TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

海外の都市の紹介、 その64の2 『ツォンス』

2009年09月28日 | 海外の都市の紹介
要塞都市の城壁の残りです。



城壁の外は、いまも神秘的な雰囲気があります。
城壁の周囲には、日本のお城と同じように水堀があったようです。



要塞歳の築城は、長方形に囲まれた城壁の中に居住区を設け、四隅に望楼を配置して外部からの進入を監視していたようです。



14世紀に完成したこの要塞都市も、現在はドイツ市民の憩いの場所に生まれ変わっています。



これらの家は、日本で言えば武家屋敷に相当するのでしょう。



謝肉祭の期間だったので、レストランの前も『ビッチ』が迎えてくれます。
謝肉祭に関しては次回触れることにします。



ツォンスという名前は、8世紀頃からの文献に記録されているそうです。
ドイツでも、歴史ある古い町になるのでしょう。



元々は独立した街でしたが、その後ケルンの大司教の支配下となります。



街はその後大司教の税関としての役目を果たすようになり、街には城壁がつくられましたが、18世紀中頃にはフランスの支配下になりました。



ライン川沿いの、この要塞都市も色々な歴史があったようです。

続く...........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その68の10 『皇居一周』

2009年09月27日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
千鳥ヶ淵から靖国神社へ向かいました。



皇居を回り始めて2時間以上経ったので、流石にお腹が空いてきました。



花見客でにぎわう靖国神社に寄りました。



トッポ、『いい匂いがする!』



広場はいたるところ花見客でいっぱいです。



我々も、ちょっと花見気分を味わうことにしました。



トッポ、『あれ、なーに?』



トッポは大好物のお饅頭に興奮気味です。



トッポ、『焼き鳥、唐揚げ、何でもいいから早くちょうだい!』



冷たいビールで喉を潤し、残り半周を頑張ります。

続く...................................................................。

海外の都市の紹介、 その64の1 『ツォンス』

2009年09月26日 | 海外の都市の紹介
シンガポールより戻り、また少し海外の写真の整理をしました。
今回はドイツの『ツォンス(ZONS)』という小さな町です。



ツォンスはデュッセルドルフから車で30分くらいのライン川沿いの町で、今も城壁が残る中世の面影を残す町です。



ドルマーゲンという町の一部であるツォンスは14世紀頃、税関都市として建設されました。



中世の壁と塔がよく保存されていて、ライン河畔のローテンブルクとも呼ばれています。



町は四角い城壁に囲まれています。



偵察台のようなものでしょう。



ここにもライン河の氾濫で、水位がここまであがった標しが残されています。



ライン下流域に原形をとどめる唯一の要塞都市で、中世ヨーロッパの雰囲気が味わえます。



ほとんど外国人観光客は来ないようですが、ドイツでは結構有名な街のようです。



続く..................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その68の9 『皇居一周』

2009年09月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
東京で一番の桜の名所、千鳥ヶ淵緑道に向かいました。
トッポ、『すごい人混みだよ!』



昔、千鳥ヶ淵と半蔵濠は繋がっていました。
1900年に道路建設のため濠が二つに分かれました。
千鳥ヶ淵皇居の壕の中で水面の幅が最も広く、 壕の形が千鳥(ちどり)が羽を広げた形に似ていることから、千鳥ヶ淵と名付けられます。



千鳥が淵沿いに伸びる700mの遊歩道は、都内随一の桜を観ようと、多くの人が訪れます。
ソメイヨシノ、ヤマザクラ、オオカンザクラなど約260本の桜が花開き、緑道を淡いピンク色に染めます。



人混みに疲れたのか、ちょっと休憩中のトッポ(ママ)です。



堀に向かって伸びる枝ぶりの良い桜が多く、それぞれに風情があり、見応えがあります。



トッポ、『いい写真撮れてる?』



何回か来ているトッポパパは、どこが一番絵になるか分かっているつもりですが、腕のほうが付いていかないようです。



トッポパパの腕では、この程度の写真で精一杯のようです。
三脚を立てて、時間をもらえればもう少しいい写真になるでしょうが、この人混みでは行列の邪魔になり許可されないでしょう。



お腹も空いてきたので、靖国神社で休憩することにします。

続く...................................................................。

神奈川の景勝50選、 その14の12 『東高根森林公園、PartⅢ』

2009年09月21日 | 神奈川の景勝50選
トッポ、『ワンちゃんがたくさんいる!』



この広場はワンちゃんたちの集合場所のようですね。



知り合いのワンたちなのでしょうか、とても微笑ましい挨拶風景です。



トッポは一人で、広場を走り回っています。



ちょっとご機嫌の表情です。
やはり、のびのびと走ることが出来ると嬉しいのでしょう。



トッポ、『パパも歩かなけりゃダメだよ!』



まだ走るのは控えていますが、トッポに引っ張られて歩くトッポパパです。



トッポ、『もっと歩いて、体力つけなきゃ!



