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TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

懐かしの名車紹介 その7

2017年11月24日 | トッポパパの愛車
1965年製フォルクスワーゲン・カルマンギアです。
フォルクスワーゲン・ビートルからの派生車種の一つがカルマンギアです。
ビートルがベースなのでパワートレインは空冷4気筒エンジンで後輪駆動で、1965年の車は1.3Lへと排気量アップしました。



この車はカルマンギアType3をベースにブラジルで作られたTC(ツーリングクーペ)のようです。
デザインはジウジアーロということです。
エンジンは1600cc、65馬力を積んでいました。



1955年にMGブランドにおける主力車種の、2座席オープンカーとして開発された、MG-A1600です。
4気筒1600ccです。 



ライトウェイトスポーツの元祖と呼ばれている1962年に英国で発表されたMG-Bが並んでいます。



ビンテージカーの前では、スケッチをされている人もいます。



1962年製モーリス・マイナー1000セダンです。
1948年にデビューしたマイナーMMを原形とする2/4ドア4座サルーンです。
1950-60年代のモーリスマイナーは、戦後のモータリゼーションの中で活躍した1台です。



1950年製オースチンA90アトランティック・コンバ-チブルです。
1948年に開催された戦後初のロンドン・ショーで発表されました。
全長約4.5mですが、全幅は1.8m近いサイズのワイドボディを持ちながらエンジンは4気筒2.6リッターでした。



こちらもオースチンですが、詳細はわかりません。



1964年 オースチンヒーリー 3000MK2です。
1959年にヒーレー100系からモデルチェンジする形で登場したオースティン・ヒーレー3000(通称ビッグヒーレー)は、当初SU HD6 ツインキャブで124psでしたが、1961年5月にSU HS4の3連キャブの「Mk-Ⅱ」となり、馬力は132ps、最高速度173km/hとなりました。



こちらも同種の車のようですが、詳細はわかりませんでした。
どの車もため息が出るくらい、華麗なフォルムをしています。



往時の車は現在運転するには、膨大な維持費がかかると思われます。
往年の名車の外観を残しながら、現代の技術を乗せた車が発売されれば、また違った車の楽しみ方ができるでしょう。
車の紹介に当たり、いろいろ調べてみましたが、間違いがありましたらご勘弁ください。

懐かしの名車紹介 その6

2017年11月23日 | トッポパパの愛車
1960年代の日本を代表する小型スポーツカーのホンダの車が並んでいます。



ホンダS600です。
本田技研工業がかつて生産していた小型スポーツカーで、 愛称はエスロクです。
1963年10月にS500がデビューしてから半年後の、1964年3月にS600が発売されました。
エスロクは1964年3月-1965年12月に生産したFR・2シーターのオープンスポーツで、現在でもビンテージカーとして、人気があります。



水冷直4 DOHCエンジンで、606ccとし、F1のエンジンと同じ設計を取り入れた超高回転型エンジンを採用しています。
当時の日本車としては珍しいDOHCと4連キャブレターを装備し、9,500rpmからがレッドゾーンという回転数で馬力を出す2輪用エンジンの様な特性です。
エンジンは、最高出力57PS/8,500rpm、リッター当たりの馬力は94PS、シリーズ中最高の最高速度は約145km/hに達しました。
これは倍以上のエンジン排気量を持つクルマと同等のスピードです。



ホンダSシリーズの三代目として1966年1月から1970年5月の間に生産されたS800です。
水冷直列4気筒DOHCエンジンをフロントに積み、縦置きされました。
デフから先の動力伝達に2本のローラーチェーンを用いる後輪独立懸架が主な特徴です。



S800は791ccまでエンジン排気量を拡大しました。
S600とS800の判別は、フロントグリルとS800のボンネットのパワーバルジ(コブ)でわかります。
S800の最高出力は、70PS/8,000rpm、リッター当たり約88.5PSです。
4速MTはフルシンクロになり、最高速度は約160km/hとなり初の100マイルカーとなりました。



サーキットでも活躍し、世界各国で人気を博しました。
シンプルにまとめられたデザインですが、恰好いいと若者に人気でした。



こちらはS800クーペです。



MGのスポーツカーも何台か展示されていました。
MGは英国のモーリス自動車(1910創業)の経営者ウィリアム・モーリス氏が1924年に、スポーツバージョンのみを生産するために造った小さな別会社「モーリス・ガレージ」のイニシャルです。



確証はありませんが、たぶん1950年代前半のMGのTDだと思われます。
このタイプのMGスポーツカーの最大の魅力は、独立したフェンダー(ウイング)を持つクラシックなスタイルです。



こちらは1954年製MG-TF1500です。
MGはTDのシャシー/エンジンに新しいボディを着せ替えて1953年MG-TF1250を発売し、1955年1466ccにボアアップしたTF-1500が誕生しました。
ボンネットサイドのTF-1500のエンブレム以外になかなか区別がつきません。
TF1500はTDに比較すると、ボンネットのフロント部分が後傾し、ヘッドライトの位置が下に下がっているぐらいしか、外観の変更は目につきません。



フロントパネル周りも凝った作りです。
現在運転しようとすると、クラッチは機械式で重く、ギヤチェンジ、坂道発進などは高度な技術が必要なのでしょう。
燃料は検知棒で残量確認するそうです。



続く............................................................。

懐かしの名車紹介 その5

2017年11月22日 | トッポパパの愛車
1965年製モーリス・ミニ・トラベラーMK1です。
木枠も斬新的で、お洒落な感じです。
1960年代の有名なビートルズのメンバーもミニのオーナーでした。



オーナーさんのこだわりですかね、扇風機がご愛嬌です。



トッポパパもMINIクラブマンに乗っていますので、ついついミニには目がいってしまいます。
ローバーミニが並んでいます。



こちらのミニが1997年製のローバーミニの最終車のようです。



オースチン・ヒーレー(Austin-Healey )は、イギリスのスポーツカーブランドです。
このブランドは、1952年にブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)・オースチン部門のレナード・ロードと、著名な自動車エンジニア兼デザイナーであるドナルド・ヒーリーとの間に結ばれた合弁事業合意により誕生しました。



オースチン・ヒーレーは、1972年まで生産が続けられました。
1959-1961年に生産され、BN7 Mark I(2シーター)はその特徴的な外観から、日本では一般的に「カニ目」と呼ばれ、アメリカではバグアイ(虫の目)、イギリスではフロッグアイ(カエルの目)とあだ名されています。



1953-1955年に生産された、希少なヴィンテージカー、オースティン・ヒーレー100型です。
トランスミッションは3速ユニットで、2速と3速にオーバードライブを持っています。
2,660ccの水冷直列4気筒エンジンで、ドラムブレーキが4輪に装着され、フロントサスペンションはコイルスプリングを使った独立懸架えす。
この当時、欧州では魅力的なライトウエイトスポーツカーがたくさんあったようです。



日本に藻海外の車に負けていないおしゃれな車があります。
ダットサン・フェアレディは、日産自動車が製造し、ダットサンブランドで販売したスポーツカーで、フェアレディZの源流です。
フェアレディ2000です。
ソレックスキャブレター2基を備えた新設計の直列4気筒SOHC1,982cc、U20型エンジン(145馬力/6,000rpm)、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載しました。
発表された最高速度は205km/hであり、国産初の200km/hオーバーカーとなり、高性能車としても注目を浴びました。



フェアレディの完成形と賞賛されるモデルです。
1967年5月の第4回日本グランプリGTクラスにて、フェアレディ2000が1-2-3フィニッシュを飾りました。
気品溢れるデザインを持つこのクルマは、当時の若者にとって憧れの存在でした。



1960年代の日本の車は、個性あふれる車だったように思います。
最近は性能ははるかによくなっていますが.......................時代の流れでしょうかね。



続く...................................................................。

懐かしの名車紹介 その4

2017年11月21日 | トッポパパの愛車
往年の懐かしのスポーツカーが並んでいます。



ロータスヨーロッパTCです。
ロータスヨーロッパは、イギリスのスポーツカーメーカーのロータス・カーズが1966年から1975年まで製造していたスポーツカーです。
1972年に登場した最終型のスペシャルでは、ツインカムエンジンをよりチューンした通称ビッグバルブと呼ばれる物に変更され、最高出力は126馬力と、歴代の市販型ヨーロッパでは最高出力となりました。



パリで写真を撮ると必ずどこかにこの姿が映り込むといわれる、フランスの国民車、シトロエン2CVです。
2CVは、フランスのシトロエンが1948年に発表した独創的かつ合理的な設計の小型大衆車です。
2CVという車名を与えたれこの車がデビューを飾ったのは、戦争終結から3年後の1948年です。
495㎏という超軽量の車体、最高時速は65㎞、そしてリッターあたり22.2㎞という、当時としては驚異的な低燃費を実現していました。



