TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポ安静中! もうひと山(腎不全)乗り越えられるか? その2

2012年02月26日 | トッポの腎不全闘病記
トッポのその後の状況です。
2回目の入院後、10時間に及ぶ点滴を数日続けたおかげで退院時には35までBUN値が下がりました。
Cre値も1.4と下がり、自宅で投薬効果を見守ることになりました。

数日後、再度医者に血液検査をしてもらうと、BUN値は173、Cre値も2.4と正常値をまた大幅に超えてしまいました。
やはり、トッポも老齢による心臓の僧帽弁逆流(心臓弁膜症のようなもの?)のせいで、心臓にある僧帽弁という弁がダメになり、正常に閉じなくなって、結果として血液が逆流してしまう病気のようです。

結果、血流が悪くなると、腎臓の機能も悪くなり、腎機能不全になるようです。
緊急を要する場合は、静脈に点滴をして尿の排泄により血液の浄化?が必要になります。

僧帽弁閉鎖不全症の多い犬種はマルチーズ、ヨークシャーテリア、シーズー、チワワ、 トイプードル、ミニチュアダックスフントなどのようですが、飼われている頭数も多いので、必ずしもこの病気になるということではないようです。


たびたびの入院は、トッポにもストレスが溜まるので、暫く自宅で皮下点滴?を続け様子を見ることにしています。



写真のように寝ていることが多いのですが、若干食欲も戻り、生気も皮下点滴のお陰で戻ってきているようです。
5日ほど続けて数値の変化を診て、ドクターと相談しながら何が一番効果があるか考えたいと思います。

人間の年齢から言えば75歳過ぎなので、そろそろあちこちくたびれてくる頃なのでしょう、無理はさせられないようです。
腎不全になっても適切な処置を続ければ、結構がんばれるワンちゃんもいるそうなので、もう少し看病してあげようと思います。

ワンちゃんの飼い主には、愛犬とのお別れはいつか訪れることですが、まだしばらくは元気でしょう。
暖かくなれば、もう一度桜を見に出かけたいと思っているのですが..........どうでしょうかね。

大勢の方から、ご心配の言葉をかけていただきありがとうございます。
いまのところ小康状態ですので、大丈夫です。

海外の都市の紹介、 その102の2 『ホー・チ・ミン Part Ⅱ』

2012年02月24日 | 海外の都市の紹介
1975年、フォード米大統領の南ベトナムからの撤退命令に従い、米国人らがビルの屋上からヘリに乗りサイゴン(現ホーチミン)を脱出。翌日、南ベトナム政府は解放勢力への無条件降伏を声明、北ベトナム軍が大統領官邸を制圧し長年にわたったベトナム戦争が終結しました。
現在は都市の近代化も進み、新旧の混在する街並みになっています。



日本人の間でイカビルとして親しまれている、『Bitexco Financial Tower』です。
ビテクスコ・グループ所有のビルで高さ265.5メートルの地上68階・地下3階建、設計は Carlos Zapata Studioが、施工は韓国の現代とのことです。
ビルの横に見えるのはヘリポートのようです。



サイゴンといえば、は、1989年9月20日にロンドンのウエストエンドで初演されたミュージカルがあります。
初演から9年9か月後の2001年1月28日に4097回目で幕を閉じたそうで、『ミスサイゴン』は日本、アメリカを含む多くの国々で上演されてきました。
あらすじは、ベトナム戦争末期のサイゴンの売春バーで働くベトナム人少女キムとアメリカ大使館で軍属運転手を務めるクリスの悲恋が描かれています。
ブロードウェイではロングラン公演歴代9位になるミュージカルで、日本では今は亡き、本田美奈子さんが主演して有名なミュージカルでした。



チョロン地区を代表する中国建築の市場、ビンタイ市場(Cho' Binh Tay)です。



ビンタイ市場はホーチミン市の中心部から西に5キロ程度のチョロン地区と呼ばれるベトナム最大の中華街の中にあります。
建築は中国の建築様式である「四合院」にならって、中庭を造り、その周囲を建物が囲って居ます。



時計台が目印の建物で、内部は青果物、生活用品、衣料品などを売る小規模店が2000店以上もあります。
1930年、中国の潮州で生まれたクァック・ダム(Ong Quach Dam)が、沼地だったこの地を開墾し市場を建てたのが始まりといわれています。

海産物のひもののようなものがたくさん売られています。



やはり南の国なので、フルーツは豊富です。



日本の花屋で見かけない花もたくさん並んでいます。



濃いピンク色のフルーツは『ドラゴンフルーツ』でベトナムでは『タンロング』と呼ぶそうです。
ベトナムで「タン」は緑、「ロング」は竜です。
竜の鱗ような部分があるので『タンロング』と言うようです。
実が白くて、たくさんの小さくて黒い種があり、匂いがあまりありません。
水分が高いので健康に良いといわれています。

