TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その38の6 『萩』

2008年01月31日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
保存地区にひと際目立つ建物が菊屋住宅ですが、屋内に入ると見事な庭園を見ることができます。



菊屋家は、毛利藩御用達の豪商ですが、裁判やお役所仕事などの藩の御用に使われたようです。
徳川幕府からの要人を迎えたりするので、立派な庭園が造られたのでしょう。



写真は撮り忘れましたが、この部屋には雪舟の本物の掛け軸が展示してあリます。



皇室をも招いたという菊屋ですので、萩城城下町の有名家屋としての贅を凝らしています。



母屋には商家なので、立派な帳場もあります。



こちらは土間なのですが、空間も広く取ってあり、採光も工夫されていて現在でも使用できそうです。
コンクリートのない当時は、海水から塩を作る際にできるにがりを混ぜ土をこね固めたようです。



母屋から付属屋への通路も、雨に塗れないように十分な屋根と移動スペースがとられています。



菊屋家住宅では、毎年10月20日から11月23日まで、期間限定で秋のお庭を見ることができます。



期間限定という言葉に喜んで、お庭のほうに入らせていただきました。



庭園の様子は次回に紹介いたします。

続く...........................................................。

トッポとお台場海浜公園へ、 その4

2008年01月29日 | トッポの世界
トッポ、『パパ、何撮ってるの!』



フジテレビです。 
高速道路からはいつも見ていますが、反対側から見上げるのははじめてです。



トッポママ、『寒いのに、パパはあちこち歩いてよく写真撮るね。 トッポ、ちょっと休憩しようね。』



トッポ、『あれっ! 寝ちゃったの? 寒いから風邪引くよ。』



トッポママ、『じゃぁ、湯たんぽ代わりにトッポを抱いてあげる。』



トッポ、『あっちに、凱旋門みたいなのがあるけど。』



テレコムセンターは凱旋門のようなユニークなかたちをしたいます。
21階が展望台になっていて、天気のよい日は富士山も見ることが出来そうです。



ちょっとフジテレビの周辺を見ながら帰ることにします。

続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その38の5 『萩』

2008年01月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
白壁がずっと続く萩の城下町です。



萩の城下町は国の史跡に指定されいます。
白い壁が続く屋敷町を歩いていると、往時の雰囲気に浸ることが出来ます。



西日本最大の豪商と言われた、菊屋家住宅を訪問してみます。



この住宅は母屋がきわめて古く、全国でも最古に属する町屋と言うことです。
そのため、その価値はきわめて高いので、蔵自体も、貴重な文化遺産のようです。



これは、井戸のようですが、往時使われた桶なのでしょうか、綺麗に並んでいます。



菊屋は毛利輝元に従って山口から移ってきた藩の御用商人で、江戸初期に建てられたという母屋は幕府からの使者が泊まる本陣として使われたそうです。
現在では、国の重要文化財に指定されています。



お屋敷の中には、往時に使われた数々の調度品や武具が綺麗に飾られています。



菊屋家の建築年代は1655年前後と思われています。
切妻造り桟瓦葺きで現存する大型の町屋としてその価値は極めて高いそうです。



庭の端に大きな石の手水鉢があります。
水が落ちる部分がとっても深く掘ってあるのは、お客様の袴のすそを跳ね返った水で汚さないようにという配慮だったそうです。
それにしても、等身大はある大きな手水鉢です。



広大な屋敷には母屋のほかに数多くの蔵や附属屋が建てられています。

続く....................................................。

トッポとお台場海浜公園へ、 その3

2008年01月26日 | トッポの世界
遊歩道から岸辺に降りてきました。
海外沿いに大きな岩が、ごろごろしています。
トッポを大きな岩の上に乗せて、記念撮影です。



ここからレインボーブリッジを見上げると、ちょっと望遠にするだけで、とても真近に感じられます。



トッポ、『寒そうだから、泳げそうもないな!』
トッポパパ、『いくら泳ぐのが好きでも、冬は無理だよ



先日テレビでお台場の名前の由来が、ちょっと話題になりました。
ネット情報ですが、御砲台場(おほうだいば)からきたもので、当時幕府の施設には「御」をつけたそうです。 幕末の1852年ペリー提督率いる四隻の『黒船』が浦賀沖に姿を現したことで、あわてた幕府は江戸防衛のため、品川沖に砲台場の築造を命じたのです。



