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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その200 『博物館・明治村』 その1

2017年05月31日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
今回は『博物館・明治村』の紹介です。
紹介の内容は、明治村オフィシャル・サイトの説明の抜粋です。



明治村北口入口です。

明治村設立のあらましです。
『明治時代は、我が国が門戸を世界に開いて欧米の文物と制度を取り入れ、それを同化して近代日本の基盤を築いた時代で、飛鳥・奈良と並んで、我が国の文化史上極めて重要な位置を占めています。
明治建築も従って江戸時代から継承した優れた木造建築の伝統と蓄積の上に、新たに欧米の様式・技術・材料を取り入れ、石造・煉瓦造の洋風建築を導入し、産業革命の進行に伴って鉄・セメント・ガラスを用いる近代建築の素地を築きます。
これらの建築のうち、芸術上、歴史上価値あるものも、震災・戦災などで多く失われ、ことに戦後の産業の高度成長によって生じた、大小の公私開発事業により、少なからず姿を消していきました。
取り壊されてゆくこれらの文化財を惜しんで、その保存を計るため、今は二人とも故人となられたが旧制第四高等学校同窓生であった谷口吉郎博士(博物館明治村初代館長)と土川元夫氏(元名古屋鉄道株式会社会長)とが共に語り合い、二人の協力のもとに明治村が創設されたのです。』



愛知県犬山市の博物館明治村は敷地面積100万平方メートルという広大な土地に、明治時代の建物を移築・復元した野外博物館です。
山まるごと一つが明治時代というダイナミックな施設です。



目の前がSL東京駅です。
SLは日本各地にありますが、日本最古の1874年(明治7年)製、約140年前の蒸気機関車が運行されています。
後でいい写真が撮れればと、期待することにします。



明治村は1丁目から5丁目に分かれています。
北口からは5丁目からの散策になります。



帝国ホテル中央玄関です。
旧所在地は東京都千代田区内幸町で、1923年(大正12年)の建設です。 
この建物は、20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計された帝国ホテルの中央玄関部です。
皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは総面積34,000㎡余の大建築で、中心軸上に玄関、大食堂、劇場などの公共部分が列ねられ、左右に客室棟が配されていました。
全体計画から個々の客室に到るまで、きわめて多様な秀れた空間構成がなされ、それまでの建築空間が主として平面的なつながりであったものを、立体的な構成へと発展させた世界的に重要な作品です。



まずは訪問記念撮影です。
この中央玄関は、建物の特色をよく遺しており、軒や手摺の白い大谷石の帯が水平線を強調し、またその帯が奥へ幾段にも重なって、内部空間の複雑さを予想させます。
大谷石には幾何学模様の彫刻を施し、レンガには櫛目を入れて、柔らかで華麗な外観を現出しています。
レンガ型枠鉄筋コンクリート造とも言える構造であり、複雑な架構に鉄筋コンクリートの造形性が生かされた作品です。



中央に観える門は『金沢監獄正門』です。
石川県金沢市小立野にあった、1907年(明治40年)建設の門です。
1872年(明治5年)に「監獄則並図式」が公布されました。
これは近代的な監獄制度と、それに合った洋式の放射型監獄舎房の規範を示したものでした。
この方針に沿って各地で新監獄の建設が始まり、金沢監獄は南北250m、東西190mの敷地がレンガ造の高い塀で囲われ、唯一西面に開けられていたのがこの門でした。



西洋の城郭の門にも似て、左右に二階建の看視塔を建て、中央にアーチ型の主出入口、両側に脇出入口を備えている実に美しい門です。



写真左側に見える八角形の赤レンガ外形の建物は『東京駅警備巡査派出所』です。
1908年(明治41年)、それまで品川を起点としていた東海道線を皇居正面の丸の内まで延長し、新しい中央停車場を建設する工事が開始されました。
その大工事は1914年(大正3年)に竣工、東京駅と命名され開業しましたが、その折駅前広場を整備する中で、この派出所が1914年(大正3年)頃建設されました。
駅本屋との調和をはかるため、駅本屋のデザインを十二分に意識した設計がなされ、隅切り八角形の外形で、その屋上に小塔を置き、正面軒上に半円のぺディメントを、窓上には小庇を設け、腰壁に白い帯状装飾を廻らしています。
首府東京の表玄関であった東京駅では、天皇の地方巡幸や外国使節の従来など重要行事が多く、一時は12人もの巡査が詰めていたそうです。



