TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その98の1 『青森、ねぶたの里』

2010年05月31日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
青森の『ねぶたの里』到着です。
ねぶた・ねぷたは、東日本各地、とりわけ青森県内の各地で行われる夏祭りの一種です。



上の写真のねぶたは『龍飛の黒神』という作品です。
説明によると、その昔、本州と北海道がまだ陸続きだったといわれる頃、十和田湖のほとりに美しい女神が暮らしていた。
この湖をはさんで男鹿には赤神が、そして岩木山の北・龍飛には黒神が住んでいた。
笛の名手の赤神は、語ることばも優しかった。
一方黒神は筋骨隆々としてその風貌も荒々しく、つき従う四頭の龍をあやつり、自在に天空を駆けめぐっていた。
この二人が共に女神を好きになり、お互いゆずらずとうとう争いとなってしまう。
天地も割れんばかりのすざましい戦いとなるが、やがて黒神が勝利し傷ついた赤神は男鹿に帰っていった。
ところが、かわいそうに思った女神は赤神の後を追って男鹿に行ってしまったのである。
戦いには勝ったものの、女神のいない湖を去り、龍飛に戻った黒神は深い深いため息をついた。
それがあまりに大きかったため足下から大地は裂け、東西の潮が一気にどっと流れ込んできた。こうしてできたのが津軽海峡だと言われている。
古代天地創造の神々たちの伝説に残る津軽海峡。
現在、その海峡下を通る青函トンネルによって本州と北海道は再びしっかりと結ばれている.........ということです。



ねぶたの里の入口です。
ここも到着した時は雨が止んでくれました。



青森ねぶたとは青森県青森市で8月2~7日に開催される夏祭りで、毎年、延べ300万人以上の観光客が訪れるそうです。
1980年には国の重要無形民俗文化財に指定された。



ねぶたの里は青森自然公園の中にあり、大型ねぶた8台と弘前ねぷた1台が常設されています。



ここでは、大型ねぶたを実際に運行する「ねぶた運行体験ショー」も毎日開催されていて、ショーのねぶたに参加することもできるそうです。



『川中島の合戦』のねぶたです。

戦国時代、北越を支配する上杉謙信と、甲州信濃を統一した武田信玄は、領地をめぐる激しい攻防を繰り返し、12年にわたり激戦を展開しました。
1561年、両軍最後の決戦とすべく臨んだ戦いが世に名高い『川中島の合戦』です。
謙信32歳、信玄41歳のこのとき、両軍合わせ8000名を超える兵が戦死し、血で血を洗う大戦であったと後世に伝えられている。
「風林火山」の甲州軍旗が揺れ動く中、謙信は千曲川を渡り、信玄に三太刀切りつけ、その刀を、信玄が軍配で受け止めたという伝説の場面を表現したのがこのねぶたです。



ねぶた節という歌があるようです。
橋幸夫が歌っています。



続く..........................................................................。

海外の都市の紹介、 その77の1 『キンデルダイク』

2010年05月30日 | 海外の都市の紹介
今回は『キンデルダイク』の紹介です。
風車で有名なオランダには、現在1000基程の風車が残されていますが、そのほとんどが1基又は数基単位で各地に点在しています。
キンデルダイクはオランダでは一番風車がまとまって残されていて、19基の風車が並んでいます。

右奥の船の形をした建物は造船所のようです。
実は、江戸幕府の船として初めて太平洋を往復した蒸気船、『咸臨丸(かんりんまる)』が造船されたのが、ここキンデルダイクです。



1853年、浦賀沖に来航したペリーの黒船に肝をつぶした幕府は、勝海舟の提言を受け入れ、長崎に海軍伝習所を創設し、その練習艦としてオランダに軍艦2隻を発注しました。
1855年、先に届いた1隻(観光丸)はオランダ領インドネシアにあった中古船でしたが、後1857年8月に届いたもう1隻は、ここキンデルダイクの造船所で建造されました。

咸臨丸のオランダ名は『ヤパン号(Japan)』です。
日本では、江戸幕府の船として初めて太平洋を往復した蒸気船です。
勝海舟や福沢諭吉ら、その後の日本を決定付ける第一級の人物を多く乗せてアメリカに渡ったのです。



