TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その177 『袋田の滝』 その1

2017年01月31日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
茨城県の太子町になる『袋田の滝』を見に行くことにしました。
横浜より首都高速湾岸線、首都高速中央環状線、首都高速6号三郷線、常磐自動車道へと走り、那賀ICで下りて国道118号線経由で太子町へ向かいました。



『袋田の滝』は寒さ厳しいこの時期、滝全体が真っ白に凍結すると聞いて、是非見てみたいと訪問しました。
残念ながら、先週末は日中の温度が上がり、久慈川も氷が解け始めています。



天気予報だと朝にかけてマイナス4-5度ですが、日中は10度近くまで温度が上がる予報なので、氷も溶けてしまうのでは心配です。



道路沿いに、瓢箪(ひょうたん)、草履、お面など不用品?が乱雑に置かれた飾り棚??のようなものがあります。



大きな食堂のようですが、よく見ると、やはり同じようにいろいろなものが乱雑に?飾られています。
この土地の風習なのでしょうかね。



イノシシ料理のお店です。
山くじらとも呼ぶそうです。



『袋田の滝』の近くまで来ると、気温も下がっているようです。



こちらのお店は何を売る店なのでしょう。
雑貨屋のようにも思えますが、なんでも鑑定団に出品できそうな古い看板がたくさん並んでいます。



『袋田の滝』近くの川は、半分以上氷が張っていました。
少し期待が持てそうです。



入り口周辺には、たくさんのお土産屋さんや食堂、また旅館がたくさんあります。
鮎の炉端焼き、軍鶏の焼き鳥やつくね、こんにゃく(田楽)、蕎麦類が自慢の地元料理のようです。



どうやって見て回るか思案中です。

続く............................................................。

動物園 動物写真その43 『メガネグマ』

2017年01月30日 | 動物園 動物紹介
今回はズーラシアの『メガネグマ』の紹介です。
ズーラシア動物園、動物図鑑の説明を引用します。



南米及びベネズエラ西部から、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアに生息する唯一のクマで、名前の由来となった鼻から目の周りや胸にかけて白くなっているのが特徴です。



標高3,000mの高山地帯の森林から雑木林、低地のサバンナまで、ヒグマのように様々な環境に適応していて、4,000mを超えるアンデスの山地や沿岸に沿った低木林などでも目撃されています。



毛色は黒色から黒褐色で、ふつうは名前のように、目のまわりにメガネのようなクリーム色がかった白色の斑紋があります。



四肢は短く、指はいずれも5本あり、爪は鋭く鉤状になっています。



メガネグマはクマの中でも草食性が強く、果実のほか木の葉や球根、サボテンなどの植物性のものを主に食べます。



木登りが大変うまいので、高いシュロの木に登って若芽を食べたり、ヤシの実なども食べます。



体長は130-210cm、体重はオス130-200kg、メス35-65kgです。



クッションになる肉球足の裏には肉球があり、木から飛び降りた時などに足への衝撃を和らげるクッションの役割をしています。



寿命としては25年~36年です。



次回は袋田の滝の紹介です。

動物園 動物写真その42 『タンチョウ、オニオオハシ & ワライカワセミ』

2017年01月29日 | 動物園 動物紹介
今回は『タンチョウ、オニオオハシ & ワライカワセミ』の紹介です。



釧路空港の名称が『たんちょう釧路空港』と呼ばれるように、釧路湿原を代表するシンボルとして地域の人に愛される鳥です。
丹頂鶴といわれるように、鶴の仲間です。
丹頂鶴とは写真ではわかりにくいのですが、頭のてっぺんが赤いツルということで、日本でツルといえば『タンチョウ』を思い浮かべる方が多いでしょう。



『タンチョウ』は一年中同じ場所で生活する留鳥で、翼を広げると2m40cmほどの大きさになる非常に大型の鳥類です。



外見は、純白のボディーに、首や羽の一部の後ろ側が黒色です。
1952年(昭和27年)、国の特別天然記念物に指定された『タンチョウ』の優雅な姿は誰しもが見ほれてしまう美しさです。



南アメリカのギアナからパラグアイにかけての、低地の熱帯雨林に生息する『オニオオハシ』です。
オニオオハシのクチバシは全体的にはオレンジに近い色をしていますが、付け根と先端に黒色の部分があります。眼の周りは黄色い皮膚が露出しており、眼の下から喉にかけての部分と両翼の間の下の部分にある腰の部分は白く、そのほかは黒色をしています。