1907年(明治40年)に建設された、『金沢監獄中央看守所・監房』です。
金沢監獄では、八角形の中央看守所を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に五つの舎房が放射状に配され、右の舎房から順に第1、第2...第5舎房と名付けられました。
外見上は普通の西洋館の外壁と変わりませんが、三重壁になっていて、建築技法だけに限って考えると、近代の防音、断熱の先駆的な実例とも言えます。
看守所上部の見張り櫓へは小屋裏を抜けて昇るようになっていて、その高さは地上高12mあります。



続く..........................................................。

動物園 動物写真その60 『カバ親子』

2017年05月30日 | 動物園 動物紹介
今回は王子動物園の『カバ親子』の紹介です。



カバの特徴的な頭部は水の中での生活に適していて、一直線に並んでいる目と鼻、耳だけを水の上に出して周囲の様子を伺うことが出来ます。



また、鼻孔は自由に閉じることができ、4~5分程度は水中に潜っていることができます。



カバは淡水域に棲息し、水陸両棲で、大型の草食性哺乳類のカバ科に分類される動物です。



現在はアフリカにのみ生息する動物です。



王子動物園で4月17日に誕生したカバの赤ちゃんを、5月2日より一般公開しました。
写真は公開直後の親子です。



陸上動物の中でも、カバはサイと共にゾウに次ぐ大きな体をしていますが、大きな雄では体長が5mを超え、体重は4,500kg近くになるものもいると言われています。



赤ちゃんカバと比較すると、大きさの違いに驚かされます。



カバの母親、『ナミコ』はいつも赤ちゃんカバを見張っています。



赤ちゃんの情報が載っていました。
誕生日 : 平成29年4月17日
性別 : 不明
名前 : 公募中
体長 : 約100cm(推定、誕生時)
体重 : 約45kg(推定、誕生時)



母親が赤ちゃんカバを水の中に入れようとしています。



この時はまだ水の中に入ることを嫌がっているようです。



お尻を押されています。



水になれないのか、抵抗中です。



結果、ふて寝状態になりました。



屋外デビュー直後は、プールに入れずに戸惑う様子を見せた時期だったようです。



今では落ち着いて、プールから陸上に上がる様子も見せているそうです。



動物の赤ちゃんも可愛いですね。



次回は『明治村』の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その199 『保津川下り』

2017年05月29日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
今回は『保津川下り』の紹介です
以前このブログでも何回か紹介しましたが、嵯峨嵐山駅周辺には渡月橋・天龍寺・大河内山荘など、数え切れないほどの観光スポットがあります。
以前の写真と織り交ぜて紹介します。



JR山陰本線の嵯峨嵐山駅に隣接し、トロッコ嵯峨駅があります。
SL広場、またその奥にはSL展示や19世紀の技術展示のある「19世紀ホール」、「ジオラマ京都JAPAN」があります。



業革命の世紀「19世紀」が凝縮されたテーマ館に葉、蒸気機関車が展示されています。



トロッコ嵯峨駅よりトロッコ電車(嵯峨野観光鉄道)に乗ります。



嵯峨野観光鉄道は、JR山陰線の複線化によって使われなくなった線路の観光利用を目的として、1991年(平成3年)に保津川渓谷沿いの渓流や奇岩など自然の創りだす素晴らしい景観を車窓から楽しめる路線として復活しました。