黄緑色の殻がバラのトゲのような鋭く頑丈なトゲで覆われているのが、あの有名なドリアンです。
黄白色の熟れた果肉は、濃厚なクリームのような食感があり、果物としては比類がない味で、玉子・バター・牛乳・チーズ・ソフトクリームを混ぜたよだとも聞かされています。

しかし、ドリアンは異臭を放つ果物としても知られていて、ホテルによっては持ち込み禁止にされています。
実際の話、トッポパパはまだ口にしたことがないので、この果物の王様の味は知りません。



続く............................................................................。

海外の都市の紹介、 その102の1 『ホー・チ・ミン Part Ⅱ』

2012年02月18日 | 海外の都市の紹介
久しぶりにベトナムのホー・チ・ミン市へ出かけました。
2度目の紹介になります。
1975年にベトナム戦争が終結するまで、『サイゴン』と呼ばれていたトナム最大の商業都市、ホーチミン市です。
まだまだ市民の移動手段の中心はオートバイのようです。



南ベトナム政権時代、大統領官邸として使われていた統一会堂です。
1975年、ベトナム解放軍の戦車がこの建物の門を無血入場し、ベトナム戦争は終結しました。
建物の中には、ベトナム戦争終結宣言が行われた会議室から大統領のプライベートルームまで、100以上の部屋があるそうです。



統一会堂の敷地内には、その時の戦車のレプリカも展示されています。



人口は約600万人以上のベトナムで最大の市です。
最近は観光客の増加で賑わっています。



街はサイゴン川の西側に位置し、フランスの影響が強く残り、かつて『プチパリ』とも称えられていた美しい街並みです。



サイゴン大教会(聖母マリア教会)です。
19世紀末に建てられたゴシック建築のカトリック教会です。
約40mの2つの尖塔がそびえ立ち、赤レンガが歴史を感じさせてくれます。



1日だけのベトナム訪問の中、移動の合間のちょっとした市内見学です。



聖マリア教会の横にあるこの建物は中央郵便局です。
ヨーロッパの駅のようだと例えられることが多いこの郵便局は、1886年から当時ベトナムを統治していたフランス政府によるフランスへの連絡手段として造られたものです。



続く....................................................................。

トッポ安静中! もうひと山(腎不全)乗り越えられるか?

2012年02月17日 | トッポの腎不全闘病記
今年はトッポパパの白内障手術で幕開け、術後経過はすこぶる軽快で視力回復の恩恵にあずかり、海外出張も再開しました。
ただ、その間ちょっと気がかりだったのが、今年に入ってトッポが寝すぎではないかと思えるほど横になっている時間が多いので、少し具合が悪いのかなと思っていました。
しかし、食欲は変わらず旺盛なのと、毎日寒い日が続いているので暖かくして寝ていたいのだろうぐらいに考えていました。

2月1日、トッポの定期健診のような感じで、病院へ連れて行き血液検査をしました。
ドクターより、BUN(血液尿素窒素)の値が正常値は30以下(10-28)なのに、64は異常数値ですと言われてしまいました。

BUNは腎不全かどうかの判断に重要なデータとのことです。
正常値の倍以上の数値が続く場合、二つある腎臓の一つは機能不全で、残りの腎臓も70%前後しか機能していない程度とネット情報にありました。
ドクターの話では、一般的に犬の老衰と言われるものは、この腎不全によるものが多いそうです。

人間でも、腎不全は人工透析が必要になる重篤な病気だと知っていますので、来るべきものがついに来たか?って思いです。
で、その日から4日間入院です。

腎臓の主な役目は尿を作ることで、腎臓で血液をろ過してその中から不純物を取り除き、必要なものを再吸収するそうです。
その結果不要になったものが尿です。
慢性腎不全になると多飲多尿になるそうですが、そういえばよく水を飲むなぁ!と思うことがありました。
それから、いままで食べていたドッグフードを全然口にしなくなってしまいました。
食べ物の変化も腎疾患の症状のようです。

腎臓は壊れてしまったものは再生しないと聞いていますので、今回は厳しい状況だと認識しました。

入院中はBUN値を下げるため、1日10時間の点滴や皮下注射などを行い経過観察してくれたそうです。
4日後病院に行き、BUNの値の減少を期待したのですが、59という数値で大きな変化はなく症状は改善されませんでした。
いったん自宅に連れて帰り、薬を飲ませながら様子を見ることにしました。

