TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その221 『鎌倉紅葉散策・円覚寺』 その5

2017年11月30日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
円覚寺も全部見て回るには一日かかります。
他の寺院も久しぶりなので、運動をかねて訪問したいので、円覚寺はもう一度紅葉を見ながら戻ることにします。



お気に入りの紅葉写真を並べてみました。









これは以前に訪問した時の写真で、落ち葉を燃やした煙が靄(もや)のようにたちこもっています。



紅葉(もみじ)もいいですが、銀杏もいい色になっています。



トッポも天国に旅立って、もうすぐ3年になります。
いろいろな場所を散策してくると、ここも来た、あそこも行ったと、思い出します。



これも高台から撮った紅葉です。



最後に、これも7-8年前に円覚寺で撮ったお気に入りの写真を、もう一度紹介します。
長い間写真を撮っていると、前に撮った写真と見比べていくのも楽しいものです。



次は浄智寺へ向かいます。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その221 『鎌倉紅葉散策・円覚寺』 その4

2017年11月29日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
方丈の裏は、心字池のある美しい禅宗様式の庭となっています。



トッポも何度か観に来ています。



方丈の後ろ側に位置し、正続院(舎利殿)の入口下の放生池が妙香池(みょうこうち)です。
夢窓疎石の作庭と伝えられています。



創建当初よりある放生池で、江戸時代初期の絵図に基づき、平成12年(2000)、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元されました。
対岸の露出した岩盤を虎の頭に見立て、虎頭岩と呼んでいます。



大佛次郎が『帰郷』に、妙香池の様子を次のように描いています。
『日陰から見ると、日なたの地面に薄く陽炎が立っていた。 幾つかある僧庵に通ずる道が、崖を削って段を作ってあるのに、梅の花びらが昨日の雨で貼りつけたように残っている。 池があって、岸辺の桜が映っている中を、緋鯉がゆっくりと泳いでいるのを、ふたりとも立ち止まって眺めた。』



緑、赤、黄色の紅葉コントラストが楽しめる角度です。



如意庵と書かれた立派な石塔が建っています。



円覚寺の境内、如意庵の前は長蛇の列です。
如意庵で営業されているお寺カフェ、『安寧』で紅葉を観ながら上質なランチや珈琲を愉しむことができるそうです。
如意庵は第三十六世無礙妙謙の塔所であり、伊豆の国市にある「国清寺」が前身であると言われています。



紅葉の間を抜けて、少し高台から紅葉を眺めてみます。



立ち入り禁止場所が多いのですが、高台からの紅葉も素晴らしいのです。



続く............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その221 『鎌倉紅葉散策・円覚寺』 その3

2017年11月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
居士林は円覚寺にある、在家修行者のための坐禅道場です。
居士林では、毎週土曜の午後に土曜坐禅会が開かれているため、この日は中へ入ることができませんでした。
坐禅堂は新宿区牛込にあった柳生家の剣道場が柳生徹心居士から寄進されて、この地に移築されたそうです。
夏目漱石などの居士が参禅したと書かれていました。



ここの紅葉もきれいです。



円覚寺方丈正門の唐門です。
唐門(勅使門)の門扉には見事な彫刻が施されていますが、勅使門ということで、通常は入口が閉ざされていて、見学者は方丈庭園入口より園内に入ります。



本来は住職が居住する建物を方丈と呼びますが、現在は各種法要の他、坐禅会や説教会、夏期講座等の講演会や秋の宝物風入など、多目的に使われています。



方丈前の庭園には百観音霊場があります。



約100体の観音様が並んでいます。
方丈の石仏、百観音は江戸時代に拙叟尊者が境域に岩窟をうがって、百体の観音石像を祀った事がそのはじまりです。
1888年(明治21年)に洪川禅師が西国三十三体の観音像を新たに刻み、補陀落迦観自在窟と名付けて境内の一部に安置し、現在、方丈前に移されています。



方丈周辺にも紅葉の見どころがあります。



方丈前にも柏槇ビャクシンの古木が植えられ、鎌倉市の天然記念物に指定されています。



円覚寺のビャクシンは円覚寺の開山である無学祖元が植えたと言われている、樹齢700年以上の大木です。



紅葉している大木も何本かあります。



続く..................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その221 『鎌倉紅葉散策・円覚寺』 その2