ペリーは戦艦を誇示することで、幕府を威嚇しながら開国を求める国書を手渡し、半年後の返答を求めて帰国しました。
攘夷論が沸き起こり、品川沖の海に五角形や六角形の人工島を造成し、大砲が整備されたのがお台場の起源です。



全部で7基の台場が完成しましたが、現在残っているのは第三台場と第六台場のみで、直接歩いて行くことができるのは第三台場だけです。



こうやって考えると、お台場も幕末の遺構なのだと思うと、また別な興味がわいてきます。
トッポママは、ここで休憩タイムです。

続く............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その38の4 『萩』

2008年01月25日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
萩明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内に残され、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っています。
国指定史跡にも認定され、現在の小学校も重厚な歴史を伝えています。



それでは萩の城下町を歩いてみることにします。



月輪山円政寺です。
円政寺は大内氏の祈願所として山口にあったそうですが、毛利氏とともに萩に移ったお寺です。
伊藤博文や高杉晋作がここの境内で遊び、学んだそうです。
中には高過ぎ晋作が肝試しをしたという大きな天狗の面や、遊んだ木馬(神馬)が残っています。



伊藤博文は11歳の時、、住職恵運に諭され、ここで読み書きを習いはじめたそうです。



木戸孝允(桂小五郎)の生家です。
木戸孝允は1833年萩藩医、和田昌景の長男として生まれましたが、後に桂家の養子となったので、桂小五郎の名でも知られています。
木戸孝允は、この家で約20年間過ごしたようです。



17歳で、吉田松陰の門下生となり、尊皇攘夷運動に参加します。
20歳のときに江戸に遊学し、造船術や蘭学を学びます。
25歳で萩藩に登用され、1866年に坂本竜馬の仲介で薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らと薩長同盟を結びます。



維新後は、名を木戸孝允に改め、新政府の要職を歴任し、西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれました。



高杉晋作の生家です。
松下村塾で吉田松陰に認められ頭角を現し、『奇兵隊』を組織し、倒幕運動の中心的役割を果たしました。



生家の庭には自作の句碑ほか、多くの石碑があります。
現在も平屋立ての母屋と、産湯に使った井戸が残っていて、家の中では晋作ゆかりの写真や書などが展示されています。



続く...............................................................。

トッポとお台場海浜公園へ、 その2

2008年01月24日 | トッポの世界
自由の女神の王冠の7突起 (spoke) は7つの大陸の7つの海に自由が広がるという意味だそうです。



トッポ、『また僕はおまけみたいです!』



ちなみにアメリカの自由の女神像の大きさは、像の高さは46.05m、台座部分も含めると93m、重さは225tで、ちょっとスケールが違うようです。



トッポパパが周辺の写真を撮っている間、トッポはカメラバッグの番犬です。



こちらから、遊覧船が発着しています。



レインボーブリッジのほうが、ベイブリッジに比べて対岸が近いので写真は撮りやすいですね。



レインボーブリッジはよく、映画やドラマに登場するようです。
『踊る大捜査線のレインボーブリッジを封鎖せよ!』を思い出しました。
そのほかには、『日本沈没』にもでてきたような気がします。



夜になるとライトアップされるので、綺麗な夜景が撮れるのでしょう。



続く...................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その38の3 『萩』

2008年01月23日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
松蔭神社を出て、萩の城下町を散策しようと駐車場に向かう途中、偶然見つけた石碑です。



松陰神社の駐車場左側に、自然石の石碑が建てられています。
表には『薩州 田上藤七 長州 久坂玄瑞 土州 坂本龍馬』とかかれ、中央に『薩長士連合密議之處 岸信介書』左側に『文久二年一月 鈴木勘蔵宿之跡』と刻まれています。



ネット情報によると、この場所は石州街道の沿道にあたり、鈴木勘蔵の旅人の宿があったところで、1862年に土佐の藩士坂本龍馬が、同じ土佐藩の武市半平太)の書簡を持って、松下村塾に寄宿していた久坂玄瑞を訪ねて来萩したようです。
たまたま薩摩藩士の田上藤七も、久坂玄瑞にあてた書簡を持って来宿していたので、久坂を中心にして偶然にも薩長土がここに会し、後日の薩長連合を暗示する会合になったようです。
この歴史的遭遇の場所を記念して、山口県出身の元総理大臣岸信介の書になる碑を建てたそうです。