車で来ると30分ぐらいで来れるので、また秋に遊びに来たいと思っています。
それでは、東高根森林公園より

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今頃は、飛行機の中でしょう。
みなさん、連休を楽しんでください。
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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その68の8 『皇居一周』

2009年09月20日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
北の丸公園はその名の通り、皇居の北側に位置し、現在は豊かな自然の景観を持つ環境省の管理する国民公園となっています。



中央部には明るい芝生広場と池が配置され、春には桜、秋には美しい紅葉が見られます。
また、園内は自然散策路があり、皇居外苑や日比谷公園などと並んで都会のオアシス的な公園です。



トッポ、『あっちで、みんなが待ってるよ!』



急遽、トッポの撮影会になりました。(笑)



『田安門』です。
現在の門は1636年に建てられたもので、現存する旧江戸城建築遺構のうちで最古のものです。
門名の由来は、門内に田安大明神があったので、田安門と称されたようです。
江戸時代には、北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所とされ、有名な千姫,春日局などの屋敷もここにありました。
この場所に、1730年八代将軍吉宗の第二子宗武は,ここに一家を創立して田安家を興しました。



また宗武の子松平定信はこの地で生まれています。
松平定信(1759~1829)は、幼少の頃より聡明で、いずれは第10代将軍・家治の後を継ぐことになると目されていた人物でした。
だが、時の老中首座・田沼意次を批判したことで、白河藩へ追い出されてしまいます。
意次失脚後、老中首座に就き、後の『寛政の改革』を成し遂げたのです。



田安門も典型的な枡形門で、直角に曲がるとこちらの渡櫓門があります。



靖国通り沿いの、渡櫓門を外から撮りました。



桜で有名な千鳥が淵です。



次回はトッポパパが一番好きな千鳥が淵の桜を紹介します。
時期はずれなのは、病気でタイミングを逸してしまいましたので、ご勘弁を。

続く..................................................................。

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明日からちょっと、シンガポールへ出かけてきます。
涼しくなってきた日本から、いつも真夏のシンガポールです。
現地は連休ではないので、無理しないで頑張ってきます。
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神奈川の景勝50選、 その14の11 『東高根森林公園、PartⅢ』

2009年09月19日 | 神奈川の景勝50選
トッポ、『早朝じゃないから、ワンちゃんはいないね!
トッポパパ、『お前は他所のワンちゃんと遊べないのに、よく言うよ!



左に建っている石碑が神奈川50選の石碑です。
神奈川の50選巡りも、44まで訪問したのですが、まだ少し残っているので頑張らないと完結しませんね。



広場を目指して歩き始めました。
トッポ、『ワンちゃんが来た!



臆病なトッポは、いつものように固まってしまいます。
トッポパパ、『若いワンちゃんだよ。 何、ビビってるんだよ!』


暫くしたら、何とか挨拶だけは出来たようです。



日差しが強かったのですが、木立に囲まれた場所は涼しい風が吹き気持ちよかったです。



この竹林を抜けると、広場に出るようです。



続く.................................................................。

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海外のお客さんも週末には母国に帰ります。
病気を心配してくれ、また術後の回復を自分のことのように喜んでくれました。
国境を越えて、心が通う友人がいることは、トッポパパにとって大きな財産です。
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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その68の7 『皇居一周』

2009年09月17日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
江戸城には幾つかの門がありますが、時計廻りに北 から、『乾門』、『北桔橋門』、『平川門』、『大手門』、『桔梗門』と並んでいます。
その他にも門はありますが、順番に紹介します。
トッポ、『この門が一番お城の門らしいね!』



『北桔橋(きたはねばし)門』です。
本丸の裏手にあたる門で、緊急の際、桔(はね)あげることが出来たことから、北桔橋門と呼ばれるようです。



天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門であり、大奥に近い重要地点だったので、石垣は堅固で、濠が深いので、歴所を感じさせてくれる眺めです。