保津峡は、京都府亀岡市から京都市右京区嵐山の渡月橋に至る保津川の渓谷です。



川下りや観光トロッコ列車で知られる景勝地で、京都府立保津峡自然公園に指定されています。



トロッコ嵯峨駅を出て嵐山駅、保津峡駅、終点のトロッコ亀岡駅まで7.3㎞を約25分で走ります。



保津峡駅にもタヌキの置物が鎮座しています。



川の流れが緩く霧が巻く渓谷の風景は山水画の世界です。
見事な景色の場所では列車のスピードが落ちるサービスがあるので、写真撮影もできます。



京都の代表的な観光地である嵐山・嵯峨野に近いことから、1885年(明治28年)に観光客を対象とした遊覧船による川下りが行われるようになりました。



この風流な保津川下りは夏目漱石の『虞美人草』を始め、水上勉、薄田泣菫、大町桂月、三島由紀夫など幾つもの文学作品に登場しました。



嵐山より上流の保津峡に沿って亀岡までトロッコ列車が走る途中、雄大な自然と豪快な川の流れを味わえます。
途中いくつかの大きな橋があります。



機関車は「DE10」というディーゼル機関車を使用し、平均時速は約25km程度ですので、保津川下りの船を見下ろせます。



ゴトゴトとゆっくり走る、嵯峨野トロッコ列車です。
片道7.3Km、春の桜、夏の新緑、秋の紅葉、冬の枯野や時には雪景色と、四季それぞれに違った風景を楽しめます。



亀岡駅にはたくさんのタヌキが出迎えます。
「たぬき」は古来より「他を抜く」と云う縁起があり商売の繁栄を願って店先に飾られて きました。
嵯峨野観光トロッコ列車では遠来のお客様に古来からの縁起と最高のもてなしを提供することを祈念して「たぬき」を大切にしています。



亀岡駅のある亀岡市は、戦国武将明智光秀の居城、亀山城を中心に栄えた城下町です。
かの本能寺へはここから向かったと言われています。



嵯峨野トロッコ列車はクラシカルなカラーリングで、ディーゼル機関車に引かれ渓谷を縫うように走る姿にノスタルジーを感じる方も多いでしょう。
アールデコ調の5両編成の客車の中には、木製椅子と裸電球、風を感じ、音に耳を傾けることができます。



次回は動物園の『カバ親子』の紹介です。

動物園 動物写真その59 『ナマケモノ & ボブキャット』

2017年05月28日 | 動物園 動物紹介
今回は『ナマケモノ & ボブキャット』の紹介です。



夜行性で、1日の約15-20時間眠っています。
1日の半分以上眠り、ゆっくりした動きから「怠け者」と名づけられたそうです。



ナマケモノは、大きく別けてフタユビナマケモノとミユビナマケモノが知られていますが、いずれも中央アメリカから南アメリカにかけての湿度の高い熱帯雨林に分布しています。フタユビナマケモノには指(実際は指骨)が2本、ミユビナマケモノには指が3本あります。
コロンビアとベネズエラの北部のほか、スリナムやブラジル北部、ペルーの北部などの密林地帯に生息し、完全な樹上生活をしています。



夜になると低カロリーの木の葉や植物の芽、木の実、果実などを食べます。
1日に数枚の葉を食べるだけで生きていけるので、水分補給はほとんど果汁で補っています。
余計なエネルギーをあまり使わないように、必要最低限の食べ物、動きで効率よく生活をしています。



頭部は短くて丸く、耳は外からは見えにくく、前足は後足よりも長く樹上生活に適しています。



体は黄灰色や灰褐色の長い毛で覆われていて、ナマケモノは他の樹上性の動物と違って、体を木の枝にぶら下げて生活しています。
そのため体毛はほかの哺乳類とは違い、全く逆に生えているほか、野生の成獣ではしばしば苔も生えているそうです。



ナマケモノは他の哺乳類と違って、外気温によって体温が左右され、24~35度の間で体温が変化します。
この為、気温が一定する熱帯の一部地域でしか生活できず、樹上でも体温調整の為に天蓋や日陰などに移動したりします。



ボブキャットは同じネコ科に属するオオヤマネコとは同属です。
北アメリカのカナダ南部からメキシコ南部辺りにかけて広く分布しています。



茶色か赤茶色の毛皮で覆われていて、腹部は白く、しっぽは短くて先端が黒く、頬には耳から続く長いふさ毛があり、耳の裏はトラなどのように黒くて白い斑点が見られる。
ワイルドキャットとも呼ばれ、体はイエネコの2倍ほどです。
足が長く、手のひらは大きく、耳にはふさふさの毛が生えています。



