TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

海外の都市の紹介、 その50の3 『パリ PartⅡ』

2008年07月31日 | 海外の都市の紹介
ルーブル美術館です。
ルーブル美術館は収蔵作品30万点を誇る世界で最も有名な博物館(美術館)です。



中央の白いピラミッド形のところが入口で、その下部が受け付けホールになっています。周りを取り囲んでいるのがルーヴル博物館の展示場所です。
正面がシュリー翼、左側がリシュリュウ翼、右側がデゥノン翼です。



ルーヴルからコンコルド広場方面を見た景色です。



ルーヴルには世界的に有名な美術品が収蔵されていまが、美術品以外にも美術館は8つの部門からなり、地下の展示室、貴重な小部屋、王侯の居室など見るべきところがたくさんあります。



美術館に姿を変える前の700年近くの間、歴代の国王や皇帝の住む館でしたので、見事な装飾がいたるところに見ることができます。



昔の王族の人たちは、こんなところで晩餐会を開いていたのでしょう。



建物そのものが芸術のような美術館です。



『モナ・リザ』や、『ミロのビーナス』と並んで有名な、『サモトラケのニケ像』です。
羽根を付けた勝利の女神は、サモトラキ島にあった、偉大なる神々の神殿に張り出していた船の船首に立っていたそうです。



頭部と腕部を失った女神は、こちらの想像力を掻き立てます。

続く.....................................................................。

トッポと山手の洋館巡り、 その10

2008年07月30日 | トッポの世界
外人墓地の入口付近から、山手通りの景観です。



トッポ、『もう食べるもの食べたから帰ろう!』
トッポパパ、『あと少しで洋館めぐりも終わるから!



途中で見つけたかわいい花です。
じつはこの花は、花の部分全部で直径1cmぐらいの小さな花を、ズームで撮ってみました。 名前も知らない花ですが、こうしてみるとお菓子のような綺麗な花です。



山手にあるイギリス館です。
イギリス館は、1937年に当時の英国総領事公邸として、現在の地に建てられました。



鉄筋コンクリート2階建てで、1階の南側には西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスから芝生の庭につながっています。
2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓から庭や港を眺望できます。



日本の開国はペリーの来航に端を発しましたが、最も中心的な役割を果たしたのは、オールコック駐日総領事を代表とするイギリスの外交団だったそうです。



イギリス館は、当時の大英帝国の風格を備えた建物です。



港の見える丘公園内にあるイギリス館は、ローズガーデンの近くにあり、バラの咲くころには美しい景観を楽しむことができます。



領事館の端から見た、ベイブリッジです。
毎日素敵な夜景を見られる場所です。



続く.................................................................。

海外の都市の紹介、 その50の2 『パリ PartⅡ』

2008年07月29日 | 海外の都市の紹介
凱旋門からエッフェル塔方面の景観です。



エッフェル塔は、フランス革命100周年を記念し1889年開催されたパリ万国博覧会のために建てられました。
当時301mだった高さは、テレビアンテナが設置された1957年には321mに更新されました。



展望台は3つあり、高さは57m、115m、276mの高さにあります。
水圧エレベーターは、当時の基本構造のまま今でも現役で稼動しているそうです。



シャンゼリゼ大通りより、凱旋門を臨みます。
凱旋門のあるシャルル・ドゴール広場からコンコルド広場まで全長2kmあり、幅70mの大通りです。
歩道にはカフェテラスが並び、そこで休憩している観光客が大勢います。



途中には写真のようなお洒落なレストランがたくさんあります。



外人の観光客も楽しそうに記念写真を撮っています。



コンコルド広場にあるエジプトから贈られたオベリスクです。
以前はルイ15世広場といって、彼の病気平癒を祝って作られた広場でしたが、
革命時には、革命広場と改名され、広場中央付近で、アントワネット、ルイ16世がここで処刑されたことを記す、プレートがあります。
このオベリスクは、1833年にエジプトから贈られたものです。
高さが23mで、柱にはエジプト文字が刻まれています。



