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TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その5

2017年03月16日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
松本城天守群は、大天守・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)の五棟で形成されています。



大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式の天守です。



天守南東の月見櫓は太平の世になって増築された月見のための櫓です。
櫓の周りには朱塗りの回縁が巡らされています。
東西四間×南北三間で、月見櫓の北側、東側、南側の三方向が開口部で、柱と舞良戸(まいらど)という横に桟(さん)を打った薄い板戸だけの建物です。
月見をするときは、この舞良戸を外し、畳敷きの部屋で東から昇る月を愛でたのでしょう。



乾小天守側から月見櫓を臨みます。
この月見櫓は、松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令という統制の厳しい中、寛永年中に、三代将軍家光を迎えるために増築されたものといわれています。
現存する城郭建築の中で、月見櫓をもつのは岡山城と松本城だけですが、天守と一体となった造りとなっているのは、松本城だけとなっています。



月見櫓の南側には左手前の内堀に降りられる通路があります。
ここの船着場から船に乗り込み堀へ出たのでしょう。



右下が渡櫓で、大天守への入り口になります。



10年前に来た時は観光客が多く、内部の写真はほとんど人ごみで撮ることができませんでした。
今回は何とかなりそうです。



靴を脱ぎ、1階に上がり、すぐに2階へ行く急な階段です。



大天守と乾小天守とをつなぎ、自然の木をそのまま使用して梁として使っています。
こうした曲がった梁は、彦根や金沢など他の城でも使用されています。



2階は比較的窓が多く明るい階です。
縦格子窓(武者窓)が三方にあり、武士たちが詰めている武者溜りの4部屋があったようです。



続く.............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その4

2017年03月15日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
一の門を見上げると、鉄板を貼り付けられた太い柱に築城した石川家の家紋「五七桐」が描かれた装飾金具が付いています。
それでは本丸庭園に入ります。



現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城、松本城が目の前に現れます。



記念撮影用のマスコットが設置されています。
松本市市制施行100周年のマスコットキャラクターだった『アルプ』ちゃんです。



2008年4月からは、松本市のマスコットキャラクターとして再出発しました。
もともとは帽子は北アルプス、服は豊かな自然を表す緑色、楽都イメージしたバイオリンを持ち、花いっぱい運動の発祥地であることから花の飾りを頭につけたアルプちゃんでした。



こちらのアルプちゃんはバイオリンの代わりに刀を持ち甲冑をつけた松本城バージョンでしょう。



幸いなことに、平日、早朝、小雨模様ということもあり、観光客もまばらです。
どこが本丸公園から撮るベストスポットか探してみます。



松本城は標高590メートルの盆地内平地に築かれた平城です。
松本城は城郭を囲む三重の堀と土塁・石垣を備え、出入り口や土塁の上に櫓や城門などが築かれました。
武士を三の丸内に居住させて、防備を固めていました。



手前の芝生広場は本丸御殿跡で芝生広場内に黒い瓦で線が引いてあるのが往時の本丸御殿の外周です。
本丸御殿は、天守の完成後の建造で、城主の居所と政庁を兼ねていました。
往時は政治の中枢部でしたが、享保12年(1727)に焼失してしまい、以後、再建されませんでした。
現在では、本丸庭園として整備されています。



松本城は秀吉の時代、江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれています。



これらの天守群は、昭和4年(1929)に制定された「国宝保存法」により、昭和11年(1936)4月20日国宝に指定されました。



続く....................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その3

2017年03月14日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
二ノ丸を太鼓門方面へ進み、内堀越しに見る黒門と大天守です。



松本城の特徴は二の丸、三の丸跡が残り、本丸を囲う本格的な内堀が残っていることです。
城全体を囲む外堀は大正時代から昭和にかけて埋め立てられ、現在は住宅地になっています。