その後、1週間ほどトッポパパの海外出張、帰国後のインフルエンザ騒ぎでバタバタしていましたが、トッポがまたぐったりしているので再度病院へ連れて行きました。
すぐに血液検査の結果、耳を疑うようなBUNの数値、なんと200! いや、200以上は計測しないので300あるのかそれ以上かもわかりませんと.........で、再度緊急入院です。
この間、トッポパパは自宅軟禁とトッポ家最悪の週になりました。

腎疾患の初期の頃には腎臓が尿を作る力が弱まってきて、薄い尿しか作れなくなるようです。
そういえば、トッポの尿も最近は透明な色に近いと思い起こしました。
腎機能が落ちてくると、たくさんの水を飲んで、たくさんの尿を出す必要が出てくるので、多飲多尿になるのでしょう。

腎不全は完治できるタイプの疾病ではないので、ドクターにもいつ、何が起きてもおかしくないとまで言われ、夜の電話にドキドキしたり、ママが病院へ顔をだしても元気がない、食餌もほとんど食べないと聞いて、覚悟を決めなければと思いました。

一つだけ藁にもすがる思いだったのは、これだけBUN値が高いと、尿毒症に進行しCre(血清クロアチン)の値が急激に上がるはずが、それほど上がっていないとも若いドクターが話してくれたことです。
また、完全に腎不全だと尿毒症状としてリンやカリウムの数値が滅茶苦茶になるはずが、なっていないと話してくれました。
ということは、一時的にBUNが異常な数値を示しても、再度の点滴他の処置でBUN値が下がれば、もしかするとまだ腎臓の機能は多少残っているかもしれないと思うことにしました。
(この辺は神がかり的な、トッポパパの妄信ですけど。)

機能が残っているなら、維持するにはなにかできないか? と考えて、とりあえずインターネットで水素結合水(H4O)を購入して、トッポの退院を待つことにしました。
腎疾患に効果がある(らしい)とのことで、少しは医者のすること以外してあげられるのは、食事管理とこの程度しかできないようです。

今日、病院へ行き、毎日点滴継続の結果、なんとBUNが35まで下がっていました。
この数値は予期していませんでしたので、聞いた時は耳を疑いました。
トッポパパの妄想が現実になるのか???

BUN35は正常値より高いので、まだ安心はできませんが、少し顔色もよくなり、食餌もとるようになったとのことで、緊急事態は避けられたようです。

ドクターの話では、数値変化から判断し、慢性腎不全はあるものの完全な腎機能停止ではなく、むしろ心臓(以前より老齢により心臓の機能の低下)からの影響でBUN値が急激に上がったのではないか? との説明でした。
今後は心臓のほうの薬も変えて、様子を観ましょうとのことです。

まだまだ、今後の経過を観ないと予断は許しませんが、とりあえず今日明日でのトッポの天国行きは避けられたようです。

これからは腎臓の負担をできる限り最小限にとどめて、残っている腎臓の寿命をできるだけ長く出来る方法を考えたいと思います。

トッポも帰宅後は食欲も少し戻り、色のついた尿を大量にしたりで、一息ついています。
親の心子知らずの、帰宅後のトッポの顔です。



まだ、なにが起きるかわかりませんが、少しでも長くトッポと一緒に生活できるように最後まで面倒見ようと思います。
せめてもう一度ぐらい、トッポと芝生の上を歩けるように頑張ります。

以上、トッポパパがブログアップをなかなかできない言い訳と、ご無沙汰トッポの近況報告です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その123-3 『大涌谷、江の島、鎌倉大仏』

2012年02月12日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
最後に案内したのは、鎌倉大仏殿高徳院です。
仁王門です。
18世紀初頭、他所より移築されたものと伝えられています。



お客様も大きな大仏に大満足で、記念撮影です。
以下はネット情報の概略です。
高徳院の本尊である大仏は、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時の晩年に造られました。
「吾妻鏡」によれば、北条泰時の時に、淨光という僧が諸国を勧進して浄財を集めて歩き、1238年から大仏と大仏殿を造り始めましたが、この時建立した大仏は木造だったそうです。


そして4年後の1247年にこの大仏が暴風雨の為に倒壊したので、1252年にあらためて金剛の大仏が造営されました。
大仏殿は1335年と1369年の台風で倒壊し、1495年の大津波で押し流されてしまいました。
以来、現在の様な露座の大仏となってしまいます。
本尊の大仏の高さは12.38m、総重量は121トンです。



仏には常人と異なる「三十二相」(32の身体的特徴)があると考えられています。
眉間の白毫(びゃくごう)もそのひとつで、ここからは人々を照らす光が発するといわれています。

