境内からの天守閣は、大きな古木に守られているかのようです。
境内の写真を紹介しながら、今治市役所の紹介記事に面白い話がありましたので、一部を転載いたします。
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姉川の戦いは、浅井長政(信長の妹、お市の方の夫)方の敗戦に終わりました。
戦いに敗れた高虎は、次々と変わる勤めも長続きせず、ケンカをしたり乱暴をはたらいたり、少々荒れていました。
定まった職がありませんから、お金もなく食べ物も買えません。人一倍身体の大きい高虎、腹がへってたまらず、ついつい立ち寄った餅屋で1個、2個とつまみ食い。
あまりのおいしさに20個程をあっという間にたいらげてしまったのです。
『ああ、これは頭を下げてあやまるしかない』と情けない気持ちになりました。
しかし、餅屋の主人、「いやあ、お見事、お見事。私が一生懸命ついた餅を見事な食べっぷり。餅屋冥利につきます。
お代は結構です。誠に些少ですが路銀の足しにしてください。ご武運を祈っております」とのやさしい言葉をかけてもらったのです。
若き藤堂高虎、人の情けが身にしみます。
この人情話には後日談があって、幾年月たったある日、立派な供揃えの大名行列が通りかかり、馬上の殿様が、「親父、久しいのう。若い頃情けをかけてもらったおかげで、伊賀伊勢の太守になった。お礼の品を受け取ってくれ」と言って親父の手を握り、金銀を手わたした、という出世払い、大名払いの一席です。
講談や浪曲になっていますが、藤堂藩の家老の日記に“藩祖ゆかりの餅屋で餅を食べる習わしがある”と書かれていますし、その餅屋は、自分の店だという店もあるので、まったくの作り話という訳でもないようです。藤堂家では、旗差しもの(戦の時に、敵と間違わないように目印とした旗)を白い三つのお餅にして、その時の情けを忘れないようにした、と言われています。その他、仁智勇を表しているとか、白餅(しろもち)を城持ちにかけて、“城持ちになれるよう手柄をたてよ”と兵を励ましたという愉快な説もあります。
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以上が紹介記事です。 『出世払い』のお話でした。
藤堂高虎は多くの主君に仕えました。
その人となりには諸説あるようですが、サラリーマンには教訓になりそうな紹介記事がネットにありましたので、これも転載いたします。
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『主人に指図はならじ』
時代はすでに二代将軍、徳川秀忠の時代。
二条城を建築するにあたって秀忠から呼ばれた高虎は案を二つ出した。
その時部下に、何故二つも案を出すのか?一つでいいのでは?と意見されたが、それに対しこう答えている。
『案が一つしか無ければ、秀忠様がそれに賛成した場合私に従ったことになる。しかし二つ出しておけば、どちらかへの決定は秀忠様が行ったことになる。』
つまり、上から決定権を取り上げるな、あくまでもその権限は主人にあるのだ、と周囲に示したのである。藤堂高虎はへつらい大名とも言われるほど世渡りが上手と評価されているが、あれほどの乱世を秀吉、家康、秀忠と渡り歩ければ、それもまた立派な才能だと思う。
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以上ですが、なかなか的を得ているような話です。
前回、何故大きな石がたくさんあるのかという話をしましたが、それに関連する記事も紹介します。
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今治城築城の時には砂浜に巨大な城を作るため、材料が足らず、近隣の国分城、来島城、拝志城などが破壊され、その資材も活用されたと伝えられています。こうした今治城づくりに面白い逸話が残っています。
主人公は築城奉行の渡辺勘兵衛。領地一帯に高札が立ちました。「船一杯の石材を運びたるものには同等の米を与える」と書かれてあり、事実その通りに米を支給しました。船頭たちは競って石材を船に山積みにして運びましたが、藩にはそんなに米の準備はありません。
そこで勘兵衛『石材はもういらない。持って帰れ』
船頭たちも持って帰るわけにはいきません。
石材を浜辺に置いて帰りました。捨てられたこの石で城の石垣を完成させたといいます。
知恵者の勘兵衛の名前を今に留めているのは、今治城の東入口にある『勘兵衛石』で高さ2.3m、幅4.5m、重量16トンの堂々たる石が勘兵衛の功績を賞して置かれています。
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すいません、その石の写真は撮らずに通り過ぎてしまいました。
今治城は、最初は外堀、中堀、内堀と三重の堀をめぐらせて造られ、海水を導入した輪郭形式の城で、石垣の上に砲台を据え、船溜まりには軍船をつないでいたそうです。
その名残なのか、石垣の上に砲台が見えます。
明治時代には、海水の堀であることを活用し牡蛎の養殖を始めていたそうです。
資料によると、堀の水は、蒼社川の水を外堀に導いて二分し、洪水防止を工夫する一方、北の水門から海水を導入するようになっていたそうで、潮の干満によって水位を調節する水門が導入されたようです。
それでは今治城の紹介を終わります。