とてもユニークな形をしていますが、『アマゾンの(空飛ぶ)宝石』と呼ばれることもあります。
この鳥はもう一度ゆっくり撮ってみたいと思います。



『笑いカワセミ(クッカバラ)』です。
オーストラリア独特のこのカワセミは、同国のマスコット的存在であり、オーストラリア人なら誰でも知っている「楽しい森の住人」です。



世界最大のカワセミの仲間で、オーストラリア原産の独特の鳥です。
体長はカラスぐらいありますが、外見は茶色の翼と白い体、そして灰色と黄色のくちばしを持つ、カワセミらしい姿をしています。



その名の通り、その特徴は鳴き声です。
表現の仕方は多様ですが、「ク、ク、クカカカ、クカカカカ・・ゲラゲラゲラ」のように聞こえる泣き声は、まるで人間が大声で笑っているようです。



頭が大きすぎる『笑いカワセミ』は、その3等身のバランスのから、とても愛くるしい容姿をしています。



次回は『メガネグマ』の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その176 『金沢城』 その5

2017年01月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
限られた時間でしたので、十分に見て回ることができずに帰路につきました。



すでに数回訪問しましたが、もう一度ゆっくり見て回りたい金沢城です。



ネット記載の金沢城の歴史です。
1546年(天文15年)に創建された金沢城の前身、金沢御堂は、地元の大坊主衆や本願寺の坊官たちが取り仕切っていました。
この金沢御堂を制圧し入城したのが佐久間盛政です。
佐久間盛政は、1580〜83年の在城でしたが、尾山八町(初期の城下町)の整備や百間堀の開削など、後の基礎を築いたと考えられています。



佐久間の後、前田利家が能登から金沢城に入りました。
利家自身は、豊臣秀吉の重臣として京・大坂にいることが多く、
慶長4(1599)年に没するまで留守にしていることがほとんどでした。
その後、宝暦や文化の火災を経て明治維新まで、利家から数えて14代の藩主が金沢城の城主となりました。



前田利家が入城し、本格的な近世城郭へと姿を整えていきます。
1592年(文禄元年)の石垣普請、1621年(元和7年)の本丸の拡張などを経て、1631年の寛永の大火後現在の金沢城に近い姿になりました。



現在天守閣はありませんが、1602年(慶長7年)の落雷によって焼失するまで本丸にそびえていました。
櫓の数は多い時は20棟を数えたといわれ、鉛瓦や海鼠(なまこ)塀が貼られた石川門や三十間長屋など、金沢城独自の偉容を誇ったと伝えられています。



1871年(明治4年)廃藩置県で明治政府のの所轄となって旧陸軍の拠点となり、1949年(昭和24年)からは金沢大学のキャンパスになりました。
その後、大学の移転により1996年(平成8年)に石川県が取得し、金沢城公園として整備を実施しています。



『三の丸』方面から『石河門』を見ています。



今回は寄ることができませんでしたが、最後に以前撮った写真で金沢の小京都『ひがし茶屋街』を紹介します。
『ひがし茶屋街』は金沢に残っている3つの茶屋街の中でも最も規模が大きな茶屋街です。
石畳の道の両側に紅殻格子のお茶屋が並んでいて、江戸時代の雰囲気を残しており重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。



金沢駅から徒歩ー分ほどの東山というエリアは、茶屋町創設時から明治初期の建築が残る重要伝統的建造物群保存地区になっています。
『ひがし茶屋街』は料亭街となった現在でも、全体が保存区域になっているのでお茶屋建の家並みが続き、夜ともなれば三味線や太鼓の音が聞こえ、雅な伝統文化の世界を垣間見ることができます。



今でもキムスコ(木虫籠)と呼ばれる美しい出格子がある古い街並みが残り、灯ともし頃には、今でも軒灯がともる茶屋から三味線や太鼓の音がこぼれてきます。
五木寛之著『朱鷺の墓』の舞台としても知られています。



それでは金沢よりお別れです。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その176 『金沢城』 その4