2017年11月27日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
夏目漱石の『門』に描かれた円覚寺の山門(三門)です。
この写真は2008年に来た時の写真です。
『円覚興聖禅寺』の額は伏見上皇の勅筆と伝えられています。



楼上には十一面観音、十二神将、十六羅漢像が安置されています。
現在の山門は、1781-89年(天明年間)に再建されたもので、山門は三門とも呼ばれ、三解脱門の略で涅槃に至るまでに通過しなければならない三つの関門、空・無相・無願を表しています。
 


大木に囲まれ紅葉している木々は、木漏れ日を浴びて角度により色彩が変化します。



山門の梁も凝っています。



鎌倉の寺院はお寺により異なりますが、円覚寺は比較的紅葉を楽しめるお寺です。



円覚寺の仏殿(大光明宝殿)です。



仏殿前のビャクシンの古木は、市の天然記念物になっています。



現在の仏殿は1964年(昭和39年)に再建された鉄筋コンクリート造の建物です。
もとの仏殿は関東大震災で倒潰し、その40年後に再建された、禅宗様の建築様式で、本尊は宝冠釈迦如来坐像です。



居士林に向かう階段周辺の紅葉です。



円覚寺の選仏場です。
仏殿正面向かって左に位置している建物で、選仏場とは、修行僧の坐禅道場のことです。
現在の建物は、1699年(元禄年間)に伊勢長島城主松平忠充が、大蔵経を寄進し、それを所蔵する場所と禅堂を兼ねた建物として建立
されたものです。



続く..............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その221 『鎌倉紅葉散策・円覚寺』 その1

2017年11月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
日ごとに冬の訪れを感じるようになり、寒さが厳しくなってきました。
ここ数日、東京、横浜でも紅葉が進んできました。
週末の好天に誘われて、鎌倉へ紅葉散策に出かけました。
まずは北鎌倉駅よりスタートですが、土曜日のせいもあり大変な混雑になりそうです。



円覚寺総門周辺の紅葉が見頃だとテレビ報道がありましたが、深紅の紅葉が目の前に飛び込んできました。



北条時宗の石碑が建っています。
円覚寺は1282年、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。



臨済宗は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つです。
また鎌倉仏教のひとつでもあります。



円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したからと伝えられています。



一般的には鎌倉の紅葉は12月になってからと言われていますが、ここは総門周辺はいまがピークのようです。



総門側から観た紅葉です。



円覚寺を出た時は、人の波で階段も見えませんでした。
確かに、ここの紅葉は色合いが調度良く、見ごたえがあります。



総門を抜け、階段を上り山門へ向かいます。
人が多く、写真にならなかったので、これは以前来た時の写真です。



円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府からの篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。



続く...............................................................。

懐かしの名車紹介 その7

2017年11月24日 | トッポパパの愛車
1965年製フォルクスワーゲン・カルマンギアです。
フォルクスワーゲン・ビートルからの派生車種の一つがカルマンギアです。
ビートルがベースなのでパワートレインは空冷4気筒エンジンで後輪駆動で、1965年の車は1.3Lへと排気量アップしました。



この車はカルマンギアType3をベースにブラジルで作られたTC(ツーリングクーペ)のようです。
デザインはジウジアーロということです。
エンジンは1600cc、65馬力を積んでいました。



1955年にMGブランドにおける主力車種の、2座席オープンカーとして開発された、MG-A1600です。
4気筒1600ccです。 



ライトウェイトスポーツの元祖と呼ばれている1962年に英国で発表されたMG-Bが並んでいます。



ビンテージカーの前では、スケッチをされている人もいます。



1962年製モーリス・マイナー1000セダンです。
1948年にデビューしたマイナーMMを原形とする2/4ドア4座サルーンです。
1950-60年代のモーリスマイナーは、戦後のモータリゼーションの中で活躍した1台です。