『乾門(いぬいもん)』です。
この門は明治になってから建てられた京風の門です。
宮殿がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、 この名がついたそうです。



戦前、宮城の衛兵たちは、常にこの門から出入りしていたそうです。
現在はここから入ると宮内庁に通じ職員または、皇室の方々の出入り門になっていて、警備が厳重です。



トッポ、『匂いぐらい嗅いでも叱られないね!、でも腹減った!』



乾門の右斜めにある、有名な枝垂れ桜です。



北の丸公園に寄り道します。



ここもトッポパパの好きな風景です。
奥に見えるのは近代美術館です。
 


続く....................................................................。

神奈川の景勝50選、 その14の10 『東高根森林公園、PartⅢ』

2009年09月15日 | 神奈川の景勝50選
大分体力も付いてきたので、久しぶりに車を運転して散歩に出かけました。
トッポ、『久しぶりの車だね!』



安全運転で、東高根森林公園へ来ました。
いままで、何回か紹介した神奈川景勝50選に指定されている森林公園です。



入り口を入り暫く歩くと、大きな丸太を輪切りにしたような、台座?が二つ置かれています。



トッポ、『何のためか分からないけど、記念撮影でしょ!』



公園の石標で、いつもの顔出しショットです。



いつも質問されますが、裏方がどうなっているかは聞かないでください。



まだ真夏の余韻なのか、緑が映える写真にはなりませんが、好きな景色です。



東屋をバックに、池のほとりのトッポです。
トッポ、『僕を中心には、撮ってないような気がするけど。』



どうやら不自由を感じることなく、車の運転が出来るようになりました。
まだ暫くは、身体の慣らし運転は必要なのでしょうけど。

続く.................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その68の6 『皇居一周』

2009年09月13日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
平川門を通過し、大手濠沿いに竹橋方面へ向かいます。
トッポ、『あっちに公園があるよ!』



ちょうど気象庁の前辺りに、小さな広場があります。
このあたりは早咲きの寒桜が綺麗な場所です。



この広場に笛を吹く女性の像が建っています。
台座に『森の調べ』と記されていました。



トッポも一緒に記念撮影です。



平川橋が遠くに見えます。



この辺りで、大手濠は左に大きく曲がります。



公園には和気清麻呂像が建っています。
ネット情報によると、『和気清麻呂は、769年に道鏡の皇位就任の野望を挫き、大隅に配流されましたが、その後に復帰し、光仁天皇・桓武天皇に仕え、平安遷都のために活躍しました。
この銅像は、佐藤朝山の作で昭和15(1940)年に紀元2600年を記念し建立されたものです。』



この木が震災銀杏です。
樹齢150年以上超えるこの銀杏の木は、かつて文部省の跡地にあったそうです。
1923年の大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き
残り、 この銀杏は当時の人々に復興への希望を与えました。



震災銀杏の説明板です。



続く.................................................................。

トッポパパのメランコリー、 その25 『術後1ヶ月検診の結果』

2009年09月12日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
先日術後1ヶ月検査及び診察に、大学病院へ出かけました。
今回は術後ということもあり、ちょっと気を許し9時に再診の診察券を入れたところ、4時間待ちという結果になってしまいました。
大学病院は、懇切丁寧に患者さんに説明をしてくれるので、1時間に診ることが出来る患者さんの数も限られてしまうので止むを得ないのでしょう。
結局自宅に戻るまで、ほぼ1日がかりの通院になってしまいました。

トッポ、『お帰り! 大丈夫だって?』



ドクター、『待たせてしまいすいません。 その後、いかがですか?』
トッポパパ、『おかげさまで、大分楽になりました。』
ドクター、『今は、どんな症状ですか?』
トッポパパ、『痛みはほとんどなくなりました。 左手の中指から小指にかけて、若干痺れがありますが、痺れの度合いも術前より軽微で、楽になりました。 右手指は、稀にピクピクと軽い痙攣のような動きをしますが、これも以前より軽いものです。 後は、足に多少張りを感じるぐらいです。』
ドクター、『握力を測りましょう』
右45Kg、左35Kgぐらいだったと思います。
最悪の時は、右40Kg,左は5Kg程度でしたから、大分改善されたようです。
昔は、60Kg近くあったのですが、これは歳だからしょうがないですね。

