TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

海外の都市の紹介、 その82の11 『ローマ』

2010年09月30日 | 海外の都市の紹介
先週末に帰国したのですが、時差ボケと公私にわたって多忙だったので、しばらくブログのアップができませんでした。
その間にも多くの人がトッポのブログを訪問していただき、大変恐縮しています。

また徐々にマイペースでアップします。
まだローマ編も終わっていないので、とりあえず継続いたします。

世界遺産、イタリアの首都ローマのコンスタンティヌスの凱旋門です。



コロッセオの隣にある高さ25mの門で、ローマに数ある凱旋門の中でも最大のものです。
315年に建築されたもので、コンスタンティヌス帝(272~337年)が、312年に行われたローマ北端のムルヴィウス(ミルヴィオ)橋の戦いで、皇位を争うマクセンティウス帝(278~312年)を敗死させてローマに凱旋したことを記念したものです。




1960年のローマ・オリンピックで、マラソンの優勝者アベベがコロッセオの隣にあるこの門に走りこんで来たそうです。



当時のローマは衰退の一途をたどっており、建築資材の不足が深刻化しており、装飾はハドリアヌス帝の建造物などから、取り外して転用したそうです。
しかし、これだけ美しい門が破壊を受けずに現在まで残っているのは奇跡で、その全容が残る、凱旋門建築の古い例として非常に重要な建築遺産です。



サンタマリア・イン・コスメディアン教会の柱廊Ⅱある『真実の口(Bocca della Verita)』です。
『ローマの休日』のワンシーンとして登場し、世界中のファンが訪れる人気スポットです。
嘘つきものが手を入れると噛まれて手が抜けなくなるといいう伝説があるようです。



元々は古代の下水溝の蓋だったといわれていますが、中世に石に刻まれた大洋の神の口に嘘つきが手を入れると噛みきられるとの言い伝えが流布し伝説になったようです。



ヴァチカンのサン・ピエトロ広場に到着です。



カトリックの総本山となる聖堂、『サン・ピエトロ大聖堂』です。
聖ペドロの墓所に4世紀ごろ建造され、現在の建物は1626年に完成されたものです。



有名な『ピエタ像』です。
ミケランジェロが23歳の時に製作した作品で、磔によって死んだキリストを胸に抱くマリアを描いています。



続く.......................................................................。

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もう少し落ち着いたら皆さんのブログにも訪問させてください。
海外出張が多く、トッポの写真が在庫切れで、困っています。
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トットポを連れて買い物へ

2010年09月14日 | トッポの世界
ある日、ちょっと買い物に行こうとすると、気配を察知したトッポは連れて行けと懇願しています。



トッポ、『絶対連れて行ってくれるよね!』
この顔でじっと見られると、ちょっと置いて行くわけにはいきませんね。



MM21には、いたるところに壁画が描かれています。
最近は、いたずら書きがなくなり、街の美観が保たれているようでです。



トッポ、『このカート、トッポ2号だよ!』
以前の車は、もうガタガタになったので、ちょっと大きめのカートを購入しました。
このほうが、カメラや荷物も一緒に運べるので使い勝手がいいようです。



トッポ、『この写真は、いつも散歩するところだよ!』



実は、トッポパパの術後の経過がいいので、お医者さんの許可も出たことから、ゴルフを再開することにしました。
周囲のプレッシャーが強いので、させられたというのが本音ですけど。
実はゴルフ歴は長いのですが、最近5年ほどクラブを握ったことがありませんでした。



昔のゴルフクラブを手入れして練習を徐々に再開しましたが、なんと5年間使用しなかったゴルフシューズは1回の練習で、使用不可能になりました。
一般の靴もそうですが、長期間履いていなかったので、壊れてしまったようです。



トッポママも運動のためにゴルフを始めるというので、ママの靴も一緒に買うことになりました。
年々、靴も進化しているようです。



トッポ、『パパが消えたよ! あっ、何か振ってるよ!』



トッポ、『あのね、ゴルフシューズ買いに来たのに、大きな耳かき買ってたよ。』
トッポパパ、『内緒!



