TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その63の2 『有明海の干潟』

2009年02月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
有明海は干潮時には国内最大の広さである8600haが姿を現します。
干潟は大きく2つに分類されるようで、1つは砂が混じった比較的硬い砂干潟で陸地付近が砂浜となっていてアサリなどがとれる干潟ともう1つが有明海のようにムツゴロウなどといった特有の生物が多く生息する泥交じりの軟泥干潟です。



こちらは『トビハゼ』のようです。
ムツゴロウとよく似ていますが、大きさは8cmぐらいで,ムツゴロウにくらべて頭でっかちです。



トビハゼはムツゴロウと同じく硬骨魚網スズキ目ハゼ科の一種で、ムツゴロウによく似ている水陸両生魚です。
地元では『カッチャムツ』と呼ばれていまうす。
ムツゴロウと違う点は、紫色の斑点が無く大きさも半分程度、行動は俊敏で腹ビレを吸盤の代わりにして干潟の上を這い回り、エビ類、ゴカイ類、貝類などの小動物を食べている。



望遠で見ると、いろいろな干潟の上は賑やかのようです。



ムツゴロウは,体長17cmになるハゼで,有明海を象徴する存在です。
干潟に掘った1mほどの穴に1年中棲み,潮が引くと穴から出て,泥の上の付着性の珪藻類(植物プランクトン)を食べます。



体はほぼ棒状で,色は青みを帯びた褐色にコバルト色の斑点を散らしています。
えら呼吸と皮膚呼吸なので,乾燥をふせぐため,口に水を含んだり,穴に入って体をぬらします。



本当に愛嬌のある顔立ちです。
満潮の時は、巣穴が水中にあるので、巣穴の入口を泥で塞いでこもっているそうです。



干潟のもう一つの主は『シオマネキ』です。
主に干潟の軟泥を好み、オスの大きなハサミが特徴的です。



引き潮時にオスがハサミを振ってメスを呼び寄せます。
この様子が潮を招くように見えたことからシオマネキという名がついたようです。



ムツゴロウとシオマネキの競演ショットです。



それでは有明海より

トッポと根岸の森林公園へ梅見物とウォーキング、 その5

2009年02月27日 | トッポの世界
おとなしくトッポパパの到着を待っていてくれたトッポです。



公園の奥の池から見る森林公園の景色です。



途中で立派な松があるので青空をバックに撮ってみました。



トッポが何かをじっと見つめています。



池の鴨の動きを追っているようです。



帰り道の途中で、隣接の馬の博物館へ寄ってみました。



広いフェンスの中に一頭だけ、暇そうにしている馬がいます。



普段は乗馬の練習があるのでしょうが、今日は休みのようです。



ちょっと歩き疲れたので、休憩です。
トッポ、『パパも休憩すればいいのに。』



次回はトッポと馬との対面です。

続く....................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その63の1 『有明海の干潟』

2009年02月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
昨年の11月に、有明海の『干潟よか公園』を訪問しました。



干潟よか公園は佐賀市東与賀町の有明海に面した泥の海岸・佐賀市北部に位置する公園で、大人も子供も一緒に遊べる施設がたくさんあるようです。



左奥の東屋は紅楽庵と呼ばれ、江戸時代後期の佐賀平野独特の建築様式である『じょうご谷造り』で建造されています。
紅楽庵の中は、昔の農機具の展示や有明海の干潟やシチメンソウについてのビデオが鑑賞できます。



汐見橋です。
ムツゴロウと、海の紅葉シチメンソウが楽しみです。



有明海の干潟の埋め立ては長い歴史があり、最も古い干拓は推古天皇の頃(593年~629年)に開かれたものといわれいます。



有明海約1700km2の広大な浅い海です。
干満の差は、わが国最大の平均5m干潮時には海岸線から5~7kmの沖合にまで干潟となって露出するそうです。
シチメンソウの看板です。



シチメンソウはアカザ科の1年草で、耐塩性が強く干潟や湿地で育つ『塩生植物』です。
海岸沿いに幅約10メートル、長さ約1・6キロにわたり群生しています。



1月に発芽、3月淡紅色の本葉、5月淡紅色の一次葉、7月淡黄緑色に成熟。9月淡紅色の花被の肥厚化、そして写真の11月に紅葉し始めたのシチメンソウです。



どこまでも続くシチメンソウの赤い絨毯です。
日本では、九州の2地区に限られ、有明海(佐賀・長崎県)沿岸と北九州市から大分県北部の海岸に見られるそうです。
名前の由来は七面草で葉色が赤→緑→赤と変わるのを七面鳥の顔色変化にたとえたようです。