コンコルド広場に向かう途中に、チュイルリー庭園があります。
大きな池の周りで、日向ぼっこしながら読書などを楽しむ人が多く見られます。
中央奥に見えるのが、コンコルド広場のオベリスクです。



続く..................................................................。

トッポと山手の洋館巡り、 その9

2008年07月28日 | トッポの世界
山手10番館に来ました。
こちらに以前も紹介した、神奈川景勝50選の石碑があります。



外人墓地の中から見た山手10番館です。



山手10番館はユーミンの歌にも出てくる外人墓地前のレストランです。



山手10番館はレストランもあり、庭でもビールを飲みながらのんびりできます。
トッポ、『何か食べよう。 のど乾いた!
トッポパパ、『大賛成



汗ビッショリかいて、風呂上りのような写真ですが、行きがかり上トッポと記念撮影です。




上の写真の、後ろの修理中の建物が山手資料館です。
修理中でしたので、別の時に撮った写真を載せます。
この建物は、明治42年に建てられました。
関東大震災にも耐えて立ち続けている数少ない建物のひとつで、現在は資料館として、開港のころの生活用品などが展示されています。



山手10番館に隣接するビアガーデンでは、外人墓地を眺めながら食事ができます。



庭園の中のベンチで記念撮影です。



トッポも少しお腹に入ったので、落ち着いてきました。



続く...............................................................。

海外の都市の紹介、 その50の1 『パリ PartⅡ』

2008年07月27日 | 海外の都市の紹介
今回は2回目のパリ紹介です。
シャンゼリゼ大通のりが行き着く半径120mの円形の広場の中央に『エトワールの凱旋門』があります。
この凱旋門を起点として、大通りが星の光のように四方に放射状に伸びていることから、エトワール広場(星の広場)と呼ばれています。
その後、1970年にシャルル・ドゴール広場と改称されました。



この凱旋門は皇帝ナポレオン1世命により、フランス軍団の栄光を讃えるため、1836年に完成しました。
高さ49.54m、幅44.82m、アーチの高さ29.19mの壮大な建造物です。
凱旋門に国旗が掲げられるのは、5月8日の第二次世界大戦の戦勝記念日や、7月14日、11月11日の休戦記念日などの記念行事があるときで、ちょっと珍しい写真です。



凱旋門の上部には博物館が開設されています。




凱旋門と、古代ローマ時代に軍事的勝利を称え、その勝利を齎した将軍や皇帝が凱旋式を行う記念のために作られた門のことです。



7月14日には、凱旋門からシャンゼリゼ大通りを抜けコンコルド広場の閲兵台まで、軍隊の台分列行進が見られます。



屋上には入場券を買って、エレベーターか284段の階段を登ります。



ナポレオンは凱旋門の完成をみることができず、遺骸が凱旋門をくぐりオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)へ向かったそうです。



屋上から見た景色です。
高層ビルの建築の是非は、景観を維持するために都市再開発でも繰り返し論議されたそうです。



トッポパパは高層ビルが視界に入らない、凱旋門から北の景観が好きです。
写真の右奥にかすかに見えるのは、モンマルトル、サクレ・クール寺院です。



続く................................................................。

トッポと山手の洋館巡り、 その8

2008年07月26日 | トッポの世界
エリスマン邸の紹介です。



だいぶあちこちを回ったので、トッポも疲れ気味なのでエリスマン邸の前で小休止です。



山手で一番先に公開された西洋館がエリスマン邸です。
スイス人貿易商フリッツ・エリスマンの私邸として1926年に建てられた木造2階建て邸宅です。



フリッツ・エリスマンはチューリッヒ生まれで、1888年に来日、戦前最大と言われる生糸貿易商シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍した人物です。
エリスマンは1940年に亡くなり、今は山手の外国人墓地に眠っています。