高徳院は、法然上人(1133~1212年)を開祖とする浄土宗の仏教寺院です。
法然上人は、善悪、男女、年齢、身分などの別なく、万人の救済を本願とされる西方極楽浄土の教主、阿弥陀如来に帰依されました。
人は誰しも「南無阿弥陀仏」と称えれば、その御加護に与ることができ、臨終に際しては極楽浄土に迎え入れていただける。これが法然上人の説かれた浄土宗の教えです。



大仏像に向かって右側の回廊内壁には、長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgにも及ぶ大きな藁草履がかけられています。
こうした草履の制作・奉納は、戦後間もない1951年、「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う、茨城県久慈郡の子供達によって始められました。
1956年以降、数年に一度巨大な藁草履の制作を試み、当院への寄進を続けています。



大仏の中に入ることができます。



観月堂です。
15世紀中頃、漢陽(今日のソウル)の朝鮮王宮内に建築されたと伝えられる建物で、1924(大正13)年当時これを所持されていた「山一合資会社」(後の「山一證券」)の社長、杉野喜精氏によって、東京目黒の私宅から移築・寄贈されました。



鎌倉観音霊場23番札所ともなっていて、この建物の中に、江戸後期の作品とみられる観音菩薩立像を安置しています。



歌碑は1952年の建立で、『かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におわす夏木立かな』と与謝野晶子が詠まれています。



トッポパパ帰国しました。



トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その123-2 『大涌谷、江の島、鎌倉大仏』

2012年02月10日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜に生まれたときから住んでいるトッポパパは、子供のころ江ノ島に海水浴にきた思い出があります。
江ノ島が片瀬海岸から離れ独立した島になったのは、2万年前に遡るそうです。



この江島神社の創建は552年と伝えられています。
その後、854年に慈覚大師が中津宮を創建します。



吾妻鏡によると1182年4月5日、源頼朝 奥州遠征にあたり鎌倉武士47人と共に文覚上人を招いて江ノ島の岩屋に参籠したそうです。



参道です。
海産物を売るお店、食堂 そしてお土産店が並んでいます。



箱根から江ノ島まで移動して、そろそろお腹が空いてきたので昼食をとることにしました。
江ノ島のある鎌倉は腰越漁港にあがる新鮮なしらす料理が有名です。



生しらす丼、しらすかき揚げ丼を注文しました。



生しらすは鮮度が最も鮮度が落ちやすい魚の一つなので、その日に獲れた新鮮なものしか使用しないそうです。



生しらす料理は、禁漁期間と、時化などにより船が出港しない日は生しらす料理がありませんので、行かれる方は事前の確認をお勧めします。
蛇足ですが、年配者にかき揚げ丼はちょっとボリュームもあるので重いような気がします。
おすすめは生しらすとあわせた海鮮丼がお勧めのようです。



続く.............................................................................................。


///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
トッポパパは火曜日に日本を出てシンガポールに到着、翌日ベトナムのホーチミン、またその翌日バンコック、そして現在シンガポールに戻ってきました。
昔は毎日の海外移動も、移動の苦痛より未知の都市への興味が勝っていたのでそれほど疲れはかんじませんでしたが、さすがにちょっと堪えてくるようになりましたね。
日曜日には日本に戻る予定です。
まだ、コメント返しや皆さんのブログ訪問までの余裕が無いので、しばらくご勘弁願います。
///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その123-1 『大涌谷、江の島、鎌倉大仏』

2012年02月06日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
寒い日の週末、韓国のお客様を芦ノ湖へ案内しました。
実際は週末はゴルフでもしましょうと案内したのですが、あいにくの寒さと早朝に降り始めた雨のため、寒さが厳しくゴルフどころではなくなりました。



さて、この曇天ではどうする? ということになりましたが、とりあえずホテルの前で日韓合同の記念撮影です。



せっかく箱根まできたので、富士山は見ることできなくても、大涌谷なら少しは雰囲気を味わってもらえるだろうと出かけました。



韓国の人のほうが一般的には寒さに強いようで、小雨降る中を上まで歩いてきました。



お客様の記念撮影ですが、カメラはびしょぬれ、手はかじかんで大変です。



名物の黒卵を、ブルブルふるえながらほおばり下山です。



しかし、日本人と韓国人とはなかなか区別がつかないですよね。



さて、時間はたっぷりあるので、何処へ行こうということになりました。
まっすぐ東京へ戻るのも芸がないので、途中で江の島に寄ることにしました。



江島神社が正式な呼び名なのでしょうかね、知りませんでした。



続く.........................................................................。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
トッポパパ、これから成田に向かいシンガポールへ出発です。
今回は、結構忙しそうな出張のようです。
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その122の2 『名古屋城 PartⅡ』