キンデルダイクの風車網は、ロッテルダムから約15km離れたところにあります。



オランダに風車が伝わったのは10世紀で、十字軍によって中東より伝わったそうです。
実は、風車は製粉用としてイスラム圏で誕生しました。



15世紀のオランダは干拓工事が盛んで、その際、堤防で仕切った陸側の水を汲み出すために風車が活躍しました。
風車の数も増え、穀物を挽いたり、油を絞ったり、木材の加工にまで使われ、オランダ人には欠かせないものになっていきます。



このキンデルダイクは18世紀前半の風車が19基も残り、湿原と運河と伴にオランダらしい風景が広がる場所です。



ここの風車網は、オランダ国内で現存する風車群の最大規模のものです。



これほどの風車が残されている場所はほかには無く、もっと驚いたことに、この多くが現在も立派に現役で働いているということです。



また、オランダの観光地の中で最もよく知られた場所のひとつであり、1997年にユネスコの世界遺産に登録されました。



続く...........................................................................。

トッポと5月の横浜山手散策、 その5

2010年05月29日 | トッポの世界
もう少しだけ薔薇の花を紹介します。
この角度からローズガーデン越しにベイブリッジが観えます。



ゴールデンリトリバーが、トッポと前後してご家族と一緒にローズガーデンを散歩していました。
トッポと同じように白髪になっていましたが、とても可愛がられているようで、気持ちよさそうに散歩していました。



この花は『ダイアナ・プリンセス』です。



ダイアナ妃のパーティ用の華麗なドレスを思い出させる色合いの花です。



こちらは、純日本調の薔薇のようで、『姫』という名前がついています。



アップで撮ると、お姫様の着物の花の絵柄ような感じです。
優しい花の丸みが、御姫様が着る着物の柄のように思えたので、名前がついたのでしょうか。



トッポ、『横浜の薔薇だよ!』



『はまみらい』と名前がつけられていました。



この花も大ぶりの花で、豪華な感じがします。
このローズガーデンでは5月いっぱい薔薇の花が楽しめそうです。



続く......................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その97の3 『八甲田』

2010年05月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
酸ヶ湯温泉を後にして、十和田方面に向かいます。
温泉に入った後、しばらく雨が止み写真撮影はできましたが、移動したと同時にまた雨が降り始め、途中は5月というのに雪まで降り始めました。



この道路は4月1日より開通するそうですが、まだ2-3mの雪の壁が残っています。



開通直後は10m近い雪の壁になるそうです。
昔読んだ新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』と高倉健主演の東宝映画『八甲田山』(1977年公開)を思い出し、雪中行軍の遭難の碑があると聞いてそこを目指します。



近くに来ると、雪や雨も止み、なんとと青空が一瞬広がり始めました。
友人曰く、何か神がかり的なトッポパパの晴れ男を感じたようです。



八甲田雪仲行軍遭難の碑への案内板が見えてきました。

1902年、日露戦争の2年前の事件です。
当時の世界は『帝国主義』の真っ盛りです。
1902年1月23日、日本陸軍第8師団青森歩兵第5連隊と弘前の第31連隊が冬の八甲田山を踏破する行軍訓練に出発しました。
陸軍はこの時、日露戦争を目前に控えて、寒冷地での行軍のデータを取るよう指示し、この無謀な訓練はスタートしてしまいました。
両隊は八甲田山を踏破するルートを互いに反対側から登り始めますが、記録的な寒波が押し寄せ、すさまじい吹雪にあい、弘前第31連隊の方は地元の人を案内に付けていたこともあり幸運にも目的地までたどり着くことができましたが、青森第5連隊のほうは道に迷ってしまいました。



この事故は新田次郎『八甲田山死の彷徨』で知られます。
雪中行軍の結果はあまりにも違います。
青森隊は、210名のうち199名が亡くなりました。
弘前隊は、37名が全員無事帰還できました。



当時の日本は鎖国が終わったばかりで、世界に通じる産業は絹生産くらいの弱小国でした。
隣国の大国、ロシアは南下政策を進めていて、極東の街にウラジオストック(東方を征服せよの意味)と名付けたほどです。

このままロシアに飲み込まれてしまうのか、ロシアと戦争して日本侵略をあきらめてもらうかは、日露戦争の勝敗にかかっていました。
勝機の少ない戦争をせずに済まないかと手を尽くしましたが、どうにもならず、ついに日本はロシアとの戦争を覚悟して準備をすすめることになります。



