TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その192 『富士五湖、西湖・河口湖・山中湖』 その1

2017年04月30日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
他にも行くところがあるので、富士五湖は簡単に見て回ることにします。
富士五湖の真ん中に位置する湖、西湖です。



面積は富士五湖では4番目の大きさで、最大水深は2番目の深さで 71.7m、山梨県指定天然記念物フジマリモの群落地です。
湖の奥は青木ヶ原樹海で、貴重な自然資源が豊富に存在します。



トッポも生存中は何回か訪問しました。



西湖の湖畔に釣り人が集まっています。
へら鮒、ヒメマス、ワカサギ、サクラマス、ブラックスの絶好のポイントです。



結構大きなへら鮒が釣れました。



トッポと湖畔を散歩したことを思い出します。



今回はこの程度の写真がベストでした。
西湖の南側には青木ヶ原樹海が広がります。
青木ヶ原樹海には、駿河湾からの湿った風が富士山の横をすり抜けて通ってくるので湿度が高く、夏でも樹海の中は涼しいようです。



青木ヶ原樹海は溶岩の表面に水分が豊富だったので、苔が生え、そのコケは寿命を迎えると、朽ちていき土壌が出来ました。
そこで育った樹木が長い年月を経て、樹海となったそうです。



こちらは2000年に撮った写真です。



続く,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その191 『富士芝桜祭り』

2017年04月29日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
芝桜と富士山の写真が撮れるということで、富士芝桜祭りに寄ってみました。



今年は4月18日〜5月31日まで開催され、首都圏最大級約80万株の芝桜が富士山麓の広大な敷地に咲き誇る場所です。



残念ながら訪問日時が少し早かったのか、芝桜は2分咲きでした。
ムスカリという鮮やかな青紫色の花が咲いていました。
孫はブドウの花かと聞いてきましたが、確かにブドウのようにも見えます。



広大な敷地に芝桜が満開になれば、色鮮やかな別天地になるのでしょう。



こちらの花は5分咲きです。



富士芝桜祭り会場からも好天なら富士山がよく見える場所です。
富士山に見立てて、小山が造られています。



富士山とのダブルショットで人気がある撮影スポットです。



アネモネの花は満開です。



喉も乾いたので、こちらで休憩することにします。



海外からのお客さんが多く、せっかく遠方より来たのに2分咲きで、富士山も見えないのではガッカリでしょう。



咲いてる花だけでもと見て回りました。



この角度に富士山が浮かぶ上がるようですが、残念です。
まぁ、すべてがうまくいくとは思っていませんでしたので、次の場所に移動します。

次回は『富士五湖・西湖』に寄ってみます。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その190 『富士五湖・精進湖』その2

2017年04月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
精進湖の景観は富士五湖一と言われています。
1895年(明治28年)、日本に帰化した英国人ハリー・スチュワート・ホイットウォーズが富士山を最も美しく眺められる地を求めて、1年がかりで富士山麓を巡り、ようやくたどり着いたのが精進湖だったのです。



この風光に魅せられたホイットウォーズはここを永住の地と決め、日本有数の避暑地「ジャパン・ショージ」として海外への観光宣伝に力を注ぎ、多くの外国人観光客が訪れました。
富士五湖で最初のホテルも外国人専用として精進湖で創業され、今なお当時の面影を残しています。



周囲わずか5km、水面をすべる風に誘われるままに湖畔に降りると富士山、雲、青木ケ原樹海、湖が奏でる四重奏・五重奏の調べのような風景に圧倒させられるでしょう。



起源までたどれば、10万年、20万年とも言われる歴史のなかで、富士山は幾度となく大小の噴火をくりかえして、今の優美な姿と、とりまく大自然景観を形成してきたといいます。
今から1000年以上前には、富士山の北側のすそ野に「せの海」と呼ばれる大きな一つの湖が広り、五千年前には、さらに巨大な「こせの海」がありました。



