TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

海外の都市の紹介、 その96の3 『CHANGDA 承徳)』

2011年06月28日 | 海外の都市の紹介
避暑山荘は中国清朝時代の離宮で、その大きさは総面積5460m2で、周囲の城壁は10Kmもあります。



湖を望む展望台のような名が廊下が沢山あります。
王子は賑やかな宴が開催されたのでしょう。



山水の絵画に描かれるようなな世界があります。



避暑山荘の建築は、江南地方の名園・名勝を参考にしたと言われています。
蘇州の獅子林や寒山寺、杭州の武陵寺六和塔、鎮江の金山亭、嘉興の煙雨楼などを模して作られた建造物があります。



石庭も昔の名残をとどめています。



避暑山荘を散策しながら見つけた、トッポパパ一番お気に入りの写真、2枚です。



青空だったら、もっとすばらしい構図になったのでしょうが、これも中国らしくて良いのかもしれませんね。



山荘には、その昔、狩が盛んだった広い平原もあります。
山荘全体は東南は水が豊かで、西北は山が多く、中国の自然地貌の縮図をなしているようです。



北に建つ舎利塔です。  



続く...............................................................................................。

海外の都市の紹介、 その96の2 『CHANGDA 承徳)』

2011年06月27日 | 海外の都市の紹介
承徳避暑山荘は、1701年の秋、康煕帝が文官と武官を率いて、北部巡視に出かけ、途中、承徳の宿営に着いたとき、奇異な峰のそびえ立つ見事な景観に目を留めます。



康煕帝は、この山と水に囲まれた広々とした土地に、行宮を建設するよう河北省の総督に命じます。
以来、わずか20数戸しかなかった小さな山村が、89年かけて世界最大の皇室庭園に生まれ変わりました。



山荘の内には、楼や台、殿、閣、軒(窓のある長廊下)、斎(部屋)、亭、榭(四方を展望できるよう造られた高殿)、廟、塔、廊、橋など約120に及ぶ建築物が建てられています。



銀湖という小さな蓮池があって、その奥には石庭があります。



蘇州などで見かけた『太湖石』のような石を使用して、立派な石庭がいくつか見られます。



同行の美人さんをモデルに記念撮影です。



美人さんと二人での旅行なら、これはまた楽しいのでしょうが、今回は某会社の国際会議に参加した仲間と一緒に、余暇を利用して近隣の散策でした。
最近はトッポパパも歳のせいか忘れっぽく、名札をぶら下げながらの散策では色気がないですね。
写真の女性はアレーシアから参加した、セールスマネジャーで、以前にクアラルンプールの紹介でも登場したお嬢様です。



苑景エリアの面積は山荘の8割を占め、湖、平原、丘などから構成されており、当時、皇帝が妃とと戯れたり、宴会を催した場所のようです。



湖沿いに長く伸びる廊下です。
多くの人がここから風景を楽しんだのでしょう。



続く....................................................................................................。

海外の都市の紹介、 その96の1 『CHANGDA 承徳)』

2011年06月26日 | 海外の都市の紹介
暫く出張や多忙のためブログをお休みしました。
ブログの更新もないのに、大変多くの人に訪問いただき大変申し訳なく思っています。

今回は中国承徳市の紹介です。
承徳は北京の北東約230キロにある、明・清の時代から避暑地として知られる街です。



承徳は『避暑山荘』は、別名、『承徳離宮』と呼ばれ、現存する中国最大の皇室の庭園で、かつて清朝皇帝の避暑と公務を行う場所として建てられた山荘です。
1994年、避暑山荘と外八廟は、ユネスコの世界遺産に正式に登録されています。



門を潜ると広大な敷地が目の前に広がります。



避暑山荘は清の康煕帝が1703年に着工し、その後長い年月をかけて乾降帝の代の1792年に竣工した広大な離宮で、中国最大の宮廷庭園でもあります。
皇帝たちは夏の間ここに滞在して政を執り行ない、北京に次ぐ政治の中心地として発展しました。



『水心樹』と呼ばれている橋です。



避暑山荘の湖の南東部分にある島に通じる部分の橋にあるのが『水心樹』です。
中国風の門や楼閣が連なっていて、独特の雰囲気があります。



564万平方メートルの敷地内は、正殿や寝殿がある宮殿区と、湖のある湖区、草原が広がる平野区、全体の5分の4の面積を占める山区に分けられます。



樹齢何年かはわかりませんが、歴史を伝える古木として大切に保護されているようです。



時空を超えて、清朝時代の歴史を感じさせる風景です。



続く...................................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その115 『美瑛』