干潟です。
有明海では、海岸堤防の前面に干潟が年々成長し、小潮の満潮時には水没せず露出するほどになります。
その結果、干拓地は河口がせばめられ、排水が困難となってしまうので、干潟を干拓し、陸地化して排水路や耕地の整備をする必要があったのです。
現在でも干潟は、多いところでは年に約5cm、平均でも数cm成長しているそうです。



次回は干潟の生き物の紹介です。

続く..................................................................。

トッポと根岸の森林公園へ梅見物とウォーキング、 その4

2009年02月25日 | トッポの世界
木登り大好きなトッポは、周囲を見回して得意な顔です。
ママが落ちないように下でで手を添えているので、ご心配なく。



最後の梅の花の写真です。



トッポパパ、『トッポ、走るぞ!』
ママがカメラを構えると、最近はトッポと一緒に走らされます。(笑)



無謀にも、再度挑戦したものの、明らかにスピードはトッポのほうが早いですね。



毎日寝てばかりいるのに、どうしてワンコはちゃんと走れるのか不思議ですね。



トッポ、『遅くて競争にならない!』



移動しようと動き始めました。
トッポ、『パパがまだ来ないので、待っていないとダメだよ。』



早く来いと督促しています。



森林公園の奥にある池の前で、トッポパパの到着を待つトッポです。



続く................................................................。

海外の都市の紹介、 その59の4 『済州島』

2009年02月24日 | 海外の都市の紹介
済州島は亜熱帯性気候圏で、海に囲まれているので年中温暖な海洋性気候に恵まれています。
季節風が強く、台風の通過ルーツにもなるため、済州島の人は風と戦いの歴史を重ねてきました
女性が多いことで有名ですが、昔多くの男性が海で遭難、死亡し女性の数が多くなったようです。



済州島は馬が多いことでも知られていますが、その昔、蒙古が日本を攻めるにあたり、済州島で馬を増やして日本上陸に備えたのが由来のようです。



済州島の女性は、男性が漁師として海に出ている間、畑農業をし、生活力が強く、勤勉のようです。
荒い波と戦いながら海の幸をとっている『海女』も、有名です。



またまた済州島の守り神、石のおじいさんです。
石像の由来には諸説があるそうですが、一説によると済州島にそびえる漢拏山には女の気が強いため、霊能者が男を象徴する石像を建てたそうです。
当初建てた56基のうち、49基は現存しています。
トルハルバンの特徴は、男性の性器を表す帽子をかぶり、大きな目鼻にお釈迦様の口を持ち、腕は右が上だと文官、左が上だと武官を表すそうです。
鼻に触れると男の子を宿すという言い伝えもあるようです。



天帝淵瀑布です。
済州島にはいくつかの滝がありますが、天亭淵瀑布は済州島最大の三段滝です。



渓谷の上には美しい七人の天女像を彫刻した『仙臨橋』が架かっていまう。
仙臨橋には7人の天女の姿が描かれています。



天亭は『天国』を意味し、この滝で夜に7人の天女が舞い降りて水浴びをするという伝説から名付けられました。



楼閣『天帝楼』です。
ここから眺める滝は格別の美しさと言われます。



仙臨橋の脇にある『五福泉』です。
龍(名誉)、亀(長寿)、豚(金銭)、鯉(子宝)、おしどり(愛情)の彫刻があり、その口に賽銭が入れば願いが適うと言われています。



仙臨橋より下の渓谷を臨みます。
100余種の暖帯植物が自生していて、天然記念物に指定されています。



それでは済州島より



トッポと根岸の森林公園へ梅見物とウォーキング、 その3

2009年02月23日 | トッポの世界
この日は青空が出ていましたので、風はありましたが梅の花を撮るには絶好の日和でした。



トッポ、『うまく撮ってね、最近没が多いから。』



青空を最大限生かして、枝に咲く梅の花の白を強調させました。



こちらは三分咲きの雰囲気を出した、枝に付く花という感じのフレーミングです。



トッポ、『僕、男なんだけど!』



ピンクに近い梅の花です。
このくらいの咲き具合のほうが、トッポパパは好きです。



枝を強調してみました。



トッポ、『あっちのほうが、たくさん咲いているよ!』



たくさん咲いていると白が強調されて、全体がまとまらなくなるようです。
もしかすると、写真の撮り方が悪いのかもしれません。



続く.................................................................。

海外の都市の紹介、 その59の3 『済州島』

2009年02月22日 | 海外の都市の紹介
神秘的な雰囲気が漂う山房山です。
550段の階段を上り切ると、岩壁にお釈迦様が祭られていて、その岩壁から薬水が滴り落ちていると言い伝えられています。



