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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その2

2017年09月30日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
西門、『延平門(エンペイモン)』です。
JR石川町駅が最寄り駅になります。



平和と平安のやすらぎが末永く続くことを願った門だそうで、守護神は白虎神で色は白です。



柱のてっぺんや見上げた部分に、勇ましい白虎の彫刻を見ることができます。



北門、『玄武門(ゲンブモン)』です。
子孫の繁栄をもたらす、守護神は玄武神です。



『玄武門』、北門の前の道路を渡ると、横浜公園・横浜スタジアムです。関内方面に向いた門です。



黒門の玄武は他の聖獣と比べ聞き慣れない感じがあひますが、蛇のように長い首をもつ亀のことから、子孫の繁栄をもたらす門なのだそうです。
東西南北の門を回るだけでも、結構いい距離で、いい運動になりました。



それでは、西門『延平門』に戻り、西門通りを進むと、中華街大通りの入り口に『善隣門』があります。
『善隣門』は中華街でいちばん最初にできた門です。
横浜中華街のシンボル的存在で、高さ約12m、幅約8mです。
銘板に、隣国や隣家と仲良くするという「親仁善隣」という言葉を掲げ、名称が「善隣門」になりました。



終戦後に当時の平沼亮三市長や内山岩太郎県知事がサンフランシスコのチャイナタウンを視察し、横浜中華街も同様に観光地として発展させられるのではないかと考え、初代の善隣門は1955年に完成しています。



現在の善隣門は二代目で、1989年の横浜開港130周年を記念した横浜博覧会にあわせて建て替えられました。



「親仁善隣」を掲げた『善隣門』より、『朝陽門』を結ぶ通りがメイン通りになる中華街大通りです。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その1

2017年09月29日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜に生まれ育ったので、生きているうちに横浜の歴史を知らなければと、横浜散策を続けることにしました。
今回は横浜中華街周辺を見て回ることにします。
チャイナタウンは世界各地にあり、日本でも横浜中華街のほか、長崎中華街、神戸南京町があります。
横浜中華街は500m四方に飲食店、雑貨店を含めて約600店、中国料理店だけで約240店がある、世界でも最大級のチャイナタウンです。

まずは中華街の外周にあたる4つの門(牌楼)、東の『朝陽門』、南の『朱雀門』、西の『延平門』、北の『玄武門』を見ることにします。
東の『朝陽門』です。



『朝暘門』は日が昇る海側にあり、山下公園やみなとみらい線元町・中華街駅からはこの朝陽門が入り口になります。
10門の中で最も大きな門で、高さ13.5m、幅12mあります。
青の門とも呼ばれ、子孫繁栄を司る青龍が守護神名ので色は青です。



風水の考えに基づき東門=青、南門=赤、西門=白、北門=黒となっています。
中華街側から見ると、朝陽門の文字の下には東を守る聖獣である『青龍』並んでいます。



横浜中華街は人口ではカナダ・バンクーバーの中華街に劣りますが、料理店の多さでは中国本土を除けば世界一です。
駐車場にも青龍が描かれています。
中国では停車場というのですね。



『朝暘門』の手前を左に行くと、高層マンションを囲まれていますが、木々の間に『横浜天主堂跡』があります。
かつての居留地80番地で、横浜で初めての教会『聖心聖堂』が建設された場所です。
正式名称は「EGLISE DU SACRE-COEUR」ですが、キリスト像の台座には『横浜天主堂跡』と刻まれています。



ペリーが来航し、日本が開国してから最初に教会が建てられたのは横浜です。
何故、『横浜天主堂』といわれるのかは、教会が横浜中華街のそばに建てられたということにあるようです。
横浜中華街には中国人が多く暮らしているので、教会の入り口に中国語でカトリック教会を意味する「天主堂」の文字が掲げられ、その後『横浜天主堂』いう呼び名が定着したそうです。