獰猛な捕食動物で、自分よりはるかに大きな獲物を仕留めることもできます。
普通はウサギや鳥、ネズミ、リスなどの小動物をエサとしています。



ボブキャットは単独行動をする動物ですが、さまざまな環境に適応していて、人の住む近くにも姿を現します。
北アメリカ全土での生息数はかなり多いと考えられ、アメリカだけでもおよそ100万頭いると推定されます。

次回は『保津川下り』の紹介です。

動物園 動物写真その58 『コツメカワウソ』

2017年05月27日 | 動物園 動物紹介
今回は王子動物園の『コツメカワウソ』の紹介です。



東南アジアに生息するカワウソの中で最も小柄な種で、体長は40~65㎝ほどになります。



体重は平均3~6㎏程度で、手足の爪が小さいことからコツメカワウソと呼ばれています。



河川や湖沼の周辺に生息しています。
尾は長くて太く、体長の三分の一程の長さがあり、水の中を泳ぐ時にバランスをとったり、推進力をつけたりするのに役立っています。
潜水能力にも優れていて、水の中に6-8分ほど潜っていることができます。



名前の通り指の爪は小さくても、とても器用に川のドロをかきまわしてエサを捕ります。



体つきは全体に細長く、水中での抵抗が少ないようになっています。



川の流域の水辺付近に生息し、甲殻類や貝、カニ、カエルなどを広い臼歯ですりつぶして食べます。



昼間は寝ていることも多いが、コツメカワウソは主として昼光性の動物で、動物園などでも活発に動き回ったりする姿がよく見られます。



他のカワウソと違って、家族を中心とした数頭のグループで行動します。
人にもよく慣れ、マレーシアでは漁にも使っています。
でも、怒った顔はちょっと怖いです。



分布域が広いにも関わらず生息数は減少していて、現在では、国際自然保護連合(IUCN)の保存状況評価によって、絶滅危惧種(VU)としてレッドリストに指定される状況になっています。



次回は『ナマケモノ & ボブキャット』の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その198 『京都・貴船神社』 その4

2017年05月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
奥宮に到着しました。



5世紀初め、玉依姫(たまよりひめ)が黄色い船で淀川から貴船川をさかのぼり、たどり着いた場所に社殿を建てました。
それが貴船神社の起源だと伝えられています。
また、貴船の名前の由来は、姫が乗ってきた黄船にあるという言い伝えもあります。



奥宮は、エネルギーが渦巻く聖地である伝えられています。
貴船は「氣生根」とも書かれたようです。
気が生じる根=エネルギーが生じる根源の地を意味します。
しかし、うっそうとした森林の中をイメージして居ましたが、広々とした明るい空間です。

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この奥宮は、東に貴船山を含む山脈と西の鞍馬山を含む山脈に挟まれ、貴船川のさらに上流を流れる清流が合流する地点にあります。
奥宮の祭神「タカオカミの神」のご神徳は、「雨乞い」と「運気昇龍」です。
「雨乞い」は古代から中世にかけて国家的な干ばつの際に降雨祈願を行うことで、「運気昇龍」は、元気が回復し運気の上昇を願うことです。



背の高い木々が陽の光を遮り、昼でも薄暗い奥宮には神秘的な雰囲気が漂っています。



全面が『舞殿』で、後ろが『奥宮本殿』です。
拝殿と殿は、きらびやかさはなく簡素な感じです。
貴船神社は「本宮」とこの「奥宮」に分かれていますが、元々は「奥宮」が本宮だったのです。
1046年(永承1年)の水害で社殿が流され、1055年(天喜3年)に今の地に本宮は移されました。



狛犬です。



奥宮本殿の社の下に、パワーの根源である巨大な龍穴があるそうです。
竜穴は、神が訪れた際に水が湧き出た場所と伝えられています。
そのため、この地に龍神を祀り、古くから雨乞いの神事が行われたそうです。



龍穴とは、、陰陽道や古代道教、風水術における「繁栄する」とされている土地のことです。



その昔、貴船神社の普請をする大工が誤って、ノミをこの龍穴に落としてしまったそうです。 
そのあと、その龍穴からものすごい風が吹き上がり、そのノミを吹き上げたいう伝説があります。



孫も龍神のパワーをもらえたことでしょう。

それでは貴船神社よりです。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その198 『京都・貴船神社』 その3

2017年05月25日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
貴船神社には数多くの祠があります。



狛犬もたくさん見られます。



貴船神社周辺は貴船山と鞍馬山に挟まれ、神社のすぐ隣にはきれいな貴船川が流れています。
ご神木含めた立派な樹々も多く、自然の英気をもらえます。



樹齢1000年の『相生の杉』で、幹周/9.6m、樹高/35mあります。
同じ根から生えた2本の杉で、夫婦共に長生きの意味が込められています。



狛犬と唐草模様のエプロン?は、何か意味があるのでしょうか?