2017年01月27日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
1632年(寛永9年)に建設された『菱櫓』は度重なる火災によって焼失しました。
2001年(平成13年)、日本古来の木造軸組工法により約120年ぶりに木造復元されました。
1809年(文化6年)当時の姿に復元されています。



『菱櫓』はその名のごとく長方形でも正方形でもなくややつぶれた菱形をした建物で、その形からこの名前がついたそうです。
菱形の建物の平面が菱形(内角が80度と100度)になっていて、外から見る限りでは菱形であるとは気がつきません。



もともとこの『菱櫓』という建物は、『石川門』(裏門)や『河北門』(表門)から城内に侵入してくる敵兵の見張りのために建てられたもので、見晴らしがよい場所に配置されています。



兼六園が藩政期からの姿を今に残しているのに対して、金沢城は1881年(明治14年)の火災で城内の施設の大部分が焼失した後、2000年代に入って復元された施設です。
復元のシンボルとなっているのが『菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓』です。



『菱櫓』側から、『橋爪門』を向いて撮った写真です。



『五十間長屋』は『菱櫓』と『橋爪門続櫓』を結ぶ多門櫓で、武器等を保管する倉庫として使用されていました。
『菱櫓』と同様に、2001年(平成13年)に木造復元されました。
明治以降の木造城郭建築物としては最大規模です。



日本古来の木造軸組工法と呼ばれる釘やボルトを1本も使っていない木組みの工法で再建されています。
高さは17.34mあります(石垣の高さは11.7m)。
この位置は大手と搦手を見張る防衛の要であるため、堀に面した壁には石落しが設けられています。



『橋爪門続櫓』は三の丸広場から橋爪橋を渡り、橋爪門を通って二の丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓で、三の丸で戦が起きたときはここが指揮所になったそうです。



『橋爪門続櫓』は3重3階で、高さは14.69mあり、二ノ丸大手の橋爪門枡形を見張る物見櫓です。



『橋爪門』は二の丸の正門にあたる枡形門で、『石川門』、『河北門』とともに三御門と呼ばれました。
1809年(文化6年)に再建された際の姿で復元整備されています。



2008年の『橋爪門』です。
加賀100万石の大名としての格式と威厳を示すために唐破風や入母屋破風などを随所に設けた美しい外観を誇っています。



今回の『橋爪門』です。
『一の門』の後ろに『二の門』が造られました。



『橋詰門』の『二の門』です。
2015年(平成27年)に復元されたことにより、三御門全てが久々に揃いました。



続く..........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その176 『金沢城』 その3

2017年01月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
三の丸広場の兼六園側に2008年にはなかった建物が現れました??



帰宅後調べてみると、金沢城の実質的な正門である『河北門』が、2011年(平成23年)に復元されたのです。



金沢城『三の丸』の正門にあたり、『橋爪門』、『石川門』と共に三御門と呼ばれた『河北門』が、約130年ぶりに往時の姿でよみがえりました。



きちんと事前勉強せずに訪問すると..........、もう少し回り込んで写真を撮れたのに!、悔いても後の祭りでした。



この写真までは撮ったのですが.........,これが『河北門』の二の門と桝形土塀でした。



以下は金沢城の広報よりお借りした写真と説明です。
『河北門』は高麗門である『一の門』、櫓門である『ニの門』、続櫓の機能を持つ『ニラミ櫓台』で防御機能を持った構成となっています。
現在の建物は、1772(安永元)年に再建され1882(明治15)年頃まで残っていたものを忠実に再現しています。



『一の門』は、三の丸に入るための最初の門であり、幅4.7m、高さ7.4m総欅造りで、脇土塀を海鼠壁仕上げとし、土塀の内部側には隠し狭間が設けられています。



『ニラミ櫓台』櫓台です。
宝暦の大火で焼失した河北門は石川門と同様に2層の櫓がありましたが、安永元年に再建された河北門では、出し(出窓)付きの土塀によるものとなり、これを復元しています。
戦の時には狭間外側の海鼠壁を破って鉄砲狭間として使えるようになっています。



枡形内部側が『ニの門』の正面となり、石落し付きの出し(出窓)が設けられています。
門扉、柱、梁には厚さ3 ㎜の鉄板(帯鉄)が鋲で止められていて防御性を高めた装飾が施されています。



『河北門』は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する三の丸の正面であり、金沢城の実質的な正門です。
『ニの門』の『三の丸』側です。



