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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その12

2017年03月23日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
長きにわたり松本城を紹介してきました。
今回が最後の紹介です。
日本の主要名城は150ほどありますが、国宝に指定されているのはわずか5城です。
2015年に松江城が追加されたので、現在『彦根城(滋賀県彦根市-1606年(慶長11年)』、『松江城(島根県松江市-1607年(慶長12年)』、『姫路城(兵庫県姫路市-1609年(慶長14年)』、『犬山城(愛知県犬山市-1601年(慶長6年)』、『松本城(長野県松本市-1597年(寛永10年)』の5城です。



現存天守があるのは弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城、の12城です。
江戸時代以前から残っているお城で、改修・修復等はありますが、焼失したり倒壊したりすることなく約400年以上、残っている貴重なお城の一つが松本城です。



「埋の橋」越しの松本城は記念写真の定番スポットです。



松本城の歴史をもう一度振り返ってみます。
松本城は、もともとは山に囲まれた松本盆地に作られた山城が元になっています。
16世紀前半に、当時の信濃守護であった府中小笠原氏によって築城され、当初は、松本城ではなく、深志城と呼ばれていました。



武田信玄は、深志城を筑摩・安曇野地方の郡代(代官)を置き、松本一帯を支配し、その後、越後の長尾景虎と争い、信濃を統治することになりました。
武田氏の支配は、おおよそ30年ほどにわたって続けられました。
武田氏が滅亡した1582年に、小笠原貞慶が徳川家康の後ろ盾を受けて深志城を復興した際に、松本城という名前に改称しました。
その後徳川家康の関東移封により、小笠原氏に代わって石川数正が松本城に入ります。
石川数正は城の大改築に乗り出し、本丸、二の丸、三の丸などの整備を始めます。
改修工事は息子の康長に受け継がれ、1592年(諸説あり)、現在に残る国宝指定の天守・乾小天守、渡櫓が完成しました。



松本城は戦国末期、鉄砲戦を想定した戦うための漆黒の天守の典型として、現存する唯一の城です。
石川康長は大久保長安事件により改易となり、再度小笠原氏が飯田藩から再び松本に入りますが、小笠原氏も播磨明石へ転封となりました。
その後は、徳川家光の守り役として知られている松平康長、松平(越前)直政など、城主が次々と変わりました。



さらに1633年(寛永10年)に入封した松平直政によって辰巳付櫓、月見櫓が付けられた。



城主が落ち着いたのは、松平康長を祖とする、戸田松平家の松平光慈が移ってきた江戸時代の半ばごろでした。
その後、明治時代まで戸田松平氏によって治められました。



松本城の五重天守は姫路城とともに現在2基しか現存していない非常に貴重な建物となります。
また天守の外壁は、どの階も下部を黒漆塗りの下見板で覆っていることもあり、松本城は別名、烏城ともいわれています。
松本城が黒いのは、石川氏の秀吉への忠誠のしるしといわれています。



明治時代になると、城郭破却という新政府の意向で、日本各地で城郭が壊されていきました。
松本城も解体される危機となりましたが、危機を乗り越え保存会が結成され、老朽化によって傾いていた天守は、明治36年から10年かけて大修理が行われました。



トッポパパもこれが最後の松本城訪問でしょう。
富士山、日本のお城などは、やはり日本の顔ともいえるので、これからも大切に保存されることを願っています。
この後松本市内を、少し歩いてみます。

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