けの1万2千総トン貨客船3隻の1番船が『氷川丸』だと紹介されています。
70年近く経った今日でもまだ浮いているのですから、頑強な船ですね。



山下公園では、園芸展が開かれていました。



何故か筍も、園芸の一部になっています。
持って帰る人がいるといけないので、ちゃんとガードマンが監視していました。



日差し強くなってきたので噴水脇で、しばし涼をとりました。



大きなハート型の、デコレーションケーキのような園芸です。



トッポ、『こっちだよ!』



これでは黒子の存在丸出しです。



最後に氷川丸を綺麗な花と一緒に撮りました。



では、山下公園PartⅡの紹介を終わります。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その17の3 『今治城』

2007年05月20日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
境内からの天守閣は、大きな古木に守られているかのようです。



境内の写真を紹介しながら、今治市役所の紹介記事に面白い話がありましたので、一部を転載いたします。
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姉川の戦いは、浅井長政(信長の妹、お市の方の夫)方の敗戦に終わりました。
戦いに敗れた高虎は、次々と変わる勤めも長続きせず、ケンカをしたり乱暴をはたらいたり、少々荒れていました。
定まった職がありませんから、お金もなく食べ物も買えません。人一倍身体の大きい高虎、腹がへってたまらず、ついつい立ち寄った餅屋で1個、2個とつまみ食い。
あまりのおいしさに20個程をあっという間にたいらげてしまったのです。
『ああ、これは頭を下げてあやまるしかない』と情けない気持ちになりました。



しかし、餅屋の主人、「いやあ、お見事、お見事。私が一生懸命ついた餅を見事な食べっぷり。餅屋冥利につきます。
お代は結構です。誠に些少ですが路銀の足しにしてください。ご武運を祈っております」とのやさしい言葉をかけてもらったのです。
若き藤堂高虎、人の情けが身にしみます。



この人情話には後日談があって、幾年月たったある日、立派な供揃えの大名行列が通りかかり、馬上の殿様が、「親父、久しいのう。若い頃情けをかけてもらったおかげで、伊賀伊勢の太守になった。お礼の品を受け取ってくれ」と言って親父の手を握り、金銀を手わたした、という出世払い、大名払いの一席です。



講談や浪曲になっていますが、藤堂藩の家老の日記に“藩祖ゆかりの餅屋で餅を食べる習わしがある”と書かれていますし、その餅屋は、自分の店だという店もあるので、まったくの作り話という訳でもないようです。藤堂家では、旗差しもの(戦の時に、敵と間違わないように目印とした旗)を白い三つのお餅にして、その時の情けを忘れないようにした、と言われています。その他、仁智勇を表しているとか、白餅(しろもち)を城持ちにかけて、“城持ちになれるよう手柄をたてよ”と兵を励ましたという愉快な説もあります。
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以上が紹介記事です。 『出世払い』のお話でした。



藤堂高虎は多くの主君に仕えました。
その人となりには諸説あるようですが、サラリーマンには教訓になりそうな紹介記事がネットにありましたので、これも転載いたします。
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『主人に指図はならじ』
時代はすでに二代将軍、徳川秀忠の時代。
二条城を建築するにあたって秀忠から呼ばれた高虎は案を二つ出した。
その時部下に、何故二つも案を出すのか?一つでいいのでは?と意見されたが、それに対しこう答えている。
『案が一つしか無ければ、秀忠様がそれに賛成した場合私に従ったことになる。しかし二つ出しておけば、どちらかへの決定は秀忠様が行ったことになる。』

つまり、上から決定権を取り上げるな、あくまでもその権限は主人にあるのだ、と周囲に示したのである。藤堂高虎はへつらい大名とも言われるほど世渡りが上手と評価されているが、あれほどの乱世を秀吉、家康、秀忠と渡り歩ければ、それもまた立派な才能だと思う。
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以上ですが、なかなか的を得ているような話です。



前回、何故大きな石がたくさんあるのかという話をしましたが、それに関連する記事も紹介します。
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今治城築城の時には砂浜に巨大な城を作るため、材料が足らず、近隣の国分城、来島城、拝志城などが破壊され、その資材も活用されたと伝えられています。こうした今治城づくりに面白い逸話が残っています。
主人公は築城奉行の渡辺勘兵衛。領地一帯に高札が立ちました。「船一杯の石材を運びたるものには同等の米を与える」と書かれてあり、事実その通りに米を支給しました。船頭たちは競って石材を船に山積みにして運びましたが、藩にはそんなに米の準備はありません。
そこで勘兵衛『石材はもういらない。持って帰れ』
船頭たちも持って帰るわけにはいきません。
石材を浜辺に置いて帰りました。捨てられたこの石で城の石垣を完成させたといいます。
知恵者の勘兵衛の名前を今に留めているのは、今治城の東入口にある『勘兵衛石』で高さ2.3m、幅4.5m、重量16トンの堂々たる石が勘兵衛の功績を賞して置かれています。
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すいません、その石の写真は撮らずに通り過ぎてしまいました。