2011年06月15日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『美瑛町』の紹介です。
美瑛駅です。 JR北海道、富良野線の駅で、旭川~富良野間のほぼ中間に位置する駅です。
旭川駅から当駅までは、ほぼ1時間に1本の頻度で列車が運行されています。



駅舎や倉庫は美瑛町周辺で採掘される美瑛軟石を用いて建築されています。
全国駅100選に選ばれ駅舎自体が観光スポットとなっています。



北海道のほぼ中央に位置する美瑛町大雪山国立公園十勝岳連峰の懐に広がる丘陵地帯は、登山やスキー・ゴルフなど、アウトドアが楽しめる大自然がいっぱいです。



『ケンとメリーの木』
美瑛には、固有名詞のある木がいくつかあります。
もっとも有名なのは、このケンとメリーの木と名づけられたポプラの木です。
昭和47年日産自動車の「愛のスカイライン」ケンとメリーのCMに採用され、以来『ケンとメリーの木』と呼ばれています。



『セブンスターの木』です。
丘の上に一本の「かしわの木」が立っています。
昭和51年に観光たばこ「セブンスター」のパッケージに掲載された木です。



この地区一体が農産物の作付けにより、色とりどりに見えることから「パッチワークの路」と呼ばれています。
5月はカラフルな景色を楽しむには時期尚早で、今頃が一番きれいのようです。
毎年作物の連作が出来ないため景色が変わって見えるそうです。



春の美瑛は、種まき、植え付けのため、トラクターで均された畑には、複雑かつ緩やかな起伏の変化をもつ丘の素顔が現れます。
ここを訪れる人々が求めているのは、都市の建物や道路が見せるフランス庭園のような幾何学的な美しさなのでしょう。
入念に手が入れられた広大な庭園、それが美瑛の丘の美の本質のようです。



最近美瑛町は『丘のまちびえい』と呼ばれ、自然が織りなす丘陵地帯の美しさを求め全国各地から多くの観光客が訪問してくるそうです。
美瑛の丘が美しいのは、景観を構成している線がきわめて人工的なものだからでしょう。
労力をかけて木々に覆われていた丘を切り開き、そこを耕し単一の植物を敷き詰めて彩色を決めたのでしょう。



昭和52年にマイルドセブンのパッケージに使用された一列に並ぶ防風林です。



そして、新鮮な食材を使った美味しい料理もいただくことができます。



この素晴らしき景色に、乾杯です。


我が家の紫陽花とトッポ

2011年06月11日 | 小さい庭の素人ガーデニング
最近は出張が多く忙しくてトッポと遊んであげることができませんでした。
昨夜からの大雨で、蒸し暑い日曜日になりましたが、我が家の紫陽花も遅ればせながら開花し始めました。



娘に抱かれたトッポと紫陽花の記念撮影です。



紫陽花の花の色は毎年、少しずつ違うような気がします。
あまり面倒をみているとは言えない植木なので、土壌の栄養の違いなのかもしれません。



トッポはせっかく外に出たのに、地面が濡れているので外を歩くことができず、少々不満顔のようです。



これから一気に花開くのでしょう。



暫くトッポの登場が無かったので、具合が悪いのかと心配してくれた人も多いのですが、ごらんのとおり元気ですので、まだまだ大丈夫です。
ついでですが、トッポパパもゴルフもできるようになり元気です。(笑)


海外の都市の紹介、 その95の3 『BEIJING (北京) PartⅡ』

2011年06月09日 | 海外の都市の紹介
天壇の中軸線より、圜丘壇や皇穹宇、祈年殿などの建築物を眺めます。



記念写真を嬉しそうに撮っている、ヨーロッパからの観光客でしょうか?



歓声をあげながらポーズをとっていた美女たちに、思わずカメラを向けてしまいました。



祈年殿は、金色の玉を持ち、軒先の連なる屋根が瑠璃瓦に覆われています。
高さは、九丈九尺(古代の営造尺による。31・6八メートル)で、それは『天国』を意味するだけでなく、『天数』のきわみ(天数は「9」を最高とする)を意味するそうです。