トッポ、『ちゃんと、いろいろ聞いてきたの?』
トッポパパ、『ちゃんと聞いてきましたよ。



今日撮ったレントゲン写真と術前、術直後のものを重ね合わせるようにして、説明が始まりました。

ドクター、『稀に開いた頚椎が閉じてしまうことがあるのですが、写真のここを見ると分かりますが、ちゃんと開いているので問題ないでしょう。』
トッポパパ、『ありがとうございます。 ところで、どのくらい広げたのでしょうか?』
ドクター、『4mmぐらいですね。』
トッポパパ、『(たった、それだけ!)そうですか。 ところで、骨化巣は進行すると聞きましたが、個人差があるのは承知していますが、このくらいで大丈夫なのでしょうか?』
ドクター、『???、一般的には、10年で1mmぐらいの進行と思われます。』
トッポパパ、『ということは、仮に2-3mm程度増えても、吸収できると考えてよろしいのでしょうか?』
ドクター、『個人差はありますが、基本的には、そういうことです。』
トッポパパ、『(個人差か....!)分かりました。』

前回の掲載で、某大学病院のデータで2mm程度の骨化が1-2年以内に進行する確立は35%とか50%とか報告されていたのを思い出し、ちょっと疑問を感じたが言葉を飲み込みました。

トッポパパ、『他の患者さんの話を聞くと、首を動かすと痛みがあったり、ひどい肩こりに悩まされているようです。 多少の疼痛はありますが、私の場合は手術が非常にうまくいったと考えていいのですね?』
ドクター、『非常にうまくいったとは思いませんが(謙虚ですね)、とても順調に回復しているということです。』
ドクターと呼ばれる人は、頭が切れますね。 言葉の選択に深みがあるようです。
これには、トッポパパも勉強になりました。

トッポパパ、『(首を振りながら)ほとんど痛みは感じません。』
ドクター、『○○さんの場合は、10人OPLLの患者さんがいると、多頚椎に渡る骨化巣の厚さは、1-2を争う厚さでした。』
トッポパパ、『そんなに厚かったのですか?(そういえば、最初に立派だ!といわれたのを思い出した。)』
ドクター、『ところが、分節形に比べて連結形(正しい表現ではないかもしれません)の場合は、首を曲げた時の頚髄への干渉が少なく、連結した骨化巣が逆に頚髄を保護しているようになっているのでしょう。』
トッポパパ、『(喜んでいいのかな?)なるほど、ということは、首の曲げに対しては柔軟性にかけても、頚髄への負担は少ないということですね。』
ドクター、『そうだと思います。』
トッポパパ、『(これを不幸中の幸いというのでしょう)分かりました。』

そういえば、手術方法によってはチタンのボルトナットで頚椎間を固定するような手術もあったことを思い出す。(関係ないかもしれませんけど)

トッポ、『そんなに喜んでいていいのかね!』
トッポパパ、『もっといろいろ聞いてきたから



トッポパパ、『現在の痺れなどの症状も、これから改善してくると考えていいのでしょうか?』
ドクター、『改善してくると思います。(そうか、痺れもなくなる可能性もあるようです。)』
トッポパパ、『長時間同じ姿勢をしていると、手の痺れや首が重くなり、脱力感があるときがあるので、毎日ではありませんが時々痛み止めの薬を飲んでいます。 痺れには、今の薬は効かないのですか?』
ドクター、『痺れには効きません。(そうだったんだ!)痛みが無ければ、薬は飲まないほうがいいでしょう。』
トッポパパ、『(知らなかった!)すぐ止めます。(そういえば、ボルタレン37.5mgという強い薬は脱力感や筋肉痛を伴う場合があると説明書に書かれていたことを思いだす。) 痺れや、首の凝りに効く薬はありますか?』
ドクター、『ビタミンB2?のようなものがあり、血流をよくする効果があると言われています。 数パーセントの効果はあるかもしれませんが、どうしますか? それより、食事できちんと栄養をとったほうがよいと思いますけど。』
トッポ、『その程度の効果なら、食事で何とかしますので、薬はいりません。』
ビタミンB2は豚レバー、さば(開き干し)、うに、うなぎ(きも)、ずわいがに、 たまご、焼きのり等に多く含まれるそうです。
トッポパパが会社の帰りによく食べている食材(笑)なので、錠剤は必要なさそうです。
どこで、どういうところでは聞かないでください。