今治城は、最初は外堀、中堀、内堀と三重の堀をめぐらせて造られ、海水を導入した輪郭形式の城で、石垣の上に砲台を据え、船溜まりには軍船をつないでいたそうです。
その名残なのか、石垣の上に砲台が見えます。



明治時代には、海水の堀であることを活用し牡蛎の養殖を始めていたそうです。
資料によると、堀の水は、蒼社川の水を外堀に導いて二分し、洪水防止を工夫する一方、北の水門から海水を導入するようになっていたそうで、潮の干満によって水位を調節する水門が導入されたようです。



それでは今治城の紹介を終わります。

神奈川の景勝50選、 その1の7 『山下公園PartⅡ』

2007年05月19日 | 神奈川の景勝50選
トッポの手術が無事終わり、リハビリを兼ねて山下公園を散歩させていた時、偶然見つけた神奈川景勝50選の碑でした。
思えば50選なんだから、あと49選はどこにあるのかと調べ、50選巡りが始まりました。



この銀杏並木から始まった景勝50選巡りは、現在39選まで紹介できしたが、残りは何時クリアできるのかは、トッポパパにも分かりません。



トッポ、『どうでもいいいけど、早く降ろしてくんない!



ゴールデンウィークのせいなのか、ほとんどの人が他の観光地へ行ったのか、いつもの土日より人出が少ないようです。



こうして写真を撮ると、山下公園もなかなか落ち着いた公園に見えますね。



トッポも久しぶりの芝生の上で気持ちよさそうです。



公園でのんびり過ごすには、この時期が一番いいのでしょう。 木陰で昼寝をしている人が何人もいました。



トッポ、『暑くなってきたから、あっちの噴水のほうへ行こう!』



山下公園のほぼ中央にある、噴水です。 
周囲は綺麗な花壇になっていて四季の花が咲いています。



途中で見た、ランドマーク方面の景色です。
この運河越しの景色もトッポパパは大好きです。



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明日はちょっと、武田信玄ゆかりの地を訪ねて諏訪方面に行ってきます。
天気がちょっと心配です。
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続く....................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その17の2 『今治城』

2007年05月18日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
今治城を城内から紹介します。
今治城のパンフレットの中から抜粋して、今治城の歴史を紹介します。



戦国時代の今治地方の支配拠点は、唐子山山頂の国府城で、能島水軍の領主村上武吉が治めていたようです。
その後、1585年秀吉による四国征伐の影響で、国府城を開城してしまいます。



1587年に、子早川隆景に代わり福島正則が11万石を得て国府城に入ります。
その8年後に、写真の藤堂高虎が城主になります。
高虎は浅井長政、羽柴秀長などに仕え朝鮮再征、関が原の戦いを経て、20万石の大名としてに国府城城主になります。



藤堂高虎は交通不便で地形的にも発展性のない国分城を捨て、海に面した現在の場所に今治城を築城しました。



高虎は築城の名手といわれ、大和郡山城、紀州和歌山城、伊賀上野城、伏見城、大阪城や江戸城の増改修も手がけています。



境内には大きな石の日清戦争戦没者の碑が建てられていました。



境内につながる正面の鳥居です。



お城の周辺には大きな石がたくさんあります。
何故大きな石がたくさんあるのかは、次回に説明します。



正面からみた天守です。
中には、今治藩に関係のある武家文化資料が展示されています。



続く.................................................。

トッポとみなとみらい、赤レンガ周辺散歩

2007年05月17日 | トッポの世界
ゴールデンウィークに、みなとみらいへトッポと散歩に出かけました。
横浜のみなとみらいに隣接する、『赤レンガ』は今までも何回も訪問しています。
大きい2号館のほうの全体像を写真に撮ろうと、あちこち移動しながら撮った写真です。



赤レンガ倉庫は、明治末期に倉庫として建設されました。
レンガ造りの歴史的建造物ですので、トッポを外窓に乗せて記念撮影です。
トッポ、『まったく、どこでもトッポを置いて写真を撮りたがる、バカ親父! 』



こうして、赤レンガ倉庫だけを写真に収めると、不思議にレトロな感じになります。



赤レンガ倉庫は横浜、北海道函館そして福井県の赤レンガ倉庫が有名なようです。
トッポパパはずっと横浜に住んでいるので、20年以上も前の赤レンガ倉庫を見たことがあります。
当時の赤レンガ周辺は、すでに埠頭としての役目は終えていて、朽ちてゆく赤レンガ倉庫の姿が哀しげに見えたものでした。



現在、横浜の観光名所として蘇った赤レンガは、多くの観光客に囲まれて、輝いて見えます。



トッポもこの広場には何回も来ているので、見慣れた景色に落ち着いています。



途中で面白い物を見つけましたので、トッポと写真を撮りましたが、トッポはまるで興味がないようです。
下の写真は、横浜の大桟橋を赤レンガ方向からみた景色です。

大桟橋の様子は、こちらからどうぞ



こちらは、山下公園側からみた大桟橋です。



では、神奈川景勝50選の出発地であった山下公園まで移動します。