1950年製オースチンA90アトランティック・コンバ-チブルです。
1948年に開催された戦後初のロンドン・ショーで発表されました。
全長約4.5mですが、全幅は1.8m近いサイズのワイドボディを持ちながらエンジンは4気筒2.6リッターでした。



こちらもオースチンですが、詳細はわかりません。



1964年 オースチンヒーリー 3000MK2です。
1959年にヒーレー100系からモデルチェンジする形で登場したオースティン・ヒーレー3000(通称ビッグヒーレー)は、当初SU HD6 ツインキャブで124psでしたが、1961年5月にSU HS4の3連キャブの「Mk-Ⅱ」となり、馬力は132ps、最高速度173km/hとなりました。



こちらも同種の車のようですが、詳細はわかりませんでした。
どの車もため息が出るくらい、華麗なフォルムをしています。



往時の車は現在運転するには、膨大な維持費がかかると思われます。
往年の名車の外観を残しながら、現代の技術を乗せた車が発売されれば、また違った車の楽しみ方ができるでしょう。
車の紹介に当たり、いろいろ調べてみましたが、間違いがありましたらご勘弁ください。

懐かしの名車紹介 その6

2017年11月23日 | トッポパパの愛車
1960年代の日本を代表する小型スポーツカーのホンダの車が並んでいます。



ホンダS600です。
本田技研工業がかつて生産していた小型スポーツカーで、 愛称はエスロクです。
1963年10月にS500がデビューしてから半年後の、1964年3月にS600が発売されました。
エスロクは1964年3月-1965年12月に生産したFR・2シーターのオープンスポーツで、現在でもビンテージカーとして、人気があります。



水冷直4 DOHCエンジンで、606ccとし、F1のエンジンと同じ設計を取り入れた超高回転型エンジンを採用しています。
当時の日本車としては珍しいDOHCと4連キャブレターを装備し、9,500rpmからがレッドゾーンという回転数で馬力を出す2輪用エンジンの様な特性です。
エンジンは、最高出力57PS/8,500rpm、リッター当たりの馬力は94PS、シリーズ中最高の最高速度は約145km/hに達しました。
これは倍以上のエンジン排気量を持つクルマと同等のスピードです。



ホンダSシリーズの三代目として1966年1月から1970年5月の間に生産されたS800です。
水冷直列4気筒DOHCエンジンをフロントに積み、縦置きされました。
デフから先の動力伝達に2本のローラーチェーンを用いる後輪独立懸架が主な特徴です。



S800は791ccまでエンジン排気量を拡大しました。
S600とS800の判別は、フロントグリルとS800のボンネットのパワーバルジ(コブ)でわかります。
S800の最高出力は、70PS/8,000rpm、リッター当たり約88.5PSです。
4速MTはフルシンクロになり、最高速度は約160km/hとなり初の100マイルカーとなりました。



サーキットでも活躍し、世界各国で人気を博しました。
シンプルにまとめられたデザインですが、恰好いいと若者に人気でした。



こちらはS800クーペです。



MGのスポーツカーも何台か展示されていました。
MGは英国のモーリス自動車(1910創業)の経営者ウィリアム・モーリス氏が1924年に、スポーツバージョンのみを生産するために造った小さな別会社「モーリス・ガレージ」のイニシャルです。



確証はありませんが、たぶん1950年代前半のMGのTDだと思われます。
このタイプのMGスポーツカーの最大の魅力は、独立したフェンダー(ウイング)を持つクラシックなスタイルです。



こちらは1954年製MG-TF1500です。
MGはTDのシャシー/エンジンに新しいボディを着せ替えて1953年MG-TF1250を発売し、1955年1466ccにボアアップしたTF-1500が誕生しました。
ボンネットサイドのTF-1500のエンブレム以外になかなか区別がつきません。
TF1500はTDに比較すると、ボンネットのフロント部分が後傾し、ヘッドライトの位置が下に下がっているぐらいしか、外観の変更は目につきません。



フロントパネル周りも凝った作りです。
現在運転しようとすると、クラッチは機械式で重く、ギヤチェンジ、坂道発進などは高度な技術が必要なのでしょう。
燃料は検知棒で残量確認するそうです。