トッポパパ、『あと、特に日常生活で注意することはありますか?』
ドクター、『首を無理に後ろにそらすのと、前に曲げるのは避けるようにしてください。』
トッポパパ、『(骨化巣が消えたわけではないので)分かります。 注意するようにします。(アルコールのことは言われなかった。 聞かなかったけど)』
ドクター、『肩を動かすなど他の運動は、大丈夫です。』
トッポパパ、『(よし、ウォーキングを再開しよう。) 分かりました。』

トッポ、『つぶれた頚髄は、どうなった?』
トッポパパ、『それも聞いてきた。』



トッポパパ、『以前にMRIで見ましたが、頚髄が圧迫されてひしゃげていましたが、徐々に丸くなってくるのでしょうか?』
ドクター、『もう、丸くなってきていると思いますよ。 次回に、もう一度検査してみますけど。(すぐに膨らむんだ!)』
トッポパパ、『でも、片側は押されているわけですね。』
ドクター、『そうですね。』

だいたい以上のような話でした。
以前に、自分の骨化巣はどのくらいの年月をかけて出来たのか聞いたことがありますが、少なくても20-30年といわれたのを思い出す。
一番狭窄しているところで、5mmぐらいの厚さと言われていたので..............,5mmとして30年だから、10年で約1.7mm、1年で0.17mmか?............、ということは、トッポパパの場合は、35-50%の進行率は運がいいから当てはまらないと考えると(超楽天的!)、あと20年ぐらいは大丈夫ということになる。
今回の手術でも、ドクターのおかげで頚髄と筋肉への損傷が無く手術できたことや、術後翌日には立ちあがり、8日で退院できる体力が残っていたのも運があったのでしょう。

ならば、この病気に負けないで、『死ぬなら他の病気で死んでやる!』という、支離滅裂な虚勢も、現実味をおびてくるようです。

どうやら、武田鉄矢じゃないですが、『僕は死にましぇん-......』ではなく、『トッポパパは、この病気には負けましぇーん。』でいきたいと思います。
これから手術をするかでお悩みの人も多いと思いますが、ドクターとよく相談されて、手術をするなら体力のあるうちにお勧めします。

冗談抜きに、今後のことは神のみぞ知るですが、とりあえず、1ヶ月検診の報告です。

トッポ、『てなことで、本人が満足しているので、良しとしておきます。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その68の5 『皇居一周』

2009年09月11日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
トッポ、『ここが、江戸城の正門だったの?』



大手門は、伊達政宗らによって建設された江戸城の正門で、大名や役人が本丸に登下城する際に使われました。
敵の侵入を防ぐため第一の門は狭く造られています。
門外に面した第一の門・高麗門には、鉄砲を撃つ狭間があります。
名諸公は、この大手門を通り、更に大手下乗門、大手中の門、書院門を通り、本丸玄関に入ります。



大手門の外の堀端には、そこで馬から降りる場所として下馬札が立っていました。
付き添いの人は、下馬札周辺で主人の帰りを待ちながら各藩の情報を入手していたようです。
ここから『下馬評』という言葉が生まれたそうです。



大手濠の沿って歩き、次は『平川門』に向かいます。



平川門が見えてきました。
別名、『御局御門(おつぼねごもん)』とも呼ばれ、大奥女中の通用門としても使用されました。
11代将軍徳川家斉(1786-1837)の時代は、大奥の全盛時代で、1500人を超える女性が、将軍の正室や側室を支えるために働いていたと云われています。



平川門は江戸城の艮(うしとら)の東北方角に位置し、鬼門にあたるため、『不浄門』とも呼ばれ、通用門の横にもう一つの高麗門があり、城内の死者や罪人を出す特殊な用途の門でもありました。
江戸城・松の廊下で、1701年に吉良上野介義央を刃傷した浅野内匠頭長短(あさのたくみのかみながのり)が一関藩主田村邸へお預けの身になるとき、この門から生きたまま城外に出され切腹したのです。



平川門にはこんな逸話もあるそうです。
当時、江戸城大奥の権力者であった春日局(かすがのつぼね)が、息子の屋敷を訪ね、つい長話で夜になり、暮れ六つ(日の入)の閉門に遅れてしまいます。



その日の門衛旗本小栗又一郎は、春日局といえども、規則は規則であるとし、春日局は寒い夜を平川門前で明かさざるをえなかったそうです。
後日、御役目を守ったとしてお褒めにあずかり、小栗又一郎は500石の加増を受けたそうです。