でも、歳もとったのでどこまで昔のように振れるかわからないのですが、運動不足なのでちょっと頑張ってみます。

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明日よりヨーロッパのほうへ出張します。
今回は少しスケジュールがきついので、10日ほどブログのほうは休ませてもらいます。
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海外の都市の紹介、 その83の4 『カンチャナブリ(戦場に架ける橋)』

2010年09月13日 | 海外の都市の紹介
水上レストランで食事をしながら休憩です。
トッポパパは暑さでバテ気味なので、アイスクリームだけいただきました。



橋の上を観光列車?が通過中です。



川を上り下りする船を眺めながら、『クワイ河マーチ』を思い出していました。
クワイ河マーチは英国海軍の軍楽隊長を務めていたリケッツ大尉(F. J. Ricketts/1881-1945)により1914年に作曲された行進曲です。



面白い形の船が通過しています。



その後、アメリカの人気テレビ番組で、クワイ河マーチが有名な米指揮者兼プロデューサーのミッチ・ミラー氏により(ミッチ・ミラー合唱団)紹介され世界的に有名になります。



トッポパパの子供のころは、この行進曲の替え歌で、『サル、ゴリラ、チンパンジー......』(違ったかな?)と繰り返し歌っていたような気がします。
下の写真と替え歌は、特に関係はありません。



タイと日本はいろいろ共通点があります。
それは、植民地になったことがないことで、アジアの国々で、独立を守った国は、日本とタイ、それにネパールだけです。



タイ人の多くがこれをよく知っていて、タイと日本の最大の共通点として「独立を守り通したこと」が誇りでもあり、その意味でも日本に親しみをもつタイ人は多いのでしょう。



続く.......................................................................。

海外の都市の紹介、 その82の10 『ローマ』

2010年09月11日 | 海外の都市の紹介
『フォロ・ロマーノ』の紹介です。
フォロ・ロマーノは、古代ローマの中心だった場所で、紀元前500年頃にはすでに各種の施設が建ち並んでいました。
写真は『アントニヌスとファウスティーナの神殿』です。
アントニヌス帝が、141年に亡くなった皇后ファウスティーナをしのんで建てたものです。その後、161年に皇帝自身もこの神殿に埋葬されました。
11世紀に、キリスト教の教会となりました。



『フォロ』とはフォーラム(広場)のことで、市民中心の共和制時代、各々の取引や話し合いの場として造られた広場です。



よく目立つ白い3本柱は、ローマに勝利をもたらしたといわれる双子の神、カストルとポルックスに捧げられた神殿跡です。
カストルとポルックスの神殿(カストーレとポルーチェの神殿)はローマを勝利に導いたという伝説の双子の神、カストルとポルックスを祭った神殿です。
紀元前5世紀に建設され、現在は3本の柱のみ残っています。



紀元前6世紀に建設が開始されて以降、この地が古代ローマの中枢になり、下水道も整備され、共和政時代には演説が行われたり、凱旋パレードが行われるなど政治、経済、宗教の拠点となっていました。



共和政末期の紀元前1世紀ごろ、ユリウス・カエサルによって、本格的な整備が開始されましたが、計画の途中で、彼が暗殺されたため、この事業は、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス帝に引き継がれ、今もその時代の建物が多く残っています。



アウグストゥス帝によって、世界に誇る都となったフォロ・ロマーノも、コロッセオと同様に帝国の衰退とともに、忘れられルネッサンス期には、神殿の大理石等が建築資材として、持ち出されてしまいました。
19世紀に入り、遺跡が発掘されて現在のようになったそうです。



フォロ・ロマーノは、東西約300m、南北約100mに渡って存在する古代ローマの中心部の遺跡です。



古代ローマでは、たいていの都市に政治・宗教の中心としてフォロが開設されますが、フォロ・ロマーノは首都に開設された最初のフォロであり、最も重要な存在です。



右奥の煉瓦造りの建物は『クーリア(元老院の集会所)』は、共和制ローマの最高機関で、元老院会議が開かれた。ブルータスの謀反によってシーザーがこの建物の前で殺されたことでも有名です。
20世紀になってから復元されました。そのため、崩壊しかけているものが多いフォロ・ロマーノの中で異彩を放っています。