まず「こせの海」から「本栖湖」が溶岩の流入により分かれたと考えられています。
そして1000年昔の平安時代、864年(貞観6年)には、歴史に残る貞観大噴火が起き、噴出した大量の溶岩流は「せの海」にも流れこみ、そのほとんどを埋め、現在の「精進湖」と「西湖」に分かれ、現在の精進湖の地形が形成されました。



桜と精進湖の富士山写真です。



本栖湖、西湖、精進湖、三つの湖は、ほぼおなじ標高にあり、地下でつながっていると推測され今も水位が連動しています。
今回はこの程度の写真が精いっぱいでした。
雲のない富士山のお写真は、のんびり滞在しないと無理なのでしょう。



富士山頂上付近を目いっぱいズームアップした写真です。



穏やかな天気の時は美しい景観ですが、荒天の時は厳しい環境なのでしょう。



今回のトッポパパお気に入りのベスト写真です。
釣りの親子のシルエットが気に入りました。



こちらは2010年に撮った、お気に入りの写真です。



次回は『富士芝祭り』の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その190 『富士五湖・精進湖』その1 

2017年04月27日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
田貫湖の次は富士五湖・精進湖に行きました。
到着した時はまだ8時前後で、富士山はまだ雲隠れ状態です。



精進湖は富士五湖の中で最も小さく、開発もあまりされていない、自然の残る湖です。
精進湖から見る富士は、手前の大室山を抱きかかえているように見えることから、「子持ち富士」「子抱き富士」と呼ばれています。
湖と富士山の間は、青木ヶ原樹海が広がっています。



雲の流れが少し早くなってきたので、湖畔で食事をし、富士山が顔を出すのを待つことにします。



孫は湖畔を楽しみながら歩きまわっています。



逆光ですが、記念撮影です。



だいぶ富士山の輪郭がしっかりして見えてきました。
「子持ち富士」、大室山もくっきりしてきました。



昭和7年に精進湖に一泊した時の与謝野晶子さんが詠んだ句です。
『秋の雨 精進の船の 上を打ち 富士ほのぼのと 浮かぶ空かな』



精進湖の景観は、既に明治期に英国人ハリー・スチュワート・ホイットウォーズが「世界一美しいショージコ」、「東洋のスイス」として海外で紹介されています。



標高/900m、面積/0.51平方Km、最高深度/15.2mでヘラブナ釣り・カヌーなどを楽しむことができます。



トッポと2000年に来た時の写真です。



待つこと暫し、ようやく写真らしいものが撮れました。



続く............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その189 『田貫湖・ダイアモンド富士』 その2

2017年04月26日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
田貫湖での『ダブルダイアモンド富士』の写真は2分以内が勝負です。
時間経過で変化がわかります。





『ダブルダイアモンド富士』は確実に予測されたその日に見えるわけではなく、諸々の条件(天候、風、波など)が重ならないと『ダブルダイアモンド富士』の瞬間をフィルムに収めるのは至難の業でプロのカメラマンでも苦労するようです。



トッポパパはただのヘッポコカメラマンなのに、初めての挑戦で『ダブルダイアモンド富士』が撮れたのは、幸運以外の何物でもないようです。





時間の経過とともに、太陽が上がると湖の反射光が長くなってきます。





欲張って桜も一緒にと頑張ってみましたが、やはりちょっと無理があるようでした。





ここまでが限界で、これ以上は逆光が厳しく写真になっていませんでした。
その後すぐに富士山は雲に覆われ、姿を隠してしまいました。



休暇村富士の右下のデッキに鈴なりのカメラマンが観えます。
早朝の温度2-3度なので、カメラマンは寒いので皆さん揉み手でした。



8年前、トッポと逆さ富士を撮影に来た時のトッポです。



富士山頂の天気予報は晴れでしたので、『逆さ富士』も撮ろうとしたのですが、富士山周辺の雲の動きが遅いので諦めました。
残念でしたが、トッポパパにとって貴重な昔の写真を再度紹介します。