松下村塾を初め、日本の近代史にゆかりのある松蔭神社には、天皇皇后両陛下及び皇太子、皇太子妃両殿下も当地を訪問され、記念の石碑が建っています。



松蔭神社を後にして、萩の街を巡ってみました。
こちらは、『観徳門』です。



藩校明倫館の遣構で、孔子を祀る聖廟の前門です。



1849年の建築で、明倫館の旧地である明倫小学校敷地内に残されています。



藩校は藩士とその子弟を対象とした江戸時代の藩直営の教育機関です。



現在の明倫小学校の入り口に建てられている『長州ファイブ』の説明板です。
1863年の幕末に、5人の若者が横浜港からイギリスに向けて出航します。
長州藩が外国の情報を入手しようと5人を派遣したのです。
その長州ファイブとは、井上馨(不平等条約改正に尽力した初代外務大臣)、遠藤勤助(造幣事業の父)、山尾庸三(グラスゴーで造船を学び、東京大学工学部の前身である工学寮を創立)、伊藤博文(大日本帝国憲法を発布した初代内閣総理大臣)、井上勝(鉄道の父で、新橋-横浜間に日本初の鉄道を敷きます。)の5人です。



ここにも長州藩士の日本への影響力をあらためて感じます。

続く......................................................。

トッポとお台場海浜公園へ、 その1

2008年01月22日 | トッポの世界
トッポパパにとって初めてのお台場訪問です。
東京の人にとってはお台場は慣れ親しんだ場所ですが、横浜の人間のトッポパパにはみなとみらいが近くにあるので、初めての訪問です。



一番最初に目に飛び込んできたのは、自由の女神像です。
現在の自由の女神像はレプリカですが、1998年4月29日から1999年5月9日年まではフランス革命100周年を記念して、パリ市のグルネル橋の下に立つ本物の「自由の女神像」がこちらに一時的に展示されていたそうです。



ママが自由の女神像を見ていると、トッポは何も見えません。(笑)



1998年4月28日のに点火式には、親日家で知られる当時のフランスのジャック・シラク大統領も来日されたそうです。



レインボーブリッジは芝浦とお台場を結ぶ吊り橋で、1993年開通し、橋長は798mあります。



トッポも、自由の女神を、なんだろ!って感じで見ています。



その後、現在のブロンズ製のレプリカが2000年設置され、このフランス政府公認のレプリカは「台場の女神」という別名で呼ばれています。 



このレプリカは高さ11メートル、重さ9トンの大きさです。
右腕にトーチを持ち、左腕には、聖書を持っています。



遊歩道がありますので、もう少し近くから自由の女神を見てみます。

続く.......................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その38の2 『萩』

2008年01月21日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
吉田松陰は、以前に紹介した黒船来航で知られるペリーが2度目の来日の時、海外での見聞を広げたいと、黒船に密航を企てたがアメリカ側の許可が下りず失敗に終わったそうです。



松下村塾の隣に、吉田松陰の家があります。
密航を企てたことで、萩の野山郷に幽閉されてしまいます。
その後、生家で預かりの身になり、叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受け、維新の指導者となる人材を教え育てました。



1858年に、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結んだため、吉田松陰は激しくこれを非難し、時の老中・間部詮勝の暗殺を企てます。
長州藩はこの動きを警戒して再び松陰を投獄し、幕府は安政の大獄により長州藩に松陰を江戸に送るように命令します。



江戸にて、松陰は老中暗殺計画を自供したため、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処され手しまいます。 このとき吉田松陰29歳でした。
獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残します。
写真は吉田松陰の家です。



処刑を覚悟した、吉田松陰が両親に送った手紙の中に書かれていた、別れの言葉です。



『親思う心にまさる親こころ、今日のおとずれ何ときくらん』、青年期を獄中で過ごした吉田松蔭の両親への気持ちが現れています。



松蔭神社です。
安政の大獄で小伝馬町獄中にて刑死した遺骸を、高杉晋作、伊藤博文等が江戸より運び、この地に埋葬し社を築いたのが松蔭神社ということです。



本殿は尚は2年に造営され、神社所在地一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところから、大夫山と呼ばれました。