続く.......................................................................。

トッポとMM21の夏のイベント巡り、その6

2010年09月10日 | トッポの世界
自宅近くに戻って来ると、町内会の盆踊りも始まっていました。



ワンちゃん好きな子供さんが、トッポを撫でてくれました。



盆踊りの大きさには関係なく、太鼓をたたいている人は汗びっしょりで頑張っていました。



トッポには盆踊りはそれほど興味はないのでしょうね。



20年前から、トッポの町内は都会の過疎化が進み、ほとんど子供さんを見かけることがなくなりました。



20年たった今、この時期、子供連れで実家に戻ってくる人や、近年の高層マンション化に伴ない、子供さんの姿も多くなってきたようです。
あと何年かすると、昔のように子供がたくさん集まるお祭りに戻るかもしれませんね。



トッポ、『何か配っているよ!』



ビールやジュース等がサービスされ、おつまみも配られました。
トッポも冷えたキュウリをポリポリいただき、大満足でした。



最後は、花火で締めくくりです。



ようやく朝晩が少し涼しく感じられるようになりました。
夏も、もう残り少ないのでしょう。

海外の都市の紹介、 その83の3 『カンチャナブリ(戦場に架ける橋)』

2010年09月09日 | 海外の都市の紹介
トッポパパの記念撮影です。



川岸に下りて、下から戦場に架ける橋を見上げます。



現在は、平和そのものの景色です。



戦場に架ける橋には、観光客用の観光列車?が行き来しています。
カンチャナブリは物価の安さから、欧米人のロングスティの穴場になっています。



日本とタイは長い交流の歴史があります。
明治維新当時、欧米列強の激しい植民地争奪戦の中で、アジアでの独立国は日本とタイだけでした。
日本とタイとの国交は1887年の日タイ修好宣言により、正式に両国間の国交が開かれました。



日本もタイも、各国との不平等条約に泣かされていました。
タイ政府はタイの近代化には不平等条約の改正が必要と考え、日本や欧米の専門家多数を顧問として招聘したり、欧米諸国へ留学生を派遣するなどして国内改革に努めていました。
タイにおける西洋諸国の侵略との闘いは、1841年に即位したラーマ4世の時代に始まります。 ラーマ4世は西洋文明を取り入れるため外国人を雇って国の近代化を図ります。
ラーマ4世は『王様と私』というミュージカルや映画などで有名になった王様です。
イギリス女性の家庭教師に教育を受けた王子がラーマ5世です。



当時、タイが欧米各国から招いた20数名の法律顧問がいます。
その法律顧問の首席を務めたのが、外務大臣大隈重信の要請を受け、シャム(現在のタイ)の法律顧問になった政尾藤吉博士です。
彼は16年間、タイにとどまり続け、新法制と法典編纂の事業に取り組み、日本側代表として政尾藤吉公使がタイとの条約改正交渉を始め、これが後の1924年に締結された日タイ商航海条約です。
現在もなお、タイの教科書ではタイ近代法の父として掲載されている日本人です。



1904-1907年、日本女性、安井てつがタイ・バンコクのワット・ポーの近くにあるタイ最初の女子教育専門学校であるラーチニー女学院の校長となり、タイ近代女子教育の基礎を築きました。
安井てつは、その後1918年には、東京女子大学の学監となり、1923年、初代学長新渡戸稲造の後を受けて、第2代学長に就任しました。
1943年年には、東洋英和女子校校長事務取扱となり、生涯を進歩的女子教育の向上に捧げました。
開国したばかりの明治期の日本は、国際貢献が叫ばれている現代日本よりもはるかにスケールの大きな人的貢献をしていたようです。