1969製、イギリス ロータス・セブン Sr3 です。
ロータス・セブン(Lotus Seven)は、イギリスのロータス・カーズがかつて生産・発売していたスポーツカー。1957年から1970年代にかけて生産、販売されていました。
ロータス・セブンはSr1- Sr4までのモデルチェンジが行われています。



面白い車を見つけました。
1957年 - 1959年の限られた販売期間のBMW・600です。
ドイツのBMWが 製造、販売していた小型自動車である。



運転手はフロントから乗車する珍しい車です。



1958年製 MG ZBマグネット です。
1953年-1958年に生産されたMGで、1958年の最終の改良型です。



第2次大戦の戦前・戦後を通じて、MGスポーツサルーンの最高傑作です。



モーリス・ミニ・カントリーマンMK1とオースティン・ミニ・カントリーマンが並んでいます。
1959年に初代ミニが誕生しました。
イギリスの自動車会社、BMC(British Motor Corporation)がミニを販売し、BMCは傘下に「オースチン」と「モーリス」という2つの自動車ブランドを所有していたので、それぞれのディーラー網で販売されたため、ミニの名称も「オースチン・セブン」「モーリス・ミニ・マイナー」の2つに分かれていました。
この2車種の違いはエンブレムとグリルだけのようです。



商用車として、バンタイプも販売されました。
実用性を優先したので、快適性には駆けるそうですが、サイドの窓を追加した『オースチン・セブン・カントリーマン』『モーリス・ミニ・トラベラー』はボディに木製フレームを取付け、現在の日本でも高い人気のモデルとなっています。




続く....................................................................。

懐かしの名車紹介 その3

2017年11月20日 | トッポパパの愛車
1960年代、日本の自動車市場はブルーバードとコロナの熾烈な販売合戦がおこなわれていました。
BC戦争(Bluebird VS Corona)と言われ、初代310系ブルーバードは同時期の2代目RT20系コロナより断然売れ、2代目410系ブルーバードは同時期のアローラインの3代目RT40系通称バリカン・コロナに苦戦し、3代目510ブルーバードではコロナより優位に立ち巻き返した。
ブルーバードという愛称は、メーテルリンクの童話『青い鳥』にちなむものです。
1959年、ダットサン210型のモデルチェンジにあたり、初めて「ブルーバード」のネーミングが採用された、ダットサン310です。
310型には1Lと1.2Lの2種類のエンジンが用意され、当時としては先進的なサーボを備えたブレーキが装備されていたのが注目を集めました。
ツートーンカラーやホワイトタイヤ仕様も用意され、高級感を与えることに成功しています。
310型は内装、外装ともに好評で、発表後わずか1ヶ月で8,000台ものバックオーダーを抱える大ヒットとなり、その独特のテールランプの形状から「柿の種」という愛称も付きました。



1963年登場の2代目410型系ブルーバードです。
日産初のモノコック・ボディを採用したことで話題となりました。
1964年に1200SSが追加され、後にブルーバードの伝統となるSSS(スーパー・スポーツ・セダン)の名を冠した1600SSSが登場したのもこの2代目ブルーバードです。
2代目ブルーバードはモータースポーツにも積極的に参戦。1966年のサファリラリーではクラス優勝しました。



1967年登場の3代目510型系ブルーバード1600 SSSです。
スーパースポーツセダンの色合いが濃く、シリーズの中でも大きな成功を収めました。
外観は、直線的でシャープなスーパーソニックラインと、ロングノーズ・ショートデッキを融合させた均整の取れたシルエットで、海外でも高い評価を集め、史上初めて北米市場でヒットした日本車となりました。



伝説の車、スカイライン2000GTRのコンセプトカー、スカイライン2000GTです。
1968年月直列6気筒エンジン搭載のGT(GC10型)を発売しました。
日産製直列6気筒、OHC、2000ccのL20型エンジンを搭載していました。
1969年以降日産のL20型エンジンを搭載する全車種で新設計のシリンダーヘッド搭載エンジンに順次切り替わり、115馬力となります。
サスペンションは、フロントはマクファーソンストラットで、リアはセミトレーリングアームとコイルスプリングへ変更され、4輪独立懸架となります。



実に懐かしい車が展示されていました。
日野自動車のコンテッサ1300クーペです。
コンテッサは、日野自動車がルノー・4CVのライセンス生産で得た経験をもとに開発し、1961年から1967年まで生産しました。
1964年、イタリアミケロッティデザインのコンテッサ4ドアセダンが登場し、同年にはクーペボディも導入され、国際自動車エレガンスコンクールでの受賞を果たすなど、国際的にも高い評価を得ました。
1967年にはトヨタとの提携により日野自動車は自家用車部門から撤退しますので、1960年代、日野自動車の自家用車シリーズの最後を飾る、貴重な車です。



1962年製トヨタパブリカ(Publica)Van Deluxeです。
トヨタ自動車が1961年から1978年まで生産した小型乗用車である
1950年代の国民車構想の影響を受けて開発されたパブリカは、トヨタ初の大衆車で、長年にわたって同社の生産、販売する最小車種として位置付けられました。
「パブリカ」という車名は一般から公募されパブリックカー(大衆車)に由来しています。



1966年製のプリンスグロリア6ワゴンです。
ワゴンの名称は普通のライトバンとは異なる高級な商用車といったニュアンスであったようです。
グロリアのデザインを、そのままに踏襲したスタイルで、高速時代の6気筒と大きくまわりこんだフロントガラスが特徴的です。



6気筒エンジンが搭載され、2L直6SOHCシングルキャブレター仕様のG7型エンジンは、最高速度は155km/hに達しました。
後姿もエレガントで品格があります。



トッポパパの年代の人には、憧れの車の日産フェアレディ240ZGです。
「日産 フェアレディZ(S30型)」は、1969年に登場し、北米でも大ヒット作となりました。
当初、輸出専用モデルだった「ダットサン 240Z」ですが、「日産 フェアレディ240Z」として国内でも販売開始しました。
グレード体系はベースグレードの「240Z」、豪華仕様の「240Z-L」、そして最上級グレードの「240ZG」の3種類です。
「240ZG」には「Gノーズ(グランドノーズ)」と呼ばれる「エアロダイナノーズ」と「ヘッドランプカバー」、FRP製の前後「オーバーフェンダー」が装備され、エンジンはL24型で最高出力は150ps/5,000rpmでした。



続く............................................................。

懐かしの名車紹介 その2

2017年11月19日 | トッポパパの愛車
一番手前の黒の車がダイムラー・DS420(Daimler DS420 )です。
イギリスの高級車メーカー、デイムラーが1968年から1992年まで製造していた4ドアリムジンです。
この車はイギリス国内の王室・貴族をはじめとする上流階級または政府・企業向けなどを主に想定し、運転手が付き、オーナーは後席に乗る車として販売されました。



ベンツの懐かしの名車が並んでいます。
メルセデス・ベンツ(独: Mercedes-Benz)は、ドイツの自動車会社、ダイムラーが所有する乗用車、商用車のブランドである。



一番手前の車は、1968年発売のメルセデス・ベンツのスポーツモデル、280SLです。
1963年にデビューしたメルセデス・ベンツのオープンスポーツカーが、230SL(2300cc)です。
1966年に250SL(2500cc)に排気量をアップし、1968年に280SL(2800cc)を登場させました。
当時も現在においても各モデルの中では最も人気のある車です。
40年以上経っても魅力を失わないデザインは、秀逸といえます。



一番右の車がメルセデス・ベンツの希少なカブリオレモデル、1960年製220SEbです。
ダイムラーベンツ創業75周年を祝う記念シリーズで、直6・OHC・2195cc・120馬力、最高速度172㎞。ゼロ400m加速14.0秒のスペックです。



メルセデスが戦後の復興を期に、メーカーの威信を掛けて作った最初の乗用車、1953年製170シリーズです。
170Sはその上級バージョンとして登場したお車です。現在、日本に4台の希少な車のようです。
オーナーさんとも少し話をしましたが、本当にきれいにメンテされていて、オーナーさんの愛着度がわかりました。



日本車の紹介も致します。
1975年製ホンダシビック(Honda Civic)RSです。
当時、ハイパワー至上主義のホンダが、大きく転換を図ったのが1970年代です。
RSというのはロードセーリングの略で、自動車の排気ガス規制が始まって、走らない車が増えてくる中で出たシビックのスポーティ版です。
エンジンにはCVツインキャブ。タイヤは13インチのラジアル、700kgの車重に76馬力は当時としてはパワフルな車です。



1970年に登場した、トヨタ・セリカ1600GTです。
ボンネット下に納まる直列4気筒DOHC1.6Lユニットは2T-Gという形式名で呼ばれるトヨタの傑作エンジンです。
日本ではそれまで存在しなかったスペシャリティカーというジャンルを開拓すべく登場した車です。
最高出力100ps/6000rpm、最大トルク13.7kg-m/3800rpmを発揮し、ツインキャブ仕様の2T-B型は最高出力105ps/6000rpm、最大トルク14.0kg-m/4200rpmというスペックでした。