奥宮参道に向かう鳥居の先に架かる小さな橋を『思ひ橋』といいます。



流れる小川を『思ひ川』といいます。
その昔、和泉式部は夫、橋道貞の愛を取り戻そうと思い悩み、貴船神社詣でを思い立ちました。 
当時は奥宮が本社で、参拝者はこの谷川で手を洗い、口をすすぎ、身を清めてから参拝したそうです。



綺麗に整備された参道にでます。
山から吹く風や澄んだ空気が、辺りに静けさを伝えています。



本宮からは徒歩で15分ぐらいで、伝説残す貴船神社の元本宮、奥宮の神門が見えてきました。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その198 『京都・貴船神社』 その2

2017年05月24日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
貴船神社は縁結びの神社としても広く知られており、源義経や紫式部も参拝に訪れたといいます。
御祭神は「高雷龍神(たかおかみのかみ)」で、水の供給を司る神様です。
貴船神社には、有名な「水おみくじ」があります。
何も書いていない神を本殿の右手奥に水占齋庭という場所で水につけると文字が浮かんできます。



平安時代の勅願社22社の一社で、庶民の崇敬も篤く全国に2000社を数える分社があります。
貴船神社には手前から本宮、中宮(結社)、奥宮と3社あります。
それぞれ少し離れた場所にあり、本宮⇒奥宮⇒中宮の順で参拝する順序が決まっていて、これを三社詣(さんしゃまいり)と言って順序良く参拝すると願いが叶うといわれています。



京都に都が開かれて当社は国の重要な神社となり、事ある毎に勅使が差し向けられました。
日照りの時には黒馬を、長雨の時には白馬を献じてそれぞれ「雨乞い」と「雨止み」の祈願がこめられたのです。



貴船神社に湧き出す『貴船の神水』は名水との評判です。
そしてこの水は『日本のルルドの泉』とも呼ばれています。
ルルドの泉とはフランス南部にあるキリスト教ゆかりの聖泉で、飲めば万病が治るとの評判から『奇跡の水』として世界的に有名な霊場となっています。



これから奥宮へ向かいます。



孫もいろいろな場所につれて行かれますが、大きくなってどこまで記憶に残っているのでしょうかね。



奥宮へ向かう途中に川床(かわどこ)で有名なお店が左右に並びます。



京都で代表的な床と言えば鴨川と貴船です。
鴨川の床は「かわゆか」と言い、最近は「納涼床(のうりょうゆか)」という呼び方もするようです。



一方貴船の床は「かわどこ」と言います。
なので「かわゆか」「ゆか」と言えば鴨川、「かわどこ」「とこ」と言えば貴船のようです。



京の奥座敷貴船の「かわどこ」も準備中です。
貴船の川床は、手を伸ばせば届きそうなくらい水面が近く、夏でも涼しそうです。



最近は異常気象の猛暑が続く夏、貴船川のせせらぎを聞きながらいただく京料理は風流の極みでしょう。

続く.............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その198 『京都・貴船神社』 その1

2017年05月23日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『京都・貴船神社』の紹介です。
京都市左京区にあるこの貴船神社は、全国に450社とある貴船神社の総本社です。



貴船神社の二の鳥居です。
貴船神社は京都を流れる鴨川の水源地に位置し、水の供給を司る神様をお祀りしている神社です。



二の鳥居をくぐると右にあるケヤキの大木と祠です。
「貴船」の由来は、元々は「気生嶺」「気生根」と書かれていたそうです。
「大地のエネルギー”気”が生じる山・根の場所」という意味があり、強力なパワースポットとして参拝者が絶えない神社です。