この外堀を掘り起し、かつての広大な外堀を復元しようという松本市の計画があるとの話です。
実現できれば素晴らしいことですが、膨大な経費と年月がかかりそうです。



ここからの景色は周囲のビルがフレームからはずれるので、とてもいい雰囲気の写真になります。



本丸に入る正門の黒門で高麗門(二の門)です。
本丸防衛の要で、櫓門と内堀にはり出した外桝形からなり、櫓門(一の門)と高麗門(二の門)で構成されています。
平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元されました。
この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。
これより内側は有料となります。



本丸に入る最後の門、櫓門(一の門)です。
この門を入るとかつては本丸御殿がありました。
本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。



甲冑武者がいました。
トッポパパも一緒に記念撮影をお願いしました。



大小、長短の石を組み合わせて積み上げ、角を整えています。
松本城の防衛の要になる門なので、立派な作りです。



甲冑姿の戦国武者や麗しい登久姫さまなど、国宝松本城おもてなし隊と記念撮影ができるので、海外からの観光客には大人気でした。



門の屋根を見上げると歴代城主の家紋の付いた軒丸瓦が見れます。
これは昭和25年~30年に行われた天守解体修理の際、まだ使える瓦を保存して再利用したからです。
その瓦を昭和35年、黒門一の門復興の折に使用したため、いろいろな城主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。



続く,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その2

2017年03月13日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
松本城のオフィシャルサイトからの抜粋で松本城の歴史をたどってみます。
松本城天守が建築される以前に、松本盆地を囲む山々に山城が築かれていました。
松本城のあたりには深志城があり、これが現在の城の前身であるといわれています。
室町時代に深志郷を統治していたのは坂西氏で、そこに城を築いたのが島立氏で、永正元年(1504)に深志城を造ったといわれています。

武田信玄は林城にいた小笠原長時を追い出すと、北信濃への侵攻の拠点として、平地にあった深志城の場所を選び城代をおきました。
深志城を拠点とした武田氏の統治が32年間続き、天正10年(1582)織田信長によって武田氏が滅ぼされると、木曽から入った木曽義昌、それを追って上杉景勝の後ろ盾を得た小笠原洞雪と城主がかわります。
小笠原長時の嫡子貞慶は信濃に帰って旧臣の支援を取り付け、深志城を奪還して深志を松本と改めます。
城郭と城下町の建設に手をつけた貞慶ですが、徳川家康の関東移動にともなって息子の秀政とともに古河へ移ることになり、天正18年(1590)、8年間いた松本を離れました。
豊臣秀吉の命を受けた石川数正が松本へ入ってきます。



石川数正は息子康長とともに小笠原貞慶が手をつけた城郭の整備と城下町の拡充に着手します。
その様子は『信府統記』は次のように記しています。
『数正は二の曲輪に慰み所をつくり城普請を催す。康長は父の企てた城普請を継ぎ天守を建て、総堀を浚い幅を広くし、岸を高くして石垣を築き、渡り矢倉を造り・黒門・太鼓門の門楼をたて、塀をかけ直し、三の曲輪の大城戸を門楼にした。
総堀の周りの塀は大方たち、城内の屋形も修造した。郭内には士屋敷を建て、郭外にも士屋敷を建てた。』

内堀を渡ったところにある門、二の門(高麗門)です。
平成元年11月、この門とこれに続く控塀がつくられ、枡形が復元されました。
この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。



トッポパパは傘もささずに写真を撮りながら歩くので、家族は待ちぼうけです。
前回訪問した時は時間がなく見逃してしまった太鼓門へ、本丸に入る前に先に向かいます。
控塀に沿って歩くと、右に太鼓門が見えます。



太鼓門枡形の一の門です。
太鼓門は城郭への入口でもあり、城下に時を知らせた太鼓門です。



太鼓門は、一の門、二の門からなり、その間に枡形が形成されています。
太鼓門枡形は、文禄4年(1595)頃に築かれ、門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図などの発信源として、重要な役割を果たしていました。
現在の門は、平成11年に復元されたものです。



城主は、来城した他家の侍に対して自分の城を誇り、また領民に対しての権威付けも必要なので、玄関先には自慢できるものを飾ります。
上田城には「真田石」、大坂城には「蛸石」などと同様に、この松本城にも左にある「玄蕃石」があります。