1967製カローラ(COROLLA)です。
カローラは、日本国内では同クラス初のフロアシフトによる4速マニュアルトランスミッションで、日本製乗用車としては初のマクファーソン・ストラット式の前輪独立懸架などの新機構が取り入れられました。



トヨペット コロナ RT20型です。
1960年、トヨタが総力を挙げてダットサン・ブルーバード(310系)打倒を目指して開発された本格的な小型乗用車です。




トヨペット コロナ RT40型です。
トヨタは1964年5月には総力をあげて新型RT40型を送り出し、国内、輸出の両面で大成功を収めトヨタの主力となりました。
4灯式ヘッドライトの新しいスタイルを持ち、最高速度も140km/hに向上し、技術レベルを一気に国際水準まで引き上げました。



続く..............................................................。

懐かしの名車紹介 その1

2017年11月18日 | トッポパパの愛車
赤レンガ広場で『横浜・ヒストリックカーデイ』というイベントが開催されました。
懐かしい国内外の名車が展示されると聞き、急遽カメラを担いで出かけました。



100台以上の、今では幻の名車になりつつある往年の名車の勇姿が並んでいます。



トッポパパの年代の人には、ちょうど若かりし頃?、40-50年前の車が勢揃いです。
全部を紹介はできませんが、できるだけ紹介していきます。



トライアンフ・TR4Aです。
トライアンフはイギリスの自動車メーカー・トライアンフが1953年から1981年まで生産したスポーツカーのシリーズ名である。
TRはTriumph Roadstarの頭文字です。
最初のTR1はプロトタイプに終わり、生産型はTR2からTR8となる。
ダッシュボードは木目張りに改められた。車両重量は1015kgに達し、2138ccエンジンは104馬力に強化されたものです。



恰好のいいロータス エランが並んでします。
このタイプのエラン(Elan )は、イギリスのスポーツカーメーカー、ロータス・カーズが1962年から1975年まで製造していた軽量スポーツカーです。
上部が黄色のロータス・エランスプリントは、ジムカーナやサーキット走行などの、走りを中止としたイベントで活躍しています。
エランがデビューした当時の日本は、1963年に第1回日本グランプリが開催されるなどモータースポーツの勃興期でした。



ジャガー(E-type) はイギリスの高級車メーカージャガーより、1961年から1975年の間販売されたスポーツカーです。



ジャガー(E-type)がこれだけ並ぶと、圧倒されます。



1961年、ジュネーブショーにて華々しいデビューを飾ったのがジャガー(E-type)です。
美しいボディラインのみならず、当時としては夢のような最高速度240km/hを誇り、憧れの車になりました。
ボディーはオープン2シーターとクーペの2つから選ぶことができ、前者はロードスターの名で呼ばれることが一般的です。
3,781cc、直列6気筒DOHCのXKエンジンに3連SUキャブレターを搭載し、モス製の4速MTの組み合わせで265hp/5,500rpm、36.0kgm/4,000rpmといわれています。



ジャガー・Mk2(マーク2)です。
ジャガーが1956年から1967年まで生産していた小型サルーンがジャガー・Mk1/Mk2です。
Mk2はMk1の改良版で、当時の世界の小型セダン市場に大きな衝撃を与えました。
3,781ccXKエンジンを搭載し、0-60mph加速8.8秒を実現し、最高速度は201km/hに達しました。
メッキパーツの点数も増やされたため、より豪華に洗練されて生まれ変わっています。



ジャガー・マークV(Jaguar MarkV )です。
ジャガーが1948年から1950年まで生産していたセダンです。
1948年10月戦後最初のロンドンモーターショーに戦後初の新型車としてマークVが出品されました。
日本の終戦直後ですが、すでにこんな車が外国では走っていたわけです。



続く...............................................................。

日産ギャラリーで歴代の名車と再開! その7

2016年06月14日 | トッポパパの愛車
最後にフェアレディの歴代の写真をまとめてみました。
車に興味がない人には、車の写真ばかりで辟易しているかもしれませんが申し訳ありません。
トッポパパの個人的興味なので、もう少しご容赦ください。



1960年から本格的に北米輸出が開始された『フェアレディ SPL213』(SPL212型)は、小型スポーツカーとして自動車先進国であったアメリカで一定の評価を獲得しました。
搭載エンジンは55馬力で、生産台数は、212と合わせシリーズとして500台程度という貴重なモデルです。
記念車は、美しい曲線を描くモールで分割された赤と白のツートンカラーのエクステリアがとてもおしゃれなSPL213(「L」はLeft handle、左ハンドルを表すアルファベット)です。

年式:1961年、型式:SPL213型、車両重量:890kg、エンジン:E1型 (直4・OHV) 1,189cc、最高出力:40kW(55ps)/4,800rpm です。



1961年の第8回東京モーターショーで発表、翌年に発売されたのが『ダットサンフェアレディ1500』(SP310型)です。
型式名のとおりダットサン310型(初代ブルーバード)のシャシーへセドリック30型のエンジンを搭載し、それまでにない低重心でスポーティなスタイリングで話題をさらいました。
輸出仕様はさらにツインキャブレターを採用し80馬力にまでパワーアップしていました。
このクルマは1963年、「第1回日本GPレース」のB-IIカテゴリーで優勝したマシンです。

年式:1963年、型式:SP310、車両重量:835kg、エンジン:G型 (直4・OHV・SUツインキャブ) 1,488cc、最高出力:59kW(80ps)/5,600rpmです。



1963年以降は、『ダットサンフェアレディ1500』は輸出仕様と同様にSUツインキャブレターを採用し80馬力にパワーアップされました。
このクルマはフロントフェンダー上のターンシグナルランプとロードホイールがノンオリジナルです。

年式:1965年、型式:SP310、車両重量:1198Kg、エンジン:G型 (直4 OHV SUツインキャブ) 1,488cc、最高出力:59kw(80PS)/5600rpmです。



1967年(昭和42年)には、U20型1982ccエンジンを搭載したSR311型『フェアレディ2000』が登場しました。
エアインテークが目を惹くボンネット下のSOHC4気筒U20型エンジンは、ソレックスキャブレターを装備し最高出力145馬力、910kgのボディーを強力に加速。(0~400Mを15.4秒)させることができました。
フロントサスペンションにもダブルウィッシュボーンを採用し、リヤサスペンションにはトルクロッドが追加されるなど、当時の最新メカニズムを搭載していました。
操縦安定性だけでなく乗り心地にも配慮し、さらに北米輸出の為、合わせガラスや3点式シートベルトが備わるなど、安全装備も充実していました。
このクルマは、145馬力U20型エンジン搭載の『フェアレディ2000』で国内向け仕様です。
この時代にこんなお洒落な車があったのです。

年式:1967年、型式:SR311、車両重量:910kg、エンジン:U20型 (直4・SOHC) 1,982cc、最高出力:107Kw(145ps)/6,000rpm です。



1967年、ダットサン・フェアレディの2代目SP310型に、強力な2000ccエンジンを搭載した『DATSUN 2000 SPORTS』モデルが誕生(SR311型)しました。
フェアレディ1600に追加発売されたこのモデルは、1982ccのU20型直列4気筒OHCエンジンと、ポルシェタイプシンクロを持つ5速トランスミッションを搭載。さらにソレックスツインキャブレターを装着し、最高出力は145馬力を発揮しました。
最高速度は205km/hを記録し、日本車初の200km/hオーバーカーとなりました。
同年5月に開催された「第4回日本グランプリ」のGTクラスでは、このフェアレディ2000が1位~3位を独占と、その実力を十分に発揮しました。
1969年(昭和44年)に後継のフェアレディZが登場するまで、数々のレースで輝かしい成績を残しました。
このクルマは、対米輸出仕様の左ハンドル車です。エンジンはSUツインキャブ仕様で、135馬力を発揮しました。

年式:1968年、型式:SRL311、車両重量:960kg、エンジン:U20型 (直4・OHC) SUツインキャブ 1,982cc、最高出力:99kW(135ps)/6,000rpmです。