故宮の数倍はあるという敷地は、帰国便の時間もあり半分も歩けませんでした。



何処の国の女性も踊りは大好きなようです。



数百年の歴史を持つこの公園には、写真のような古木がたくさんあります。



シンガポールより合流した島流しさんです。



回音壁と呼ばれている壁のようです。



音が反響して60m先の囁きまで聞こえるそうです。



それでは北京より

海外の都市の紹介、 その95の2 『BEIJING (北京) PartⅡ』

2011年06月08日 | 海外の都市の紹介
祈年殿は、天壇の主体建築で、直径が32m、高さが8m、ひさしが三層になっていて、釘が一切使われていない木造の円形大殿です。
壁面には、華麗な彩色の絵が描かれています。
天壇の建築デザインは、その後、何世紀にもわたって、中国の国内のみならず、極東の国々の建築にも大きな影響を与えました。



内壇、外壇の壁の総延長距離はそれぞれ、3292mと6416mもあります。
最南端の塀は方型で、大地を象徴しており、最北端の塀は半円型で、天を象徴しているそうです。



また、北を高くし、南を低くすることで、天地を表現しているそうです。



ネット情報ですが、中国人は昔から、『天』は至上のものであり、万物を支配するという最高権威と考えています。
皇帝は、『天命』を受けた『天子』であり、明の初代皇帝の言葉に『君たる者は、天を父とし、地を母とし、民を子とする。これみな職分として尽くすべきところである』と伝えられています。



また、説明のつかないことを『天意』と言い、、旗を掲げて一揆を起こす者たちは、『天に替わって道を行う』と気勢をあげました。
『天意』に背いて事を行えば、天が怒って『天譴』(天罰)をくだすとされ、自然の前の人間は、『天命』に従うほかないとされてきました。
そのため、昔の人々は、神殿を建て、天神を祭り、圜丘(円形の壇)を造り、盛大な祭天儀式を執り行って、天神の加護を祈ったのです。

今日は、何か特別なイベントがあるようで、交通整理が進んでいました。



古い北京の面影を残した公園で、日本の蹴鞠のような遊びに興じている人を見かけました。



天壇公園の敷地内西側に位置するこの建物に、皇帝は祈念の3日前にここに入り、飲食、音楽、女性を絶ったそうです。
この建物の緑の瓦は皇帝が天に対し従順であることを表現しているそうです。
建てられたのは1420年。面積は約40,000平米で、中には儀礼用の部屋、居住用の部屋、警備者・召使の詰所があります。



早朝ともなると、園内にある6万本の木々に癒しを求めて、多くの人が集まってくるそうです。



これは、太極拳のようなものなのか、観光客の歓声を浴びながら披露していました。



続く..............................................................................................。

海外の都市の紹介、 その95の1 『BEIJING (北京) PartⅡ』

2011年06月06日 | 海外の都市の紹介
今回は北京の天壇公園の紹介です。



1420年に建設された中国最大(270万km2)の壇廟です。
北京城の南東に位置し、明・清の皇帝が毎年豊作を祈った場所です。
1998年世界遺産に指定されました。



天壇公園にある、長廊です。
夜間に祭祀の道具を運ぶために使われたという長廊で、七十二間もあります。
奥に観える遠景の建物が祈年殿です。



天建物の配置は“回”字形になっていて、内側の内壇と、外側の外壇に分けられます。
壇の総面積は故宮より4倍も大きく、敷地面積は273ヘクタールもあるそうです。



1420年、明の永楽帝が建立したとされる。建設当時は天地壇と呼ばれていました。
1534年、天壇と地壇に分離、天壇と呼ばれるようになります。
中華民国(台湾)の台南市にも天壇が存在するそうです。



現在は天壇公園として、非院に後悔され、市民の憩いの場所になっているようです。
中国の将棋に興じている人が多く観られます。



こちらはトランプのようです。
一般的に中国人は、ギャンブル(賭け事)が好きなようです。



北京の地図を広げると故宮を中心に日壇公園(東)、月壇公園(西)、天壇公園(南)、地壇公園(北)があります。
『壇』とは、皇帝の祈祷場で、昔は「皇帝の庭」と言われていて、中でも天壇は、自分を天子として天帝を祭るため最も重要な場所となっています。



祈年殿は直径32m、高さ38mの円形木造建築で、色の瑠璃瓦が青空に映えます。
今回は特別の催しがあり、中に入ることができませんでしたが、内部は四季を象徴する4本の柱と、12ヶ月を象徴する赤い12本の柱で構成されているそうです。



続く.....................................................................................................。