トッポと一緒に見ていた8年前の展望デッキから撮ったもので、傍でトッポも眺めていました。



この逆さ富士の写真も、確か6-7分だけのシャッターチャンスで、その後は富士山は隠れてしまいました。



トッポが虹の橋を渡ったのが2年半前です。
過去のブログを振り返ると、いろいろなところへ一緒に出掛けたものです。
大病をしたにもかかわらず、まだ元気に出かけられるのは、虹の橋の向こうでまだこちらに来るのは早いといってくれているのでしょう。



ネット情報ですが田貫湖の名は、狸(タヌキ)の生息地だったという説もあるのですが、南北朝時代の永徳4年(1384年)に富士山本宮浅間大社神主・田貫次郎実長がこの地に隠居したことから、沼が「田貫沼」と呼ばれるようになり、その後沼を堰き止め田貫湖になったそうです。
明るくなると、桜も咲いているのがわかります。



8年前はそれほど大きなキャンプ場ではないと認識していました。
最近は若い人たちのキャンプブームもあり、田貫湖周辺は富士山麓の自然の宝庫ということも重なり、自然と触れ合える整備が進み、遊歩道、ボート乗り場、キャンプ場、体験施設、宿泊施設など各種レジャー施設が揃っています。



さて、この後どうする?
ここまで来たなら、欲張りなトッポパパは、よし!満開の桜と富士五湖からの富士山に挑戦!することにします。

次回は『精進湖』からの富士山の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その189 『田貫湖・ダイアモンド富士』 その1

2017年04月25日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
ここ暫くお城と桜を追いかけてきました。
もうそろそろ桜も終わりかなと思っていましたが、富士山と桜の写真にもう一度チャレンジしてみます。
富士山の写真を撮るなら、やはり田貫湖に行ってみることにします。
写真は田貫湖にある、富士山の写真を撮るには絶好のスポットとして有名な『休暇村富士』です。



静岡県富士宮市にある「田貫湖」は面積312平方メートル、周囲長4km、東西1km、南北0.5kmの富士山麓の人造湖です。
2008年には『逆さ富士』を紹介しましたが、今回は偶然『ダブルダイアモンド富士』が撮れるかもしれないとのことで、家族と一緒に深夜3時の出発です。
写真は少し明るくなってからの田貫湖湖畔の遊歩道の様子です。
早朝、到着した時には駐車場ははもちろん、駐車場に至る道路の両側まで立錐の余地もないくらい車が並んでいました。
湖畔には、おそらく5-600人ほどのカメラマンが、三脚を立てながら日の出を待っていたのには、ビックリです。



しかしながら湖畔に到着した時は、天気予報と違って、富士山下部は厚い雲に覆われていました。



日の出とともに東の空が少しずつ明るくなってきます。
対岸のキャンプ場が見渡せます。
おそらく泊まり込みで『ダブルダイアモンド富士』を狙っている人も多いのでしょう。



東京から15年間毎年ダイアモンド富士を追いかけてきているというカメラマンの話では、それでも何回かしかよい写真は撮れないものだと話していました。
そのカメラマン曰く、『まだわからない、富士山頂の雲が流れればチャンスはある』の言葉を信じて撮影ポイントを探します。



富士山頂にピッタリと日が沈むか、あるいは逆に日が昇ることを「ダイヤモンド富士」といいます。
田貫湖の場合は、東側に富士山を望むので、どうしても早朝の撮影になります。
桜も一緒にと撮影ポイントを探していましたが、よく考えれば桜は暗くて絵になるわけありません。
もう少しで、太陽が富士山の後方位置に隠れ始めます。



撮影場所はネット情報を信じ、1つは北側の駐車場から遊歩道を5~10分ほど歩いた湖岸です。
遮るものがなく開けていて、正面に雄大な富士山を望めます。
テレビ局の撮影隊?らしきグループも同じアングルで狙っていたので、トッポパパもここで待つことにしました。
もう1つは休暇村富士(ホテル)の正面にある展望デッキで、こちらは左右から張り出した島の間から富士山が覗く特徴的な展望となります。



いろいろ事前に調べた結果、遊歩道は4月23-4日、展望デッキは4月25日がベストポイントとの情報もありました。
ちょっとした撮影位置の違いで、ダイアモンドになるかどうか決まるそうです。
山頂の雲が流れ、太陽が富士山の後方に入ったようで、山頂部分だけ明るくなってきました。