『フェアレディ』の車名は、1961年(昭和36年)に発売された1200ccエンジンのSPL212型に初めて冠せられたもので、そのルーツは1959年(昭和34年)6月に発売されたダットサン・スポーツ(S211型)にまで遡ります。
1000cc・34馬力のS211型 の改良版であるSPL212(1200cc・48馬力)や、SPL213(1200cc・55馬力)が輸出専用であったため、日本での「フェアレディ」の販売は1962年の『フェアレディ1500』(SP310型)からでした。
『フェアレディ1500』(SP310型)は、1963年に行われた第1回日本GP(B-Ⅱクラス)で海外のスポーツカー勢を相手に独走で優勝、日本のスポーツカーのレベルの高さを証明しました。
1965年にマイナーチェンジを受けたフェアレディは、1600ccエンジンを搭載しSP311型となりました。
エンジンは初代シルビアに初採用されたR型(1595cc・90馬力)を搭載、トランスミッションはポルシェタイプの4速フルシンクロを採用していました。
このクルマは、1600ccエンジン搭載の北米向け輸出仕様SPL311型です。
左ハンドル、バンパーがオーバーライダー付となるなど国内仕様とエクステリアの細部が異なっていました。

年式:1968年、型式:SPL311、車両重量:945 kg、エンジン:R型 (直4・OHV) 1,595cc、最高出力:71kW(96ps)/6,000rpm です。



フェアレディZの初代モデル『フェアレディZ 432』(S30型)は、1969年に発売され、日本だけでなく、北米市場を中心に世界規模の大ヒット車となりました。
日産の世界的なイメージリーダーとして9年間に及んで生産され、グローバル販売52万台という、単一型式のスポーツカーでは未曽有の大記録を樹立しています。
このクルマは、3代目スカイライン2000GT-R(PGC10型)と同じ直列6気筒・4バルブDOHC・160psの「S20型」エンジンを搭載した高性能モデルです。
車名の432とは、『4バルブ・3キャブレター・2カムシャフト』から取ったネーミングであり、S20型エンジンの構成に由来します。
当時の価格もベーシックな「Z」のほぼ2倍に相当する185万円で、フラッグシップモデルらしくLSD(リミテッド・スリップ・デフ)や贅沢なマグネシウム製ホイールまでも標準装備でした。

年式:1969年、型式:PS30、車両重量:1,040kg、エンジン:S20型 (直6・DOHC)ソレックスキャブレター 1,989cc、最高出力:118kW(160ps)/7,000rpm です。



1971年『フェアレディ240ZG』が日本国内にもリリースされました。
240Zは当初、北米向けに輸出されたモデルで、海外での人気を耳にした日本のファンからの声に応える形で、グレード展開は、240Z、240Z-L、そしてこの記念車の240ZGは最上級グレードでした。
外観上の最大の特徴は、「Gノーズ(エアロダイナ・ノーズ)」といわれたフロントマスクの先端部分で、FRP製のノーズコーンやヘッドライトカバー、そして膨らんだオーバーフェンダーを装着しています。見
た目の迫力だけではなく、空力性能を示すCd値は、0.390と当時のスポーツカーではトップクラスで、最高速度は210km/hまで到達しました。
搭載されたのは、2393ccのL24型エンジンで最高出力は150馬力、最大トルクは21.0kg-mと十分以上の運動性能を誇りました。トランスミッションは5MTに加えて、3速ATも用意され、GTカーとしての資質も備えていました。

年式:1972年、型式:HS30H型、車両重量:1,010kg、エンジン:L24型(直6・SOHC) 2,393cc、最高出力:110Kw(150ps)/5,600rpmです。



グローバルな大ヒットスポーツカーとなった初代フェアレディZ(S30型)は、国内の2ℓエンジンに対して、輸出向けは2.4ℓエンジンで発売されました。
この輸出仕様が、発売2年後の1971年になって日本市場にも新規投入された際に追加になったのが、独特のノーズピース「エアロダイナ・ノーズ」をもつ『フェアレディ 240ZG』です。このクルマはその240ZGのレース仕様テストカーで、排気量2,870㏄クロスフローのLY28型エンジンを搭載しています。

年式:1973年、型式:S30H、エンジン:LY28 (直6・OHC<クロスフロー>) 2,870cc、最高出力:221kW(300ps)/7,600rpmです。



1974年に、『フェアレディ 240ZG』はホイールベースを延長して後席を設けた4人乗りの2/2『フェアレディ Z-T』を加えました。
さらに、1976年には、電子制御燃料供給装置・EGIなどで排気ガス規制に適合したS31型へ進化しました。
このクルマは、アルミロードホイール、195/70HR14タイヤ、リモコン式フェンダーミラーなどを標準装備した最上級のZ-T 仕様です。

年式:1977年、型式:S31、車両重量:1,135kg、エンジン:L20(E)型 (直6・OHC)EGI 1,998cc、最高出力:96kW(130ps)/6,000rpm です。




1976年には、昭和51年排出ガス規制に対応するため、L20型エンジンはSUツインキャブレターを電子制御式燃料噴射装置に改良したL20E型に変更され、型式もS31型となりました。
このクルマは、1977年式の『フェアレディZ-L 』(2シーター)S31型Z-Lです。
Z-Lは、S30型系に設定されたグレード名で、装備を充実させた上級グレードです。

年式:1977年、型式:S31、車両重量:1,135kg、エンジン:L20E型 (直6・SOHC) 1,998cc、最高出力:96kW(130ps)/6,000rpmです。



1978年、フェアレディZは2代目のS130型にフルモデルチェンジしました。
2000cc のZ と2800cc の280Z の2系統があり、エンジンはどちらもL型の直列6気筒でした。
スタイリングは伝統のロングノーズ& ショートデッキながらサイズが拡大されたため、2シーター、2by2(ツーバイツー)ともに室内スペースが拡大しました。
このクルマは、最高出力145馬力のL28E型エンジンを搭載する初期のモデルです。

年式:1978年 、型式:HS130、車両重量:1,225kg、エンジン:L28E型 (直6・OHC) 2,753cc、最高出力:107kW(145ps)/5,200rpm です。



フェアレディは1983年に累計生産台数100万台を突破しました。
その記念すべき年にデビューしたのが、3代目『フェアレディZ・Z31型』です。
エンジンは従来の直列6気筒・L 型から、新世代のV 型6気筒・VG 型に進化しました。
エクステリアは、ロングノーズ・ショートデッキのプロポーションを受け継ぎながら、空気抵抗係数(Cd 値)=0.31の尖鋭的なシルエットに生まれ変わり、消灯時でもレンズの一部が見えるパラレルライジングヘッドランプなどによる個性的なデザインも人気を集めました。
このクルマは、最高出力170馬力のV20ET型エンジンを 搭載しました。

年式:1985年、型式:GZ31、全長:4,535mm、車両重量:1,300kg、エンジン:VG20E・T (V6・OHCターボ) 1,998cc、最高出力:125kW(170ps)/6,000rpm です。




フェアレディZの4代目『フェアレディーZ 2by2 300ZX ツインターボ』(Z32型)が1989年に発売されました。
ワイド&ロープロポーションのスタイル、60度の超スラントヘッドランプ、躍動感に満ちたキャビンフォワードのシルエット、運動性能の良さを象徴するショートオーバーハングなど、フェアレディZの伝統を継承しつつ、さらに美しさと精悍さを進化させたスタイリングが特徴でした。
2人乗りの2シーターと4人乗りの2by2(ツーバイツー)のバリエーションがあり、エンジンは3000ccV型6気筒DOHCのVG30型で、ツインターボと自然吸気の2機種がありました。
4輪マルチリンクサスペンション、スーパーHICAS、アルミキャリパー対向4ピストンブレーキなど、当時の日産が誇る最新のシャシー技術を余すことなく投入していたことも大きな特徴です。

年式:1989年、型式:GCZ32、車両重量:1,570kg、エンジン:VG30DETT型 (V6 DOHC ツインターボ) 2,960cc 、最高出力:206kw(280ps)/6,400rpmです。



Z32型コンバーチブルは、1991年の東京モーターショーでの大好評を受け、1992年に待望の『フェアレディZ コンバーチブル』が正式発売となりました。
屋根である幌の開閉は手動式で、オープンにするとBピラーがまるでロールバーのように残ることがデザイン上の特徴でした。
ベースは2シーターの300ZXで、独立したトランクリッド、幌収納用ストーレッジリッド、幌フレーム等をアルミ化し、コンバーチブルの重量増は、わずか60kg増に抑えられていたのも特徴です。
エンジンは自然吸気の3000cc、V型6気筒DOHCのVG30DE型を搭載し、230馬力の最高出力を発揮しました。

年式:1992年、型式:HZ32、車両重量:1,520kg、エンジン:VG30DE型 (V6・DOHC) 2,960cc、最高出力:169kW(230ps)/6,400rpmです。




その後ルノーとの提携の始まった日産にとって、世界に知られた日産の象徴としての『Z』は大きな資産であり、その復活を望む声が内外ともに高まりました。
その期待感の中、2001年のデトロイトでそのコンセプトが発表された新型Zカーは、伝統の『Z』らしさに現代的な感覚と高品質感、手ごろな価格で賞賛を浴び、翌2002年に『フェアレディZ バージョンST』が日米ほぼ同時発売されました。
3.5リッターの自然吸気VQ35DEエンジンのみ、2シーターのみと割り切った点も好評で、途中でロードスターモデルを加えながら、次世代Z34型にスイッチするまでに、Z32型の2倍以上に相当する約25万台を生産する大ヒットになりました。
このクルマは、Z33型のシャシーナンバー1号車で、発表会などの場で大切に使われてきた個体です。