松蔭神社の一角にある、この建物は花月楼と呼ばれる茶室です。
この建物は1776年に長州藩7代藩主毛利重就が、表千家家元7代如心斎の門人、川上不白が献上した図面によって、三田尻の別邸に建築した茶室であり、花月楼の名称は、茶事七事式の第一である花月式に由来していると説明されています。
この茶室はのち萩の平安古に移され、さらに1888年に品川弥二郎が松本橋袂の自宅に移していたものを、1959年に現在地に移築されたそうです。



もう少し境内を回ってみます。

続く.........................................................。

トッポと横浜ぶらぶら歩き そのⅧ、 その5 『大桟橋』

2008年01月20日 | トッポの世界
少し走っただけのトッポは、まだ未練があるようで芝生を見続けていました。



確かに、ベイブリッジをバックに走ると気持ちよさそうです。



トッポパパがさっさと、先に歩き始めると懸命に追いすがろうとするトッポです。



トッポママ、『ほら、誰もいないから、パパのところまで走って行きな!』



喜び勇んで、トッポパパめがけて全速力でダッシュです。



こうやって、まっしぐらに走ってこられると飼い主冥利ですね。
しかし、この空中を飛んでいる写真を撮るためには、トッポパパがどんな姿勢で写真を撮っているのかは、笑われてしまいそうで見せられないですね。



飛鳥Ⅱの反対側に停まっていた『ふじ丸』です。
飛鳥Ⅱに比較すると、小さく感じられますが、こちらも全長約170m、幅24mもあり、40階建ての高層ビルを横にしたようなさいずです。
ふじ丸も世界中どこでも訪れることができる外航クルーズ客船です。



ようやく落ち着いたトッポを抱いて、大型客船に別れを告げて帰宅することにします。



それでは、大桟橋より

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その38の1 『萩』

2008年01月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
幕末以来、日本の政治に多くの影響を与えた長州藩ですが、その歴史を尋ねて山口県の萩を訪問しました。
現在も教育論が出ると理想の教育者として紹介される『吉田松陰』ゆかりの松蔭神社から、萩の紹介を始めます。



吉田松陰は1830年に萩で生まれた長州藩士で、思想家、教育者、兵学者としても有名です。
明治維新の事実上の精神的理論者として高い評価を受けています。



吉田松陰といえば『松下村塾』と歴史で習いました。
萩城下に、松陰の叔父さんにあたる玉木文之進が1842年に設立した塾が松下村塾のはじまりとされています。



吉田松陰は1855年に、松下村塾を主宰し、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れました。
松下村塾の存在は萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになったそうです。
吉田松陰自身が塾生の指導に当たった期間は2年ほどだといわれています。
その短い期間に、松陰は塾生たちと一緒になって、日本が今抱えている問題に対する自分の考え方を教え、農作業をも共にしながら、心身両面の鍛錬に重点をおく教育をしたそうです。



『人間とは何かを学ぶことである』と説き、『学者になってはいけない。 実行しなければならない』と教え、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説いたとされています。
松下村塾の門下生には、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖など歴史に名を残した人が多くいます。



松下村塾の門下生は明治政府において、内閣総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創業者2名を輩出することになります。



その人たちが、この松下村塾で学んでいたと思うと、吉田松陰の偉大さと、門下生の日本にかけた思いが伝わってきます。



幕末の松下村塾に習い、経営の神様松下幸之助が設立したのが『松下政経塾』でしょう。
松下政経塾をちょっと調べましたら、なんと塾が設立されて四半世紀が過ぎて、出身者の7人に1人が国会議員となり、地方政治を含めると実に3人に1人が政治家として日本社会に深く浸透しているそうです。