続く............................................................。

懐かしの名車紹介 その5

2017年11月22日 | トッポパパの愛車
1965年製モーリス・ミニ・トラベラーMK1です。
木枠も斬新的で、お洒落な感じです。
1960年代の有名なビートルズのメンバーもミニのオーナーでした。



オーナーさんのこだわりですかね、扇風機がご愛嬌です。



トッポパパもMINIクラブマンに乗っていますので、ついついミニには目がいってしまいます。
ローバーミニが並んでいます。



こちらのミニが1997年製のローバーミニの最終車のようです。



オースチン・ヒーレー(Austin-Healey )は、イギリスのスポーツカーブランドです。
このブランドは、1952年にブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)・オースチン部門のレナード・ロードと、著名な自動車エンジニア兼デザイナーであるドナルド・ヒーリーとの間に結ばれた合弁事業合意により誕生しました。



オースチン・ヒーレーは、1972年まで生産が続けられました。
1959-1961年に生産され、BN7 Mark I(2シーター)はその特徴的な外観から、日本では一般的に「カニ目」と呼ばれ、アメリカではバグアイ(虫の目)、イギリスではフロッグアイ(カエルの目)とあだ名されています。



1953-1955年に生産された、希少なヴィンテージカー、オースティン・ヒーレー100型です。
トランスミッションは3速ユニットで、2速と3速にオーバードライブを持っています。
2,660ccの水冷直列4気筒エンジンで、ドラムブレーキが4輪に装着され、フロントサスペンションはコイルスプリングを使った独立懸架えす。
この当時、欧州では魅力的なライトウエイトスポーツカーがたくさんあったようです。



日本に藻海外の車に負けていないおしゃれな車があります。
ダットサン・フェアレディは、日産自動車が製造し、ダットサンブランドで販売したスポーツカーで、フェアレディZの源流です。
フェアレディ2000です。
ソレックスキャブレター2基を備えた新設計の直列4気筒SOHC1,982cc、U20型エンジン(145馬力/6,000rpm)、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載しました。
発表された最高速度は205km/hであり、国産初の200km/hオーバーカーとなり、高性能車としても注目を浴びました。



フェアレディの完成形と賞賛されるモデルです。
1967年5月の第4回日本グランプリGTクラスにて、フェアレディ2000が1-2-3フィニッシュを飾りました。
気品溢れるデザインを持つこのクルマは、当時の若者にとって憧れの存在でした。



1960年代の日本の車は、個性あふれる車だったように思います。
最近は性能ははるかによくなっていますが.......................時代の流れでしょうかね。



続く...................................................................。

懐かしの名車紹介 その4

2017年11月21日 | トッポパパの愛車
往年の懐かしのスポーツカーが並んでいます。



ロータスヨーロッパTCです。
ロータスヨーロッパは、イギリスのスポーツカーメーカーのロータス・カーズが1966年から1975年まで製造していたスポーツカーです。
1972年に登場した最終型のスペシャルでは、ツインカムエンジンをよりチューンした通称ビッグバルブと呼ばれる物に変更され、最高出力は126馬力と、歴代の市販型ヨーロッパでは最高出力となりました。



パリで写真を撮ると必ずどこかにこの姿が映り込むといわれる、フランスの国民車、シトロエン2CVです。
2CVは、フランスのシトロエンが1948年に発表した独創的かつ合理的な設計の小型大衆車です。
2CVという車名を与えたれこの車がデビューを飾ったのは、戦争終結から3年後の1948年です。
495㎏という超軽量の車体、最高時速は65㎞、そしてリッターあたり22.2㎞という、当時としては驚異的な低燃費を実現していました。



1969製、イギリス ロータス・セブン Sr3 です。
ロータス・セブン(Lotus Seven)は、イギリスのロータス・カーズがかつて生産・発売していたスポーツカー。1957年から1970年代にかけて生産、販売されていました。
ロータス・セブンはSr1- Sr4までのモデルチェンジが行われています。