年式:2002年、型式:Z33、車両重量:1,450kg、エンジン:VQ35DE型 (V6・DOHC) 3,498cc、最高出力:206kW(280ps)/6,200rpmです。



オープンカーである『フェアレディZ ロードスター』が、2003年に追加されました。
屋根は2000年代に入り流行しつつあるメタルトップではなく、伝統的なソフトトップ(幌)を採用しました。
電動開閉式で、約20秒間という短時間で開閉します。
搭載エンジンは、V型6気筒DOHCの3498cc(VQ35DE)で、ターボはなくNA(自然吸気)のみの設定です。

年式:2003年、型式:Z33、車両重量:1,550kg、エンジン:VQ35DE型 (V6・DOHC) 3,498cc 、最高出力:206kW(280ps)/6,200rpmです。

その後フェアレディは現在の車に引き継がれていきます。


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最後の最後にトッポパパが一番憧れた車は、




このMID4(ミッド・フォー)と呼ばれた車です。
技術の研究・開発の成果を、モーターショーを通じて発表することを目的とした実験車両で、エンジンを車体中央に搭載し、駆動方式を4輪(4WD)としたスーパースポーツカーに由来して、車名をMID4としました。
この車両は、1987年に開催された東京モーターショー出展車で、エンジンは最高出力330馬力のV型6気筒DOHCツインターボ、インタークーラー付、VG30DETT型エンジンを搭載しました。
サスペンションはフロントにダブルウイッシュボーン式、リヤにHICAS(ハイキャス)という操舵機構を採用したマルチリンク式を採用していました。
残念ながら市販には至りませんでしたが、その技術の多くは、1989年に発売された4代目フェアレディZ(Z32型)や、トッポパパの愛車だった3代目スカイラインGT-R(R32型)などに応用されています。

年式:1987年 、型式:MID4-II 、車両重量:1,400kg、エンジン:VG30DETT型 I/C (V6・DOHC ターボ インタークーラー付き) 2,960cc、最高出力:242kW(330ps)/6,800rpmです。
もし市販されていたら、名車中の名車 『幻の名車』となっていたでしょう。


日産ギャラリーで歴代の名車と再開! その6

2016年06月13日 | トッポパパの愛車
『日産ヘリテッジ・コレクッション』を日産の公式サイトから抜粋して紹介します。



『ダットサン』とは、1914年に『快進社』が『ダット1号車』を製造したことに由来します
『DAT(ダット)』は『快進社』への出資者3人のイニシャルから取られ、DATの息子を意味する『DATSON』が生まれました。
しかし、『SON』は『損』を連想させるため、発音が同じで太陽を意味する『DATSUN(ダットサン)』に改められ、昭和7年の10型から採用されました。
『ダットサン』は、主に日産自動車の小型車に使われ、日本のみならず、海外でも親しまれるブランド名になりました。
初めて知りましたが興味深い話です。
この『ダットサン12型フェートン』は、日産自動車が創業した1933年に製造されていた日産最古のモデルです。
記念庫の中でもっとも古い年式の車で、フェートンとは、折りたたみ式の幌を持つ4人乗りのオープンカーの呼び名です。

年式:1933年、型式:12型、車両重量:500 kg、エンジン:水冷4気筒(SV)748cc、最高出力:9kW(12ps)/3,000rpmです。



日産自動車は、1933年の『自動車製造株式会社』設立時点でスタートしました。
1934年には現在の日産自動車株式会社へ改称します。
さらに、当時の日本では未曽有となる年産2万台規模の本格的な量産に取り組み、翌1935年に横浜市の新工場で最初に生産されたのが『ダットサン14型ロードスター』です。
グリルの上に置かれた美しい兎のマスコット(ダット:脱兎:兎が走るイメージ)が目を惹きます。

年式:1935年、型式:14型、車両重量:550kg、エンジン:7型(直4・SV)722cc、最高出力:11kW(15ps)/3,600rpmです。



こちらは、『ダットサン14型ロードスター』の記念車ですが、フェートンを被ったフォルムは、今見てもお洒落です。
2人乗りで、トランクの中に補助席が格納されていました。



1936年に登場した『ダットサン15型フェートン』です。
4人乗りセダンを幌付きにした仕様です。
14型と同じ722cc(7型)で、排気量こそ同じですが、圧縮比を5.2から5.4に上げることで、16馬力と1馬力向上させています。
現在でこそクルマにとって1馬力は大きなパワーアップには感じられないかもしれませんが、当時では着実な進化といえるものです。
エクステリアでは、ラジエーターグリルの左上に角型のDATSUNバッジが付いたのが15型の特徴ですが、このクルマでは残念ながら欠品となっています。
さらに、ボンネット真横にあるルーバーのデザインも14型のシンプルな縦縞のものから、5つ連なるような横長形状のデザインに変わっています。

年式:1936年、型式:15型、車両重量:610 kg、エンジン:7型(直4・SV(サイドバルブ)722cc、最高出力:12kW(16ps)/3,600rpmです。



こちらも同じ『ダットサン15型ロードスター』です。
こちらは後席のない2人の乗りのロードスターであるため、リヤエンドが丸く落ち込んだフォルムが特徴です。
法律が改正されたことにより、この15型からスペアタイヤがトランクの外に固定できるようになり、積載量の向上が図られました。



1937年にデビューした『ダットサン16型 クーペ』です。
セダンやフェートンとともに、クーペとロードスターがラインアップされました。
15型と同じ722cc・16馬力の7型エンジンを搭載しています。
クーペは、セダンと異なり、サイドステップがなく、埋め込み型ドアハンドルなど斬新なディテールと流麗なスタイリングが特徴です。
クーペモデルは、設定がない年式もあり、生産台数も少ないことから、きわめて貴重な1台です。

年式:1937年、型式:16型、車両重量:?、エンジン:7型(直4・SV)722cc、最高出力:12kW(16ps)/3,600rpm、定員:4名です。



戦時色が濃くなりつつある1938年にデビューを果たした『ダットサン17型セダン』は、タフで経済性に優れ、日本中で大いに活躍しました。
エクステリアデザインは、前年に登場したダットサン16型セダンを踏襲しています。
フロントグリル中央を貫くように、太めの縦バーが入っているのが特徴です。
搭載されるエンジンは、サイドバルブ(SV)の722ccで、16馬力という最高出力も16型と同数値です。
この年はドイツで初の国民車となるフォルクスワーゲン・ビートルが誕生しており、当時の先進国では、第二次大戦前のモータリゼーションが高まりつつある状況にありました。
戦前の最終モデルです。

年式:1938年、型式:17型、車両重量:630kg、エンジン:7型直4・SV(サイドバルブ)722cc、最高出力:12kW(16ps)/3,600rpmです。



日産ブランド車の生産は、1937年に始まりました。
この『ニッサン70型乗用車』は、その記念すべき最初のモデルです。
このモデルはアメリカ、グラハム・ページ社の設備を買い取って国産化したもので、ボディサイズは当時のフォードやシボレーとほぼ同じでした。
自動車先進国のアメリカの技術を吸収し、日本の自動車産業を自立させようという意図も込められています。
このセダンは5人乗りと7人乗りがあり、さらに、幌屋根のフェートンもバリエーション展開されていました。
日産自動車は、ニッサンブランド車の登場により、小型車は「ダットサン」、大型車は「ニッサン」と、2つのブランド名を使い分ける時代に入りました。

年式:1938年、型式:70型、車両重量;1,410kg、エンジン:A型 直6・SV(サイドバルブ) 3,670cc、最高出力:63kW(85ps)/3,400rpm




戦時色が濃くなりつつある1938年にデビューを果たした『ダットサン 17型 フェートン』は、タフで経済性に優れ、日本中で大いに活躍しました。
当時のカタログにも「国民標準経済車」と謳い、燃費の良いことを説明していました。
フロントグリル中央を貫くように、太めの縦バーが入っているのが特徴です。
このクルマは、4座席に幌屋根を持つフェートンで、成城大学自動車部で使用され、1974年の文化祭を目標に同大でレストアされたクルマです。

年式:1938年、型式:17型、車両重量:610kg、エンジン:7型 直4 サイドバルブ 722cc、最高出力:12kw(16PS)/3600rpmです。



1940年代は乗用車の生産はごく一部の電気自動車などを除き生産されていないようです。
戦時中は軍用車やトラック主流になっていたのでしょう。
戦後、1952年20馬力のパワーユニットを搭載し、ショーモデルでしたが、ショーでの好評を受けて約20台が製作され、実際に販売された『ダットサンスポーツ』です。
国産車で初めてスポーツを名乗った『スポーツカー』の誕生でした。
後の『ダットサンフェアレディ』や現在の『フェアレディZ』へ続く、日産スポーツカーの先駆けとして記念碑的な存在です。
こんな車があったのですね、今でも売れそうなデザインです。

年式:1952年、型式:DC-3、車両重量:750kg、エンジン:D10型 直4・SV(サイドバルブ) 860cc、最高出力:15kW(20ps)/3,600rpmdesu.