なかには、落ち着いた喫茶コーナーがありますので、山手歩きに疲れたときにちょっと一休みに最適でしょう。
エリスマン邸を設計したのは『日本現代建築の父』と呼ばれるアントニン・レーモンドです。 また、大正時代の洋館の様子を示す建築史上価値の高い建物と評価されています。



エリマン邸の近くにある、『えの木てい』です。
1927年に建てられた西洋館です。
日本建築学会で取りまとめた日本近代建築物総覧にも貴重な建築物であると認定されています。



こちらはエリスマン邸の正面にある『山手234番館』です。



関東大震災後の1927年ごろに建設された外国人向けアパートメントハウスで、典型的な洋風住宅の造りで、震災後に居住した外国人の生活を伝える貴重な建物です。



4つの同一形式の住戸が中央部の玄関ポーチをはさんで対称的に向かいあっています。



続く...............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その48の5 『松江城』

2008年07月25日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
北の門から二の丸に回りこむ道を見下ろした景色です。
武士の駆け上がってくる雰囲気があります。 きっと映画の撮影にでも使用されそうな場所です。



二の丸は、本丸の南側に位置し、南北約141m、東西122mの曲輪になっています。



近年は公園として利用されてきましたが、1993年の史跡松江城環境整備指針に基づき、江戸時代の遺構復元整備することとなりました。
発掘調査結果をもとに、『南櫓』、『中櫓』、『太鼓櫓』等を2001年春に完成しました。



江戸時代の二の丸は、藩主が公的な儀式や政務をつかさどる『御廣間』や生活をしたり私的な接客や面会などを行った『御書院』等が立ち並んでいました。



太鼓櫓は、二之丸の北東角すみに建てられた平屋建ての櫓やぐらです。



ここから、太鼓で城内に時刻や号令を告げたのでしょう。



それでは松江城にお別れして帰路につきます。



途中、宍道湖をバックに記念撮影です。
『しんじ湖七珍』と呼ばれているものがあるそうです。
宍道湖は、淡水と海水の混ざり合った汽水湖なので、豊富な魚介類が獲れるのでしょう。



宍道湖で獲れる七種の魚貝「宍道湖七珍」は、スズキ、モロゲエビ、うなぎ、アマサギ、しらうお、鯉 そして有名なしじみです。



しじみは特に肉厚でまろやかな味ということで、みなさんお土産に買われていました。

それでは松江城より

トッポと山手の洋館巡り、 その7

2008年07月24日 | トッポの世界
2002年7月、サッカーワールドカップの来賓接待に使われた後、一般公開が始まったそうです。
現在では結婚式などにも、利用されているようです。



トッポの出番が少ないので、入り口付近で記念撮影です。



木立に囲まれた入り口が、お洒落な東屋風の建物になっています。



高いところが好きなトッポを、玄関先のポールの上に失礼してちょっと気どって撮ってみました。
トッポも満足そうな表情です。



エルスマン邸に向かう前に、『山手80番館跡』を訪ねてみます。
途中で、大きなワンちゃんに挨拶されて、戸惑いのトッポです。



このワンちゃん、2歳とまだまだ若く一緒に遊びたいとトッポに飛びついています。



幕末から横浜に居留したフランス人、A・ジェラールが、まずは良質な水の確保するため山手のの丘の麓に湧いている湧水に着目し、海外からの居住者用の貯水施設をつくり、同時に船舶に供給する給水業を始めました。



ジェラールはこの場所でフランス瓦や煉瓦の製造をおこない、山手の湧水を堀川まで導いて船舶に供給していました。
関東大震災で80番館は崩壊し、現在は写真の跡地の壊れた建物のみ残されています。 鉄骨の入ったレンガ造りは頑丈な建物であったことを示していました。



当時西洋人は、日本風の建物に住んでいましたが、次第に自国流の建物を建て始めます。
西洋瓦やレンガ等は輸入しなければならず、A・ジェラールが、明治初期に、日本最初の本格的な西洋瓦とレンガの製造工場をココに造ったのです。
当時の西洋瓦が陳列されています。