続く.......................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その176 『金沢城』 その2

2017年01月25日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
石川門の二の門です。
二の門の石垣は「切り込み接ぎ」と呼ばれる石垣です。
金沢城はいろんな時代の石垣が見れることでも知られていますが、この石川門では枡形虎口を形成する壁面の石垣が左右で異なっています。



二の門から一の門を振り返ります。
一の門をはいった左側の石垣は、「打ち込み接ぎ」と呼ばれる石垣の積みかたです。
一の門をくぐると、右と左で積み方が違います。
修復時にこのようなことになったそうですから、もともとはすべて打込み接ぎだったんでしょう。



二の門の下から石川櫓を見上げます。



歴史を感じさせる太い柱を組み込んだ、堅牢な門です。



二の門を城内から見るとこんな感じの櫓門です。



三ノ丸広場です。
正面右から新しく復元された二の丸の菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓が並んでいます。
三ノ丸は石川門、河北門の内部の郭を指し、利家が入城した後、 重臣の居邸が建てられました。
その後、これらを城外へ移し、高知番所、 物頭番所が置かれましたが、直ぐに廃れてしまったそうです。



菱櫓は二の丸の北東隅に配置された3重3階の物見櫓です。



菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいます。




戦後から1995年(平成7年)まで城域は金沢大学となり、大学移転後は城址公園となります。
現存する石川門・三十間長屋などの修復に加え、菱櫓〜五十間長屋〜橋爪門、河北門など城内の主要施設が次々と復元されています。



橋爪門の一の門と橋爪門続櫓です。 



続く...............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その176 『金沢城』 その1

2017年01月24日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
金沢城へ向かいます。
2008年の訪問時の写真と合わせて紹介します。
兼六園から石川門を臨みます。



兼六園と金沢城公園をつなぐ百間堀・石川橋です。
現在の石川橋の下は道路になっていますが、当時は大きなお堀で、百間堀と呼ばれていました。



兼六園に向かい合う石川門は搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門で、白門とも呼ばれています。



現在の石川門は1787(天明7)年に再建されたもので、外側に高麗門形式の一の門、内側に櫓門形式の二の門、そして二重櫓を配置しています。



戦国時代、一向一揆で本願寺門徒の拠点となった金沢坊を中心に寺内町が成立し、安土桃山時代に佐久間盛政が金沢坊を攻め落とした跡に尾山城を改築したのが、金沢城の始まりです。



高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門です。



これが石川櫓です。
櫓門の上部の渡櫓や左右に続くなまこ壁の太鼓塀には、隠し鉄砲狭間や石落としなどを備え、瓦が白っぽいのは櫓の屋根には鉛の瓦が葺かれています。



鉛を使用した理由は、溶かして鉄砲弾に作り変えるための工夫だったと言われています。



秀吉から金沢城を与えられた前田利家は近世城郭に改修し、後の加賀百万石の拠点となります。



最初の門(一の門)を入ると、右に90度曲がったところにもうひとつの門(二の門)があります。



続く...................................................。

動物園 動物写真その41 『カピバラ』

2017年01月23日 | 動物園 動物紹介
今回は『カピバラ』の紹介です。



こちらはズーラシアの『カピバラ』です。
寒い日は苦手なのか、冬はなかなか写真が撮れませんでしたが、ヒーターを入れたハウスの中で暖をとっている『カピバラ』を撮ることができました。



カピバラは、ネズミの仲間で齧歯目(げっしもく)に分類されます。



地球上に現在存在する一番大きなねずみで、南アメリカのパナマからアルゼンチン北東部にかけて、川のほとりの草原や湿地帯に生息しています。
体長105-135cm、体重35-65kg前後まで成長し、寿命は5-10年です。