カメラマンの歓声が上がります。
山頂に太陽が顔を出しました!
後で考えると、ほんの1-2分のシャッターチャンスですので、夢中でシャッターを押し続けました。
 


ちゃんと撮れているのか、家に帰り確認するまで不安でしたが、それなりの写真が撮れたのではないかと思います。
富士山頂に太陽が重なる瞬間、ダイヤモンドのように輝く現象が「ダイヤモンド富士」ですが、湖面に逆さ富士が映る状態ならダイヤモンド状態がダブルということで、「ダブルダイヤモンド富士」と呼ばれています。



湖面に波があると、逆さ富士にならないそうで、小波はあったもののギリギリセーフでした。
なんといっても人気の撮影テーマの『ダブルダイアモンド富士』が撮れたことは幸運でした。
田貫湖では撮影チャンスが年に10日ほどしかなく、その上天候状態に左右されるので年に数回のチャンスだったのでしょう。
この幸運にトッポパパ、感謝感激です



続く........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その188 『犬山城下町』 その3

2017年04月24日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
主屋は幕末に建てられたと伝わる江戸期の町家、旧磯部家住宅を訪ねてみました。
犬山観光情報より引用の説明です。
江戸期の建築様式を持つ木造家屋の中に入ります。



主屋二階は天井が低く、正面側のみ部屋が造られ、背面は屋根裏になっています。
このような造りを犬山では「バンコ二階」と呼んでいます。
また屋根はかまぼこ状にふくらみを持たせた「起り屋根(むくりやね)」で、犬山の町屋では唯一のものです。



全国で唯一、犬の字がついた犬山市のマスコットキャラクター、『わん吉くん』と福助が並んでいます。



ミニチュアの山車が並んでいます。



ミニチュアですが、実に精巧な作りです。



主屋内部は、棹縁天井、一間の床の間、違い棚、書院、長押付の部屋です。
このような立派な座敷飾りは江戸時代には一般の商人には許されないものでした。
現在の造りは御禁制の外れた濃尾震災(1891)被災後に改造されたものです。



江戸期から呉服商を営んできた旧磯部家の敷地は間口が狭く、奥行きが広い「ウナギの寝床」のようです。
江戸期の税金は間口の広さで決まっていたのが、間口の狭い理由です。



「ウナギの寝床」には町衆の知恵が息づいています。



中庭、裏座敷、土蔵などもあります。



奥土蔵の外壁は目地の漆喰がかまぼこ状に盛り上がる「なまこ壁」で、正面は黒漆喰塗り、北側は瓦を使用しています。
明治期の土蔵の雰囲気を楽しめます。



次回は季節感がずれるので、またまた急遽『田貫湖・ダイアモンド富士』の紹介にします。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その188 『犬山城下町』 その2

2017年04月23日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
昭和横丁の看板が掲げられています。
昭和横丁を代表する昭和人情男が作るお店で売っている、絶品の味の『恋小町だんご』はツイッターで評判です。



本町通りで猿の親子の木彫り像です。



ちょっと横道に入って見かけた、京都?を感じさせる日本家屋です。



犬山祭で曳かれる巨大な車山(やま)を展示している『どんでん館』へ入ります。



ここには実際に祭りで使用される高さ8m、重さ3tの車山3輌を見ることができました。
車山は一見同じように見えても一輌一輌すべて違うそうです。
毎年4月の第1土日に行われる、国の重要無形民俗文化財指定の「犬山祭」で曳かれる車山です。



館内では犬山祭を年中体感できるように、光と音で祭りの一日を演出しています。
犬山祭で車山が方向転換する際、車山を曳く手古(てこ)衆が掛け声もろとも車山の片側を持ち上げて180度回転するさまは「どんでん」と呼ばれ、施設名はこの言葉から名づけられました。