続く...............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その48の4 『松江城』

2008年07月23日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
松江城の周辺を回ってみました。
石垣はごぼう積みあるいは野面積みと呼ばれる工法で、400年経ても堅牢そのものです。



北の門です。



北の門を少し降りた場所からの景色です。
松江城を築城した堀尾吉晴は若くして羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え数々の戦功をあげました。
秀吉亡き後、豊臣家三中老の一人として重用され、加藤清正と並んで城普請上手といわれた武将で、築城には自信を持っていたようです。



天守入口の付櫓をはじめ、各所に設けられた袋狭間や石落し、籠城戦用の井戸や蔵などに戦国武将としての堀尾吉晴の工夫が随所に見られます。



秋の訪問でしたので、本丸周辺の紅葉が見事でした。



見事な庭園が、現在でも維持されています。
天守閣から、歴代の城主はこの庭園を眺めていたのでしょう。



それでは二の丸のほうに戻り、松江神社を訪問します。



此処に祭られているのは、松江初代藩主『松平直政公』、松江開府の祖『堀尾吉晴公』、七大藩主『松平治郷公』そして徳川家康公???とありますが........、明治に入り旧松江藩の人々により、要は実在の人物達を神格化させた神社のようです。



拝殿正面です。
松江城二の丸内にありますが、本丸のほうに立ち寄る人がほとんどで、静かなたたずまいの神社でした。



続く.............................................................。

トッポと山手の洋館巡り、 その6

2008年07月22日 | トッポの世界
もう一度山手通りに戻ります。
トッポ、『これが有名な山手カトリック教会だね。』



ペパーミントグリーンのとんがり屋根がシンボリマークになっている山手カトリック教会です。
高い鐘塔をもったゴシック様式で、前身は1862年にフランスの神父さんが建てた我が国最初の洋風教会堂として建てられた横浜天主堂です。
横浜市認定歴史的建造物に指定されています。



教会なので入るのは自由ですが、内部の撮影は残念ながら禁止されています。
教会内部も美しく装飾され、荘厳な雰囲気が満ちています、最近は日本一美しい聖堂とも呼ばれているようです。



正面にステンドグラスのある、絵本の挿し絵のような教会です。
横浜天主堂が前身になっていて、鐘や聖母像は、初代のフランスから贈られた物をそのまま受け継いで使っているのだそうです。
ミュージシャンのユーミンこと松任谷由美さんが挙式を挙げた教会でもあります。



山手教会の聖母マリア像です。
聖母像は江戸時代開国当時フランスから贈られ横浜天主堂時代から横浜を見つめ続けています。



次の洋館は『ベーリックホール』です。
ここ外国人居留地の山手の一角に、昭和5年『ベリック邸』は建築されました。



モダンなスペイン瓦の緩い勾配の屋根、屋根の下のスクラッチタイルやアーチ型の窓 が主な特徴です。
明るく鮮やかな、茶褐色に、彩釉が施された光沢のある屋根瓦です。
3連アーチの玄関ポーチ、スチール製の窓枠や2階の、クワットレ・フォイル(4弁狭間飾り)窓が特徴的です。
ベリック氏は当時、彼の親族3人が横浜で経営していた貿易会社『ベリック兄弟商会』の仕事を手伝うため、1898年に、20才で来日しました。
ベリック兄弟商会は洋紙,織物,雑貨,薬品,鉛筆,香水等を輸入し、横浜の地場産業でもあった絹織物や美濃和紙等を輸出していたそうです。



その後、会社の後継者となり、社名も「ベリック商会」と改め、順調に業績を伸ばし、その後フィンランドの名誉領事も務めたそうです。
関東大震災で、山手地区の西洋館がほとんど滅びる中、ベリック氏は,その後も横浜を離れずに貿易業を営み、1930年に、ベリック氏、52才の時にアメリカ人のJ・H・モーガン氏の設計スパニッシュスタイルの邸宅を構えました