面白い車を見つけました。
1957年 - 1959年の限られた販売期間のBMW・600です。
ドイツのBMWが 製造、販売していた小型自動車である。



運転手はフロントから乗車する珍しい車です。



1958年製 MG ZBマグネット です。
1953年-1958年に生産されたMGで、1958年の最終の改良型です。



第2次大戦の戦前・戦後を通じて、MGスポーツサルーンの最高傑作です。



モーリス・ミニ・カントリーマンMK1とオースティン・ミニ・カントリーマンが並んでいます。
1959年に初代ミニが誕生しました。
イギリスの自動車会社、BMC(British Motor Corporation)がミニを販売し、BMCは傘下に「オースチン」と「モーリス」という2つの自動車ブランドを所有していたので、それぞれのディーラー網で販売されたため、ミニの名称も「オースチン・セブン」「モーリス・ミニ・マイナー」の2つに分かれていました。
この2車種の違いはエンブレムとグリルだけのようです。



商用車として、バンタイプも販売されました。
実用性を優先したので、快適性には駆けるそうですが、サイドの窓を追加した『オースチン・セブン・カントリーマン』『モーリス・ミニ・トラベラー』はボディに木製フレームを取付け、現在の日本でも高い人気のモデルとなっています。




続く....................................................................。

懐かしの名車紹介 その3

2017年11月20日 | トッポパパの愛車
1960年代、日本の自動車市場はブルーバードとコロナの熾烈な販売合戦がおこなわれていました。
BC戦争(Bluebird VS Corona)と言われ、初代310系ブルーバードは同時期の2代目RT20系コロナより断然売れ、2代目410系ブルーバードは同時期のアローラインの3代目RT40系通称バリカン・コロナに苦戦し、3代目510ブルーバードではコロナより優位に立ち巻き返した。
ブルーバードという愛称は、メーテルリンクの童話『青い鳥』にちなむものです。
1959年、ダットサン210型のモデルチェンジにあたり、初めて「ブルーバード」のネーミングが採用された、ダットサン310です。
310型には1Lと1.2Lの2種類のエンジンが用意され、当時としては先進的なサーボを備えたブレーキが装備されていたのが注目を集めました。
ツートーンカラーやホワイトタイヤ仕様も用意され、高級感を与えることに成功しています。
310型は内装、外装ともに好評で、発表後わずか1ヶ月で8,000台ものバックオーダーを抱える大ヒットとなり、その独特のテールランプの形状から「柿の種」という愛称も付きました。



1963年登場の2代目410型系ブルーバードです。
日産初のモノコック・ボディを採用したことで話題となりました。
1964年に1200SSが追加され、後にブルーバードの伝統となるSSS(スーパー・スポーツ・セダン)の名を冠した1600SSSが登場したのもこの2代目ブルーバードです。
2代目ブルーバードはモータースポーツにも積極的に参戦。1966年のサファリラリーではクラス優勝しました。



1967年登場の3代目510型系ブルーバード1600 SSSです。
スーパースポーツセダンの色合いが濃く、シリーズの中でも大きな成功を収めました。
外観は、直線的でシャープなスーパーソニックラインと、ロングノーズ・ショートデッキを融合させた均整の取れたシルエットで、海外でも高い評価を集め、史上初めて北米市場でヒットした日本車となりました。



伝説の車、スカイライン2000GTRのコンセプトカー、スカイライン2000GTです。
1968年月直列6気筒エンジン搭載のGT(GC10型)を発売しました。
日産製直列6気筒、OHC、2000ccのL20型エンジンを搭載していました。
1969年以降日産のL20型エンジンを搭載する全車種で新設計のシリンダーヘッド搭載エンジンに順次切り替わり、115馬力となります。
サスペンションは、フロントはマクファーソンストラットで、リアはセミトレーリングアームとコイルスプリングへ変更され、4輪独立懸架となります。



実に懐かしい車が展示されていました。
日野自動車のコンテッサ1300クーペです。
コンテッサは、日野自動車がルノー・4CVのライセンス生産で得た経験をもとに開発し、1961年から1967年まで生産しました。
1964年、イタリアミケロッティデザインのコンテッサ4ドアセダンが登場し、同年にはクーペボディも導入され、国際自動車エレガンスコンクールでの受賞を果たすなど、国際的にも高い評価を得ました。
1967年にはトヨタとの提携により日野自動車は自家用車部門から撤退しますので、1960年代、日野自動車の自家用車シリーズの最後を飾る、貴重な車です。