ロシアの南下を防ぐには中国か朝鮮半島が戦場になり、冬期はシベリアからの強烈な冷風が吹き荒れる土地での戦いになるので、そのためには耐寒訓練が必要になりました。

当時は防寒服や装備が不十分のなかでの、無謀ともいえる雪中行軍だったのでしょう。
本来は1泊2日で完了する筈の行軍なのですが、冬山で迷ってしまうと、ルートを見つけだすのは困難を極めました。

やがて第5連隊の後藤房之助伍長が自ら捜索隊の道しるべとなるべく、雪中に直立したまま分かれ道に留まり、その場で結局弁慶の立ち往生のような感じで仮死状態になっているのが捜索隊により発見されました。



軍医の手当により彼が蘇生したことから、本隊の発見にいたります。
しかし発見された時生きていたのはわずかに17名でした。
しかもその内5名が救出後死亡、1名の将校は責任を感じて自決。結局わずか11名の生還となりました。
死者199名、日露戦争の203高地でもここまで生還率は低くありませんでした。

大峠と田代平の丁度中間に後藤伍長の銅像が建っています。
銅像は明治時代に建てられたものです。



ほんとに、いろいろな歴史があるのですね。
これより、ねぶたの里に向かいます。

海外の都市の紹介、 その76の4 『ザーンダム』

2010年05月27日 | 海外の都市の紹介
オランダと言うと、ほとんどの人が風車、チーズ、木靴などを思い浮かべると思います。
これらのオランダ名物はオランダの地形と歴史に関係があります。
オランダの3分の1は干拓地で、遠浅の海や干潟、水深の浅い湖沼やその浅瀬を干上がらせて農地として開拓してきました。
結果、オランダの国土の70%が海水面下と言われています。
『神は世界を作ったが、オランダはオランダ人が創った』とオランダ人は胸を張って言います。
もともと陸地ではなかったので、地面は平坦なため運河の水が流れていかないと溜まるばかりなので、運河を階段状にして、そこで風力を使い排水をすることで、水流をつくるようにしたそうです。
海面より運河の水面が低いところから、どうやって海に出るかが問題になります。
そこでオランダにある数え切れないほどの水門の説明を簡単にします。

基本的には、水門は2つあり、運河側と海側に分かれます。
内陸側の運河より大きな船が運河側の水門から水門間に入ってきます。



当然、このときの水門間内の水面は運河の水面と同じです。



写真だと分かりにくいのですが、このときの海側の水門は閉じられていて、運河側の水面が開いている間は水門間内の水面は、海面よりまだ低い位置にあります。



船が完全に水門間内に入ると、運河側の水門が閉じられます。
この後、海側の水門が開けられ水門内に海水が流れ込み海面と同じ高さになります。



運河側の水門に移動して反対側からの写真です。
船が海側の水門より海へ出ていきます。



この写真でわかるように、運河側の水門の手前は海水面に比べると低くなっているのがわかります。
簡単な原理のようですが、昔は人力で水門の開閉をするための高度な技術があったようです。



冒頭に説明しましたが、オランダの運河は水流を確保するため風車などを利用して階段状になっているため、運河間の移動や海へ出るとき、このような水門を利用して移動します。

この写真の水門は昔の水門のようです。



風車や水門で水量調節をしながら、オランダは陸地を広げてきました。
その治水技術は国を広げるだけでなく、国を守ることにも使われたそうです。
外敵がオランダを攻めてきたら、水門等を開け、わざと洪水を起し敵の侵入を防いだことから、それが水の防衛線、『洪水線』とも呼ばれています。