こちらは以前に撮った写真ですが、お湯に入り暖をとっている『カピバラ』です。
気持ちよさそうな顔をしています。



カピバラという名前は「草原の支配者」という意味のようです。



毛は硬く、背面は赤褐色から褐色、灰色などで、腹面は黄褐色などの淡い色をしています。



体つきも、全体にずんぐりとした体つきをしていて、大人のカピバラは、タワシの様に硬く長く褐色の毛で地肌が見える程度にまばらに生えています。



またネズミのシンボルとも言える尾はなく、四本の足は短く、前足は後ろ足より短かいです。



カピバラは飼いやすく、よく慣れる動物なので、国内の動物園でもよく見かけます。



次回は金沢城の紹介です。

動物園 動物写真その40 『ハシビロコウ』

2017年01月22日 | 動物園 動物紹介
今回は上野動物園の『ハシビロコウ』の紹介です。



眼光鋭くにらみつけるような目とその顔つきは、なかなか威圧的です。
全長 120cm前後で体重 5〜6kg、翼を広げると250cmぐらいです。



コウノトリに近いと考えられていましたが、遺伝子的にはペリカンに近いことが分かっています。
じっとして動かない時間が多いため動かない鳥としても知られているようですが、飛ぶこともできます。



上野動物園で人気の動物ベスト5に『ハシビロコウ』も選ばれるほど、大人にも子供にも大人気の鳥です。



生息域はアフリカのビクトリア湖周辺の湿地や川などに棲み、生息数は1000羽とも10000羽とも言われている絶滅危惧種です。



主な特徴はその名前の由来ともなっている巨大なクチバシである。
この大きなクチバシで主食の魚、主にハイギョ(肺魚)を丸呑みにします。



ハイギョなどの大きな魚を捕まえるために大きなクチバシを持っています。
クチバシの先は獲物を逃がさないように釣り針のように鋭く曲がっています。



鋭い目で視力もよく、獲物のハイギョが水の中で出した空気の泡を見つけることが出来ます。



寿命は自然では30-40年と考えられています。



関東近辺では、千葉市動物園、上野動物園、伊豆シャボテン公園にて見ることが出来ます。



次回は『カピバラ』の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その175 『兼六園』 その4

2017年01月21日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
兼六園最後の紹介は、やはり兼六園の象徴、『徽軫灯篭(ことじとうろう)』です。
最後にもう一度、虹橋手前の曲水越しの『唐崎松』の写真です。



『徽軫灯篭』の手前にある石橋、『虹橋』より『徽軫灯篭』、『霞ヶ池』の雪景色です。
『虹橋』は琴のような緩やかな曲線の反橋で琴橋とも言われます。
赤戸室石で長さ5m近くあり 幅1.1mの一枚橋で、これだけでも貴重な橋です。



こちらがトッポパパが好きなアングルです。



雪吊りもいれた冬景色です。
岡山の後楽園、水戸の偕楽園とともに日本三名園の一つの兼六園は、やはり見ごたえがあります。



『徽軫灯篭』を背景にした人気の記念撮影スポットなので、順番待ち状態でした。
琴の糸をささえる「琴柱(ことじ)」に似ているところから『徽軫灯篭』と呼ばれるようになりました。



兼六園の象徴的な『徽軫灯篭』の高さは2.67mで、片方の足(約2m)は水中にあり、もう片方は陸上にあり80cmです。



兼六園絵巻には両方とも同じ長さで描かれています。
当初は同じ長さだったようです。



今や兼六園だけでなく金沢のシンボルで、独特といわれるのは竿が変形で2脚です。
いずれも断面は方形で、虹橋から右側の脚が短いのは、明治に入り何らかの理由で折れたために、切り石の上に乗せられたという説もあります。



当時、県は財政難でこの灯籠を直せず、止むをえず片足を石の上に置いておいたのだといわれる説もありますが、それがかえって珍しい灯籠だというので全国的に有名になったのですから、良かったのかもしれません。



雪の写真もそれなりにいい味が出ますが、好天のほうが写真は鮮明に撮れます。



3度兼六園を訪問しました。
最終的な感想ですが、撮りたい写真をしっかり撮るには、事前の勉強と丸一日かけなくては兼六園全般を紹介しきれないということがわかりました。



またいつか、機会があれば挑戦してみます。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その175 『兼六園』 その3

2017年01月20日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
歴代藩主に受け継がれ、それぞれの時代や好みを反映して造られた兼六園ですが、ひとつの一貫した作庭思想があります。
それが『神仙思想』です。



こちらの写真のほうが『蓬莱島』がわかりやすいと思います。
兼六園の場合は、霞ヶ池を大海として、『蓬莱島』が浮かぶ島、『神仙島』です。
『神仙思想』は中国から伝わった考え方で、『史記』によると、遠い海のかなたに三つの神山があり、ここには神仙人が住み、不老不死の霊薬があって、この薬を飲むと未来永劫の繁栄が約束されるという。
この『神仙島』を庭に移し、不老不死と永遠の繁栄を願って作庭されたのが、神仙思想による庭園であると説明されています。