松本城最大の石で、重さ約22.5トンあります。
松本城を築城した石川玄蕃守康長が運ばせた巨石で、康長の名にちなんで玄蕃石と呼ばれています。



江戸時代は倉庫として使用されていました。明治初年に破却されましたが、平成3年から発掘調査、同4年に石垣の復元を完了し、同11年に土台石の形に合わせて柱を削り、太鼓門が復元されました。
樹齢400年の檜、梁は140年の松を使用しています。



一の門の内側に置かれている「切株」です。
この切株は平成8年(1996)-111年(1999)に太鼓門が復元された際、櫓内の梁に使用された、その赤松の根元です。



一の門をくぐると右側に二の丸があります。
二の丸側から見た太鼓門(一の門)です。



10年前に撮った写真に下2枚の写真があるのですが、今回は見落としたのか、またはなくなったのか?



この門がなかったような???
立ち位置が違うのかも知れません。



現在の二の丸御殿跡です。
本丸御殿と二の丸御殿は、文禄3年(1594)頃に竣工した天守に続いて建てられたと考えられています。




続く...............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その1

2017年03月12日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
今回から『松本城』の紹介です。



新幹線で長野まで直行します。
この連結した部分の写真は、いつも興味深く撮ってしまいます。



退職後4年も経ちますので、新幹線に乗るのも久しぶりです。



長野駅で篠ノ井線に乗り換え松本へ向かいます。



松本駅です。
生憎の小雨模様ですが、平日なのでそれほど観光客も多くないでしょうから、しっかり写真を撮ることにします。



松本城近く、大名町通りの左側に、ビルの谷間にお城が!
青翰堂(せいかんどう)という本屋(古本屋?)で、松本城のミニチュア版としてテレビで紹介されることもあるそうです。
店主が松本城のことが大好きで、立派な鯱(しゃちほこ)もついた天守閣も造られています。



以前松本城を紹介したのがちょうど10年前でした。



スタート地点は同じ、松本城の石碑です。

城によっては城址、城跡と書かれた石碑の類があります。
現存する12の天守閣を持つ城は、城址、城跡と言わず分けられているようです。



そのまま進むと、内堀越しに松本城大天守が見ることができます。



安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定されています。



続く....................................................................。

動物園 動物写真その53 『マヌルネコ & ケープハイラックス』

2017年03月11日 | 動物園 動物紹介
今回は『マヌルネコ & ケープハイラックス』の紹介です。
上野動物園のマヌルネコです。
動物園ではガラス越しにしか撮影できず、屋内で照明も暗く、動きの早い動物はうまく撮れませんでした。



マヌルネコはずんぐりとした体が特徴の食肉目ネコ科の動物で、別名モウコヤマネコとも言われます。
中央アジアに分布し、マヌルとはモンゴル語で「小さいヤマネコ」の意味です。



ネコ科の動物の中では最も古い種から約1500万年前に分岐した最初の2種のうちの1種であると考えられています。
他のネコ科の動物と比べると足や爪が短く、特徴的な顔つきで、額は高く、丸い耳が低く離れた位置に付いています。
これは目の位置が高いところにあるのでそう見えるとのことです。



マヌルネコは独特な威嚇行動をとり、片方の上唇を釣り上げ震わせて、大きな犬歯をむき出しにします。
しかし、この顔は怖いですね。



体長50-65cm、尾長21-31cm、体重2.5-5.0kg。
体毛が長く密集して生えているので丸々と太った立派な体型に見えます。
優しい顔をしているときは、家でも飼いたくなるネコみたいです。