海外の都市の紹介、 その94の5 『BEIJING (北京)』

2011年06月04日 | 海外の都市の紹介
太和門を過ぎると、いよいよクライマックス。
紫禁城で、皇帝による公式行事が催行された太和殿です。



太和殿の前は、1本の草木もない石だけの広大な広場です。



紫禁城は、大雑把に分けると「外朝」と「内廷」に分けることが出来ます。
外朝は、皇帝が大典などの公式行事や諸外国からの使節を謁見した場所で、紫禁城の中心となっています。
その中でで一番存在感があるのが基壇の上に建てられた太和殿です。
映画、ラストエンペラーを思い出します。



世界最大で最も完全な形で保存されている中華帝国の宮殿です。
24人の皇帝が住み、政務に携わり、起居したところであったため、紫禁城と称されたのです。
最初の建物は東西64m、南北37m、高さ37mで、中国における現存最大の木造建築物でした。
明・清時代、皇帝はここで、即位の詔書を発布しました。



太和殿は創建当時、奉天殿と名付けられました。
嘉靖年間に皇極殿、さらに清代の順治年間に太和殿と変更されました。
今の建物は清の1695年に再建されたものです。
宮殿の高さは35.05m、面積は2,377m2で、重檐廡殿式という宮廷建築様式で建てられました。
72本の巨大の柱が建物を支え、その中の6本は雲龍文様を漆で盛り上げて金箔で覆った金柱です。



この宮殿は皇帝の即位、結婚から皇后の冊立、皇帝の誕生日、科挙の成績発表、大将の出征、毎年の春節や冬至節などまで、重大な行事が行なわれた場所です。
行事の日には太和殿から天安門まで儀仗が並べられ、太和殿の外に中和韶楽、太和門内に丹陛大楽の楽器が設置されたそうです。
一品から九品までの文武百官が官位別に御道の両側に立ち並ビ。皇帝が太和殿に着と、午門にある鐘と太鼓が一斉に打ち鳴らされ、楽隊が相次いで演奏し、香の煙が宮殿内外に漂い、厳かな雰囲気の中で封建帝王の高貴さ、威厳が示されそうです。



これ以上奥へは時間的にも無理でしたので、フリーの写真を拝借して説明します。
九龍壁は、紫禁城の皇極門の前(南側)にある長さ29.4m、高さ3.5mの瑠璃装飾の壁です。
9匹の龍(皇帝を表す)が宝珠と戯れる様子が描かれていて、中国三代九龍壁の一つです。



乾清宮は明代から清代の康熙年間まで皇帝がここに住み、日常の政務を執っていました。



皇帝が後継者を指名する方法として、皇位後継者の名前を記した詔書を、乾清宮の中の「正大光明」の扁額の後ろに置き、皇帝崩御の後、詔書が開かれ、指名された皇子が皇帝の位に即くという儀式があったそうです。



次回は天壇(てんだん)の紹介です。

続く..........................................................................................。

海外の都市の紹介、 その94の4 『BEIJING (北京)』

2011年06月03日 | 海外の都市の紹介
故宮(紫禁城)平面図で改めて牛門(南門)が紫禁城の玄関口だと分かります。



その昔は皇帝以外は中央の門を通ることができなかったそうですが、いまでは観光客も素通りできます。(笑)



午門をくぐる途中、やっと正殿の太和殿と思ったのですが、実はまだこの次の建物も門で、名称は太和門です。



太和門は明代の1420年の創建です。
創建時の太和門は中国最大の宮殿建築の木造門でしたが、度重なる火災のためこれでも規模が小さくなっているそうです。



太和門は、巨大な城壁の上に楼閣が聳える午門などより門の感覚に近いですが、やはり宮殿のような重厚さを感じます。



太和門の前に、2対で立つ青銅獅子像は清の乾隆帝時代に造られたものです。



太和門の門前に置かれた一対の青銅獅子像は、乾隆期彫刻の最高傑作とされています。
東側にある右前足で鞠を踏んでいるのが雄獅子、西側にある左前足で子獅子を踏んでいるのが雌獅子です。



天安門を入ると、そこから奥へ向かって南北961m、左右は東西753mにわたって世界最大の宮殿が広がっていあす。
堀は幅52m、深さも6m、塀の高さは10mにもなり、日本の城壁に比べてその大きさは桁外れです。



この門を抜けると太和殿を観ることができます。

続く..............................................................................................。