1962年製トヨタパブリカ(Publica)Van Deluxeです。
トヨタ自動車が1961年から1978年まで生産した小型乗用車である
1950年代の国民車構想の影響を受けて開発されたパブリカは、トヨタ初の大衆車で、長年にわたって同社の生産、販売する最小車種として位置付けられました。
「パブリカ」という車名は一般から公募されパブリックカー(大衆車)に由来しています。



1966年製のプリンスグロリア6ワゴンです。
ワゴンの名称は普通のライトバンとは異なる高級な商用車といったニュアンスであったようです。
グロリアのデザインを、そのままに踏襲したスタイルで、高速時代の6気筒と大きくまわりこんだフロントガラスが特徴的です。



6気筒エンジンが搭載され、2L直6SOHCシングルキャブレター仕様のG7型エンジンは、最高速度は155km/hに達しました。
後姿もエレガントで品格があります。



トッポパパの年代の人には、憧れの車の日産フェアレディ240ZGです。
「日産 フェアレディZ(S30型)」は、1969年に登場し、北米でも大ヒット作となりました。
当初、輸出専用モデルだった「ダットサン 240Z」ですが、「日産 フェアレディ240Z」として国内でも販売開始しました。
グレード体系はベースグレードの「240Z」、豪華仕様の「240Z-L」、そして最上級グレードの「240ZG」の3種類です。
「240ZG」には「Gノーズ(グランドノーズ)」と呼ばれる「エアロダイナノーズ」と「ヘッドランプカバー」、FRP製の前後「オーバーフェンダー」が装備され、エンジンはL24型で最高出力は150ps/5,000rpmでした。



続く............................................................。

懐かしの名車紹介 その2

2017年11月19日 | トッポパパの愛車
一番手前の黒の車がダイムラー・DS420(Daimler DS420 )です。
イギリスの高級車メーカー、デイムラーが1968年から1992年まで製造していた4ドアリムジンです。
この車はイギリス国内の王室・貴族をはじめとする上流階級または政府・企業向けなどを主に想定し、運転手が付き、オーナーは後席に乗る車として販売されました。



ベンツの懐かしの名車が並んでいます。
メルセデス・ベンツ(独: Mercedes-Benz)は、ドイツの自動車会社、ダイムラーが所有する乗用車、商用車のブランドである。



一番手前の車は、1968年発売のメルセデス・ベンツのスポーツモデル、280SLです。
1963年にデビューしたメルセデス・ベンツのオープンスポーツカーが、230SL(2300cc)です。
1966年に250SL(2500cc)に排気量をアップし、1968年に280SL(2800cc)を登場させました。
当時も現在においても各モデルの中では最も人気のある車です。
40年以上経っても魅力を失わないデザインは、秀逸といえます。



一番右の車がメルセデス・ベンツの希少なカブリオレモデル、1960年製220SEbです。
ダイムラーベンツ創業75周年を祝う記念シリーズで、直6・OHC・2195cc・120馬力、最高速度172㎞。ゼロ400m加速14.0秒のスペックです。



メルセデスが戦後の復興を期に、メーカーの威信を掛けて作った最初の乗用車、1953年製170シリーズです。
170Sはその上級バージョンとして登場したお車です。現在、日本に4台の希少な車のようです。
オーナーさんとも少し話をしましたが、本当にきれいにメンテされていて、オーナーさんの愛着度がわかりました。



日本車の紹介も致します。
1975年製ホンダシビック(Honda Civic)RSです。
当時、ハイパワー至上主義のホンダが、大きく転換を図ったのが1970年代です。
RSというのはロードセーリングの略で、自動車の排気ガス規制が始まって、走らない車が増えてくる中で出たシビックのスポーティ版です。
エンジンにはCVツインキャブ。タイヤは13インチのラジアル、700kgの車重に76馬力は当時としてはパワフルな車です。