ケープハイラックスです。
大きなネズミのように見えますが、イワダヌキ目という独立した動物分類群に属しています。



外見がウサギやテンジクネズミに似ていますが、足には蹄に似た平爪があり、原始的な有蹄類との関係が認められる動物とされています。



岩山の割れ目なに棲み、草、果実、花などを食べます。
体長は40-50cm、体重 2.5-5kgです。



アフリカ、アラビア半島のほぼ全域に分布しています。
主に岩地やサバンナ、低木林などに生息していますが、砂漠や半砂漠のような乾燥した環境にも棲んでいます。



体温調節が苦手なので、寒い日はひなたぼっこで体を温めます。
湿った手や足の裏は常に湿っていて、岩などを登る時の滑り止めの役割をしています。



次回は松本城の紹介です。

動物園 動物写真その52 『ピグミーゴート & ヤブイヌ』

2017年03月10日 | 動物園 動物紹介
今回は横浜ズーラシア動物園の『ピグミーゴート & ヤブイヌ』の紹介です。
ピグミーゴートは西アフリカのカメルーンが原産といわれる超小型の家畜ヤギです。



成獣でも体高40-50cm、体長60-70cm、体重20-35Kgぐらいです。
股が短く、体が小さいことが特徴で、粗食に耐えます。



1950年代にアメリカに持ち込まれ、そのおとなしい性格からペットとして大人気になりました。
体色も黒・白・茶とバリエーションがあります。



ピグミーゴートは山岳部の岩場に生息し、ヒヅメは4本で後ろ2本の指は浮いていて、険しい岩場で滑らず動き安くなっています。



ヤブイヌです。
約1000万年前から今の姿のまま続く、イヌ科の中でも古い種族といわれています。



ヤブイヌはイヌの仲間よりも上下の大臼歯が1対少なく、足の指の間には水掻きのようなものがあり、泳ぎが巧みと言われています。
また、胴が長く、四肢も短いので、一見アナグマに似た感じがします。



ヤブイヌは南アメリカ北部の森林や草原などに広く分布し、英語でBush Dogと呼ばれています。



全身はがっしりとして、毛色は前身が黄褐色や暗褐色、灰褐色などで、後身や下腹部、四肢、尾などはそれよりも黒っぽいです。
森林や草原に広く分布し、特に水辺を好みます。



小型哺乳類や鳥類、魚介類などを食べています。
10頭程の群れで生活し、カピバラなどの大型齧歯類を集団で狩ることもあります。
尿によるマーキングは雄が片足を挙げるのに対して、雌は縄張りを示すため、逆立ちしておしっこをするそうです。



つぶらな瞳に短足で胴長の体は愛嬌たっぷりです。
藪で暮らすためにとても便利な体型で、巣穴で暮らすうえでも役に立ちます。



続く...............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その181 『白川郷』 その7

2017年03月09日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
白川郷が日本有数の豪雪地帯であり、また秘境と呼ばれたのは、飛騨地域の中でも山間の険しい地域と、その急斜面地の間を流れる庄川が冬季に周辺との交流を遮断したようです。



白川村の人口(外国人含む)は2016年で1700人弱、世帯数580世帯前後です。



年間に白川村を訪れる観光客数は170万人近くになり、人口の約1000倍の観光客が訪れている計算になります。
白川村を訪れる外国人観光客も26万人を突破し、過去最多を更新しているそうです。



にもかかわらず、居住者のいない民家もあるとのことでした。
これからも人口減少による過疎化は深刻な問題のようです。



観光産業の発展が村内経済に寄与しているのは間違いないでしょうが、その発展の反面、村の自然や社会環境に影響を与え始めている面もあるのでしょう。



観光客用に合掌作りの家を移転させ、新規に保存させているエーリアもあります。



本来、ここに建っていたとは思えない場所なので、個人的にはちょっと違和感を覚えました。



観光客に目立つような大きな白文字の看板などは、景観を損ね始めているので残念です。



トッポパパも高齢になり、もう訪問する機会もないとはいえ、白川郷の自然と調和した環境を是非とも存続させて欲しいと願っています。



それでは白川郷よりお別れです。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その181 『白川郷』 その6

2017年03月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
4-5年前の写真です。
豪雪地帯の長い冬の名残りです。