開港とともに居留地に上陸した欧米文化の一つが、日曜日という習慣です。
当時すでに欧米諸外国では、キリスト教の影響もあり、日曜日は仕事を休み教会で祈りを捧げる日として定着していました。
休日という習慣がなかった日本人にとって、週に一度くる日曜日はとても不思議なものだったといいます。



『横浜天主堂』が誕生したのは1862年(文久元年)で、近代日本初のこの教会は、パリ外国宣教会から任命を受けた宣教師・ジラール神父によりつくられたカトリック教会でした。
横浜の宣教師の歴史としては、プロテスタント教会のヘボン神父らの活躍が有名ですが、最初に創建されたのはこのカトリック教会で、プロテスタント教会(クライスト・チャーチ)は、翌年、やや元町寄りの105番地に誕生しています。

創建以来、幾度となく火災の被害を受けながらも再建や改築をくり返してきた横浜天主堂も、1906年(明治39年)、静かな住宅地、山手へと移転し、以前このブログでも紹介した、現在の『カトリック山手教会』へ受け継がれています。



南の『朱雀門(スザクモン)』です。
厄災をはらい、大いなる福を招く門で、守護神は朱雀神で、色は赤です。



『朱雀門』の文字の下や、その両側に、あでやかに羽を広げた朱雀の姿が見られます。



朱雀は南方を守護し、災厄を払い、大いなる福を招くといわれます。
元町側にあり、元町と中華街の行き来はここが便利です。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その13

2017年09月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
緑青色のドームが特徴的な建造物で、横浜市の歴史的建造物にも認定されています。
夜にはライトアップ演出がされています。



税関と聞くと堅苦しいイメージですが、建物は税関のイメージに反して優美で気品あるデザインです。
三代目税関庁舎(現庁舎)建設時に、神奈川県庁の高さ(49m)、横浜開港記念会館高さ(36m)”が港横浜の高層建築物でしたが、塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は『日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…』と言及し、設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎の高さ(51m)が完成したと秘話として紹介されていました。



1階には税関資料室(クイーンのひろば)があり、横浜税関の歴史や役割、ホンモノ・ニセモノコーナー、ワシントン条約コーナー、密輸の手口などが紹介されています。



入口では税関イメージキャラクター「カスタム君」が出迎えてくれます。
カスタム君は撮りましたが、大蔵大臣高橋是清の直筆と伝えられている正面玄関の標札は忘れてしまいました。



歴代の税関本庁舎です。
初代横浜税関は1873年(明治6年)の建築、2代目横浜税関は1885年(明治18年)建築、3代目横浜税関は1934年(昭和9年)の建築です。
現在の本庁舎は2003年(平成15年)に全面改装され現在に至っています。



開港当時を思わせる運上所の門の再現のようです。
なのか、カスタム君も年代物?ですかね



カスタム君の説明です。
展示室には、横浜港・横浜税関の歴史年表、これまでに取り締まった密輸の記録、明治時代の税関職員の制服など様々な資料が展示されています。



歴代の税関長が勅任(ちょくにん、天皇の意思で任命すること)した際に着用する大礼服も展示されています。



最後に海側からの横浜税関の写真ですが、やむを得ない時代とはいえ、背景の高層ビルがないほうがより歴史を感じることができると思いますね。



何とか、半日かけて横浜三塔を見て回り、勉強になりました。



最後に、横浜三塔を同時に観える場所を探せると幸せになるという話もあるということから、何とか探し出して今回の散策の最後の写真にします。



次は何を調べながら散策(暇つぶし?)しようか、思案中です。
横浜中華街の歴史か、元町の歴史ですかね..............................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その12

2017年09月27日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜開港記念会館を出ると目の前は、日本大通りです。
R.H.ブラントンの設計により明治3年頃に完成した日本で初めての西洋式街路です。
神奈川県庁や横浜開港資料館、横浜地方裁判所、三井物産横浜ビル、旧関東財務局など、 重厚な歴史的建造物が立ち並びます。