石垣は穴太積みで、築城の原則にのっとって巧妙な造りは、昔の面影をよく残している
平川門は、藩主浅野内匠頭の駕籠を嗚咽しながら見送った赤穂藩士や、大奥の女性達の喜怒哀楽の歴史を見つめてきたのでしょう。

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続く...................................................................。

海外の都市の紹介、 その63の3 『スキーダム』

2009年09月09日 | 海外の都市の紹介
風車を見ながら、ネット情報を基にオランダの紹介をしてみます。
人口約1,600万人で、九州とほぼ同じくらいの大きさで、欧州でも比較的小さな国です。
オランダは、国土の4分の1が海抜0m以下なので、昔から風車を利用して水をくみ上げ、それを運河に流して土地を干拓してきました。
このため、運河の堤が土地より高く積まれ、水面は土地よりも高くなっているところもたくさんあります。
オランダには、いわゆる山はなく、最高地点でも322.5mしかありません。
前後の写真をみて分かりますが、山は見あたりません。



オランダはこの水で長年苦労してきた国で、その歴史は、水という自然の脅威に対する闘いの歴史でもあります。
今ではオランダのシンボルの風車も、もともとは湧き出る水を揚水する目的で造られたもで、揚水された水は堤防で囲まれ、湖となりました。
自分の腕で堤防の穴をふさぎ村を救った少年のお話は、日本にも紹介され子供の頃本で読んだことのある人も多いと思います。



風車中のレストランです。

オランダ=風車と考えがちですが、風車の歴史はもっと古く、紀元前3600年ごろにはエジプトにおいて揚水や感慨に風車が使用されていたという記録が残っています。
10世紀になると文明の中心である、イスラム圏で開化し、蒙古の西遠征と十字軍によってそれぞれ欧州と中国に伝えられていきます。
中国では、10世紀から13世紀に至る宋の時代に、各地で相当数の風車がたてられたそうです。



風車の古いレンガの壁を利用して、なかなか雰囲気の良いレストランでした。

現在の基礎の風車を作ったのは、デンマークです。
現在の風車の基礎を作ったのは、デンマークのP・ラクールで、1891年に、アスコウに最初の風力発電装置を作り、1897年には直径22.8mの大型風力発電装置を設置しました。



省エネが騒がれるようになって、もうだいぶ経ちますが、風力によるエネルギーの確保は、効率の良い省エネ対策でしょう。
ヨーロッパでは風力発電の広がりは目覚しく、世界の風力発電容量の3分の1以上を占めるドイツでは2025年までに国内の全電力供給の25%にまで拡大しようとしています。



トッポパパは、仕事の関係もありオランダを中心にオーロッパ諸国を訪ねることが多いのですが、やはり長い通商関係の歴史があるのでしょう、とても身近に感じる国です。
日本との交流は、1609年に江戸幕府の初代将軍・徳川家康がオランダに朱印状を交付し、通商関係を開始してから今年で、400年になります。

日本とオランダの交流は大航海時代にさかのぼります。
当時、欧州諸国は金、銀、香辛料などを求めて新大陸の発見に力を注いでいて、オランダは東南アジア、日本目指し、ロッテルダム港を出港しました。
5隻で出航したのですが、4隻は外国船に襲われ、1隻のみが航行を続け、その1隻、デ・リーフデ(博愛)号が1600年、大分の臼杵湾に漂着しました。
これが日本とオランダの交流の始まりです。



江戸幕府の初代将軍となる徳川家康は、漂着したオランダ船に興味を持ち、乗組員のヤン・ヨーステンらを心から歓迎しました。
幕府相談役の地位を与え、航海術を学んだり、西洋諸国に関する情報を集めたりしました。
幕府から発行された朱印状に基づき、長崎の平戸にオランダ商館が設置され、本格的な通商関係が始まりました。

ちなみに、東京駅がある「八重洲」の一帯は、ヤン・ヨーステンの屋敷があったことに由来し、「ヤヨース」がなまったものです。



オランダ人は親日家が多く、ヨーロッパ諸国の中では比較的、おっちょこちょい(失礼かな?)で、でも憎めない人柄がとても好きですね。
来週はまたオランダの友人が日本にやってきます。
元気になった姿を見せられるのが、何よりも嬉しいですね。



では、スキーダムよりお別れです。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その68の4 『皇居一周』