運河沿いの寺院は、何百年も水路を通過する船を見守ってきたのでしょう。



それではザーンダムより

トッポと5月の横浜山手散策、 その4

2010年05月26日 | トッポの世界
トッポ、『どの薔薇もいい香りがするけど、齧るとパパに怒られるから我慢してます。』



こちらは『ホワイトマジック』という薔薇です。
白一色の薔薇ですが、清楚な感じで奇麗な花です。



こちらは『カズエ』と書かれていました。
品種改良した人の名前を付けたのでしょうかね。
淡いピンクの花で、大きめの薔薇の花です。



トッポ、『こっちの花は、お菓子のように見えるけど!』



『ローズふくやま』と呼ばれています。



こちらは、『ホワイトクリスマス』です。



この薔薇の花は、『ほのか』と名前が付いていましたので、ちょっとそんな雰囲気になるように撮ってみました。



トッポ、『いい香りだ! 美味しそう!』
トッポパパ、『齧ったらだめだぞ!』



トッポ、『これも美味しそうです。』



『夢想』という名前です。
色合いが素晴らしい花です。



こちらの花の名前は忘れました。
花によって、色合いが微妙に変わっています。
花の写真撮影は難しいです、素人ではこれが精一杯です。



続く.........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その97の2 『八甲田』

2010年05月25日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
雨が上がるのを待つために、国民温泉第1号に指定を受けた酸ヶ湯温泉で急遽朝風呂にはいることにしました。



酸ヶ湯温泉は総ヒバ造りの大浴場『千人風呂』が有名で、浴槽だけでも160畳もあり、熱の湯、冷の湯、四分六分の湯、湯滝など5つの浴槽に分かれています。
写真を撮られているとは知らないトッポパパの間抜け顔です。



酸ヶ湯温泉は脱衣場は男女別ですが、中は混浴になっています。
トッポパパが見上げていたのは、混浴に入る時のマナーの説明書きです。



ゆっくり温泉につかり身体を暖め外に出ると、雨が止んでいました。



なんと、雲の間から少し青空が広がってきました。



温泉は軒を連ねた1軒宿ですので、いくつもの建物がつながっています。



温泉の発見は800年前で、江戸時代は津軽藩の直営であったそうです。
昔は冬季には閉鎖さてれいましたが、1982年から道路が除雪され通年営業しているそうです。



八甲田を越えて十和田に向かいます。
途中で見かけた物騒な名前の『地獄橋』です。



写真だと分かりにくいのですが、池の奥には温泉の硫黄の匂いと湯煙が上がっていました。



この後、八甲田の雪の壁を目指して、十和田方面へ移動です。

続く.......................................................................。

海外の都市の紹介、 その76の3 『ザーンダム』

2010年05月24日 | 海外の都市の紹介
ロシア皇帝の居住記念館を後にして、海へ向かいました。



運河沿いを歩いていて、素晴らしい景色に出会いました。



観光地としてそれほど紹介されている景観ではないのですが、結構お気に入りの写真になりました。



ちょっとしたリゾート地の雰囲気があります。



橋の上にあった彫像です。
これ実物は、30cmぐらいで橋の上に乗っていたのですが、青空をバックにこうやって撮ると、実物大の彫像のように見えませんか?



運河から大海に向う出口です。



オランダでは、多くの住居が運河(水路)と共存して生活を営んでいます。



運河と緑、そして昔ながらの伝統的な家屋、それぞれが調和しているようです。



オランダは国土の70%以上が海水面下と言われています。
内陸の運河は海面より低く、水は高いところから下に流れるのが常識ですから、どうやって運河から海へ出るのか不思議ですよね。
この写真の水門が、昔からの船の出入り口です。
次回に現在の水門を紹介します。



続く........................................................................。

トッポと5月の横浜山手散策、 その3

2010年05月23日 | トッポの世界
寒暖の激しい今年の春も、ここにきてようやく落ち着いてきたようです。



トッポ、『早く薔薇を見に行こう!』



イギリス館の前がローズガーデンになっています。



ワンちゃん連れの人もたくさん薔薇を観に来ていました。



『晴世(はるよ)』と名前がつけられていました。
花が大きく開く直前のようです。



娘が携帯の写真にとトッポに声をかけると、ちゃんとポーズするトッポです。
ちょっとカメラ慣れしすぎです。



写真を撮っていて分かったのですが、照明のコントロールができない屋外での花の撮影は難しいですね。
もうちょっと頑張って、次回はいい写真を紹介します。



続く............................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その97の1 『八甲田』

2010年05月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
弘前のホテルに泊まり、早朝、八甲田へ出発しました。
途中、天候が悪く気が滅入りそうになりましたが、晴れ男を信じての強行軍です。