二代目横浜税関時の日本大通りです。
明治時代には、人力車や車が行き交う街のメインストリートとしての役割を果たしていました。



幾度となく整備され、その道幅は36m幅で、両側に3mの歩道、9メートルの植樹帯を備えた通りでした。
日本初の西洋式公園『横濱公園』と、横浜初の波止場『象の鼻地区』を直線で結ぶ通りです。
紅葉の季節には、道路沿いのオープンカフェは美しく色づいたイチョウが眺められる人気の撮影スポットとです。



ここで昼食タイムとしました。
クラシカルな雰囲気漂う洒落たビルの中にある、『CAFE de la PRESSE(カフェドゥラプレス)』です。



クラシックな雰囲気が漂い、天井が高く居心地が良い開放的な店内は、まるでパリを訪れた気分になります。
2階のミュージアムカフェは、“記者が集まるパリのカフェ”をイメージしたフレンチスタイルのカフェです。



最後の横浜三塔、横浜税関に向かいます。



1934年竣工の横浜税関は、『クイーン』の愛称で親しまれる塔はイスラム寺院風のドームでエキゾチックな雰囲気です。



ロマネスクなど洋風建築様式が混在している、気品のある雰囲気が漂っています。



横浜税関は、全国に9か所ある税関の中でも長い歴史を持ち、現在の建物は3代目の庁舎です。



続く.............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その11

2017年09月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
貴賓階段の中央の壁面に、我が国のステンドグラスの歴史上、非常に価値の高いステンドグラスがあります。
製作は、宇野沢組ステンドグラス製作所で、大正12年(1923年)、関東大震災により焼失しましたが、昭和2年、当初のものを尊重して復旧しました。



ペリー提督による浦賀沖への黒船来航は1953年です。
その時は4隻の艦隊を率いてやって来ましたが、ペリーは翌1954年にも、日米和親条約のため今度は横浜沖に、9隻もの艦隊を率いて再来航しています。
その9隻のうちの旗艦が、このステンドグラスのモチーフになっているポーハタン 号(USS Pawhatan)です。



ポーハタン号は2,400トンで、江戸→ハワイ→サンフランシスコ→パナマと運航されました。
1860年1月22日、横浜を出港し、北太平洋の暴風雨にもまれ、77人の日本人は船酔いに苦しみましたが、ハワイで燃料を補給し、3月9日サンフランシスコ到着しました。
先に到着していた護衛艦の咸臨丸と再会し、サンフランシスコから日本に帰る咸臨丸と別れ、さらに南下してパナマまでこの船で送られました。



開港記念館は昭和33年(1958年)まで米軍の接収を受けましたが、ステンドグラスに描かれた船の星条旗を見た米軍将校が心を動かされ、大切に扱うようにしたからだという“伝説”が残っているそうです。
階段のステップ部分が波のようになっているのも、港、横浜だからでしょう。



開港記念会館を出ると、すぐそばに岡倉天心生誕の地の石碑があります。
岡倉天心(1863-1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。
もう少し、周辺を歩いてみます。



開港記念会館から横浜税関に向かう途中に、開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構が保存されています。
明治10年(1877年)1月に創立された「開通社」の社名を明治24年(1891年)「開通合名会社」に改名しました。



横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社でした。
関東大震災で被災しましたが、その後建てられた建物のなかにこの煉瓦の壁がそのまま埋まっていたそうで、近年(2014年)になってその建物が壊された際に発見されました。



建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産としてこの地に保存されることになりました。



壁は2面が残り、上から見るとL字形。高さが4mぐらい、2つのアーチがあります。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その10

2017年09月25日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜市開港記念会館は、公会堂のほか、初代商工会議所という要素を併せ持った建物として設計されています。
一階の廊下です。