2009年09月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
トッポ、『早く次へ行かないと、一周回れないよ!』



トッポ、『急ぐぞ!』



何故か浮かれているトッポママです。(笑)



蛤濠から坂下門方向を望みます。
何故蛤濠というのか調べたのですが、分かりませんでした。
きっと、海が近かったので昔は蛤が取れたのでしょうかね。
蛤濠の奥に見える瀟洒な建物は宮内庁だと思います。



蛤濠に沿って進むと、次の門が見えてきます。
これが桔梗門で、正式には内桜田門といいます。
この門があるため、いわゆる桜田門は正しくは外桜田門というわけです。
桔梗門は江戸城本丸方面へ通じる門で、明治以降は門内に枢密院が置かれ、現在は皇宮警察本部があります。

当時、幕府は諸外国の強硬姿勢に抗しきれず、朝廷の勅許を得ずに条約を締結し開国に踏み切りました。
尊皇攘夷思想は天皇をないがしろにした幕府の横暴と政策の失敗を批判し、倒幕思想へと結びついていきます。
大老、井伊直弼の強硬手段が大きな反発を招き、1860年、直弼は江戸城の桜田門外で暗殺されてしまう。
これが世にいう『桜田門外の変』です。



桔梗門を過ぎると、桔梗濠と名が変わります。
辰巳櫓(たつみやぐら)は巽櫓とも書かれます。
正式名称は桜田二重櫓と称するそうです。
辰巳櫓は本丸の辰巳(南東)の方角にあるので、この名があります。
桔梗濠は桔梗門から東へ伸び、内堀通りにぶつかると直角に曲がって北へ続き、江戸城の正門だった大手門に至ります。



トッポパパ、『次は大手門だよ。』
トッポ、『ソフトクリーム売ってる?』
トッポパパ、『



桔梗濠に映る大手門の高麗門と渡り櫓が見えてきました。



江戸城の大手門です。
大名や役人が本丸に登城、下城する際の正門です。
外様大名の伊達政宗等の外様大名の御手伝普請で築造されたそうです。
明暦の大火(1657年)で消失し、再建されたが太平洋戦争の戦火で消失し、現在のものは昭和42年に復元されたものです。



皇居は広いですね。 それぞれの門にも歴史があるようです。

続く...................................................................。

海外の都市の紹介、 その63の2 『スキーダム』

2009年09月07日 | 海外の都市の紹介
風車は近くで見ると、想像以上に大きく感じます。
この風車の中で、結婚式をあげた友人が夕食に招待してくれました。



ヨーロッパ諸国の日没は遅いので、まずは外でビールで喉を潤すことにしました。



ちょっと変わったビールグラスで、底が円錐形になっているので、専用のグラス置きとセットで使用されるようです。
小さいほうのグラスには、『ジュニバー』と呼ばれるオランダのジンです。

ジンの誕生は1660年で、オランダのライデン大学医学部教授、フランシスク・シルビウスによってジンが開発されました。
当初は、解熱、健胃にも効果があると薬用酒として作られたようですが、爽やかなアルコール飲料として評判になり、ジュネバ(Geneva)と呼ばれ、オランダを代表するお酒となりました。
オランダのジン産業の中心となったのが、この地、スキーダムの街です。
昔は、ジンの原料やパン屋の小麦を挽くための風車小屋が運河沿いに20以上も並んでいたそうです。



ジンはトウモロコシや大麦などの穀物を原料とした無色透明の蒸留酒に、薬草や香草等で香りをつけたもので、ジュニパーは杜松の実の香りが特徴的です。
現在、ジンといえばイギリス発祥のドライ・ジンをさすことが多いそうですが、もともとはオランダ生まれだったのです。

それでは風車の中に入ります。



風車の中は結構広く、何層にも階上が分かれています。
少し斜めになった窓も、独特な雰囲気があります。



これは、小麦を挽くためのミルで、現在でも装置を新しくして使用されているそうです。



窓から手を伸ばして、風車を撮ってみました。



内階段を登ると、展望台に出ることが出来ます。
フェンスが新しいところを見ると、昔は展望台などなかったのかもしれません。
観光客にとっては、展望台から街の景色を見られることは嬉しいですね。



風車の上部からの眺めると、風車と運河の街が一望できます。
オランダ生まれのゴッホやフェルメールなども、この景色を見ていたのでしょう。
友人も満足げに、写真を撮っていました。



続く................................................................。