タイと日本は欧米植民地主義という当時の状況の中でお互いに共感する部分が多く、大変良好な友好関係を続けていました。
満州建国問題では真っ先に満州国を承認したのはタイ政府であり、その後の国際連盟での日本非難決議で唯一棄権をしたのもタイ政府でした。
以上は、タイと日本の歴史上のごく一部ですが、歴史を踏まえてタイという国を考えるのも必要なのでしょう。



そういう歴史もよくわからず、タイとのお仕事をしてきたのが、一番上と下の写真の人たちです。
もっと勉強しなければいけませんね。

続く............................................................................。

海外の都市の紹介、 その82の9 『ローマ』

2010年09月07日 | 海外の都市の紹介
コロッセオの内部を紹介します。
2階からは、地下から4階までコロッセオ全体を見渡すことができます。



コロッセオは円形競技場であり、下の写真で通路の下にたくさんの部屋があって、そこに猛獣や剣闘士が控えていたそうである。



1階には皇帝、2階には市民が座り、3階は立ち見席になっています。



命をかけた闘技会は1000日も続き、ローマ市民たちを大いに喜ばせました。



写真のような2000人の剣闘士と5000頭の猛獣たちが命を落としたと伝えられています。



当時は一部はせり上がりの装置もあったそうです。



5万人収容の競技場は、1階が大理石張り(石切り場としてはがされ、ほとんど残っていません)の貴賓席、2階が庶民の木製席で、3階は立ち見席でした。



剣闘士や猛獣、囚人を収容していた地下は、現在床がなくなっているので上から一望できます。



通路や、壁には無数の穴が開いています。
この穴はコロッセオの修理保全のために使用されたようです。



続く......................................................................。

トッポとMM21の夏のイベント巡り、その5

2010年09月06日 | トッポの世界
臨港パークから夕方ベイブリッジを臨むと、西日によりレインボーブリッジが浮き上がる時間帯があります。



盆踊りをビールでも飲みながら見ましょうということで、テーブル席を確保しました。
トッポは、何か食べられるとキョロキョロ状態で頭がブレブレです。



盆踊りも、だんだん活況を呈してきました。



浜風が気持ちよく、ここでひと寝入りしたいと思うぐらいの心地よさでした。



盆踊りの太鼓の音が、軽快なリズムを奏でています。



トッポ、『変なのがいるよ!』



マスコット登場に子供たちが嬉しそうな顔で、集まってきました。



昔懐かしい、金魚すくいです。



最後に臨港パークから、夜景を撮ってみました。
手持ちの写真ですが、まあまあ綺麗に撮れました。



これから自宅近くの盆踊りにも寄ってみたいと思います。

続く......................................................................。

海外の都市の紹介、 その83の2 『カンチャナブリ(戦場に架ける橋)』

2010年09月05日 | 海外の都市の紹介
戦争映画の名作『戦場に架ける橋』の舞台となったのは、全長400kmにもおよぶ泰緬鉄道泰面鉄道のタイ-、ミャンマー(当時ビルマ)国境の険しいクワイ河渓谷のクウェー川に架けられる木造橋でした。
現在は写真のようなコンクリートの橋桁に支えられた鉄橋になっています。



日本は太平洋戦中の1942年、当時の日本軍が救援物資輸送網として泰緬鉄道の建設に着手します。
本来ならば5年はかかる工事を1年3ヶ月で完成させたようです。
この過酷な建設作業に、連合軍の捕虜、タイ人、マレーシア、ビルマ人などたくさんの労働者が狩り出され、栄養失調、伝染病(コレラ、マラリア)等で多くの犠牲者をだしました。



その数は連合軍捕虜15000人、現地労働者30000人とも言われ、犠牲者の数は泰麺鉄道の枕木の数のように多いため『枕木一本、人一人』と言われたそうです。
このクワイ河は一見穏やかな流れのように見えますが、実際は結構急流なので、建設工事が難航したのでしょう。



映画『戦場に架ける橋』は第2次大戦下の、タイ、ビルマ国境の日本軍捕虜収容所を舞台に日英両軍兵士の人間愛の交流を伝える一篇です。
原作はフランスの作家ピエール・ブウルの小説「クワイ河の橋」を原作にしています。
主演はウィリアム・ホールデン、また日本の俳優、早川雪洲が出演しています。