こちらは控室のようです。



横浜市開港記念会館の八角塔の一階は貴賓専用の入口です。
大理石製の扇状をした階段も格調高いものになっています。



玄関の内部は豪華な造りで、手の込んだ床面や天井の漆喰装飾になっています。



八角塔なので、開放感のあるレイアウトになっています。
八家形の建物は、日本建築においては、真円すなわち完全を意味するそうです。



横浜開港150周年記念のステンドグラスで描かれた『街』です。
昔の近辺のお店を描かれたものでしょうか? 昭和の雰囲気?が漂っています。



今年の7月1日はジャック(開港記念会館)の100周年です。



貴賓階段です。
この貴賓階段は、登り口を広げることで優雅な雰囲気を醸し出しています。



階段の手摺りにも紋章が刻んであります。



続く....................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その9

2017年09月24日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
2階広間から資料室の間に、開港当時の交通の様子を表しているステンドグラスです。
中央が『鳳凰』、左は『呉越同舟』右が『箱根越え』を描かれています。
中央の鳳凰部分にも、横浜市の市章、ハマ菱がデザインされています。



その奥の窓は、円周部分にすりガラスが使われ、変化をつけることで窓の雰囲気を変えているようです。



『咸臨丸帰航図』が掛けられています。
1853年、浦賀沖に来航したペリーの黒船に肝をつぶした幕府は、勝海舟の提言を受け入れ、長崎に海軍伝習所を創設し、その練習艦としてオランダに軍艦2隻を発注しました。
1855年、先に届いた1隻(観光丸)はオランダ領インドネシアにあった中古船でしたが、後1857年8月に届いたもう1隻は、以前このブログで紹介した、オランダの風車で有名なキンデルダイクの造船所で建造された咸臨丸です。
ちなみに、咸臨丸のオランダ名は『ヤパン号(Japan)』で、日本では、江戸幕府の船として初めて太平洋を往復した蒸気船になります。

嘉永7年(1854年)、ペリーが黒船、『ポウハタン号』を旗艦として来航し、横浜村に上陸して日米和親条約を締結します。
安政5年(1858年)、この船上で、米国代表・総領事タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約が調印されました。
万延元年(1860年)、この条約を正式批准するため、日本使節団がこのポーハタン号に乗って、太平洋を横断し、アメリカへ向かいました。
遣米使節が乗る『ポウハタン号』の護衛艦として派遣されたのが咸臨丸です。



1860年1月、咸臨丸は軍艦奉行木村摂津守と艦長勝麟太郎のもと約90名の乗組員を乗せて浦賀を出航しました。
暴風雨に見舞われ、日本人乗員は大変な苦労の末、出航から37日後無事サンフランシスコに入港しました。
復路は大きな嵐もなく無事浦賀に入港できました。
日本人初の太平洋横断航海には、ジョン万次郎、福沢諭吉等が同乗していました。
画像は太平洋の怒濤を疾走する咸臨丸の雄姿を想像して描いたと思われる咸臨丸の絵画です。



塔へ上る螺旋階段です。



当時の絵地図?があります。
実際に歩きまわると、その位置関係が少しずつわかってくるのも、散策の楽しみです。



内部の部屋の配置や、その造りは重厚で、存在感があります。



いくつかの部屋は、会議室として希望者に利用できるそうです。



特別室は正確な方位を向いた八角形で、創建時の天井には鳳凰の刺繍が施されていました。
当時はオペラやバレエを鑑賞する際に、待合室として利用されたようです。



続く......................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その8

2017年09月23日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
神奈川県庁本館の“キング”(昭和3年竣工)、横浜税関の“クイーン”(昭和9年竣工)と並ぶ、横浜開港記念会館は1917年竣工、開港50周年を記念して建てられた、レンガと花崗岩でできた建物の塔は横浜のシンボルとして親しまれてきた“ジャック”です。



これらの愛称が日米開戦以前の昭和10年代から使われていたそうです。
戦後、開港記念館は昭和33年(1958年)まで異例の長きにわたって米軍の接収を受けましたが、『メモリアル・ホール』と愛称され、内部の改変なく、使用されました。



