急な階段なので足を踏み外さないように、ゆっくりと月見櫓まで下りていきます。
月見櫓から大天守の本丸側です。
戦国大名が領国をめぐる争いを繰り返してきた戦国時代、常に敵と戦う備えを持っています。
松本城は戦うことを想定した大天守・渡櫓・乾小天守の三棟が戦国時代末期に、それから40年後の江戸時代初期の平和になった時代に、戦う備えをほとんどもたない辰巳附櫓・月見櫓の二棟が建てられました。
月見櫓から見る内堀です。
月見櫓は東西四間×南北三間で、月見櫓の北側、東側、南側の三方向が開口部です。
朱色の漆が塗られた刎ね勾欄を施した回縁が巡っています。
月見櫓の前からは、大天守・乾小天守が臨めます。
本丸御殿は5棟、部屋数は60余り、建坪は830坪の広さでした。
藩の正政庁で、城主の居館でしたが、享保12年(1727)火事により焼失しました。
御殿は、城主の住居であると同時に、家臣がその主従関係を確認する対面の儀式が行なわれる場や藩政のための庁舎であり、城内で最も重要な施設でした。
続く..................................................................。
月見櫓から大天守の本丸側です。
戦国大名が領国をめぐる争いを繰り返してきた戦国時代、常に敵と戦う備えを持っています。
松本城は戦うことを想定した大天守・渡櫓・乾小天守の三棟が戦国時代末期に、それから40年後の江戸時代初期の平和になった時代に、戦う備えをほとんどもたない辰巳附櫓・月見櫓の二棟が建てられました。
月見櫓から見る内堀です。
月見櫓は東西四間×南北三間で、月見櫓の北側、東側、南側の三方向が開口部です。
朱色の漆が塗られた刎ね勾欄を施した回縁が巡っています。
月見櫓の前からは、大天守・乾小天守が臨めます。
本丸御殿は5棟、部屋数は60余り、建坪は830坪の広さでした。
藩の正政庁で、城主の居館でしたが、享保12年(1727)火事により焼失しました。
御殿は、城主の住居であると同時に、家臣がその主従関係を確認する対面の儀式が行なわれる場や藩政のための庁舎であり、城内で最も重要な施設でした。
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