「車山」とは他地域の祭における山車や曳山のことで、他では2層が多いそうですが、犬山では3層の構造となっていて、これは「犬山型」とも呼ばれます。



精巧な造作が施され、漆や金箔で彩られたものはかなりの見応えです。
祭りの日の夜に曳かれる車山には一輌に365個を超える提灯が付けられ、実際に13輌揃うと見事な光景が広がるそうです。



下層がお囃子所、最上層にはからくりが置かれ、中層は「中山」と呼ばれて最上層のからくりを動かす層となっています。
からくり人形も飾られています。



続く.............................................................。



トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その188 『犬山城下町』 その1

2017年04月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
犬山城を下りてくると麓にある、濃尾の総鎮守とされている針綱神社(はりつなじんじゃ)の鳥居です。



針綱神社参道入口のある交差点から南に本町通りがあります。
城下町から犬山城への視界が広がっています。
なにかすっきりしてると思いながら歩いていましたが...........そうです、電柱がないのです。
本町通りは江戸時代の風情を楽しめるように、電線地中化工事を完了しているのでした。



往時は犬山城の「丸の内」の範囲だったそうです。
古い歴史を持つ犬山の城下町なので、気ままに城下町の中を歩いていると、歴史を窺わせる風情を漂わせています。
その歴史の名残を探しながらの散策も楽し装です。



名古屋(名古屋の一地域?)では、『娘が3人いると家が傾く』といわれ、嫁入り道具を紅白の幕つけたトラックで運び、菓子蒔き(餅投げみたいな感じ)が行われると聞いたことがあります。
その名残りのものでしょうかね?



明治10年創業の呉服屋、『みやこや』です。
和装は呉服、足袋から草履まで販売しています。



メディアでたびたび紹介されている五平餅で有名な山田五平餅店です。



すべて手作りで、初代犬山串キングに輝きました。



味噌の甘みとクルミの香ばしさが、バランスよく口の中に広がる串刺された五平餅です。



昭和レトロを感じさせる『なつかしや(なつかしや おもいやらりぃ まみずの里)』です。
昔なつかしの手作り小物、駄菓子、美濃和紙のはがきや雑貨など売っています。



醤油おこげ串で有名な香味茶寮壽俵屋です。
焼きおにぎりと奈良漬け・守口漬が交互に串にささった醤油おこげ串です。
トッポパパも一串食べてみましたが、結構おいしかったです。



続く.......................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その187 『小田原城』 その6

2017年04月21日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
最後に天守閣最上階が回廊の展望台なので、眺望を楽しみました。
本丸を見下ろします。
意外と海が近いのがわかります。



南の真鶴(まなづる)半島と伊豆半島方面で、相模湾の形状が美しく連なります。



東の三浦半島方面の眺望です。
標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。



小田原の街と相模湾です。
大島が霞んでいますが水平線の向こう側に望めます。
小田原は結構都会ですが、ビルの向こうはすぐ海です。



内部は観光客で混雑して、いい写真が撮れませんでしたので、残念ですが紹介は諦めます。



今年最後の桜の写真です。



お城と桜は、やはり日本人には欠かせない風情です。



昔あった、鉄門近くからの撮影です。
鉄門辺りはトイレになっているので、こちらの写真は諦めました。



坂道を下りながら小田原駅へ向かいます。



小田原駅からはこちらの道のほうが近いですが、やはり正規のルートがお薦めです。



それでは小田原城とお別れです。
満開の桜とお城に今年も大満足のお花見でした。



次回はもう一度犬山に戻り、城下町の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その187 『小田原城』 その5

2017年04月20日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
小田原城天守は1階建の小天守、続櫓、3重4階の大天守の3部構成からなります。



大天守は見た目は3重ですが、1重目は2階に別れており、実際は4階建の天守となります。
これは大きな天守を嫌がる幕府に対する配慮です。
このように他のお城でも天守を小さく見せる工夫が施されている例が見られます。