伝説は別として、山房山は粘性の大きなマグマが地表に噴出してでき た高さ395mの熔岩ドーム(鐘状火山)で、山中に部屋のような洞窟が点在していることから、山房山と名付けられたそうです。
北海道有珠岳の昭和新山と同じようです。



急な石の階段を上ると、高麗時代に開山された山房窟寺があります。



観音様は日本と同じようです。



布袋様ののようですが、とても柔和な顔をしていて、見ているだけで癒されます。



晴天だと、ここからの景色は絶景のようですが、生憎この日は遠景は霞んでいて残念でした。



お寺の彩色をながめていると、インド、中国、韓国、そして日本と仏教の流れを感じます。



500体以上の仏像が自然と並んでいて、こうして写真に撮ると迫力を感じます。



お堂に飾られている絵も、色彩豊かです。



続く...................................................................。

トッポと根岸の森林公園へ梅見物とウォーキング、 その2

2009年02月21日 | トッポの世界
訪問した時はまだ3分咲き程度でした。



トッポ、『これじゃ、僕は花が見えない!』



ママが写真を撮っているトッポパパを盗撮です。(笑)
風邪が強いのでモヒカン刈り?のような頭で、髪の毛が少ないのがバレバレになりました。



一生懸命撮っていたのは、こんな写真です。



トッポパパは満開の梅の花より、どちらかというと咲き始めの枝から咲く梅の花と蕾が好きですね。



焦点を変えて、後ろをボカして見ました。



風が強いので、なかなかいい写真を撮るのが難しいです。



トッポパパ、『トッポ!、齧っちゃダメだぞ!



トッポ、『花の香りを楽しんでただけですけど。



続き...............................................................。

海外の都市の紹介、 その59の2 『済州島』

2009年02月19日 | 海外の都市の紹介
韓国最大の島、済州島は大昔には『耽羅』と呼ばれる独立国だったそうです。
また、女性、石、風が多いことから、三多島とも呼ばれています。



東西73km,南北41kmで、海岸道路は約200kmの楕円形をした島です。
人口約55万ぐらいです。
総面積約1,800平方kmで、面積は、日本の大阪府とほぼ同じぐらいです。
この像が観光案内によく紹介されていますが、謂れはよくわかりません。



写真のように、済州島は火山石が多く、砂と石だらけのまるで砂漠のような地に土を運び、土壌を改良し、椰子の種を蒔いたのがこの公園のはじまりのようです。



パンフレットによると、済州島には、『三姓神話』という、韓国本土とは違った耽羅民族の独自の建国神話があります。
大昔、済州島は瀛州(ヨンジュ)と呼ばれ、『高、梁、夫』の3つの姓を持った3人の神人が、漢拏山の北山麓の地の穴、『三姓穴』から現れたのが現在の済州の人々の先祖であると言われています。



ある日、漢拏山から遠くの海を眺めていた3人は、日本海の方から流れてくる木の箱を発見し、開けてみると、箱の中には東国(日本?)の美しい3人の姫と馬と五穀が入っていました。
神人は、彼女達を妻として迎え、産業と五穀の栽培を始めて集落を作るようになり、約900年後に皆の人望を集めた高氏が王となり、初めて『耽羅』という国が成立したとされています。



『三多』は説明しましたが、同時に『三無』という言葉があるそうです。
三無とは、『泥棒と乞食と門の3つがない』という意味です。
済州島は、厳しい自然環境を克服するため協同精神が育まれ、この3つがなかったことに由来しているといわれます。
済州島の人は性格も温和で純朴だと言われます。

上の写真の丸太で作られた門のようなものは、それが1段か2段か3段あるかによって、外出中だとか、お休み中?だとかの表示になっていると聞きました。
泥棒がいないからできたことですね。



海岸際に盛り上がった岩の固まりの山房山(ソンバンサン)です。
高さは395メートルあります。



漢拏山が陥没した岩がこの山になったという伝説もあるようです。



続く....................................................................。

トッポと根岸の森林公園へ梅見物とウォーキング、 その1

2009年02月18日 | トッポの世界
久しぶりに根岸の森林公園へ出かけました。



このバッグに入ると、トッポはカンガルーの子供のような感じです。



いつもの根岸の競馬場跡が遠くに見えます。



トッポ、『今日は珍しく、人が少ないね!』



いつもは駐車場の確保が大変なのでバスに乗りここまできましたが、駐車場はガラガラでした。
この公園の遊歩道を1周すると1.3Km程度あります。



梅の花が咲きはじめたと聞いて、ウォーキングを兼ねて散策です。



水仙の花がきれいに咲いていました。



以前にバラの花を齧ったことがありますので、トッポは花に近づけないように注意しています。



花にまで食欲をかりたてられる、食いしん坊のトッポです。



梅の花を見に移動します。

続く.....................................................................。

海外の都市の紹介、 その59の1 『済州島』

2009年02月17日 | 海外の都市の紹介
韓国の済州島の紹介です。
トッポパパは、若かりし頃韓国を担当していたことおあり、昔?は毎月のように韓国へ出かけていました。
おそらく累計では200回以上訪問したのではないかと思います。
ここ10年ぐらいは、体力のある若い人たちに担当が代わりましたので、訪問する機会が少なくなりました。