本宮の社殿までの石段(参道)を登ります。



七夕や紅葉の季節は、夜になると朱色の春日燈籠がライトアップされ、非常に美しい景色を見ることができるそうです。



本宮と奥宮の御祭神は天気を操る水神です。
昔は天皇の勅使が雨乞いや雨止みの祈願をこの貴船神社でしていました。



国づくりの重要な水源として、選ばれた土地だったのです。



鯉のぼりが泳いでいます。



平安時代に歴代天皇が勅使を遣わされ、雨乞い・雨止みの御祈願を行っていたそうです。
日照りが続いたなら「黒馬」を、雨が続くなら「白馬」を奉納し祈願していました。



時が流れ、生きている馬に代わって木の板に馬を描き、奉納したことで今日の絵に願いを書いて奉納する絵馬が誕生しました。
そのため、貴船神社は絵馬の発祥地としても知られています。
貴船神社の絵馬は「板立馬」と呼ばれ、この貴船神社が原型と言われています。



続く.........................................................。

動物園 動物写真その57 『マヌルネコ』

2017年05月22日 | 動物園 動物紹介
今回は王子動物園の『マヌルネコ』の紹介です。
動物図鑑の説明を引用しています。



マヌルネコの大きさは、少し大きめの普通のネコぐらいで、体長はおよそ50〜65cm、体重は2.5〜4.5kgです。



マヌルネコは1500万年前から生存している、世界最古のネコといわれています。



四肢が短く、毛が厚く生えるのでまるまる太ったネコのようにみえます。



マヌルとはモンゴル語で「小さいヤマネコ」という意味です



瞳は円形に収縮します。



顔の前面に眼があるため、どこか変わった顔に見えます。



夜行性でナキウサギなど小型哺乳類を捕食します。



岩の割れ目や他の動物が掘った穴を利用して巣を作り暮らしています。



別名「モウコヤマネコ」と呼ばれ、ネコ科の動物と比べると足や爪が短く、臀部がやや大きい。特徴的な顔つきで、額は高く、丸い耳が低く離れた位置に付いています。



次回は『京都・貴船神社』の紹介です。

動物園 動物写真その56 『パンダ』

2017年05月21日 | 動物園 動物紹介
久しぶりの動物園の動物紹介です。
再開の最初は、やはりパンダにしました。



日本の動物園でパンダがいる動物園は、東京上野動物園、神戸王子動物園、南紀白浜アドベンチャーワールドだけです。



今回のパンダは神戸王子動物園のパンダです。



パンダは暑さが苦手なので、この時期は空調完備の室内居住です。
ガラス越しのため反射光が入りこむのが残念です。



名前は『旦旦ちゃん』です。



上野動物園のパンダより小ぶりにみえます。
よく見ると可愛い目をしています。



ネット情報によると、動物園が中国からパンダを借り受けて飼育すると、1年に平均260万ドル(約2億9000万円)もの費用がかかり、子供が1頭生まれるとその額は300万ドルを超え、2頭だと400万ドル近くになるそうです。



エサ代も年間1000万円、その他の付帯経費も高額とのことです。



なにかと費用がかかるパンダですが、希少動物ではあるが故、絶大なる集客、経済効果を生むパンダです。



その経済効果は大きく、世界中の動物園からラブコールが寄せられています。
まさに『客寄せパンダ』ですが、初来日から40年目を迎える日本をはじめとして、世界各地でこれからも続きそうです。



南紀白浜アドベンチャーワールドに4-5頭いるようですので,いつか機会があれば見に行きたいと思っています。
次回は『パンダ』の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その197 『大鳴戸橋』 その2

2017年05月20日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
瀬戸大橋と香川県をモチーフにしたオブジェです。



鳴門海峡は、孫崎と門崎に挟まれた約1340mの海峡です。
この海峡は、瀬戸内海と紀伊水道の間にあることから、両者の潮の干満によって鳴門海峡に約1.3mの落差が出来るために大小たくさんの渦(鳴門のうずしお)が出来ます。
この鳴門海峡を跨ぐのが大鳴門橋で、昔はフェリーがありましたが、現在では鳴門海峡を渡る手段は大鳴門橋しかありません。