2012年02月03日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
名古屋城の入口の近くにある松です。
冬季は刈り込まれた枝ぶりが、かえって松独特のシルエットになっています。



名古屋城は、大阪城、熊本城とともに日本三名城と言われています。



日本初の世界文化遺産・姫路城(別名白鷺城)は日本三名城には入っていないそうです。
これは名城とは?の定義にかかってくる問題でしょうかね。
名古屋城の大天守に上げられた『金の鯱』は名古屋の象徴として全国的にも有名です。



こちらは入口近くに飾られていた現物大の金の鯱の模型?です。



観光客が定番で写真撮影を行う場所で、写真を撮ってもらいました。



城もさることながら、石垣も大変興味があります。



名古屋城の石垣には、丸に三角や扇子、軍配などの印がついているものがあるそうです。
これは『刻文』といい、築城工事を分担した大名と家臣のしるしです。



しかし、実にうまく積み上げるものだと感心します。



名古屋城の桜も有名なようですので、今度は桜満開の名古屋城も観てみたいですね。



それでは名古屋城より

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その122の1 『名古屋城 PartⅡ』

2012年02月01日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
約一ヵ月ぶりのブログアップになってしまいました。
白内障の手術は左右とも無事終了し、経過も順調です。
術後は下の写真のようでしたが、手術の翌日に眼帯?を外すと世界が一変しました。

トッポパパはもともと目が良い方で、普段はメガネの必要はありませんでしたが、白内障が進行して視力も右0.2-3、左0.7まで悪くなりました。
夜の車の運転時に対向車のライトが眩しいのと、標識が認識しにくくなったので、手術に踏み切りました。

手術後は、世界が3倍ぐらい明るくなり、コントラストもはっきりして、視力は両目とも1.2まで回復しました。
術後は無理しないで医者の言うとおり目の安静に心がけ、外出もできるだけ控えたので、ブログともご無沙汰してしまいました。

多くの方から、手術の結果が良くなかったのか? 突然の長期のブログアップ無しのため、死んだのか?(白内障で死んだ人はいないと思うけど)など、ちょっとお騒がせしたようです。

トッポパパ元気ですので、ご安心ください。
これからまた、のんびりブログのアップをしていきます。



トッポパパ今年最初の出張先は名古屋でした。



2007年にも紹介しましたが、時間が少しありましたので、その後の名古屋城へ寄ってみました。



名古屋開府400年祭マスコットキャラクター『はち丸』君です。



現在は、名古屋市のマスコットキャラクターとして、名古屋城を拠点に、活動しているようです。
トッポパパも記念に写真を撮ってもらいました。



名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城です。



江戸幕府が体制を確立する激動の時代に、濃尾平野を見晴る高台に誕生した名古屋城です。



名古屋城のオフィシャル・ウェブサイの情報です。
『関ヶ原合戦の後、当時の尾張国清須城主(24万石)の福島正則は安芸国・備後国(49万8千石)へ転封となり、その後へ武蔵国忍城主松平忠吉(徳川家康第4子)が配されました。
関ヶ原合戦の功労者である外様大名は加増して遠国へ転封し、重要拠点には一門・譜代大名を置くという家康の大名配置政策の典型です。
しかし、松平忠吉は慶長12年(1607年)に23歳の若さで病没したので、清須城には、甲斐国府中城主徳川義直(徳川家康第9子)が封ぜられました。これが、御三家筆頭尾張徳川家の始まりです。』



『慶長15年(1610年)閏2月、助役を命じられた大名達は名古屋へやってきました。 当時、秀吉恩顧の大名は、ここ数年のたび重なる天下普請により、経済的にも非常に苦しい状況となっていました。今回、助役を命じられた福島正則(広島城主)と加藤清正(熊本城主)、池田輝政(姫路城主)の会話が伝えられています。

福島正則: このごろ城普請の手伝いが頻繁だ。江戸や駿府は将軍や大御所(家康)の城だから納得できるが、名古屋は息子の城ではないか。こんなことにまで駆り出されては我慢できない。
池田輝政:(沈黙)
加藤清正:お前様は、考えずにものを言うから困ったものだ。名古屋のことが我慢できないなら、さっさと国へ帰って謀反の旗揚げでもしたらどうだ。そんな力がないなら、黙って命令に従うしかないだろうが。』



それにしても、後世に名を残した福島正則、加藤清正、池田輝政が助役となり築城とは、徳川の力がいかに強かったのかの証明ですね。



続く......................................................................。