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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その2

2017年03月13日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
松本城のオフィシャルサイトからの抜粋で松本城の歴史をたどってみます。
松本城天守が建築される以前に、松本盆地を囲む山々に山城が築かれていました。
松本城のあたりには深志城があり、これが現在の城の前身であるといわれています。
室町時代に深志郷を統治していたのは坂西氏で、そこに城を築いたのが島立氏で、永正元年(1504)に深志城を造ったといわれています。

武田信玄は林城にいた小笠原長時を追い出すと、北信濃への侵攻の拠点として、平地にあった深志城の場所を選び城代をおきました。
深志城を拠点とした武田氏の統治が32年間続き、天正10年(1582)織田信長によって武田氏が滅ぼされると、木曽から入った木曽義昌、それを追って上杉景勝の後ろ盾を得た小笠原洞雪と城主がかわります。
小笠原長時の嫡子貞慶は信濃に帰って旧臣の支援を取り付け、深志城を奪還して深志を松本と改めます。
城郭と城下町の建設に手をつけた貞慶ですが、徳川家康の関東移動にともなって息子の秀政とともに古河へ移ることになり、天正18年(1590)、8年間いた松本を離れました。
豊臣秀吉の命を受けた石川数正が松本へ入ってきます。



石川数正は息子康長とともに小笠原貞慶が手をつけた城郭の整備と城下町の拡充に着手します。
その様子は『信府統記』は次のように記しています。
『数正は二の曲輪に慰み所をつくり城普請を催す。康長は父の企てた城普請を継ぎ天守を建て、総堀を浚い幅を広くし、岸を高くして石垣を築き、渡り矢倉を造り・黒門・太鼓門の門楼をたて、塀をかけ直し、三の曲輪の大城戸を門楼にした。
総堀の周りの塀は大方たち、城内の屋形も修造した。郭内には士屋敷を建て、郭外にも士屋敷を建てた。』

内堀を渡ったところにある門、二の門(高麗門)です。
平成元年11月、この門とこれに続く控塀がつくられ、枡形が復元されました。
この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。



トッポパパは傘もささずに写真を撮りながら歩くので、家族は待ちぼうけです。
前回訪問した時は時間がなく見逃してしまった太鼓門へ、本丸に入る前に先に向かいます。
控塀に沿って歩くと、右に太鼓門が見えます。



太鼓門枡形の一の門です。
太鼓門は城郭への入口でもあり、城下に時を知らせた太鼓門です。



太鼓門は、一の門、二の門からなり、その間に枡形が形成されています。
太鼓門枡形は、文禄4年(1595)頃に築かれ、門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図などの発信源として、重要な役割を果たしていました。
現在の門は、平成11年に復元されたものです。



城主は、来城した他家の侍に対して自分の城を誇り、また領民に対しての権威付けも必要なので、玄関先には自慢できるものを飾ります。
上田城には「真田石」、大坂城には「蛸石」などと同様に、この松本城にも左にある「玄蕃石」があります。

松本城最大の石で、重さ約22.5トンあります。
松本城を築城した石川玄蕃守康長が運ばせた巨石で、康長の名にちなんで玄蕃石と呼ばれています。



江戸時代は倉庫として使用されていました。明治初年に破却されましたが、平成3年から発掘調査、同4年に石垣の復元を完了し、同11年に土台石の形に合わせて柱を削り、太鼓門が復元されました。
樹齢400年の檜、梁は140年の松を使用しています。



一の門の内側に置かれている「切株」です。
この切株は平成8年(1996)-111年(1999)に太鼓門が復元された際、櫓内の梁に使用された、その赤松の根元です。



一の門をくぐると右側に二の丸があります。
二の丸側から見た太鼓門(一の門)です。



10年前に撮った写真に下2枚の写真があるのですが、今回は見落としたのか、またはなくなったのか?



この門がなかったような???
立ち位置が違うのかも知れません。



現在の二の丸御殿跡です。
本丸御殿と二の丸御殿は、文禄3年(1594)頃に竣工した天守に続いて建てられたと考えられています。




続く...............................................................。