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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その11

2017年03月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
ひととおり松本城内部を見学してきたので、本丸御殿跡に戻りました。



本丸御殿跡も、これから春になるともっと緑濃いきれいな広場になるのでしょう。
本丸御殿跡の手前に桜の木が1本あります。
これは「清正公駒つなぎの桜」と伝えられているものです。
豊臣秀吉の家臣として仕えた加藤清正が、熊本城主となり、熊本から江戸に出向いた際、帰りにこの松本城に立ち寄り、その時にこの木に馬を繋いだとされています。
こんなエピソードがネットで紹介されていました。

当時城主だった石川玄番頭は、遠くからわざわざ寄ってくれた清正に対して、2頭の馬を見せ「土産にどちらでもお気に召した方を1頭差しあけましょう」と言いました。
すると清正は「貴殿の目利きで取り立てた駒(馬)を、我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない」と言い、
そしてなんと、「2頭とも申し受けるのが礼儀と心得る。」と言って、2頭とも持って帰ってしまったというのです。



松本城の天守の高さは29.4mもあり、ビルの高さにすると、ほぼ10階建てに相当します。



黒門より外に出ます。
気がつけば、立派な石灯篭がいくつもあります。



もう一度、甲冑武者と記念撮影です。



内堀の外側を回ってみます。
ネット情報で、月見櫓の建立理由の記述がありました。
将軍家光は京都からの帰りに善光寺参詣するため、松本城に立ち寄ることになり、直正は家光のために急遽、辰巳櫓と月見櫓を造りました。
この時、時代は太平の世となり石川康長が造った戦国末期の松本城の雰囲気とはまったく違った、風雅な建物が増築されたのです。しかし、中山道のがけ崩れにより家光の善光寺参詣は中止され、松本城を訪れることはありませんでした。



天守の築造年代は文禄2-3年(1593~4)と考えられています。
松本城は、激動の歴史を乗り越えてきた500年以上の長い歴史を有しているお城です。
何度も存続の危機に遭いながら存続してきた貴重な城であるとわかります。



姫路城は、白鷺城とも呼ばれる事からわかる通り「白い城」である事に対し、松本城は別名「烏城」と呼ばれるほどに「黒い城」です。
これらの色は、実は築城の際、徳川家康と豊臣秀吉のどちらが関わったかで決まっているようです。



家康の息がかかったお城は白い城(宇和島城など)、秀吉の息がかかった城は黒いお城(大坂城など)となっています。
大阪城も、戦国当時は金箔の瓦と黒漆の壁で造られたお城だったそうです。
家康と秀吉の趣味の違いが顕著に反映された結果と紹介されていました。



続く.................................................................。