1970年に登場した、トヨタ・セリカ1600GTです。
ボンネット下に納まる直列4気筒DOHC1.6Lユニットは2T-Gという形式名で呼ばれるトヨタの傑作エンジンです。
日本ではそれまで存在しなかったスペシャリティカーというジャンルを開拓すべく登場した車です。
最高出力100ps/6000rpm、最大トルク13.7kg-m/3800rpmを発揮し、ツインキャブ仕様の2T-B型は最高出力105ps/6000rpm、最大トルク14.0kg-m/4200rpmというスペックでした。



1967製カローラ(COROLLA)です。
カローラは、日本国内では同クラス初のフロアシフトによる4速マニュアルトランスミッションで、日本製乗用車としては初のマクファーソン・ストラット式の前輪独立懸架などの新機構が取り入れられました。



トヨペット コロナ RT20型です。
1960年、トヨタが総力を挙げてダットサン・ブルーバード(310系)打倒を目指して開発された本格的な小型乗用車です。




トヨペット コロナ RT40型です。
トヨタは1964年5月には総力をあげて新型RT40型を送り出し、国内、輸出の両面で大成功を収めトヨタの主力となりました。
4灯式ヘッドライトの新しいスタイルを持ち、最高速度も140km/hに向上し、技術レベルを一気に国際水準まで引き上げました。



続く..............................................................。

懐かしの名車紹介 その1

2017年11月18日 | トッポパパの愛車
赤レンガ広場で『横浜・ヒストリックカーデイ』というイベントが開催されました。
懐かしい国内外の名車が展示されると聞き、急遽カメラを担いで出かけました。



100台以上の、今では幻の名車になりつつある往年の名車の勇姿が並んでいます。



トッポパパの年代の人には、ちょうど若かりし頃?、40-50年前の車が勢揃いです。
全部を紹介はできませんが、できるだけ紹介していきます。



トライアンフ・TR4Aです。
トライアンフはイギリスの自動車メーカー・トライアンフが1953年から1981年まで生産したスポーツカーのシリーズ名である。
TRはTriumph Roadstarの頭文字です。
最初のTR1はプロトタイプに終わり、生産型はTR2からTR8となる。
ダッシュボードは木目張りに改められた。車両重量は1015kgに達し、2138ccエンジンは104馬力に強化されたものです。



恰好のいいロータス エランが並んでします。
このタイプのエラン(Elan )は、イギリスのスポーツカーメーカー、ロータス・カーズが1962年から1975年まで製造していた軽量スポーツカーです。
上部が黄色のロータス・エランスプリントは、ジムカーナやサーキット走行などの、走りを中止としたイベントで活躍しています。
エランがデビューした当時の日本は、1963年に第1回日本グランプリが開催されるなどモータースポーツの勃興期でした。



ジャガー(E-type) はイギリスの高級車メーカージャガーより、1961年から1975年の間販売されたスポーツカーです。



ジャガー(E-type)がこれだけ並ぶと、圧倒されます。



1961年、ジュネーブショーにて華々しいデビューを飾ったのがジャガー(E-type)です。
美しいボディラインのみならず、当時としては夢のような最高速度240km/hを誇り、憧れの車になりました。
ボディーはオープン2シーターとクーペの2つから選ぶことができ、前者はロードスターの名で呼ばれることが一般的です。
3,781cc、直列6気筒DOHCのXKエンジンに3連SUキャブレターを搭載し、モス製の4速MTの組み合わせで265hp/5,500rpm、36.0kgm/4,000rpmといわれています。



ジャガー・Mk2(マーク2)です。
ジャガーが1956年から1967年まで生産していた小型サルーンがジャガー・Mk1/Mk2です。
Mk2はMk1の改良版で、当時の世界の小型セダン市場に大きな衝撃を与えました。
3,781ccXKエンジンを搭載し、0-60mph加速8.8秒を実現し、最高速度は201km/hに達しました。
メッキパーツの点数も増やされたため、より豪華に洗練されて生まれ変わっています。