それでは中に入ってみます。



入口を入り、順路に沿って右に歩くと、バラ窓を背にしたおしゃれな階段です。



NHKのTVドラマ『坂の上の雲』では、主人公の兄、秋山好古を演じた阿部寛が、白い軍服姿で登場するシーンを、この建物で撮影したそうです。
この階段を降りるシーンや、講堂で演説する場面もあったとのことです。



開港50周年を記念して制定された横浜市のマークである浜(ハマ)菱は、カタカナの「ハマ」をデザイン化したもので、よく探すと、中央線の両端に、そっと埋め込まれているのが分かります。



説明版です。
関東大震災や横浜大空襲にも、全壊は免れ歴史を伝えてきました。



塔の高さは 約49m、階段は117段もあります。



階段上にある半円形の大きなバラ窓から光が入る2階広間です。



続く.........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その7

2017年09月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜には多くの、歴史的価値が高い洋館が現在まで大切に残されています。
旧神奈川県庁キングの塔は日没から22時までのライトアップを行っています。



第1層は、薄いベージュの色の大谷石を使用し、第2層は、スクラッチタイル、3層目が塔屋となります。
キング、ジャック、クイーンの塔の呼び名は、開港当時、外航船の船乗りたちが、横浜港に近づくと見えるこれらの建物(塔)に付けた愛称だと言われています。



県庁の敷地内に神奈川運上所跡の史跡がありました。
運上とは運送上納の略で、古くは年貢などの公物を京都へ運んで上納することを意味し,室町時代には課税の意味です。
運上所とは現在の税関にあたるもので、江戸時代,運上上納を扱った役所で、運上方ともいいます。
幕末から明治初年に幕府,次いで大蔵省が各開港場において輸出入貨物の取締りや関税の徴収などにあたりました。



1859(安政6)年、開港に伴い神奈川運上所が設けられました。
現在の税関業務や外交業務等、神奈川奉行所の中で最も主要な仕事を受け持っていました。
慶応2年(1866年)類焼、翌年新築、横浜役所と称し、明治元年(1868年)明治政府に移管され同5年(1872年)横浜税関に改められました。



横浜開港記念館です。
横浜開港50周年を記念し、市民の寄付金により大正6年(1917年)に創建されて以来、横浜の代表的建造物の一つとして多くの市民に親しまれてきました。



昭和34年(1959年)から「横浜市開港記念会館」の名称で、公会堂として利用されています。
今年は、横浜市開港記念会館は、開館100周年になります。



横浜市開港記念館の塔は通称ジャックと呼ばれています。



横浜開港50周年を記念して市民の寄付で建築され、辰野式フリークラシック様式の赤レンガが特色で、高さ36mの時計塔は横浜のモダン建築のシンボルとして親しまれています。



横浜市開港記念館は、創建当時の姿を保ったまま現役の公会堂として使用され、建物が丸ごと全部、重要文化財となっています。



続く.............................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その6

2017年09月21日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
門柱や灯り、門扉も総領事館当時のもので、壮麗で優雅な正面玄関です。
写真だと大木の陰になってしまいましたが、ドアの上部には、屋根のような櫛形のペディメント(扇型の窓)がついています。



玄関の左右には、シンプルな窓をはさんでペディメントのついた窓が対象に配されていて、3階には丸窓があります。
総領事館として、1階は執務室、2階は事務官2世帯の住宅、3階は使用人の住居として設計がされたそうです。
往時には正門2階の窓台の部分には、英国王室のエンブレム(紋章)が飾られていました。

長く総領事館として使われていましたが、1972年に東京の英国大使館へ業務をすべて移管した後。1979年に横浜市が建物を買い取り、1981年に「横浜開港資料館」として公開されました。
2000年には横浜市指定文化財にも指定されています。