鯉のぼりですから、4月下旬でこれから遅い春を迎える白川郷です。



周囲の山々の雪解けもあり、水路の水の流れが早いです。



白川村は水の良さにも定評があります。
『いろはす』でよく知られているミネラルウォーターの北陸地方の製品は、白川村流域の庄川水系から採水されています。




澄んだ水路には結構大きな鯉?も泳いでいます。



合掌造りの巨大な屋根を固定しているのは、柔らかい縄やネソと呼ばれる樹木(マンサク)の繊維です。
柔らかい素材で結び付けられた大屋根には、適度な弾性があり、その弾性は雪の重さや、風の風圧に対する柔軟性があります。



茅(かや)の屋根は、水を吸着する性質があり、水を弾かないのでジメジメと湿りやすくなります。
水をタップリ含む茅は、屋根の表面20cmほどは湿っていますが、吸い取った水は屋根の急傾斜によって、軒方向へ排水されます。
水を弾く素材を茅に使用すると、茅が水を弾き、軒先に流れ落ちるスピードよりも速く家屋内部へ水を落としてしまうそうです。
気候風土を考えて、よく考えられた合掌作りの屋根です。



出番待ちの案山子が軒下に並んでいます。



積雪が3mを越えることもある白川郷では、一夜にして1mの雪が積もることも珍しくないそうです。
合掌造りの屋根が45~60度という急勾配を持つのは、雪おろしの作業軽減のためですが、豪雪で積りすぎると2階から出入りすることもあったようです。



その昔は、こんな恰好で風雪に耐えていたのでしょう。



現存する家屋は約60棟で、歴史的町並みや集落が世界遺産となっているのはこの白川郷と、隣接する五箇山です。

続く...........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その181 『白川郷』 その5

2017年03月07日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
白川郷の合掌造りを眺めるなら、荻町を見下ろす高台にある荻町城跡展望台に上らなければなりません。
帰りの飛行便の出発時間から逆算すると白川郷で滞在できる時間は1時間半です。
駐車場から出会い橋経由で、和田家まで写真撮りながら約10分歩いたので...........................どうする?
和田家前の道路沿いから、展望台までの20分おきのシャトルバスに乗ることにしました。



10分待って乗車、6-7分で展望台到着です。
ここからがトッポパパの滅茶苦茶な行動です。
シャトルバスの出入り口の一番近くに乗り、車内でカメラの設定、降りたら勝手知ったる展望台まで駆け足、3分ほどで撮影終了、とんぼ返りで乗ってきたシャトルバスに飛び乗り、20分で和田家前まで戻りました。



トッポママはゆっくりメガネをかけて鑑賞する間もなく、唖然としていましたが、すぐに帰るぞ!では怒られますよね。
でも、そのあとゆっくり回れたので、勘弁してもらうことにしました。



荻町城は、約400年前、室町8代将軍足利義政の命令で信州松代から白川郷へ進出した、内ケ島為氏の家臣山下氏勝の居城だった場所です。
荻町展望台は記念撮影ポイントとしても人気で、新緑、紅葉、雪景色の合掌集落を一望できる絶好のポイントです。
あとは天気次第でしょう。



南北に細長い白川郷の渓谷には、谷筋に沿って南北の風が吹き抜けます。



白川郷の合掌造りの屋根が南北にほぼ平行に造られているのは、その吹き拔ける風を屋根裏に通すためです。
その構造のおかげで、屋根裏の窓を開放すれば、屋根裏の養蚕には天然の空調効果があったのです。



こちらは以前に、みぞれ降る中震えながら撮った写真です。



雪に覆われた白川郷の家屋の、その生活の厳しさが感じられます。



春の白川郷集落です。
傾斜の60°の急勾配の屋根を持つ合掌造りは、豪雪を重力により振り落とす役割と同時に、広い「屋根裏」を確保することができました。
合掌造りの茅葺屋根は30年から50年の耐久性がありますが、その葺き替えには数百人もの人手が必要です。
村中が協力して役割を分担して、屋根葺き作業を行うことを『結』と呼ばれます。



合掌造りの屋根葺き替えには、現在の金額で3000万円以上の金額がかかるそうです。



続く....................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その181 『白川郷』 その4