戦後は、GHQ により乗用車生産が制限されていましたが1949年に解禁を迎えます。
日産は、1952年に技術的な遅れを取り戻す目的で英国のオースチン社と技術提携を締結します。
翌1953年、日産製の『A40 サマーセットサルーン』1号車が鶴見にあったオースチン工場でオフラインし、5月8日には都内で通産大臣や駐日英国大使を招いての記念発表会を実施しました。
このクルマは、オフライン1号車そのものです。
トッポパパの記憶にも、子供のころ『オースチン』と聞いた記憶があります。

年式:1953年、型式:B30、車両重量:1,020kg、エンジン:1G型(直4・OHV) 1,200cc、最高出力:31kW(42ps)/4,500rpm です。

ネットの情報量のおかげで、貴重な昔の車を整理することができました。
それにしても、走行性能は別としても、素晴らしいデザインの車ばかりで個性がありますね。

最後にフェアレディもまとめてみたいと思います。

日産ギャラリーで歴代の名車と再開! その5

2016年06月12日 | トッポパパの愛車
日産自動車創業期の象徴である戦前のダットサン車が展示されていました。



1935年年式ダットサン14型ロードスターです。



日産自動車は、1933年「自動車製造株式会社」設立時点でスタートし、翌1934年に現在の日産自動車株式会社へ改称します。



当時の日本では未曽有となる年産2万台規模の本格的な量産に取り組み、1935年に横浜市の新工場で最初に生産されたのがダットサン14型です。



1935年は、ドイツで初のアウトバーンができ、ヨーロッパでは高速移動の第一歩が、日本では自動車の大量生産が緒についた年といえるでしょう。



日本初の大量生産体制による低価格を実現し、国産初の普及型自動車として一世を風靡しました。



1938年はドイツで初の国民車となるフォルクスワーゲン・ビートルが誕生しており、当時の先進国では、第二次大戦前のモータリゼーションが高まりつつある状況にありました。



この時代のダットサンにとても興味がわきました。
後でネットで調べて整理してみます。



『チョイモビ』というは100%電気自動車で、CO2排出ゼロの環境にやさしい乗り物が紹介されています。
現在は公共交通機関と組み合わせて利用するという新たな交通システムの構築を目指した『日産ニューモビリティコンセプト』には、クリーンで利便性が高い新たな移動手段として、地方創生にも一役買うことが期待されています。



超小型なのに最高速度は80kmも出ます。
しかも、一回の充電で約100kmも走ることができるそうです。
しかし、高速道路は走行することはできないようです。



現在、この超小型EVは、現在の道路運送車両法に該当する車両規格がないため一般には販売されていません。
今後の販売も未定です。
そのため横浜のチョイナビ・ヨコハマ等、日産が市区町村などの自治体と共同して実証実験を行っているエリアでしか乗ることができないわけです。



手塚治虫のマンガに出てくる未来のクルマの感じです。

日産ギャラリーで歴代の名車と再開! その4

2016年06月11日 | トッポパパの愛車
『日産GTR』の発表は、その異次元の走りへの進化に世界中から驚きをもって迎えられました。
このモデルから『スカイライン』を名乗らなくなったとはいえ、スカイラインの伝統である丸型4灯テールランプと、KPGC10型スカイライン2000GT-R以来の4座席を確保した2ドアクーペスタイル(ハードトップ)を継承しているのはうれしいですね。



GT-Rの開発は、まずリヤタイヤに必要なグリップ力を決めることから始まり、空力性能については、前期型でCd値を0.27、後期型で0.26として、さらにリヤタイヤに大きな荷重が加わるようトランスミッションを後方に配置するトランスアクスル方式の採用により大幅なダウンフォースを獲得しました。
メーターには左から、340km/hまでのスピードメーター、タコメーター、ギア数表示が装備されています。
エンジンは、VR38DETT型 3.8L V6 ツインターボエンジンを搭載し、初期のモデルは最高出力480馬力、2008年12月の小改良以降のモデルは485馬力、2010年11月発売の2011年モデルは530馬力、2012年モデルから2015年モデルまでは550馬力、2017年モデルは565英馬力、2014年2月末販売のNISMOモデルは600馬力を発生しました。
最大トルクはマイナーチェンジ前の前期モデルが60.0kgf·m、2011年モデルが62.5kgf·m、2012年から2017年モデルまでが64.5kgf·m、NISMOモデルが66.5kgf·mです。

『日産GTR』は世界が注目する、モンスター・スポーツカー?に変貌しました。
しかし、最高性能、最高の走りを実現するフラッグシップカーになりましたが、どこを走るのでしょうかね??



ニューヨーク国際自動車ショーで、日産自動車が2017年仕様となるGT-Rを発表しました。
2017年GT-Rの顔つきは、公開されたオレンジボディも相まってチューニングカーの様な迫力を感じます。



このフロントグリルは「V-モーション」グリルと呼ばれ、凄い熱を持つパワーユニットの冷却を可能な範囲で向上させています。



今回の2017年式でR35 GT-Rは次世代へバトンタッチすると言われていますが、やはりどんなに形が変化しても『GT-R』のバッチを付けることを許された日産車はクルマ好きにとっては特別な1台だなと改めて思います。



トッポパパも流石にこの車に乗るのは若干抵抗があります。
願わくば、一般公道を走るのも似合う、真の3代目『スカイラインGT-R』を発売してくれるとうれしいですね。



日産のスポーツカーといえば、日産のもう一つの顔である『フェアレディZ』でしょう。



フェアレディZの高性能プレミアムスポーツバージョンであるフェアレディZ NISMOの新型車が公開されました。



フェアレディZは日本はもとよりアメリカでの人気が高い車です。



アメリカではフェアレディZは『Z-car』という愛称で呼ばれており数多くの人に親しまれています。
新しいフェアレディZ NISMOは、デザインが一新してよりスポーティーで洗練された雰囲気です。



続く...........................................................................。

日産ギャラリーで歴代の名車と再開! その3

2016年06月10日 | トッポパパの愛車
グループAのレースは事実上GT-Rのワンメイクとなってしまったため、1994年からはグループAに代わり全日本ツーリングカー選手権、全日本GTカー選手権が行われることになりましたが、その後もGT-Rは活躍を続けます。
かつての佳き時代を知る者にとっても、現代のクルマ好きにとっても、『GT-R』というネーミングは一種独特のもののようです。



1995年1月発表された3代目GT-Rの使命は、先代R32GTRを越える車となることでした。
R-32GTRを越えたことを演出する舞台に、ドイツのニュウルブルクリンクサーキットのオールドコースが選ばれました。
ここで8分を割るラップタイムを刻むことが目標とされ、8分切るのはジャガーくらいと言われた難コースにおいて、新型GT-Rは7分59秒を叩き出しました。
ほとんどレース仕様とも言えるようなチューンドマシンであることが判明し、比較対象が妥当かどうかの論議もあったようです。



その後、1997年にスカイライン4代目、R33 GT-RのVスペックが登場します。
ちょっと雰囲気がR32GTRに比べると、マイルドな感じになり、全体のフォルムが丸く、大きくなった感じです。
もちろん様々な点において、先代を上回っていたことは事実でした。
このほかにも細部にわたって改良が重ねられ、進化を遂げましたが、『GTRはもっと荒々しい車でなかったか』という疑問も上がったようです。



それにつけてもR33 GT-RVスペックはエンジン、サスペンション形式、シート形状、アテーサやHICASなどの先進機器etc...、様々な点において、先代を踏襲していたので、いかにR32GTRの設計が優れていたかを何より物語っています。
トッポパパも、洗練されすぎたフォルムに、性能向上は認めますがちょっと違和感を感じました。

1998年に、R33ベースのスカイラインGT-R 4ドア オーテックが発売されます。
スカイライン誕生40周年を記念してリリースされたモデルです。
『大人のための最高性能スポーツセダン』をコンセプトに、1997年の第32回東京モーターショーに出品後、翌1998年月から発売されました。
BCNR33型GT-Rに4ドアボディを流用し、リヤスポイラーは装着せず、フロントスポイラーも小型にして、外観は2ドアGT-Rに比べて落ち着きがあります。



1999年、5代目GT-Rが発表されました。
コンセプトは、今までと同様『究極のドライビングプレジャーの追求』でした。
あらゆるシーンで最上級の走りを提示し、安心感をベースにした意のままの走りを実現しようというのが開発における目標でした。