後北条家が治めた小田原城は、大河ドラマ『真田丸』でも登場したので、当時は大混雑していたそうです。
昨年(2016年)5月に天守閣が大改修を終えました。



天守の高さは27.2m天守台石垣高さは11.5m、総高38.7m、本丸広場の海抜は29.7m、合わせて海抜約70mです。



いろいろ今までお城を紹介してきましたが、松本城、熊本城、松江城は黒いお城で、白漆喰の塗籠を持つ姫路城や会津若松城は白いお城です。
小田原城は白いお城の部類に入るようです。
今流行の言葉で言えば、豊臣秀吉か徳川家康のどちらに忖度(そんたく)したかという話もあります。



お城の入場口手前より、本丸を見下ろします。
往時は御殿が建っていた場所です。



内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。



このパネルが全体像をつかむには、とても分かり易すかったです。



トッポパパも写真を撮ってもらいました。
甲冑は生で見ると迫力があります。



摩利支天像が収められていた天守型の厨子です。
一層部分には観音開きの扉が付けられています。



続く..............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その187 『小田原城』 その4

2017年04月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいて、城絵図によると、堀は二の丸堀とつながる水堀となっていました。
植木と盛土により堀の形を表現し、この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋です。



小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。
このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られています。
多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。



古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。



城内側から見た常盤木門(渡櫓門)です。
ここから本丸になります。
小田原城本丸は、東西約150m、南北114mほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央にはかつて本丸御殿が存在しました。
本丸の周囲は、石垣と土塀がめぐらされており、東南と北側に門が設置され出入りが制限されていました。



小田原城の天守閣は三重四階の天守櫓に付櫓、渡櫓を取り付けた複合式の構成形式で、構造は新式の層塔型です。
小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した室町時代の15世紀中頃と考えられています。
16世紀初め頃に戦国大名北条早雲の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。



以後、北条氏5代、100年にわたる居城となり、関八州(関東8カ国)掌握の本城として拡張されていきます。
北条氏が5代にわたって居城した小田原城は「小峯城」「小早川城」とも呼ばれました。
豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造され、城下町を囲む延長9Kmにおよぶ高い土塁と、深い空堀で構築された防御施設の出現により、城の規模は最大に達しました。
総構に守られた城は難攻不落と謳われ、中世城郭史上に例のない巨城の出現となります。



戦乱の世に小田原城は、上杉謙信、武田信玄の侵攻をかわし、秀吉も武力で小田原城を落とすことはできませんでした。
1590年(天正18年)、秀吉の策略によって、北条氏は城を明け渡し滅亡しました。
この北条氏を鎌倉幕府当時の北条氏と区分して、後北条氏と称することもあります。
天守閣は、1703年(元禄16年)の地震で、小田原城内の他の建物とともに倒壊・焼失しました。
1706年(宝永3年)に再建され、江戸時代を通じて存続しましたが、1870年(明治3年)に廃城によって取り壊されました。



現在の天守閣は、1960年(昭和35年)に宝永年間の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリート造で復興されたものです。
最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新に付けられた。



天守閣は、城の象徴として本丸に構えられたものですが、1634年(寛永11年)には、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っています。



東南側の門は、本丸の正門にあたる常盤木門、北側の門は、裏門にあたる鉄門(くろがねもん)とそれぞれ呼ばれています。
現在は城址公園として整備され、2006年(平成18年)に日本100名城に選定されました。



1960年(昭和35年)に天守閣が復元、次いで常盤木門、銅門、馬出門が復元されました。

続く..........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その187 『小田原城』 その3

2017年04月18日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
櫓門、銅門(あかがねもん)です。
天守閣へ通じる登城ルートに設けられた二の丸表門です。
扉の飾り金具に銅を使用していたことから、銅門の呼び名がついたと言われています。
平成9年に当時の工法で復元され、櫓門の大扉は銅板・銅鋲で美しく装飾されています。
土塀で周囲を囲んだ枡形門の構造で石落としもあり堅固な防禦体制を偲ぶことができる門です。



銅門をくぐると二の丸広場です。



二の丸は敵が外堀を超え、内堀に至る前の重要な防御地点で、二の丸を守れば本丸まで敵の侵入を防ぐことができます。



二の丸から小田原城本丸につながる常盤木門越しに天守閣の一部が見えます。



この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石で、石の大半を土中に埋め、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。