当初は邸宅として建てられた後、セントジョセフインターナショナルカレッジの寄宿舎として使用されましたが、その後セントジョセフインターナショナルカレッジは廃校になったため、ベーリックホールのみが保存されてきました。



震災後は,大きな西洋館が姿を消していく中、個人宅としてはかなりの広さの洋館で、ベリック氏の財力は膨大なものだったのでしょう。

続く.................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その48の3 『松江城』

2008年07月21日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
本丸の紹介前に、階段を上りきった場所から名物のクスノキを振り返ってみました。



松江城は別名『千鳥城』と呼ばれています。
全国に現存する12天守の一つで、山陰地方では唯一の天守閣です。



本丸にそびえる天守閣は、桃山初期の城郭の特徴を残し、華やかな造りを排した実戦本意の造りとしても知られています。



本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲んでいます。
また二の丸の南には一段低く三の丸があります。



高さ30m、5層6階の天守は桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されています。



天守閣から攻撃することを想定し、様々な場所から弓や鉄砲で攻撃可能。さらに、天主内部に井戸や便所を設置し、籠城戦を考慮しています。



天守閣の平面の大きさは、姫路城に次いで2番目で、高さは3番目、古さでは6番目です。



最上階は望楼式となっており、外壁は大部分が下見板張りです。
天守台の石垣は頑丈な牛蒡積みです。
シャチホコは木彫銅張りで、向かって左が雄、右が雌の鯱です。



シャチホコは木彫りで銅張りです。
高さは約2mもあり、これは現存しているシャチホコは最も大きいものです。



江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心だったようです。
現在は松江城山公園として観光名所となり、宍道湖の眺望が良く日本三大湖城の一つとなっています。

続く................................................................。

トッポと山手の洋館巡り、 その5

2008年07月20日 | トッポの世界
トッポ、『今度は日本でもっとも古い公園の紹介だよ!』



日本で最初の公園として紹介されている山手公園で、日本で初めてのテニスも行われました。
ここは申し込めば、一般の人もテニスができるそうです。
日本のテニスの発祥の地で、テニスを楽しむのもいい思い出になるでしょう。



山手公園1870年(明治3年)に横浜居留外国人の手によってつくられたわが国最初の洋式庭園です。



80年間は外国人の公園として使用され、戦後は横浜市民のスポーツと憩いの場として親しまれています。



2004年3月1日に文化財保護法による国の名勝に指定されました。
ヒマラヤ杉も英国人ブルックによりこの公園から全国に広まったそうです。
山手公園は桜の大木が大きな笠のように広がり、隠れたお花見の名所でもあります。



当時、外国人居留地住民の要望で日本政府から貸与した約6千坪の土地に居留地住民が造成した公園です。



元町とは反対側のところにあり、崖の上から下まで突き抜けていて、上はフェリス女学院、下は桜道に接しています。



他の観光スポットとは少し離れているせいか人もまばらで、ことによると昔の面影を一番残している場所でしょう。



トッポ、『これも紫陽花だね。 食べないからね。』



木立に囲まれた公園内は、夏でも涼しそうです。

続く................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その48の2 『松江城』

2008年07月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
昨年訪問した時は、ちょうど開府400年祭でした。