昨年後半に、韓国の南端にある最大の島、済州島を訪問しましたので紹介します。
翰林公園に向かいました。
椰子の木通りと呼ばれ、広い翰林公園内の多様な木々や植物を見かけますが、もっとも古いのがこの椰子の木でしょう。



済州島でよく見かける、石のおじいさんと呼ばれる『トルハルバン』です。



天然記念物に指定されている侠才・双竜洞窟へ向かいます。



侠才・双龍洞窟は、熔岩洞窟と石灰洞窟が混ざった世界的にも珍しい複合洞窟です。



ここの入口より中に入ります。



済州島の中央にそびえるハルラ山一帯の火山が爆発して、流れ出した溶岩によって形成された黒い溶岩洞窟です。



壁面と天井には、雨水に溶けて染み込んだ石灰水によって壁画のような模様が描かれています。



洞窟内部には熔岩洞窟では見られない石筍と鍾乳石が月日が経つにつれて形を変え、自然のオブジェになっています。



続く.....................................................................。

トッポの散歩道でウォーキングの練習、 その8

2009年02月15日 | トッポの世界
この辺で家を出てから3km近くになりますので、そろそろ引き上げようかと思います。
トッポ、『あっちに大勢の人が歓声をあげてるけど!』



トッポ、『みんなグルグル回っているけど、何してるの?』



赤レンガ周辺に出現した、スケートリンクです。



結構人気があるようで、海外の人もたくさん滑っていました。



それほど大きなスケートリンクではありませんが、写真の撮り方の角度で、大きなスケートリンクに見えませんか? (笑)



以前海外で、いつか日本にも同じようなものが流行るでしょうと紹介した、観光用自転車タクシー?ですね。

海外で見かけたのは、こんな感じでした。 (後半です)



そろそろ日が落ちてきたので、急いで帰ることにします。
トッポ、『あの門は、クリスマスの時に来たね。』



クリスマス特集で紹介した、門を枠にしたMM21です。



大きな錨のオブジェの前で、トッポの記念撮影です。



トッポ、『ちょっと寒くなってきた!』



きれいな花ですが、またまた名前が分かりません。



汽車道を通り、この後はまっすぐ2Kmほど歩いて帰宅しました。



それでは、MM21より

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その62の4 『唐津城』

2009年02月14日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
天守閣内部は藩制時代の貴重な資料や武具、唐津焼の資料、考古資料などが展示されています。



歴代の城主たちの碑です。
寺沢家(外様 8万3000石→12万3000石)、大久保家(譜代 8万3000石)、松平家(譜代 7万石→6万石)、土井家(譜代 7万石)、水野家(譜代 6万石)、小笠原家(譜代 6万石)と継承されました。



唐津城は満島山(みつしまやま)とよばれる陸続きの島にあり、この満島山を本丸としています。
5層の天守閣を鶴の頭に見立て、左右に広がる松原が、鶴が翼を広げた形に似ていることから、唐津城は別名舞鶴城ともいわれています。



天守閣から本丸を見下ろします。



右から高島、無人島の鳥島、そして満島山です。
(唐津市民さんからご指摘を受けました。 左の島は大島とのことです。 訂正いたします。)



城内に展示されていた古地図です。



白砂青松の唐津湾沿いを虹の弧の様に連なる現在の『虹の松原』です。
虹ノ松原は、三保の松原、天橋立と一緒に、日本三大松原の一つで国の特別名勝に指定されています。



全長5km、幅1kmに渡り約100万本の松が防風、防潮のために植えられています。 右手の山が鏡山です。



天守閣最上階からの眺めは、ほんとうに素晴らしいです。



それでは唐津城より

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トッポ家族は早朝5時出発で、伊豆の河津の10Kmウォーキングに挑戦です。
ほぼ毎日歩く練習をしたので、今度は初参加の下田ウォーキングより歩けると思います。
問題は、トッポが前回と同じように頑張れるかですね。
河津桜も咲き始めているので、楽しみにしています。
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トッポの散歩道でウォーキングの練習、 その7