参考ですが、以前紹介した下の写真は、港の見える丘公園に隣接した現・横浜市イギリス館で旧英国領事館公邸です。



中庭にある大きな木は横浜の歴史を見守ってきた、タマクスの木です。



江戸時代からこの地に生えていたそうで、ペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた『横浜上陸』の絵の右端の大きな木が、このタマクスの木だといわれています。
慶応の大火、関東大震災などで大きな被害を受けながら、そのたびにタマクスの木は根から新しい芽を吹き、再びこのような大木となりました。



『開国博Y150』のマスコットキャラクター『たねまる』は上半身は芽を出したタマクスの木の種子をイメージし、下半身は船をモチーフにして、横浜のタネが世界に向け出航するイメージを表しています。



次の場所へ移動します。
横浜に有名な三塔があり、「キング」は『神奈川県庁本庁舎』、「クイーン」は『横浜税関』、「ジャック」は『横浜開港記念会館』のことです。
『キングの塔』の愛称で親しまれている神奈川県庁本庁舎です。



表面に溝を刻んだスクラッチタイルの風格のある建物は、日本趣味と洋風建築が調和し、荘厳さを感じます。



アール・デコを意識したモダンな鉄筋コンクリートビルの頂部に、和風の屋根を融合させたものです。



随所に、幾何学的装飾が多く用いられ、平行のラインを強く意識し細部にこだわった建築物です。



神奈川縣廳と旧字体で書かれています。
トッポパパもそうですが、もう読めても書ける人は少ないでしょう。



続く.........................................................................

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その5

2017年09月20日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜開港資料館(旧英国総領事館)の開港広場側の通用門より入ってみます。



旧英国総領事館の建物は、 平成19年(2007年)に経済産業省「近代化産業遺産」に指定されました。
テラスが付いた優雅な雰囲気で、手摺子で囲まれ、ドア左右の壁に明り取りが造られています。



建物の周りを回ってみます。
こちらは正面玄関の裏手になります。
1階の中心部分が出窓風に張り出していて、その上がバルコニーのようです。
地下室への階段が右手前にあり、左右対称なので反対側にもありました。



もともと英国総領事館として、1931年(昭和6年)年に建てられました。
英国工務省が設計し、資材すべてを英国から取り寄せて建築したそうです。
鉄筋コンクリート造の3階建てで、一部地階が付いています。
屋根は銅板葺で、石造の外観を持っている古典様式の建物です。



日本大通側から見た西の通用口です。
1階と2階の天井は高く、3階は天井が低いのは、1階と2階を主要階として、3階は屋根裏階であったようです。



中に入ってみると、壁の高い位置までスクラッチタイルがはられ、シンプルですが重厚感を持たせています。



中庭に回ると、正面入り口横に日本最初の近代水道「獅子頭共用栓」の複製と、昔の道路側溝であるブラフ溝が展示されています。





開国、開港と続き、1858年に日米修好通商条約が締結されました。
これにより函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎の5港が新たに開港されました。
その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも通商条約を結び、横浜村が一気に変貌を遂げた様子を描かれたものが展示されています。



続く.......................................................

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その4

2017年09月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜開港資料館の前の広場は現代的なデザインで綺麗に整備されています。



明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水道です。
横浜開港後、幕府が外国人居留地の造成工事を行ないましたが、生活様式の異なる外国人から苦情が出ました。
当時の上部開放型の水路式下水は不評で、石造卵形管を地中に埋めるように計画書が提出され、近代下水と呼ばれる下水道が敷設されました。



文部省では平成10年に、これを「旧横浜居留地煉瓦造下水道マンホール」の名称で文化財登録原簿に登録し、文化財として保護することを決めました。
その後、開港広場の造成工事の際にも、煉瓦造のマンホールが発見されています。



横浜開港資料館は、横浜開港百年を記念して実施された横浜市史編集事業の資料を基礎に、昭和56年(1981年)の開港記念日に開館しました。



入り口の左側に大砲が置かれています。
明治期に製造された鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東インド会社の船の備砲だったそうです。