『大手木土門』を入ると広いスペースであります。 
このあた『馬溜』と呼ばれた場所のようです。



『三の門』跡を抜け、上り始めると途中に大きな樹木があります。
松江城の門番のような大木です。



大きなクスノキで、樹齢350年です。



三の門跡です。



こちらが二の門跡になります。



階段を登り切り、三の門、二の門を過ぎると写真の一の門に来ます。



一の門につながる南多聞櫓です。
昔、本丸には6ヶ所に2階建櫓があり、多聞櫓で結ばれていたそうです。



もう少しで本丸に到着です。



続く................................................................。

トッポと山手の洋館巡り、 その4

2008年07月18日 | トッポの世界
旧山手68番館を訪問する途中で、『日本庭球発祥之地』の記念碑を見つけました。



日本の最初のテニスクラブは外国人向けで、日本で最初の洋式公園である山手公園の中にあります。



1876年(明治9年)、ここ山手公園内のコートでわが国最初のローンテニスが行われました。
1874年に英国で始まったローンテニスは、2年後の1876年には横浜に上陸したのです。
1878年にわが国最初のテニスクラブが誕生しています。
ここ山手公園に、テニスクラブ発祥120周年を記念してこの記念館を設立しました。
この記念館はテニスの歴史を伝えるものが紹介されています。
テニスの起源は12世紀頃に遡り、フランスの修道院などの回廊で球を手で打ち合うことから始まったと言われています。
そのためテニスは手のひらゲームを表すポームと呼ばれていて、ポームは宮殿や教会の室内や壁に囲まれた庭で行われていたそうです。



このゲームはその後、イタリアへ広まりました。
現在のラケットに近い、ガット(羊の腸)を張ったラケットは14世紀にイタリアで発明されました。
ですからラケットの語源は、イタリア語のRachettaで、アラビア語のRacketsは「手のひら」の意味です。



テニスの初期の頃のことを総合的に展示してありますので、テニスの好きな人には勉強になるでしょう。
現在のテニスの始まりは、1874年にイギリスのウィングフィールド少佐が屋外でできる新しいラケット・ゲームとしてラケットとネットとボールとそのルールをセットにした遊びに特許を取ります。
1877年にウィンブルドンのクラブがこれをとりいれて、第1回の大会が開かれたのが、有名なウィンブルドン大会です。



このゲームの特徴が芝生をコートとして使用したことから 『Lawn Tennis』という名前を付けたことが、現在のローンテニスの始まりです。
ここ横浜・山手公園にあるテニス発祥記念館に箱に入った当時の道具一式が展示されています。
余談ですが、テニスのポイントの数え方は独特で、ポイントがないことを『ラブ』といいますが、これは、洒落気の多いフランス人が数字の0が卵に似ていることから、フランス語で卵と言っていたことが始まりです。



旧山手68番館です。
この建物は、 東洋バブコック(現:バブコック日立)の社員C.F.フランコのの住宅として建設され、1986年に現在地へ移築されました。



当時震災後に建てられた外国人向け賃貸住宅の1つです。



平屋建で下見板張りと開放ベランダをもつバンガロースタイルの源流をとどめ、1986年に移築されました。

続く..............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その48の1 『松江城』

2008年07月17日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
昨年友人達と旅行へ出かけ、松江城を訪問することになりました。
若い人たちと、昨夜楽しんだ旅館の前で記念撮影です。



島根県松江市殿町にある城で、別名・千鳥城と呼ばれています。



水郷松江市の宍道湖北畔に位置し、松江市のシンボルとして市民に親しまれています。



築城工事は、1607年から5年を費やし、1611年にほぼ完成しました。
城地の広さは、東西360m、南北560mもあり、周囲に幅20~30mの内濠をめぐらしています。



松江城は、極楽山と云われた小高い丘の上に一二三段形式に曲輪を配置し、丘陵の周囲を内堀がめらされ、また宍道湖の水を城の防備に取り入れた城で、『水の都松江』とも言われるるようです。
松江城の駐車場から見た南櫓と中櫓です。
40mの塀で、2000年と2001年に明治時代に廃却したものを塀とともに復元されています。



遊覧船で松江城と城下に張り巡らされた堀めぐりもできるそうです。



松江城は水壕で囲まれているため、築城で最大の難工事は、壕の掘削と石垣の建設だったと思われます。
壕を掘った膨大な土は、沼地や湿地帯だった城の周辺に城下町を建設するために役立てられたそうです。



それでは松江城へ向かいます。



左に見えるのが、二の丸からみた中櫓・太鼓櫓です。
87mの塀とともに2001年に復元されました。



続く...............................................................。