スタイリングは2ドアクーペをベースにしながらも、ルーフとドア、トランク以外は専用設計です。
ボリュームを増したボンネットフード、大きく口を開けたインテーク。大きく張り出したフロント・リアフェンダー、そして、専用設計となる2枚翼のリアスポイラーが装着されました。
R33 GT-R以降は、『公道を走る(羊の皮を被った)レーシングカーからレースが主戦場のスポーツカー』の色合いが感じられます。
公道のどこを走るの?と思わせるハイパワーの追及、モンスター・マシーンを思わせるフォルムは本来のスカイラインGT-Rとは違う世界に向かったような気がします。



1969年に登場したPGC10型初代スカイラインGT-Rにはじまり、1973年のKPGC110型までを第一期、1989年に登場したR32型からR35型までが第二期なのかなと個人的には思います。
結局、GT-R(KPGC10)とR32GT-Rが『スカイラインGT-RらしいGT-R』だったように思ってしまいます。



5代目GT-Rのあとは、『スカイラインGT-R』という言葉は使われなくなります。
代わりに日産車全体のフラッグシップとして『日産GT-R』となるのもわかる気がします。


続く......................................................................。

日産ギャラリーで歴代の名車と再開! その2

2016年06月09日 | トッポパパの愛車
1972年発売のスカイライン4代目はCMのロマンチックでヒューマンなストーリーに、若者から年配者まで幅広い年齢層の共感が集まり、CMソング『ケンとメリー~愛と風のように~』も異例のヒットを記録しました。
一種の社会現象を巻き起こすほど強烈なインパクトを与えたケンとメリーのスカイラインは、イメージ戦略が成功して人気車種になり累計販売台数も歴代最高の64万台を達成するベストセラーとなりました。



3ヶ月後、今回展示されている新型GT-Rが発表されました。



4輪ディスクブレーキ、175/14インチのラジアルタイヤを装着、各フェンダーにビス止めされたオーバーフェンダーや、フロントグリルは非常に迫力あるものでした。



しかし、車重は45Kg重くなり、ホイールベースも40mm長くなるなど、レースには不向きでした。
その後付加された排ガス規制に対応することができず、レースにでることなく197台生産されたところで生産中止となり、ケンメリGT-Rは消滅してしまったのです。
悲劇の車は生産台数が少なすぎるので、『幻のGTR』として、ネット情報では4,000万円のプレミア価格で取引されたとあります。

これ以降、次のGT-R登場まで、ファンは16年半の歳月を待つことになります。トッポパパもいつかはGTRをと夢見た長い年月でした。



ケンメリスカイラインでは、丸形のテールランプが復活しました。これ以降、歴代スカイラインには丸形のテールランプが必ず採用されることになります。



5代目スカイラインは日本の風土が生み、日本を代表する車であるとの観点から『スカイラインジャパン』というキャッチコピーを採用、先代に続き人気を博しました。

トッポパパのスカイラインの歴史は32歳の時に購入した、この『スカイラインジャパン』から始まりました。
1980年4月発売の2000ターボGT(KHGC210)はアメリカのギャレット社製のターボチャージャーを搭載し、145馬力を発揮しました。
ターボの導入は、エンジンのハイパワー化を容易にし、ターボ時代の幕開けです。



1981年8月 6代目スカイラインが発売されました。
ポール・ニューマンを広告キャラクターに起用し、走りを追い求める真のGTとしての復活しました。

間髪を入れず、日産としては8年ぶりとなるDOHCユニット搭載の2000RSを追加発表し、『走りのスカイライン』を待望するファンを歓喜させました。
2000RSの4バルブDOHC、FJ20エンジンは『鉄仮面』と呼ばれ、トッポパパも乗り換えました。
この車はターボなしのノーマルでしたが、走りの感覚が個人的には最高傑作だと思っています。
その後、テレビで石原軍団の西部警察に登場するようになりました。
日本初の4バルブDOHC+ターボの心臓を持つ2000RS-TURBOが登場し、『Racing Sports』のネーミング通りに10年ぶりとなるサーキットへの復帰を果たしました。
車のスペックが目まぐるしく進化していく時代で、短期に2台を乗り換えるのも大変でした。



『史上最強のスカイライン』を謳った日産スカイラインRSターボでしたが、世間が期待する『GT-R』の持つカリスマ性には答えられなかったようです。
トッポパパも、我慢してGT-Rを超える次のGT-Rを心待ちしていました。

1985年、都市工学7代目スカイラインが発売されます。
ソフィスティケートされた高級スポーティサルーン。この7代目では、C10以来搭載されてきたL20型エンジンに代わり新世代のRB20系ユニットに一新するほか、世界初の4輪操舵システム「HICAS(ハイキャス)」も搭載しました。
『からだの延長としての存在』という広告のフレーズは、新たなデバイスを採用したこのクルマの特性を象徴的に表現していました。
でも、でも...............GT-Rではなく、GTS-Rなのか考え込んでしまいました。
流石に、トッポパパもこの車は見送りました。
GT-Rの登場の予感がしたからです。



1989年 8代目スカイラインの登場です
超感覚スカイラインと銘打ち、大幅にシェイプアップしたスタイリングは、4ドアで70mm、2ドアで130mmも全長が短い、ショート・オーバハングでした。
重量も50kg以上も軽く、新開発4輪マルチリンクサスペンションとの相乗効果で、その走りは飛躍的に向上しました。
見た目にもスポーティなR32型は、運動性を重視した本格的スポーツセダンとして生まれ変わり、そのコンセプトと向上した走りから『超感覚』なる言葉を生み出しました。

 

1989年8月、満を侍してGT-Rが待望の復活を遂げます。
実に16年半振りの復活です。
そして、レースデビューを控えた1990年2月には、グループAレーシングカーの要素がより濃く織り込まれた『GT-R NISMO』が500台限定で発売されました。
ターボチャージャーはメンテナンス性向上のためタービンをメタル製に変更、空力性能向上のためフードトップモールやリヤに小型スポイラーを追加、冷却性能向上のためフロントバンパーにエアインテークを追加するいっぽう、リアワイパー・ABS・オートエアコン・オーディオ等の装備は軽量化のため省かれています。



新型GT-R(R32)は、復活を待ち漕がれたファンの希望に100%応えるものとなって登場しました。
GT-Rの使命は第一に、初代GT-Rがそうだったように、レースを席巻して再びGT-R神話を蘇らせることでした。
GT-Rは、レースのためのベース車であると言う思想が貫かれています。そして、もう一つは、全日産車のフラッグシップカー、技術的シンボルとして君臨することでした。
発表の日銀座4丁目の日産ギャラリーにでかけ、興奮しながら即日購入を決めた記憶がよみがえります。



トッポパパが以来20年以上も大切に乗ってきた車でした。
トッポもその一生をこの車でほとんど過ごした、思い出いっぱいの車です。
蛇足ですが、トッポパパは暴走族じゃありませんが、純粋にGT-Rが好きだったのです。



専用エンジン(RB26DET)はRB20DEをベースにはしながらも、全く別ものと言えるほどの手を加え、徹底的にチューンが施されました。
排気量は2600CC、セラミックターボを2基装着、280馬力を絞り出しましたが、レースにおいて600馬力を可能にするための様々な手当がされており、市販車はいわば『ディチューン版』といえました。



トッポパパも退職、病気を経験し、いつまでも重いクラッチ、ブレーキのマニュアル運転を運転するのは高齢のため事故の原因になるので、数年前お別れをしました。
その時の記念撮影の写真です。
状態をよく保つためのメンテナンスコストはかかりましたが、ほんとに素晴らしい車でした。
今でも譲った知人が大切に手入れをしながら乗っていると聞いて、いつか再会できる日を楽しみにしています。



新型GT-Rは1990年のシーズンから全日本ツーリングカー選手権レースに出場し、全レースを制覇、翌91年以降もグループAで連勝を重ね、グループAの規定がなくなるまでに29戦29勝、29戦予選1位と言う不敗神話をつくりました。



スカイラン GT-R ニスモのスペックは年式1990年、型式BNR32、全長4,545mm、全幅1,755mm 、全高1,340mm、ホイールベース2,615mm、トレッド(前/後)1480/1480mm、車両重、1430kg、
エンジンRB26DETT 2,568cc、最高出力206kw(280PS)/6800rpm、最大トルク353N・m(36.0kgm)/4400rpm、サスペンション(前/後)マルチリンク/マルチリンク、ブレーキ(前/後)ベンチレーテッドディスク(前後共)、タイヤ225-50 R16(前後共)、その他 500台限定車です。



続く................................................................................。