外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社があり、明治維新の際の戊辰戦争中は武器の輸入もしていたそうです。
昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され展示されていましたが、平成15年に横浜市に寄贈されたそうです。



入り口左側の横浜開港資料館の敷地内に、旧守衛室を使用した海外の片田舎にありそうな雰囲気のカフェがあります。



横浜開港資料館は旧イギリス総領事館(横浜市指定文化財)でした。



昭和6年に建てられた邸館風建築で昭和47年まで英国総領事館が業務を行なっていました。
昭和56年からは横浜開港資料館(旧館)として公開されています。



続く................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その3

2017年09月18日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
象の鼻防波堤越しに大桟橋が臨めます。



この写真だと分かりやすいと思いますが、大さん橋の付け根から、左手方向へ延びているのが象の鼻と呼ばれる防波堤です。
2009年(平成21年)に明治期の防波堤が復元され、象の鼻パークとして開園しました。



明治期の象の鼻防波堤です。
まっすぐ沖へ伸びているのが東波止場(イギリス波止場)で、象の鼻の前身の波止場が西波止場(税関波止場)でした。
2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港しました。
1867年(慶応3年) 西波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになります。



現在の大さん橋の前身は、1894年(明治27年)に完成した鉄桟橋です。
明治の末頃から1970年頃までは『メリケン波止場』とも呼ばれていました。
2002年(平成14年)に完成した現在の大さん橋は構造的には“桟橋”ではなく“岸壁”なので、平仮名混じりの「大さん橋」が正式な表記となりました。



大さん橋へ向かう道路と山下公園に向かう道路の角に建つ『シルクセンター』です。
横浜が開港後、多くの外国の船が来航し、横浜居留地には多くの外国人商社が居を構え、日本人商社も設立されました。
それらの商社を通じ、横浜港の貿易は大きく発展し、開港から昭和の初めまで、貿易の輸出品の多くが、生糸でした。
日本全国から横浜へ運ばれ、1909年には、日本は中国を抜いて世界一の生糸輸出国になりました。
こうして、日本の蚕糸業は、日本の経済を支え、近代化に大きく寄与したのです。



そして、シルクの街・横浜からは、日本の各地に外国文化が波及していきました。
シルクセンターの対角に建つ、横浜貿易協会です。
建物は1929年(昭和4年)築で、設計・施工は大倉土木(今の大成建設)です。
創立以来、一世紀に渡り横浜市内を中心に日本の貿易及び関連事業にかかわる活動を展開しています。
同じ建物の中に、45年近くの歴史がある、情緒あふれる横浜を感じられる老舗の北欧料理店、スカンディヤ (SCANDIA)があります。



シルクセンターの前にある横浜開港資料館へ向かいます。



資料館前の広場に建つモニュメントです。
この場所でアメリカ側全権を持つ、M・C・ペリー(東インド艦隊司令長官)と『日米和親条約(神奈川条約)』が1854年に調印されました。



ただこの時点では、横浜(神奈川)の開港ではなく、条件付きで下田と、函館の2つの港のみを開くことになります。
『日米和親条約』とその後の『日米修好通商条約』については、後でもう少し触れてみます。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その2

2017年09月17日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
象の鼻パークへ向かって歩き始めて、ちょっと高くなった芝生の上(開港の丘)に横浜開港150年の記念碑があります。
2009年に開催された『開国博Y150』のマスコットキャラクター『たねまる』を御影石で復元した記念碑(高さ1.2m、幅2.7m)です。



象の鼻地区は1854年3月31日、ペリー提督が2度目の来日で初めて横浜に上陸した場所です。
『たねまる』は開港資料館にあるタマスクの木の芽が船に乗っているイメージとのことです。
後で開港資料館にも寄りますので、タマスクの木とは何か調べてみます。