鳴門の渦を体験できるクルーザーですかね。



規模の大きい鳴門の渦潮は、轟音を立てて流れているそうです。
大潮の時の最大流速は時速20kmにも達し、この激しい潮流から発生する轟音から鳴門(鳴る瀬戸)の名が生まれ、それが鳴門という地名になったとされています。



鳴門海峡はこの海峡の鳴門側から約200mのところに裸島、淡路島側から約300mのところに中瀬と呼ばれる岩礁があり、その中間はV字型に深く落ち込んでいます。
この鳴門海峡独特の海底の地形が潮の干満で、鳴門の渦潮を発生させるそうです。



渦潮ができる海峡はとくに潮の流れが速く、海峡の深い部分と浅い部分の流れの速度差が渦潮を生み出すとされます。



昔は、この海峡を小舟で乗り越えたのですから、事故もあったのでしょう。



鳴門海峡に発生する渦潮の大きさは直径最大20mにもおよび、世界でも最大規模と言われます。
また、鳴門海峡のほか、イタリア半島とシシリー島間のメッシーナ海峡、北アメリカ西岸とバンクーバー島東岸との間のセイモア海峡が世界の三大潮流と呼ばれています。



アートあふれる公園も充実しています。



孫も一緒に記念撮影です。



最後に、鳴門市うずしお観光協会より写真提供の、見事な渦潮写真を紹介します。



それでは大鳴戸橋よりお別れです。










トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その197 『大鳴戸橋』 その1

2017年05月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
娘の家族が関西・四国方面へ旅行へ行きました。
瀬戸大橋を渡り四国まで足を伸ばしたそうです。
トッポパパも10年近く前に渦潮を見に行ったことがありますが、突発的事故でフラッシュメモリーが損傷して写真が消えてしまったことがありました。
撮ってきてくれた写真を編集して紹介します。
瀬戸大橋です、瀬戸内海をまたいで本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県 坂出市)を結ぶ、6つの橋と4つの高架橋を総称して呼びます。



孫が大鳴門大橋を望遠鏡で覗いています。



大鳴門橋は、橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3mで、鳴門海峡の渦潮に影響を及ぼさないようにするため、多柱基礎工法とよばれる特殊な工法が採用されています。



幾つもの島々を結びながら青く穏やかな海に架かる姿は、瀬戸内を代表する景観のひとつです。



鳴門の渦潮は、徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間にある鳴門海峡で発生する渦潮で、大潮の際には渦の直径は最大で30mに達するといわれ、渦の大きさは世界でも最大規模とされています。



鳴門大橋の代名詞とも言える『渦の道 - 渦潮』は、鳴門海峡に架かる大鳴門橋の橋桁下部に設置された延長約450mの遊歩道です。



展望台から渦潮を間近に見下ろすことができるスポットです。



遊歩道の一部がガラス床となっていて、渦潮を真上から見ることができますが、ちょっと身がすくみますね。
以前、愛犬トッポはガラス床を怖がり、固まっていたのを思い出しました。



大鳴門橋は1985年(昭60年)に完成(供用開始)しました。
上下2階構造となっていて、上部が6車線の自動車専用道用、下部が新幹線規格の鉄道用となっています。
橋の下層は将来、新幹線が敷設可能な構造となっているそうです。



渦潮は陸地がせまる海峡部に起こる現象で、海が川のように激しく流れ、一部で渦を巻くように潮の流れが生まれます。



鳴門海峡で生まれる渦潮は最大30mにも及び、世界三大潮流に上げられています。

続く...................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その196 『旧富岡製糸場』 その3

2017年05月18日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
富岡製糸場の中で中心的な建物で、操糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓が取り付けられています。
建設はフランス人指導者ポール・ブリュナの計画書をもとに1871年(明治4年)から始まり、翌年に主な建造物が完成し操業が開始され、それから操業停止の1987年(昭和62年)まで、115年間に渡り生糸を生産した工場です。



富岡製糸場は、国が建てた大規模な器械製糸工場で、長さが約140mある繰糸所にはフランス式繰糸器300釜が並び当時の製糸工場としては世界最大規模でした。



製糸場の天井はトラス構造と呼ばれるもので、製糸工程で発生する蒸気を逃がすための換気装置としての越屋根が設けられています。

 

