TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その181 『白川郷』 その4

2017年03月06日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
白川郷にいつ頃から人が住んでいたのか、詳しいことは分りません。
ネット情報をもとに、白川郷の簡単な歴史を抜粋してみました。
源平合戦の初期、木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたという説もあるようですが、伝説の範疇を出ないという記述もあります。



司馬遼太郎の『街道をゆく四 白川谷の村々』によると、「飛騨国白川谷という秘境の渓谷に住む人々のすべてが、室町末期に浄土真宗の門徒になり、この宗門の法儀によって統一された単一の秘境文明をつくった」と書かれています。



白川郷が歴史に登場するのは、鎌倉初期の建長5年(1253)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教してからです。



白川郷の農民たちの間に浄土真宗が広まり、のちに熱烈な浄土真宗の信仰地となっていきます。



戦国時代になり、1582年本能寺の変で織田信長が討たれた頃、豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、白川郷を攻撃しました。
金森長近は白川郷の鉱山資源に目をつけ、豊かな村にします。



江戸時代の中頃に養蚕業が盛んになり、養蚕スペースを設けるために民家が大型化して合掌造り民家が誕生しました。



明治に入ると、社会制度と経済の変革によって、白川郷の生活は大きく変わります。
煙硝生産が規制され、チリ硝石の輸入によって煙硝作りが廃れてしまい、家屋の屋根裏を利用した養蚕がより盛んになります。



第二次世界大戦後には、桑畑の水田化により養蚕業が廃れて大型合掌造り民家の必要がなくなってしまいます。



昭和36年(1961)の御母衣ダムの建設により、300戸以上の合掌造り民家を湖底に沈め、過疎化が一気に進みます。
 


その後、保存活動が始まり、高山の飛騨民俗村、下呂の下呂温泉合掌村、白川郷にも集落を再現した合掌造り民家園が誕生しました。



続く.................................................................。。