記念碑の下には市民から寄せられたメッセージなどを納めたタイムカプセルが埋められ、開港200年の2059年に開けられる予定です。
こちらは記念碑の裏側ですが、こちらの方が背景がよいと思うのですけどね。



横浜市歌です。
わが日の本は島国よ 朝日かがよう海に 連りそばだつ島々なればあらゆる国より舟こそ通え ...............この横浜市歌は小学校の教育が行き届いていたのか、横浜市民のほとんどの人が歌えます。
横浜市歌は1909年(明治42年)7月1日に行われた、横浜港の開港50周年記念祝祭にて披露されて以来、市民に歌い継がれています。
作詞は森林太郎(森鴎外)、作曲は、当時東京音楽学校(現、東京藝術大学)助教授だった南能衛(よしえ)氏です。
現在も市立の小学校では、校歌とともに歌唱指導されています。
トッポパパもこの歌の作詞が森鴎外だとは、初めて知りました。



横浜の港の始まりは象の鼻地区から。それを記念して横浜開港150周年の開港記念日に象の鼻パークがオープンしました。



小泉アトリエの建築家・小泉雅生さんが『横浜の歴史と未来をつなぐ象徴的な空間~時の港~』という理念のもと、象の鼻地区の設計を手掛けました。



1859年(安政6年) 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港しました。
1867年(慶応3年) 西波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになります。
象の鼻防波堤は明治中期の姿に復元され、ガス灯を模した照明灯が設置され、関東大震災で沈んだと考えられる防波堤の一部は、そのままの形で保存・復元されています。
今は、横浜港を見渡すことがで出来る、新たなビューポイントになっています。



横浜税関敷地内に敷設された手押し車両用の「鉄軌道と転車台」の跡で、象の鼻パーク整備中に発見されました。
明治20年代の後期に整備されたもので、関東大震災の瓦礫に埋もれた状態でしたが、そのため保存状態が良かったといわれています。
ガラスの蓋を通して見る事が出来ます。
明治期の遺構ですが、横浜にはこの様な遺構が多く残っているようです。



明治時代にここを走っていた手押し車輌などの向きを変える転車台の跡だと分かります。



続く...........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その1

2017年09月16日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜に生まれ育ったトッポパパですが、横浜開港の歴史は断片的にしか追いかけたことがありませんでした。
久しぶりに青空が広がった9月のある日、運動不足解消もかねて、横浜市の歴史的建造物に認定されている横浜三塔を中心に散策してみます。



赤レンガの駐車場に車を停めて、秋近しと感じさせる青空の下の景色を楽しみながら歩くことにします。



ほぼ1年中イベントがあるのではと思っていた赤レンガの広場が、今日は何もなく広々としています。
逆に人混みのない、こういう赤レンガの写真が撮れるのも珍しいことです。



運河越しに横浜三塔のひとつ、横浜税関が観えます。
詳細は最後に訪問して紹介します。



以前に紹介した水陸両用バス『スカイダック横浜』です。



『スカイダック横浜』の乗り場は、日本丸メモリアルパークと横浜赤レンガ倉庫になっているので、この運河が通路(航路?)になっているようです。



大桟橋を臨むと、豪華客船『ダイアモンド・プリンセス』が寄港中です。
横浜に寄港する豪華客船はほとんど紹介しましたが、また未紹介の豪華客船の寄港がありましたら紹介したいと思います。



品川(汐留)-横浜(桜木町)を走った最初の列車の横浜駅は赤レンガの横にあり、そこよりこの橋梁越しに貨物船(引き込み線)が走り、横浜税関(象の鼻地区)伸びていました。
新港(しんこう)橋梁は大正元年(1912年)に英国系トラスを改良した、初期の国産トラスで当時の貨物線の遺構で、橋梁には旧山下臨港線の鉄路が残されています。



この角度で見る赤レンガと豪華客船のコラボ写真は初めてです。



続く...........................................................。