内部には、昭和40年代以降に設置された自動繰糸機が残されています。
全国から集められた女性たちが、働きながら器械製糸の技術を学び、後に地元の工場で指導者となって、日本の産業近代化と器械製糸工業の発展に大きく貢献しました。(現地案内看板より)



西洋、特にフランスの技術を導入し、日本固有の技術と融合させることで産業革命を成し遂げ、世界の絹文化の発展に大きく貢献した我が国の絹産業の拠点施設であり、文化史的に深い意義を有しています。
2005年(平成17年)には国の史跡に、2006年(平成18年)には主な建造物が重要文化財に、2014年(平成26年)には「世界遺産一覧表」に記載され、繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となりました。



1939年(昭和14年)、片倉製糸紡績会社(片倉工業)の時代に建てられた診療所で、渡り廊下で診療所や病室をつないでいます。



創業時に指導者として雇われていたフランス人ポール・ブリュナが家族やメイドと暮らしていた住居です。
桟瓦葺きの寄棟屋根をもつ巨大な住宅で、一家族用としては望外の規模といえます。



ブリュナが帰仏した後は、寄宿舎や工女に読み書きや和裁などを教える夜学校、後には片倉富岡高等学園の校舎として利用されました。
校舎や講堂として使うために内部は大幅な改造が加えられ、当初の面影は少ないそうですが、国の重要文化財の木骨煉瓦造平屋建てです。
建物は長大な高床式で周囲に回廊風のベランダをもつ風通しが良く、開放感のある設計です。



検査人館の近くにある、女工館です。
木材で作った骨組みの間にレンガを積んでいく、という、木骨煉瓦レンガ造りも同じです。
日本人の女工に、器械による糸取り技術を教えるために雇われた、フランス人女性教師の住居として建てられました。



ベランダの天井は板が格子状に組まれており、ガラスの外側に設けられたよろい戸は、直射日光を避けるための工夫と考えられる。
共に当時の日本建築には見られない特徴があります。



冬の写真がありましたので、最後にダウンロードさせてもらい紹介します。
現在の高さ37.5 mの煙突はコンクリート製で、1939年に建造されたものです。



それでは富岡製糸場よりお別れです。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その196 『旧富岡製糸場』 その2

2017年05月17日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
東置繭所は入口正面の建物でアーチの要石に「明治5年」の銘を刻んでいます。



東置繭所要石(キーストーン)は通路天井アーチ中央にあり、頂上であることを示すと同時に、周囲の建材が崩れないように締める役目もある構造上も非常に重要な石です。



この模範工場の基本的な考え方は、外国人を指導者として製糸技術を導入して、全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り、器械製糸の指導者とすることでした。
こうした考え方をもとに雇い入れられたフランス人、ポール・ブリュナの指導のもと、西洋の技術を取り入れた官営模範器械製糸場(富岡製糸場)が設立されたのです。



木骨煉瓦造りは、最初は横須賀製鉄所で導入された建築工法で横須賀から富岡製糸場に伝わったようです。
煉瓦は、フランス人技術者が瓦職人に作り方を教え、福島町(現甘楽町福島)の笹森稲荷神社東側に窯を築き瓦と共に焼き上げたそうです。



煉瓦の目地には、モルタルの代わりに漆喰を使い、煉瓦壁はフランス積みで積まれています。
この積み方は主にフランス北部のフランドル地方で用いられた工法で、フランドル積みとも呼ばれています。



フランス積みとは、各段に長い面を表面にする長手積みと短い面を表面にする小口積みを交互に並べ、小口の縦芯(センター)と上下に積まれた長手の縦芯を必ず揃わせる積み方です。



富岡市のイメージキャラクター、「お富ちゃん」です。



明治6年の皇后・皇太后の行啓記念碑です。



富岡製糸場です。



富岡製糸場工女たちの労働環境は充実していたそうです。
当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与されたそうです。



近代的な製糸技術だけでなく、工女たちの就労条件や福利厚生まで、近代的な工場の一連のシステムが模範となりました。
世界の絹文化の発展に大きく貢献した我が国の絹産業の拠点的施設であったのでしょう。

続く...........................................................。