途中残雪が多く残る山道を進み、酸ヶ湯温泉を目指します。
酸ヶ湯は、三百年も昔から開かれていた山の温泉宿で、十和田八幡平国立公園の北部、八甲田の主峰大岳の西麓に位置します。



雲上の霊泉と称される酸ヶ湯温泉は、海抜900m余の高さにあります。
紫外線や山のオゾンの多い清らかな空気と、高地気候等の作用と相まって、たった10日で万病に効果が現れる温泉のようです。
しかし、雨交じりの曇天では、せっかくここまで来たのにと、ちょっとガッカリです。



小さなレンタカーを借りて友人と各地を訪問していますが、雨で外に出ることさえままなりませんでした。
それに5月というのに肌寒いです。



酸ヶ湯は、八甲田観光の基地でもあり、八甲田大岳・井戸岳・赤倉岳など北八甲田や山腹に発達する毛無岳・田茂萢などの湿原への登山口になっています。
近くの城ヶ倉渓流もすばらしく、春夏秋はもちろん、特に、冬の八甲田は理想的なスキー場となり、自然の造形樹氷群を縫って山岳スキーの醍醐味を味わうことができるそうです。



江戸期より湯治客が多く、昔は7里の道を登り小屋を立て、ねつの湯、冷えの湯、四分六分の湯、鹿の湯と雪の上を渡り歩いて入浴したといわれています。
歴史を感じさせる、湯治客用の建屋が観えます。



清涼な高地なので、風光は四季の変化に富み、ブナ帯、アオモリトドマツ帯の境界付近にあるため、高山植物の種類も多く、美しい自然が観えると期待していたのですが、これでは何もみることができません。



しかし、山の一軒家宿酸ヶ湯は普通の温泉地につきものの都会の匂いはなく、昔ながらの清純、素朴な風情を感じます。



朝9時をまわったばかりですが、こういうときは天候の回復を願って、まずゆっくり風呂に入ろうと、早朝より温泉に入ることにしました。



続く......................................................................。

海外の都市の紹介、 その76の2 『ザーンダム』

2010年05月21日 | 海外の都市の紹介
広場にある最古の建物です。
1832年に建てられ、1909年に改築されたそうで、その年度が表示されています。



広場の中央に、船を抱えた人の銅像があります。



この銅像は、17世紀後半のこの地を訪れた後のロシアの皇帝、『Czar Peter(ピョートル大帝)』です。
Czarは皇帝という意味です。
ピョートル大帝は2mもある大男だったそうです。
造船技術や軍事技術を学び、オランダには身分を隠し造船所に職人として雇われて働いてみたりしたそうです。



ピョートル大帝は当時オランダの造船技術がロシアに不可欠と判断し、この地に滞在することになります。
写真は、『The Czar Peter House in Zaandam』の保存館です。



ピョートル大帝はザーンダムに滞在し、このような小さな家の中で暮らして、造船技術を学んだのです。
写真の内部の建物が、後に海底から引き揚げられた実際の家です。



皇帝になってからも、幾度となくこの地を訪れています。
写真は皇帝と、3度目の訪問の時に同伴した皇帝夫人です。



当時のザーンダムの風景画が残されています。



ここにその署名があると説明されましたが、判読はできませんでした。



その後、世界各国の要人がこの小さな家を訪問し、あの偉大なロシアの皇帝が造船技術を学ぶために、こんな小さな家で2m近い体躯の膝を丸めて生活を送ったのだと称賛されました。
かのナポレオンもこの家を訪れ、『For the great men, nothing is too small』と感嘆したそうです。

保存館の小さな庭です。



この銅像も、大きな歴史をつたえているのでしょう。

続く...........................................................................。

トッポと5月の横浜山手散策、 その2

2010年05月20日 | トッポの世界
何度も訪問している場所なので、どのルートを歩くか思案中です。
トッポ、『噴水の近くへ行こう!』



噴水のある公園越しに大仏次郎館へ向かうことにします。



噴水周りはたくさんのワンちゃんが来るようで、トッポはひとしきりクンクンと嗅ぎまわっていました。



トッポ、『早く写真撮って!』



トッポ、『ワンちゃんがこっちへ来た!』



トッポも最近はちょっとは挨拶ができるようになってきたようです。



大仏次郎は鎌倉、長谷寺の大仏裏に住んでいたため、大仏を太郎とするなら、自分は次郎にあたると考えてこのペンネームつけたそうです。
トッポパパの知っている本だけでも、『鞍馬天狗』、『赤穂浪士』、『パリ燃ゆ』、『天皇の世紀』、『帰郷』などがあります。