2017年03月06日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
白川郷にいつ頃から人が住んでいたのか、詳しいことは分りません。
ネット情報をもとに、白川郷の簡単な歴史を抜粋してみました。
源平合戦の初期、木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたという説もあるようですが、伝説の範疇を出ないという記述もあります。



司馬遼太郎の『街道をゆく四 白川谷の村々』によると、「飛騨国白川谷という秘境の渓谷に住む人々のすべてが、室町末期に浄土真宗の門徒になり、この宗門の法儀によって統一された単一の秘境文明をつくった」と書かれています。



白川郷が歴史に登場するのは、鎌倉初期の建長5年(1253)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教してからです。



白川郷の農民たちの間に浄土真宗が広まり、のちに熱烈な浄土真宗の信仰地となっていきます。



戦国時代になり、1582年本能寺の変で織田信長が討たれた頃、豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、白川郷を攻撃しました。
金森長近は白川郷の鉱山資源に目をつけ、豊かな村にします。



江戸時代の中頃に養蚕業が盛んになり、養蚕スペースを設けるために民家が大型化して合掌造り民家が誕生しました。



明治に入ると、社会制度と経済の変革によって、白川郷の生活は大きく変わります。
煙硝生産が規制され、チリ硝石の輸入によって煙硝作りが廃れてしまい、家屋の屋根裏を利用した養蚕がより盛んになります。



第二次世界大戦後には、桑畑の水田化により養蚕業が廃れて大型合掌造り民家の必要がなくなってしまいます。



昭和36年(1961)の御母衣ダムの建設により、300戸以上の合掌造り民家を湖底に沈め、過疎化が一気に進みます。
 


その後、保存活動が始まり、高山の飛騨民俗村、下呂の下呂温泉合掌村、白川郷にも集落を再現した合掌造り民家園が誕生しました。



続く.................................................................。。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その181 『白川郷』 その3

2017年03月05日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
5月初旬の春の和田家です。



枝垂桜が春を告げています。



長瀬家です。



長瀬家は250年つづく旧家で、初代から三代目までが医者でした。そのため、江戸期の医療道具が残されています。



長瀬家は5層建ての合掌造り家屋で、約11メートルの一本柱(合掌柱)が上から下まで貫き、大きな屋根を支えています。



合掌柱の材木は樹齢150年以上の天然檜を用い、そのほか樹齢300年を越える桂、栃、欅等が随所に使われています。



3,4階は、養蚕の作業場で、5階は、薬草の干し場です。



年末訪問時は、柿がたわわに実っていました。



合掌づくりとは茅葺きの屋根が掌(てのひら)を合わせたような急勾配で、山形をしています。
白川郷では屋根の両端が本を開いて立てたような形の『切妻合掌づくり』と呼ばれるます。



白川郷の重く多い積雪に耐える風土に適した構造で、築材の接合には木製のくさびや、ねそ(マンサク)などが用いられ、金属の釘やかすがいは使われていません。
屋根の骨格は風雪に強く、年月とともに強度を増すという、風土に生きた先人の知恵が込められています。



続く.............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その181 『白川郷』 その2

2017年03月04日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
白川郷の水ぬるむ春(4月下旬)の『和田家』です。



和田家は住居としての活用を続けながら、1階の半分と屋根裏部分を公開しているので、歴史ある合掌造りの内部を見学する事ができます。



しかも、庭や生垣、周囲の田畑や水路などの周辺環境の保存状態も良く、代表的な合掌家屋としての風格と美しさを誇っています。



間口14間、奥行き7間の建坪は、白川村に残された合掌造りの家屋としては最も規模が大きいものです。



和田家の内部は以前訪問した時の写真で紹介します。



囲炉裏の間や仏間があり、昔、実際に使われていた生活用具や民具、農具などが展示されています。



内部は昔の写真です。



白川郷の集落では、この広い屋根裏を使って養蚕が盛んだったそうです。
屋根裏を見ると、豪雪にも耐える太い柱や梁がわかります。



屋根裏、天井の木組みなどの造りなどを見ると、合掌造りの構造の様子がよくわかります。



ワラやマンサクを使い、柱と屋根を固定しています。



続く................................................................。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その181 『白川郷』 その1