2009年02月13日 | トッポの世界
赤レンガの近くに、工作船展示場と書かれた建物があります。



実は、トッポパパはいままで何回もこの周辺を散歩しているのですが、工作船とは子供達が作った工作の船?や、工作教室でも開いているのだろうと、いままで勘違いしていました。



ママが何を展示しているのか見に行ってくれたので、北朝鮮の工作船事件で沈没した船を引き上げ展示しているということが分かりました。
あわてて中に入って、見学してきました。(写真撮影は可です)

工作船は写真で分かるように、船首部分は水の抵抗を軽減し高速で走るためにV字型に鋭くとがっています。



正式には九州南西海域工作船事件と呼ばれ、2001年12月22日に発生した不審船追跡事件です。
不審船は巡視船と交戦の末、自爆しています。
後の調査により北朝鮮の工作船であった事が確定し工作船事件と呼称を変えました。



展示資料によると、工作船は全長 29.68m、全幅 4.66m、総トン数 44t、主機関 ロシア製 高速ディーゼルエンジン×4、出力 連続最大出力:約1,100馬力×4で一般の漁船の約10倍の馬力だそうです。
速力 約33ノット(時速約61km)にもなるそうです。

同日、22時00分、低速で逃走する不審船に対し、『いなさ』が距離を取って監視し、『あまみ』と『きりしま』が不審船を挟撃、強行接舷を試みました。
すると不審船の複数の乗組員が対空機関銃ZPU-2、PK系軽機関銃及び突撃銃AKS-74により巡視船に対する攻撃を開始しました。
これに対して巡視船も応戦し、22時13分に工作船は自爆し水深90メートルの海底に沈没しました。



写真のめくれた外板の厚さは5mmほどと極端に薄くし、軽量化を図り、通常の漁船とは大きく異なっているため、工作船として設計・建造された船と分かります。



上甲板の船尾側です。
操舵室の一部が残っています。上甲板が膨れているのは、自爆時の損傷だそうです。
甲板上のレールは、14.5mm機銃座を引き出すためのものだそうです。



対応した日本の巡視船の写真が飾られていました。
海上保安官三名が戦闘の結果負傷したそうです。



工作船は翌年9月11日、水深90mの海底より引き揚げられ、北朝鮮のものであると断定し、金正日はそれを認め謝罪したそうです。
いろいろ考えさせられる展示場を出て、赤レンガに戻りました。



政治のことはよく分かりませんが、日本の防衛、自衛とは?と考えさせられる問題ですね。

続く...................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その62の3 『唐津城』

2009年02月12日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
展望所?にずっと座り続けていたカップルがいました。
虹の松原を見ながらどんな話をしていたのでしょうね。



逆光が強くシルエットだけになってしまいましたが、この大きな木は7~8月に小さな白い花を咲かせるという『ホルトノキ』という樹齢推定300年以上の九州でも貴重な巨木と説明されていました。



沖に浮ぶ高島です。
唐津湾に浮かぶ、周囲約3kmの台形の島です。
港から高島の宝当神社に向かう船です。



高島港から3分ほど歩くと、宝当(ほうとう)神社があります。
その名前が縁起よいとのことで、宝くじが当たるようにと参拝にくる人で賑わうそうです。
同行者も参拝しお札を買われたようですが、いまのところ誰からも宝くじが当たったという報告はまだ届いていません。



唐津城周辺は、舞鶴公園として一般に開放されています。
天守閣内部は藩制時代の貴重な資料や武具、唐津焼の資料、考古資料などが展示されていました。



正月のテレビドラマでも放映していましたが、1590年天下統一を果した豊臣秀吉は、海外に目を向け朝鮮への侵略支配を企てます。
朝鮮への侵略戦争は1592-1598年まで続きますが、ここ唐津より程近い肥前名護屋を出兵の基地とし名護屋を築城しました。
その間全国から大名が集まり肥前名護屋は大阪とならんで日本の政治・外交の中心地として、栄えたそうです。
現在は城址跡だけが残されているようです。



秀吉が1598年に没し、文禄・慶長の役は終止符を打つことになります。



その後、1600年の関が原の合戦後、徳川幕府の支配体制が確立され、その徳川幕府により名護屋城は廃城にされ、解体資材を用いて1608年に築城されたのがこの唐津城です。



豊臣秀吉の命により築城された名護屋城は徳川幕府により解体されたので、唐津城の築城に際し、当時秀吉の名残りである天守閣を移築しなかった理由は、その辺を配慮してのことだったのでしょう。



続く.................................................................。