2008年の雪の日に『唐崎松』を少し離れて撮った写真です。



『明治紀念之標(めいじきねんのひょう)』です。
1880年(明治13年)に建てられた、身長5.5mの日本最古の銅像で、西南の役で戦死した郷土軍人の霊を祀り記念するために建てられました。



中央の日本武尊(やまとたけるのみこと)像の両脇に植えられた赤松は『手向松(たむけまつ)』と呼ばれ、当時、京都の東西両本願寺の門跡から移されたものです。



曲水・辰巳用水(きょくすい・たつみようすい)の雪被りの写真です。
辰巳用水は兼六園が造営される以前、1631年寛永8年の大火の翌年、3代藩主前田利常が、金沢城の防火用水として築造を命じたものです。



雪の写真もまた、違った趣があります。
小立野台地にある兼六園へは、犀川の上流約10kmから引いている辰巳用水が利用されてます。



兼六園の美を演出しているのは、辰巳用水の水路(曲水)です。
現在は、辰巳用水の途中で、地下に「兼六園専用管」を敷設し、そこから水を引いているそうです。



辰巳用水は、金沢城から10キロ離れた犀川上流で取水し、兼六園を通り低い場所へ落ちた水を逆サイフォンの原理で引き上げ、有事の場合は金沢城のお堀まで流す設計です。



『瓢池』の日本最古の噴水です。
藩政末期、金沢城内の二ノ丸に水を引くため試作されたものと伝えられています。噴水より高い位置にある霞ヶ池を水源とし、池の水面との高低差を利用した自然の水圧で吹き上がっています。
水の高さは通常約3.5mあり、霞ヶ池の水位の変化によって変わります。



金沢城の向かい側の瓢池とその周辺を『蓮池庭(れんちてい)』と呼んでいます。
兼六園の作庭は、このあたりから始まったと言われています。



続く...................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その175 『兼六園』 その2

2017年01月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『唐崎松』です。
13代藩主・前田斉泰が、琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てた黒松です。



昔から著名な名勝と知られた唐崎の松並の風景を園内に写す目的でこの作業が行われたようです。
年月を確定することは難しいことですが、斉泰候が13代藩主に就任してそれほど経過していない、1830年代頃ではないかと推定しますと、樹齢は約170年くらいでしょう。



こちらも石川県立歴史博物館所蔵の兼六園絵巻に描かれている『唐崎松』です。
兼六園絵巻に描かれている唐崎の松はまだ幼い姿をしています。
しかし、小さいながら池中に張り出した広がり、主幹が蛇行形を取りながら上に向かっている様子は、現在の姿を彷彿とさせます。



兼六園では、雪害から樹木を守るため、毎年11月1日から雪吊りを実施し、兼六園の冬の風物詩になっています。
雪吊り作業は、毎年「唐崎松」から始め、テレビでも放映されます。



園内随一の枝ぶりを誇るこの松は、5本の芯柱が建てられ、総数約800本の縄で枝を吊ります。
高さ9.0m、枝張り20.0m、幹周り2.6m 、16.0mの芯柱アテ丸太5本・藁縄(荒縄)径6、8mmの縄を50~200本を使用します。



こちらは2008年の写真です。



霞ヶ池の反対側から霞ヶ池に写る雪吊り写真を撮りました。 



ガイドの人の話を聞くと、最近は暖冬のせいで雪景色になるのは10日前後しかないので、風物詩としての雪吊りを見に来る観光客が多くなったようです。



霞ヶ池を回ってみます。
面積約5800m2(1800坪)、深いところで水深1.5m、兼六園で一番大きな池です。
藩政時代は、かつて蓮池庭内にあった四亭の一つで、1874年(明治7年)に現在の場所(霞ヶ池の南西岸)に移築した『内橋亭』です。



池を拡張し現在の大きさになったのは 13代藩主・前田斉泰の時代で、栄螺山、内橋亭、徽軫灯籠、虹橋、唐崎松、蓬莱島など、霞ヶ池を廻遊しながら四季折々の庭景を楽しめるよう配慮されています。