小田原城二の丸は江戸時代小田原藩の行政中心部の御殿があり、本丸は将軍家の宿舎としての御殿がありました。
江戸時代の小田原城には2つの御殿があったことになります。



本丸方向へ、桜がきれいな階段を上がっていきます。



天守閣のある本丸前の二の丸は、城の入口から迷路のように進んだ先にある城中の砦みたいなものでしょう。
二の丸周辺も桜の見所がたくさんあります。



常盤木門(ときわぎもん)の多聞櫓が見えます。
多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。



ここは本丸東堀跡で、最も幅のあるところでは20m以上もありそうです。



小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。
常盤木門に至る最後の階段です。



続く.........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その187 『小田原城』 その2

2017年04月17日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
小田原城址公園の入り口にあたる橋、馬出門土橋を渡ると馬出門の前に出ます。
当時はここから城内に入り、銅門をとおって二の丸御屋形や本丸・天守閣へと進むようになっていました。



2009年春、総工費5億円余、馬出門は江戸時代の姿によみがえりました。
二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代初期からこの場所に存在していました。
高さ約6.3m・幅約4.7mの壮大な門です。
馬出門土橋から見たお堀に垂れ下がる桜です。



馬出門くぐると、天守閣が少し見えます



馬出門は二の丸正面に位置する門で、馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。
二つの門には、控柱にそれぞれ屋根がつく高麗門形式の門です。



内冠木門の内側です。



内冠木門を出て右側の景観です。
馬屋曲輪(うまやくるわ)から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。
渡櫓門(わたりやぐらもん)、内仕切門(うちじきりもん)と土塀で周囲を囲む枡形門(ますがたもん)の構造を持ちます。



銅門(あかがねもん)にかかる住吉橋です。
途中までが土橋となっており、胴門の手前が木橋となっています。
1990年(平成2年)の市政50周年事業によって復元されました。
内仕切門は石塁上の土塀より下方に門を作る埋門の形式を取ります。



枡形から内仕切門を見たものです。
土塀には敵を射る為に狭間と呼ばれる穴が、正面の左右に設けられています。



石垣の間を渡すように櫓が建てられている渡櫓門です。
武器庫だった銅門は武器庫だった場所で、槍も収納していたことから天井がないそうです。



続く......................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その187 『小田原城』 その1

2017年04月16日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜はそろそろ桜が舞い散り始めました。
犬山城城下町他の紹介がまだ残っていますが、桜が時期はずれにならないように小田原城の桜を先に紹介します。
小田原城は、戦国時代、関東一円を治めた北条家が約100年にわたって本拠地としたお城です。



小田原城趾公園の東側に面したお堀端通りはかわいい提灯で飾られた満開の桜のトンネルです。
例年より桜の開花が遅れたので、今回は満開の桜が楽しめそうです。



小田原城二の丸に架かる学橋(まなびばし)です。
お堀に映える赤い橋ですが元の城には無かったそうです。



緑の中にある朱色の橋は、桜の時期は多くの人で賑わっています。



学橋を渡った先は二の丸御殿が建っていた場所です。
現在はお堀端通りから小田原城内へと渡る入口の役割を果たす橋です。



トッポパパの記念撮影です。



二の丸隅櫓です。
江戸時代の小田原城には、様々な大きさの櫓が、城のあちらこちらに築かれています。
小田原城の櫓の中でも一際存在感を放つこの隅櫓は、桜スポットとなり多くのカメラマンが集まるようです。



ちなみに隅櫓とは、城や城壁の隅に設けた物見・防戦のための高楼です。
櫓の内部には武器が格納され、有事の際にはここから城下を展望し、敵が攻めてきた場合には矢や鉄砲を放つようになっていました。



隅櫓は、1934年に再建されたものです。
江戸時代にあったものは関東大震災で崩落しました。
現在の建物は当時のものと比較して一回り小さくなっています。



城の正門である馬出門(うまだしもん)に向かいます。
小田原城への入口である馬出門土橋の上から見たお堀の桜です。



続く.................................................................。