あらすじは、ビルマ・タイ国境近くにある日本軍捕虜収容所で、その所長が斎藤大佐(早川雪洲)で、クライ河に橋梁を建設せよとの命が司令部斎藤大佐に下ります。
捕虜収容所に収容されているアメリカの海軍少佐シアーズ(ウィリアム・ホールデン)らは激しい労役に脱出の機会を狙っていたある日、収容所にニコルスン大佐(アレック・ギネス)を隊長とする英軍捕虜が労役のために送られてきます。



厳しい完成期日目標は、斎藤大佐に捕虜全員に厳しい労役を命じさせます。
ニコルスン大佐はジュネーブ協定に背反すると将校の労役従事を拒否したため、営倉に監禁され、その夜シアーズは仲間2人と脱走し、1人だけ助かってコロンボの英軍病院に収容されます。
捕虜の脱走やサボタージュのため架橋工事が遅れてしまいます。



斎藤大佐はニコルスンへの恩赦を申し入れると、同時にニコルスンは自ら架橋工事に当ろうと申し出てきます。
期日までに橋を完成するために、斎藤大佐はあえてその屈辱に甘んじ、架橋の主導権はニコルスンに移ります。



橋が完成し、鉄道が敷かれれば日本軍はインドへ迫るだろう危惧したアメリカはシアーズに橋の爆破の指令を伝えます。
巨大な橋が見事完成されますが、橋桁に設置された爆薬により、崩壊します。
エンディングは、ゆるやかに流れるクワイ河の水面に、『本橋梁は英軍将士によって建造されたものなり』と書いた1枚の板が漂うばかり……です。



この映画、『The Bridge on The River Kwai』は1957年公開のイギリス映画で、第30回アカデミー賞の作品賞を受賞します。
主題曲の『クワイ河マーチ』もオスカーを受賞した。



この映画は捕虜たちを強制的に鉄道建設に動員しようとする日本人大佐との対立と交流を通じ、極限状態における人間の尊厳と戦争の惨(みじめ)さを描いたものです。
映画とは別に、ネット情報によると、建設工事に関係した旧日本軍の元兵士の話では、イギリス人の技術協力を受けて完成できたとする内容はフィクションに過ぎず、日本の高度な土木技術により、完成することができたという説もありました。

舞台となったクウェー川鉄橋は本作品の公開を通じて広く世間に認知され、公開後半世紀経過した現在でもタイの観光名所となっています。

続く.....................................................................。

海外の都市の紹介、 その82の8 『ローマ』

2010年09月04日 | 海外の都市の紹介
ローマは紀元前7世紀の中頃にラテン人とサビニ人が町を築いて以来、2600年以上の歴史を持ちます。



ローマ帝国の都として栄えた『永遠の都ローマ』には、ローマ帝国の中枢フォロ・ロマーノ、アウグストゥス霊廟、円形闘技場コロッセオ、神殿パンテオン、トラヤヌス帝記念柱、コンスタンティヌス帝凱旋門など、数多くの古代の遺構が残り、ローマ帝国の栄華を今日に伝えています。
そのなかでも、コロッセオが規模からも中心的な遺構でしょう。



周囲527メートル、高さ48.5メートルの円形闘技場コロッセオは5万人を収容することができたそうです。



古代ローマ帝国の皇帝、ウェスパシアヌス帝(9~79年)が建てさせたもので、西暦80年に完成し、正式名称は『フラウィウス朝の円形闘技場』といいます。
付近にネロ帝(37~68年)の巨像、コロススがあったことに由来して、コロッセオと呼ばれるようになり、英語で競技場を意味するコロシアムの語源ともなりました。



ローマ皇帝は市民に娯楽を与えることで、治世の安寧を図ろうとしました。



コロッセオの観客席は身分によって分けられていました。一階席は元老院と議員、二階席は騎士、その上が市民、最上階は市民権を持たない人のものでした。これは、人々に身分制度を意識させて帝国の秩序を保つ、皇帝の巧みな統治術でした。