日産ギャラリーで歴代の名車と再開! その1

2016年06月08日 | トッポパパの愛車
6月の某日、ニッサンギャラリーにカメラ片手に出かけました。
横浜駅東口も都市開発が進み、子供のころ艀の上からハゼ釣りをしていた地域は今は別世界の近代都市に様変わりしました。



横浜駅より東口のデパートそごう経由専用通路?で日産本社へ向かいます。



矢沢永吉の日産CM『やっちゃえNISSAN』の大きなディスプレイがお迎えです。



2F入口より地階を見下ろすと! 日産の名車がずらりと陳列されています。
今考えると、いろいろな縁があり日産車(特にスカイライン)を乗り継いできたトッポパパには思い出の車ばかりです。



やはり日産のフラッグシップ、スカイラインGTRが主役のようです。



スカイラインは国産スポーツカーの代名詞として確固たる地位を築いた、1970年デビューのスカイライン2000GT-R 2HT(ツードアハードトップ)とまだ未発売の最新の2017年モデルのGTRが並んでいるのには、ちょっと興奮しました。



最新モデルの紹介は後述するとして、日産のネット上の広報を引用させてもらい、懐かしいスカイライン伝説をちょっとたどってみます。

初代スカイラインはプリンスが1957年クラス最高出力60馬力の直列4気筒エンジンを搭載し、125km/hの最高速度を誇っていました。
足回りもスポーツカーなどに採用されていた「ド・ディオン・アクスル」を標準装備する最先端のクルマでした。
スポーツカーとセダンは住む世界が違うと誰もが思っていた時代に、スポーツカーの『運転する喜び』を享受できるセダンは、人々の憧れの存在となりました。



1963年に2代目スカイラインが登場します。
1964年、第2回日本グランプリに出場したスカイラインGTは、プロトタイプ・スポーツカーのポルシェ904GTSを7周目のヘアピンで抜き去るという離れ業を成し遂げ、『羊の皮を着た狼』という称号が与えられました。
レースでの活躍がユーザーのラブコールを生み、翌1965年2月には『スカイライン2000GT』として市販され、発売を待ちわびた多くのファンの元へと届けられた。



プリンスが日産に統合され、日産プリンスとなり、後のGTRの原型?となった車が1968年7月にデビューした量産型スカイラインクーペの3代目の『ハコスカ』です。
最初は1500ccのセダンのみでしたが、その2ヵ月後に直列6気筒のL20エンジンを搭載した写真の2000GTが登場します。
なぜこの車をよく覚えているかというと、当時20代後半のトッポパパよりはるかに若い新人が、入社とほぼ同時期にこの車に乗っていたのです。
当時のトッポパパは生活するのが精一杯(飲み代稼ぐのがという説もあるけど)なので、親のすねかじりの禄でもない新人だと思っていました。
後日禄でもある重職につく社会人になったのだから、結局トッポパパの僻(ひが)みとやっかみだったのでしょう。(笑)
当時車も免許も持たないトッポパパは、この車に何度も乗せてもらったので、スカイラインに対する憧れ(感化された?)が生まれたようです。



6気筒のGT系モデルは、当時主流の4気筒モデルに比べて長いエンジンを搭載するため、ノーズを長く延長しました。
2000GTのL20エンジンはプリンスから変わり日産製のエンジンになります。
そして、1969年2月に写真の4ドアGT-Rが投入されました。
スカイライン2000GT-R(PGC10型)、1989CC 160馬力、当時としては画期的な性能でした。
GT-Rはレースで勝つためのマシンとして製造され、『R』はレースを意味していました。
GT-Rに搭載されたS20型のエンジンの最大の特徴は、4バルブDOHCで、6気筒エンジンとしては国産初のメカニズムでした。
S20型エンジンはGT-R専用で、エンジンだけで1台車が買えたほど高価だったようです。
このエンジンは、後にフェアレディZ432にも搭載されました。



そして、1970年10月にホイールベースをセダンより70mm短くして全長を15mm、車高を15mm短くし車両重量を20kgも軽くしたクーペボディ仕様の、写真のハードトップ(KPGC10)を投入しました。



その後 『ハートのあるハードトップ』をキャッチコピーにして、 GT-Rはハードトップのみとなりました。
GT-Rは伝説となる、49連勝、さらに1勝を加え、レース50勝という金字塔を打ち立てたモデルです。
GTR専用の迫力あるフロントグリルとフェンダーミラー、加えて後輪のホイールアーチを覆うオーバーフェンダーが装着され、精悍な雰囲気を身にまとっていました。



発売当時価格154万円ですが、当時大卒の初任給は約15,000円なので大卒の給料の100倍近くなり、今の大卒の給料を20万円としても2,000万円ぐらいの高額です。
ハードトップの採用に伴い、ホイールベースは70mm短縮、これによりコーナリング性能も向上し、レースにおけるアドバンテージとなりました。
ちなみに中古車市場では、このモデルは程度がいいと2,000万円近くの値段がついているようです。



■ GT-R(KPGC10)主要諸元 ■
全長×全幅×全高:4,330×1,655×1,370mm
ホイールベース:2,570mm
車両重量:1,100kg
エンジン形式:S20
エンジン種類:水冷直列6気筒 DOHC 1,989cc
最高出力:160馬力/7,000回転
大トルク:18.0kg-m/5,600回転



他車に見劣りすることのない精悍なフォルムは、いまでも買いたくなる車です。

まだまだ続きます............................................................................。

よろしく! BMWミニクーパ S クラブマン

2012年04月17日 | トッポパパの愛車
GTRに惜別して、あらたにトッポ家の仲間になったのはMINIです。
MINIにもいくつかの種類があり、正式にはBMWミニクーパSクラブマンと呼ばれています。
正面から見ると、スポーティ・セダンの感じもありますが、GTRにくらべると可愛らしい顔です。



上から見ても、なんとも愛嬌のあるスタイルです。
スカイライン以外の車にほとんど乗ったことがないトッポパパですが、まるで違う雰囲気のMINI選択に周囲の人はエッ!と驚かれたようです。



この車に決める前は、フェアレディ Z や最近リリースされたTOYOTA 86も考えたのですが、家族の猛反対にあいギブアップしました。
理由は歳を考えなさい! ミッションは家族が運転できない! 小さくないと車庫入れが大変!てなことで、小型車にすることになりました。
ではMINIはどうか?で、いいんじゃない!ということになり決定です。
女性には人気がある車のようです。
MINIだって、いろいろあるんですけどね。



『MINI Clubman (クラブマン)』は、2代目BMW MINIがベースのワゴンモデルです。
BMWによれば、『シューティングブレーク』(英国流の2ドアスポーツワゴン)のようなイメージを狙ったというユニークな4人乗りです。



特徴は通常のMINIをベースに全長+24cm、ホイールベース+8cmサイズアップ全長とホイールベースをストレッチして快適な4人乗車を可能としました。



ボディ右側(運転席側)と後部は、観音開きドアになっています。
ちなみに、リアゲートのシルバーのグルリと縁取られた枠は、往年のカントリーマンの木枠を現代風にアレンジしたものです。




これによりスペースが拡がった後席にアクセスしやすくなっています。



コンパクトな車なのに、全長とホイールベースをストレッチしたので胴長のイメージになり『ダックスフンド』とも呼ばれています。



だいたい左右非対称の車など日本車には見られないので、これだけでもユニークなスタイルになっています。



クラシックミニで言うところのトラベラーやカントリーマンという車種の流れを汲んだモデルで、昔のイギリスにあった狩猟時に使われたクルマのスタイルです。



ダックスフンドはもともとは狩猟犬なので、昔はこんな感じで乗り込んでいたのでしょう。
ただ現在は猟銃に変わってゴルフバッグになってしまい、トッポも留守番犬ぐらいしかできないですね。



パネルレイアウトも独特で、日本車とはまるっきり雰囲気を異にしています。
ママと娘のために6速AT仕様にしてありますが、スポーツモードに切り替えるとマニュアル感覚でのシフトができ、ステアリングにはパドルシフトもオプションになっています。
トッポパパの運転は、ほとんでスポーツモードでパドルシフト使用の運転になるでしょう。
これだとギアチェンジのレスポンスが早く、シフトアップ・ダウンのタイムラグを感じなくてすみそうです。



内装もお洒落なので、女性に人気なのでしょう。
ただ、異常にスイッチが多く、いまだにどのスイッチがどのように機能するのかわかりません。
トッポパパには必要のないスイッチが半分以上ありそうです。



エアバッグはテンコ盛り(6箇所か7箇所?)で、ボディ剛性は非常に高くDSCも標準装備されています。



ただ、日本車と違い故障は多く、メンテが大変なようです。
後日、たぶん故障報告のオンパレードだと思いますが、ダックスフンドのトッポも故障が多いワンコなので、同じようなものだと割り切って面倒見るようにします。


これからも、トッポともどもMINIダックスをよろしくお願いいたします。