ジャガー・マークV(Jaguar MarkV )です。
ジャガーが1948年から1950年まで生産していたセダンです。
1948年10月戦後最初のロンドンモーターショーに戦後初の新型車としてマークVが出品されました。
日本の終戦直後ですが、すでにこんな車が外国では走っていたわけです。



続く...............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その220 『軽井沢高原教会』 その2

2017年11月17日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
温かみのあるチャペルで、アットホームな式です。



パイプオルガンとハープの生演奏も重厚な雰囲気でした。



さくらの木でできたとても美しいチャペルで、歴史のある教会なので、レトロでクラシカルな雰囲気が好きな方にはぴったりだと思います。



緑に囲まれ、都会では味わえないリゾート感が素敵です。



トッポパパも久しぶりの結婚式で、退職後着ることのない正装にお疲れです。



幸せになってくれれば、何よりの親孝行です。



木漏れ日を浴びながら、紅葉を眺める、静寂な時間が流れています。



軽井沢らしい、お洒落なレストランで会食となりました。



もうしばらくしたら、よこはま、鎌倉でも紅葉のシーズンに入るでしょう。



新郎新婦の幸せを祈りながら、軽井沢を後にしました。






トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その220 『軽井沢高原教会』 その1

2017年11月16日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
軽井沢高原教会の紹介です。
軽井沢といえば、避暑地以外にもリゾートウェディングの場所として人気があります。
紹介内容はオフィシャルサイト他の引用です。



紅葉の林道を抜けると、とんがり屋根が特徴的な軽井沢高原教会があります。



軽井沢高原教会は、1921年(大正10年)にキリスト教思想家・内村鑑三らが集り開いた「芸術自由教育講習会」が原点となり誕生しました。



「芸術自由教育講習会」には、詩人の北原白秋、小説家の島崎藤村ら当時を代表する文化人が集い、真に豊かな心を求めて、熱く語り合いました。



その後、内村鑑三はこの場所を「星野遊学堂」と名づけ、思想・宗教にとらわれず、心から交流し合える布教の場にしていきました。



芸術自由教育講習会からひとつの理念が芽生えました。
「遊ぶことも善なり、遊びもまた学びなり」と感じたことを感じたままに表現し、自由に討論できる空間でした。



「星野遊学堂」の文化的な営みは、大戦時代の消失など時代にもかき消されることはありませんでした。
大戦後、「軽井沢高原教会」と改名し再建しましたが、原点である「星野遊学堂」の名は建物の正面に大きく刻まれています。



軽井沢の木々に囲まれた軽井高原教会の内部は、祭壇上の三角の大きな窓からは緑と光が見え、明るい感じで、 柱と参列席の木の色も落ち着いた色合いでとても素敵でした。 



明治19年(1886年)、軽井沢を訪れたイギリス人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーがこの地に別荘を建てたのを機に、宣教師仲間などの外国人が訪れるようになり、避暑地軽井沢としての歴史が始まりました。
以降、キリスト教が根付き、信仰が育まれていきました。



建物自体は何度か改修を重ねていますが、地上から屋根へ向かって三角形となっている建物は、教会としては初めてだったそうです。
教会の中は、やわらかな光が差し込み、木のぬくもりも相まって、とても柔らかな印象です。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その219 『横浜、馬車道散歩』 その8

2017年11月15日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
馬車道散策の後は、歩け!歩け!ということで、MM21経由家まで歩くことにしました。



銀杏の木もきれいになってきました。



いつもの景色ですが、晴天の日は足も軽く感じます。



日本丸の隣の芝生広場に、大きな花のアートが造られています。



現代美術作品の捜索で有名な韓国人アーティストのチェ・ジョンファさんの作品です。



身近な素材を使って、自由に形を生み出す韓国出身のアーティストです。



馬車道の入り口にある、いなり寿司の老舗『泉平』の弁当を、景色を眺めながら美味しくいただきました。
『泉平』の創業は1839年(天保10年)で、ペリーの黒船来航よりも古くから創業しています。



こんなに人出が少ないのも珍しいです。



日本丸の前では、今日も演奏会が開催されています。



早々とクリスマスツリーが飾られていました。



月日の経つのは早いものですね!
次回はどこへ行こうか検討中です。