トッポ、『記念館の入り口に、猫がいる!』



猫好きで有名な作家、大仏次郎は、生涯で500匹以上の猫を飼ったそうです。
著書の中に、『ねこのいる日々』もあり、8匹の猫のために猫が通れるように障子を猫の数だけ破いてあげるほど猫可愛がりぶりだったそうです。



続く..........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その96の5 『弘前城』

2010年05月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
今回が最後の弘前城のアップです。
弘前城は本丸・二の丸・三の丸・四の丸・北の郭・西の郭の6郭からなり、天守のほか8つの櫓と12の城門が建ち、三重の濠と土塁をめぐらした壮大な城郭です。



北の郭から見る天守です。



トッポパパは、この角度からの弘前城と下乗橋がお気に入りです。



なんとか最後まで天気がもってくれました。



桜祭りの期間はたくさんの出店も出ています。



西濠沿いの桜のトンネルに向かいます。



幅広く美しい西濠沿いには桜の木が植えられ、桜のトンネルとしてこの時期は多くの花見客で賑わいます。
まだ五分咲き程度ですが、360メートル続く桜並木は見ごたえがあります。



『丑寅櫓』です。
城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、銅板葺となっています。
櫓の方角を十二支で示したもので、丑寅は北東に当たるそうです。
弘前城丑寅櫓は1610年に建てられたもので3層3階、入母屋、銅板葺き、堀側には鉄砲狭間も設けられています。



『東門』です。
東門を出るとすぐに雨が降り始め、駐車場に到着した時は本降りに変わりました。
トッポパパの予測通り、30分勝負の青空のもとでの撮影でした。



夜は弘前市内で、美味しい海鮮料理をたらふく食べて熟睡です。
次は何処へ向かうかお楽しみに!。

海外の都市の紹介、 その76の1 『ザーンダム』

2010年05月18日 | 海外の都市の紹介
オランダのザーン川の両岸には、かつて何千もの風車が建造され、造船や製紙業で用いられる木材を加工する製材工業が栄えました。
今回はその『ザーンダム』を紹介します。



これ何だかわかりますか?
いままでも、オランダはユニークな建物がたくさんあると紹介しましたが、これトッポパパが泊まったホテルなんです。



簡素ですが、とてもユニークな部屋です。



しかし、これだと安眠できるのでしょうかね。



トイレも手洗いも清潔ですが、あまりにもシンプルな構成です。



路地裏から観た景色です。



現在ではアムステルダムに隣接したベッドタウンとして栄えていて、多くの人がアムステルダム及び周辺地域へ通勤・通学しています。



広場で昼食をとることにしました。



とりあえず、ちょっとビールで乾杯です。



続く.........................................................................。

トッポと5月の横浜山手散策、 その1

2010年05月17日 | トッポの世界
今週末は好天に恵まれ、横浜山手の薔薇が見頃になってきたという話を聞いて、久しぶりにトッポと山手に出かけました。
いつものスタート地点、港の見える丘公園の石碑の前です。



神奈川では有名なデートスポットの港の見える丘公園です。
入口をはいると、すぐに港を見下ろす展望台が見えてきます。



港の見える丘公園はかつて横浜開港期にイギリスとフランスの軍隊が駐屯した場所です。
トッポ、『今日は大勢の人が遊びに来ているよ!』
トッポパパ、『近くの薔薇園が見頃になったので、カメラ片手の人が多くいるね。』



天気が良いので、ベイブリッジもとても奇麗に観えます。



この場所は米軍に接収されましたが、接収解除後に公園用地として整備され、1962年に港の見える丘公園として開園しました。
展望台からのMM21方面の景観です。



現在はフランス領事館が置かれていた跡地を『フランス山』区域、イギリス総領事官邸はイギリス館として残されています。



遠くに見える建物が大佛次郎記念館です。
1991年にバラ園がオープンされ、1999年『ローズ・ガーデン』として再整備されました。



のんびり観て回りたいと思います。

続く..........................................................................。