コロッセオの廊下のようです。
各階に並ぶアーチはそれぞれ異なった様式で、1階はドーリア式、2階はイオニア式、3階はコリント式となっています。



内部の廊下部分はこうなっています。



それでは中に入ってみます。



続く.........................................................................。

トッポとMM21の夏のイベント巡り、その4

2010年09月03日 | トッポの世界
臨港パークで行われる大盆踊り大会は、今年で3回目です。
年々大きなイベントなっているようです。



トッポの浴衣姿はいかがでしょうか?
首周りの毛が長いので、ボサボサになるので手拭を結んでみました。



町内の盆踊りもありますが、こんな広い場所での盆踊りは気持ちよいでしょうね。



日中は猛暑ですが、日が沈みかけてくると海風が気持ちよく、それほど暑さは感じないようです。



トッポもさすがに踊りに参加とはいかず、周囲をウロチョロしています。



トッポ、『踊ると何かくれるのかな?』
トッポパパ、『なにもくれないよ!』



このお父さんと子供さんは何してるのでしょうね。



日没前は、黄色の浴衣を着た選ばれた人?が踊りを教えているようです。



波打ち際は、夕暮れの涼を求めて多くの人がくつろいでいます。



続く..........................................................................。

海外の都市の紹介、 その83の1 『カンチャナブリ(戦場に架ける橋)』

2010年09月02日 | 海外の都市の紹介
タイの『カンチャナブリ』の紹介です。
タイの首都バンコクより、車で2時間ほどのところにある街です。
年配の方はよくご存じだと思いますが、映画『戦場にかける橋 』、そして『クワイ河マーチ』で有名な街です。



最初に訪問したのは、連合軍共同墓地(Kanchanaburi War Cemetery)です。



少し歴史を調べてみました。
19世紀後半、タイはフランスやイギリスによる武力攻撃を受けます。
しかしベトナムやシンガポールのような英仏の植民地にはなりませんでした。
タイと日本との関係は良好で、1902年にタイの皇太子が日本を訪問するなど、日本との友好関係を意識的に築き、欧米と外交調整を続けました。



1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲するのとほぼ同時に、マレー半島にも上陸作戦を開始した。
1941年末までに、日本はマレー半島をシンガポールまで占領し、ミャンマーからインド方面への進軍を続けました。
当時、日本は戦略的にマレー半島からミャンマーの前線まで兵士と物資を補給するための陸の輸送路として、タイ国内を横断する鉄道の敷設を急ぎました。
タイとミャンマーを結ぶこの鉄道は、全長は約415kmで、『泰緬(たいめん)鉄道』と呼ばれました。



1942~1943年にかけて行われた日本軍による泰緬鉄道建設を描いた映画が『戦場に架ける橋 』です。
1942年、旧日本軍はインド・ビルマ戦線への海上輸送に代わる物資輸送路の確保のために泰緬鉄道建設を決め、連合軍捕虜と現地アジア人を動員させて突貫工事によりたった1年で完成させました。



ここカンチャナブリの連合軍共同墓地は、日本の捕虜となり泰緬鉄道建設中に栄養失調やコレラ等で死亡した連合軍兵士が眠る墓地です。
連合軍捕虜6万人のうち、およそ16,000人がここカンチャナブリで死亡したといわれています。



それぞれの墓の間には熱帯の花が植えられ、大変美しい墓地公園となっています。



いくつかの墓地があるそうですが、ここには6982人が葬られているといわれます。
その一人一人について、姓名・所属・年齢・家族構成が記されています。この墓地は、名誉の死を遂げた兵士たちにタイの人々が寄進した土地のようです。
欧米から多くの人が、この墓地に参拝に来られるそうです。
日本人も多くの人が亡くなったようですが、ちょっと複雑な思いで参拝しました。



次回は戦場に架ける橋の橋の紹介です。

続く......................................................................。