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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その8

2017年03月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
黒い天守と呼ばれる松本城は、白漆喰の壁の腰部に黒漆塗りの下見板を貼り付けた構造をしています。
天守・乾小天守・渡櫓の石垣は修理を施していますが、400年前に積まれたままで積み替えは行われていません。
天守台の石垣は野面積(乱積)で未加工の自然石を使用した石垣です。
未加工の自然石ですが、大きさの揃った石材を横方向に並べて、横目が通った積み方を「野面布積」というそうです。



1575年(天正3年)に、信長と徳川家康の同盟軍が武田勝頼(信玄の子)の軍と三河(愛知県の一部)の長篠で戦いました。
信長は戦国最強の騎馬軍団を持つとされる武田軍に対し、それまでの戦と異なり鉄砲を有効に使った戦いをしました。
鉄砲は威力はあるものの1発撃つのに時間がかかるのが難点で、戦いの最初に打つだけで、後は刀や弓で戦うことが多かった時代でした。
信長はその難点を克服し、鉄砲3000丁を使用し1000人ずつの3段構えになって、鉄砲の連続打ちで狙い撃ちしたそうです。
この戦いで、これまでの鉄砲の常識を覆し、信長が後世まで天才とたたえられる結果となった戦のひとつです。



ここも鉄砲による対戦を考慮して、武者窓/竪格子窓が造られています。



1-2階を通柱で組み立て、その上に3-4階、5-6を通柱で組んだものを積み上げていくという構造で、高層化をはかっています。



3階は窓がないので、4階に上ります。
敵の侵攻を少しでも防ぐために階段は急な傾斜となっています。



4階は、倉庫然とした雰囲気から一転し、明るく天井も高くなります。
御座所と書かれています。
書院造り風の御座の間は、いざというときに城主がいる(御座所)場所です。



4階の突上戸より、昔の絵図にあった位置に架橋した「埋の橋」を見下ろします。



埋の橋と呼ばれる赤い橋は、昭和の修理の際に復元架橋され、埋門の名に因んで、埋の橋と命名されています。



松本城の北側にある赤い欄干の埋の橋は、松本城の黒とのコントラストもあり絶好の撮影観光スポットになっています。



続く...................................................................。