ここが松下村塾の講義室です。
この狭い空間で吉田松陰の教えを受けた門下生が、日本の歴史をつくる活躍をしたことを考えると、近代史はここからの出発になるのでしょう。



続く...........................................................。

トッポと横浜ぶらぶら歩き そのⅧ、 その4 『大桟橋』

2008年01月18日 | トッポの世界
そろそろ帰ろうと歩き出したら、トッポがちょっと抵抗しているようです。



たぶん、こんな広いデッキなのに、遊ばないで帰るのかと言いたいようです。



トッポ、『あっちへ行けば芝生があるじゃん!』



てなことで、トッポパパが芝生の反対側に立って、ちょっと走らせてあげました。



元気に駆け下りてきて、満足なトッポです。



普段は家の中から出ないので、外に出ると少しでも走りたいようです。



後で気がつきましたが、この芝生は芝の手入れのため『現在立ち入り禁止!』でした。
トッポパパはデッキ上でしたが、トッポだけ横断してしまいました。



少し嬉しそうな、トッポです。

続く.....................................................。

海外の都市の紹介、 その42の4 『ブルージュ』

2008年01月17日 | 海外の都市の紹介
午前中数時間の滞在でしたが、最後に運河沿いの写真で景色をご覧になってください。
遠くに見えるのが、聖母教会です。



聖母教会は13世紀の後半から15世紀にかけて建てられました。
当初はロマネスク様式だったそうですが、今はゴシック様式に戻そうとしているそうです。
アントワープの大聖堂が高さ123mで、こちらは122mと1mの違いです。
教会の中にはミケランジェロの聖母子像が陳列されています。
アントワープの大聖堂はこちらからどうぞ



今にも雨が降りそうな天気でしたが、観光客が観光船の発着所に長い列を作っています。



トッポパパも乗りたかったのですが、時間に制限があり帰り道に運河の写真を撮ることにします。



川沿いの建物は、ほとんど水面以下に没していますが、これって建物が先に建てられたのか、運河が先に造られたのか考えてしまいます。



とても静かな運河の流れの中を、観光船がゆっくりと通り過ぎていきました。



水面すれすれに窓があるのですが、運河の水位は変化しないのか心配です。



最後に入り口付近にあるモニュメントに興味があったのですが、ご覧のように子供たちの参加で、ご紹介できません。



ブルージュはまだまだ見るべきところがたくさんあるのですが、もしまた来る機会があれば、ご紹介したいと思います。
それではブルージュから

トッポと横浜ぶらぶら歩き そのⅧ、 その3 『大桟橋』

2008年01月16日 | トッポの世界
トッポの後ろにベイブリッジが綺麗に浮かび上がっています。
普段は温度が上がると靄がかかり鮮明な写真は撮れないようですが、今日は比較的綺麗なベイブリッジになっています。



飛鳥Ⅱの全貌です。
広角レンズで目一杯の長さです。
トッポパパは偶然タイミングがあったのですが、ご覧のように大勢の見物客が飛鳥Ⅱの雄姿を見に集まってきています。



2本のポールの間は結構隙間があるのですが、バッグに乗ってうまく座っています。



こうやって見ていると、港の交通量も結構あるようで、数分おきにいろいろな船が出たり入ったりしています。



トッポお日差しを浴びてポカポカしてきたのか、リラックスモードです。



この日の写真は明るい写真と薄暗いが混在していますが、デジイチの採光モードを標準採光から一点採光にしたまま撮ってしまったため明るさが変わってしまった失敗作なんです。



トッポパパ、『伏せをしていないとバランスを崩すぞ!』



トッポ、『でも、眠くなった!』
トッポパパ、『バカ! 落ちるぞ!』



トッポ、『ギャァー! 落ちるー!』



でも、この後何とか落ちずに持ちこたえたようです。 

続く.....................................................。

海外の都市の紹介、 その42の3 『ブルージュ』

2008年01月15日 | 海外の都市の紹介
今回は天気が悪く青空は期待できませんでした。
写真を撮っていると青空のありがたみが、ものすごくよく分かります。
マルクト広場の州庁舎です。



マルクト広場には水曜日に朝市がたつそうで、この朝市は958年からいままで続いているそうです。



早朝の散歩で、雨模様でしたので人通りも閑散としていましたが、時間が経つにつれ人が広場に集まって来ました。



路地裏に入ると、タイムスリップしたような感じの雰囲気になります。
こういう路地裏がたくさんありますので、日本と違い歴史映画も比較的場所を選ばず撮影できそうです。



このビルは普通のお店のようですが、1579年からここにあるそうです。
江戸時代より前ということになります。



こういう路地裏を走っている馬車を見ると、映画のセットのような気がしますが、この光景は今も昔も同じなのでしょう。
ブルージュの街の散策は、石畳の道に歩き疲れたら観光馬車での観光も楽しそうです。



ブルージュの生命線は、運河と海だといわれてきました。
反映を極めたブルージュが15世紀以降、その座をアントワープに取られたのは、北海から運び込まれた砂が原因で運河の使用が出来なくなったからだといわれています。



現在では、運河を利用しての観光コースも充実していて、また観光客によって活況を呈しています。



続く.....................................................。