2017年03月03日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
トッポパパ三度目の白川郷訪問です。
白川郷のせせらぎ公園駐車場から『であい橋』を渡ると白川郷の合掌集落とつながっています。



現代社会からタイプスリップする架け橋のような『であい橋』です。
『であい橋』が架かっているのは庄川です。
庄川はよくみると少し白い色をしており、これが白川郷の由来とも言われています。



せせらぎ公園側の集落です。
ここは帰りに見て回りたいと思います。



川を横断する橋は一般的に中央部分を一番高くして、両端へ下っていく設計となっていますが、『であい橋』はそれが逆になっています。
これは吊床板形式で、両岸からPCケーブルを引っ張り、橋を固定しているので中央付近は吊り下がった状態となります。
『であい橋』は全長107m、床版が宙に浮いている部分の長さ実測100mとされ1993年に完成しました。
幅は4m、橋の中央部は1.5mあります。



『合掌造り』は、屋内を有効利用するため、合掌構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋のことです。
日本の他の地域にはみられない、白川郷と五箇山地方のみに存在する大変特色のある民家の形式です。



周囲と調和した橋です。
庄川のかつての呼び名は「雄神川」とよばれていましたが、河川そのものが「雄神の庄の川」と呼ばれ、「庄川」という名前になりました。



駐車場から『であい橋』を渡ると荻町合掌集落です。
左に曲がり少し進むと最大規模を誇る合掌造りの『和田家』がほぼ中央に観えます。



白川郷の代表的茅葺き合掌造り住宅で、国指定重要文化財として築後約300年が経過した今も生活が営まれ続けています。



以前訪問した時の、雪が残る『和田家』周辺の写真です。
和田家は江戸期に名主や番所役人を務め、白川郷の重要な現金収入源であった焔硝の取引によって栄えました。



白川郷合掌造りの家々は、江戸時代の中期から昭和時代の初期の間に岐阜県の白川村と富山県の五箇山地区に造られました。
豪雪地帯であり、過疎化が進み、火災、ダム計画など度々危機が訪れたようですが、そんな様々な危機を乗り越えた世界遺産・白川郷をもう一度ゆっくり見て回ります。



続く.......................................................。

動物園 動物写真その51 『ニシローランドゴリラ ②』

2017年03月02日 | 動物園 動物紹介
『ニシローランドゴリラ』の家族写真?も撮れましたので、続けて紹介します。



顔や耳、手足は黒く、毛はない。鼻孔は大きく広がっていて、耳は小さいです。



貫禄十分です、ママゴリラかな?



自然では一頭の雄を中心に、数頭の雌とその子どもたちからなる、10頭程度の小さな群れで生活しています。
その群れは一夫多妻の家族集団と思われ、ときには群れ同士が一緒になることもあります。



毛色は黒褐色で、成獣の雄の背中は灰色になり、シルバーバックと呼ばれます。
ローランドゴリラは動物質のものをほとんど食べない「菜食主義者」です。
興奮したり、機嫌のよいときに、両腕で胸をたたいて音を出す行動をとることがありますが、これをドラミングといいます。



前足は後ろ足よりも長く、ゴリラが四肢で立つと肩の方が高くなります。
ゴリラは、力も強く、外観からはどう猛な動物と思われますが、実際にはおとなしく、知能もかなり高いようです。



表情が人間に似ています。



何かお悩みですか?(笑)



沈思黙考!



イケメンで有名なゴリラがいると聞きましたが、この若いゴリラかな??
野生の個体は9万5000頭にも満たず、その数は過去20~25年間で少なくとも60%減少しています。



食用や野生動物取引を目的とした商業狩猟に加え、エボラ出血熱の流行で、1980年代以降、その数は急激に減少しました。
現在、ローランドゴリラは国際自然保護連合(IUCN)の保存状況評価によって、絶滅危惧種(CR)としてレッドリストに指定されています。

次回から飛騨高山の紹介です。