左に『蓬莱島』が見えるこの景色も好きです。
『蓬莱島』は霞ヶ池の中にある島で、亀の形をしているので『亀甲島』とも呼ばれます。



続く..........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その175 『兼六園』 その1

2017年01月18日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
兼六園の紹介です。



金沢城石川門前の石川橋から兼六園桂坂口へ向かいます。



記念撮影です。
多少の雪を期待していたのですが、年末はまだ積雪はありませんでした。
北陸は最近寒波の到来で大雪が降りましたので、現在は一面雪景色でしょう。



月見橋から雁行橋を臨みます。



11枚の戸室石が、雁が列をなして飛んでいるように見えるところから『雁行橋』という名前が付いています。



『雁行橋』の奥に見える橋は『雪見橋』です。



石川県立歴史博物館所蔵の兼六園絵巻に描かれている『雁行橋』です。



雪がないので、2008年の多少雪を被った写真も時々合わせて紹介します。



石の1枚1枚が亀の甲の形をしているので『亀甲橋(きっこうばし)』とも呼ばれています。



右が『雪見橋』です。
雪見橋の下流に御影石製の『雪見灯篭』です。
曲水にかかる雪見橋の奥にある築山は、七福神に見立てた七つの自然石を配してあることから『七福神山と呼ばれています。
中央にある主木のアカマツは、鶴が巣をつくったことから、『巣ごもりの松』とも呼ばれています。



『雪見橋』は青戸室石で長さ4.7m 幅2.24m 厚さ29cmの一枚石を2枚並べた物で、七福神山の麓に掛かる反橋です。
七福神山周辺は12代藩主前田斉広の隠居所、竹沢御殿から眺めるためにつくられた庭園の一部で、曲水護岸の石組み、雪見橋や雁行橋、雪見灯籠などの配置もほとんど当時のまま残っています。



続く...................................................。

動物園 動物写真その39 『オットセイ & イルカ』

2017年01月17日 | 動物園 動物紹介
今回は『オットセイ & イルカ』の紹介です。



ズーラシアのミナミアフリカオットセイです。
2亜種が存在し、アフリカ産のものはミナミアフリカオットセイ、オーストラリア産のものはオーストラリアオットセイと呼ばれています。



アシカ科のミナミアフリカオットセイはオットセイの中で最も大きな種類です。
焦げ茶のビロード状の体毛をしており、泳ぎが得意で、脚を使って陸上も移動できます。



砂浜や低い岩のある海岸に棲み、海岸近く比較的水深の浅いところで魚介類を採食すると言われています。
体長はオス230cm、メス180cm、体重はオス350kg、メス120kgぐらいです。



こちらは八景島シーパラダイスのアシカです。
オットセイ、アシカ、アザラシの区別の仕方がネットに載っていました。

『アザラシ』…耳介がない、五本指と鉤爪がある、陸上では這うように移動、体毛は硬い剛毛のみ。
『アシカ』…小さい耳介がある、前肢はヒレ状、陸上で歩行できる、体毛は硬い剛毛のみ。
『オットセイ』…耳介がある、前肢はヒレ状、陸上で歩行できる、硬い剛毛の下に柔らかい綿毛がある。



八景島シーパラダイスのイルカです。



ハンドウイルカは、最も有名なイルカで、多くの人がイルカと聞いて思い浮かべるのがおそらくこの種です。
生物分類上はイルカとクジラに差はないそうで、大きいものを「クジラ」、小さいものを「イルカ」としているようです。



高い知能をもち、水族館において海面上へのジャンプや立ち泳ぎ等によるイルカショーを披露しています。
ドルフィンウォッチングも盛んで、日本各地でも観察することが可能です。



イルカは高い周波数のパルス音を発して、物体に反射した音からその物体の特徴を知る能力を持っています。
その特徴を他のイルカにパルス音で伝えて、コミュニケーションをとる能力があります。



全長は約3.5mほどで、体色は背側が灰色で、腹部に近づくにつれてやや白くなっていきます。



シロイルカ(ベルーガ)は北極海からやってきた大型のイルカです。
真っ白で背ビレがない体に、大きくて丸い頭部など、他のイルカの姿とはずいぶん違います。
八景島シーパラダイスでは、シロイルカパフォーマンスが見ることができます。



次回は兼六園の紹介です。