海外の都市の紹介、 その94の3 『BEIJING (北京)』

2011年06月02日 | 海外の都市の紹介
端門を潜ると、牛門が観えてきます。



紫禁城は、とにかく広いです。
天安門を通り抜けた後、端門、午門という2つの門を超えないと、城内には入ることができません。



午門は、中央の門と、東西(左右)に張り出した部分とに、合計5つの楼が聳えています。
『五鳳樓(楼)』(ごほうろう Wŭ fèng lóu)という俗称もあります。
堂々とした紫禁城の正面玄関です。
午門は、1420年の創建で火災で焼失した後、1627年に修復されました。
高さ37.95mの主楼と東西両側にある副棟から構成されています。



古代中国では、"子"は北を表わし、"午"は南を表わしました。
だから、紫禁城の南の門は"午門"なのです。
コの字型をした門で、敵が来たときに上から攻撃するように造られているのでしょう。
映画 ラストエンペラー では、溥儀にクビにされた宦官がここに溜るシーンが有名です。



牛門の左右の角楼です。





清の時代、午門の中央を通れるのは皇帝だけでした。
例外は2つあります。
一つは、輿入れする皇后と、もう一つは、科挙の試験のトップ3でした。



科挙の最終試験は殿試と呼ばれ、皇帝出題の試験です。
その結果は、紫禁城の太和殿で発表され、成績第一の者を"状元"、第二を"榜眼"、第三を"探花"と呼び、この3名には"進士及第"の資格が与えられます。
発表の結果、進士及第となった3名だけは、午門から退出することができたそうです。
皇帝と同じ門を通ることは、この上ない栄誉だったのでしょう。



牛門を紫禁城側から観たものです。



まだ先に太和門、そしてそれを超えると太和殿になります。

続く...................................................................................................。

海外の都市の紹介、 その94の2 『BEIJING (北京)』

2011年06月01日 | 海外の都市の紹介
天安門まえの広い車道を地下通路をくぐり天安門側に来ました。
楼閣の上部には国章が飾られています。
現在は一般公開され、城門に登って、天安門広場を見渡すことが出来ます。



明清時代には皇帝の即位や皇后の冊立と言った重要な国事の際にここで詔書を発布していました。有名な五四運動は1919年ここで起こりました。
1949年10月1日、毛沢東が門上で中華人民共和国の建国宣言をして以来、天安門は中国のシンボル的存在になっています。
この角度の写真が、人ごみに邪魔されず天安門が引き立つようです。



天安門の目の前に居ます。
城楼は高さが33.7mあり、高大な赤色城壁の上には5つのアーチ形の門が開かれており、上には9つの「重檐歇山」の城楼があります。
これは皇帝の「九五之尊」(九五は帝位を表す)を象徴しています。
赤い柱に黄色い瓦、華麗な色彩で壮麗に聳えています。
城台の前後には一対ずつの「華表」が立っており、門前には「金水河」、そして河を跨ぐ五本の漢白玉の橋があります。
毛沢東主席の肖像が掛かるこの天安門は全中国を代表する顔です。
天安門の荘厳、厳粛、勇壮城楼の形は中国国章にもあしらわれています。



北京の顔ともいえる天安門は、1417年に明代の永楽帝の時代に宮殿の南門(承天門)として築かれた城門です。

ここは故宮(紫禁城)の入り口にあたり、明や清の時代には歴代の皇帝即位の詔が発せられた場所だそうです。



1949年10月1日、毛沢東主席が楼上で中華人民共和国の建国宣言をしました。
また、1989年6月4日、民主化を要求して座り込みを続けていた学生や市民に、人民解放軍の戦車・装甲車が突っ込み実力で排除した天安門事件です。

天安門事件から今年で15年になります。
この15年間、天安門も中国の目覚しい発展を見守ってきたのでしょう。



これより紫禁城の中へ入っていきます。



天安門は紫禁城の正門であった門です。



紫禁城の「紫」は、北天の星座である三垣(太微垣、紫微垣、天市垣)の中央に位置する紫微垣に由来します。
紫微垣には北極星が含まれ、絶対中心・動かざる天による支配を表すため「紫」の文字が用いられあした。
また紫禁城の「禁」は、皇宮が庶民が足を踏み入れることのできない「禁地」であることから用いられたそうです。



天安門過ぎると次は端門で、天安門とと午門の間にある門です。
整然と並ぶ瓦屋根の建物が数多くあるのが特徴で、この屋根瓦の色は皇帝のみが使用できたそうです。
紫禁城の大きさは東西752m、南北961m、面積にして72万5000㎡ という壮大な規模で、この端門が2番目の門です。



どこまで行けば、紫禁城の本殿、大和殿にたどり着けるのか不安です。

続く...................................................................................................。