TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

神奈川の景勝50選、 その12の2 『披露山公園』

2005年11月30日 | 神奈川の景勝50選

披露山公園の境内の中に、昭和25年の大雪の時の公園からみた写真が紹介されていました。

接写して、再現してみましたので雰囲気だけでも味わってください。





そして同じ場所から、本日の景色です。
ここには、富士山を写真に収めるために多くのカメラマンが訪れるそうです。

披露山公園は夕暮れが夜景ベストタイムで、空気の透き通った晴れた日であれば、富士山をバックに、江ノ島の灯台、そして湘南の海に輝く夕日と夜景の変化を楽しめるそうです。





逗子湾には、今日のクルージングを終えたヨットが戻ってきています。





視線を右下に向けると、日本のビバリーヒルズと呼ばれる「披露山庭園住宅地」を
上から見ることができます。

たしか、みのもんたさんの豪邸もこのあたりだと思います。
来る途中、訪問客を装い高級住宅地を一周してきましたが別世界のようでした。

交通の便はどうなのかな? と考えましたが、多分このあたりに住める人は、皆送り迎えつきの人達なのだと妙にに納得しています。 





そんなことを考えているうちに、空が暗くなり帰路につきました。
後編はトッポの出番なしでした。




神奈川の景勝50選、 その12の1 『披露山公園』

2005年11月29日 | 神奈川の景勝50選

『披露山公園』 を紹介します。

この公園は逗子の披露山の頂上にあり、逗子市全景、江の島、相模湾の海岸線、富士山などを一望できる景勝です。

公園に上るとすぐ景勝50選の石碑がみつかりました。
恒例により、トッポの記念撮影です。





駐車場の前の階段を降りると 石原慎太郎さんのお屋敷の横を通り逗子海岸へ出られるそうです。





披露山の名称の由来は、『改訂逗子町誌』によると、「鎌倉時代将軍に献上物を披露する所なりと、或は披露の役人の住宅地なりと、又鷺浦(現在の小坪)より献上の小壷を披露せし所なり」と記されていました。

おそらく、源頼朝あたりが、諸国から献上された品々をこの山で武将たちに披露したことがきっかけとなって、この名前がついたのでしょう。





ここから見られる眺望を逗子八景といわれているそうです。
そして、その石碑が立っていました。





次回に逗子八景の一部を紹介します。

続く.........。

 

神奈川の景勝50選、 その11 『長者ヶ崎』

2005年11月28日 | 神奈川の景勝50選
『長者ヶ崎』 を紹介します。

長者ヶ崎は、葉山町と横須賀市との境に突き出た細長い岬で、崖下一帯は荒磯と砂浜が広がる。江の島や伊豆大島などを一望でき、夕日の美しさでも定評があります。

夏は海水浴場になる海岸線を景勝50選の石碑を探して歩くこと1時間、あきらめて帰ろうとしたところ駐車場の奥の塔の下で、やっとみつかりました。

トッポと、やっと記念撮影ができました。
(結構、場所によっては何処にあるか分からないのです。)





長者ヶ崎、その昔、北条早雲と三浦道寸との古戦場の跡だそうです。
海岸に下りると砂浜が広がり、海風を浴びて散策するのもよいそうですが、岬の方へは現在危険防止のため近寄れないとのことです。

しかたないので、トッポの記念撮影は海水浴場側から撮りました。
午後は、どうしても逆光になるので顔がハッキリしませんね。





逆光で海岸線での撮影は難しいので、駐車場から海を覗きこみました。
この辺は、SEA KAYAK(シーカヤック)が有名で、偶然下にカヤックを操っている人を小さく捉えました。





ズームアップして、何とか形になりました。
波のない海上をカヤックで、みずすましのように進む姿は絵になりました。



僕の友達、 怜奈ちゃん誕生! おめでとう、島流しさん。

2005年11月27日 | その他

先週は島国に、出張していました。
島流しさんに、11月12日待望の女児誕生です。
名前は 『怜奈』 (レナ)ちゃんです。

母子とも健康とのことで、ご家族の皆様心よりお祝い申し上げます。





生まれて10日目の写真ですが、髪の毛もふさふさで可愛い寝顔でした。
切れ長の目と、すっきりとした鼻筋は誰に似たのでしょうね。

将来は、きっと美人なお嬢さんになることと思います。
お知り合いの方は、是非祝福してあげてください。





トッポの写真も、出番がないと淋しいので、ついでに載せました。





出張から帰って、トッポの手術の剃り跡を見ると、うっすらと伸びてきた胸毛に色がついてきたようです。

早く伸びてくれないと、冬になりますから困りますね。




神奈川の景勝50選、 その10の3 『石垣山(太閤一夜城跡)』

2005年11月27日 | 神奈川の景勝50選

本丸跡を示す石碑の前でトッポの記念撮影です。





歴史書の記述によると、小田原城城主、北条氏はある光景を見て愕然としたそうです。

小田原城の西方約3キロのところにある笠懸山(昔は石垣山という名称はなかった)に忽然と城が現れたのである。

世に有名な石垣山一夜城である。

一夜城という名はつけられてはいるが、一夜でつくられたわけではないそうで、実際には、約4万人の労働力で約80日間かかっての築城であった。

ただ、築城中は、白布などで隠し、完成後、周囲の樹木を伐採し、小田原城から見えるようにしたという演出であった。

その城も、今はなく当時の木立が残っているだけでした。





バカ親父は詳しい歴史や城の構え方の是非はわかりませんが、小田原城よりも自然の地形を利用し入り口も定かでない城跡に自然の要塞を感じました。

登ってきた道を、テクテク歩きながら駐車場に到着。

トッポ、 『山と石ばかりで、何が面白いの? 疲れた!』
バカ親父、 『お前はバッグの中だから疲れないじゃないか?』





バカ親父、 『まぁ、そんなにしょぼくれた顔すんなよ! 何か、食べようか?』
トッポ、 『エッ! 食べるの? ワーィ。』





てなことで、トッポと食事をして帰路につきました。

神奈川の景勝50選、 その10の2 『石垣山(太閤一夜城跡)』

2005年11月26日 | 神奈川の景勝50選

二の丸の景色を紹介します。
さすがに小田原城と違い、ここまで来るには車で登らないときついので観光客はほとんどいませんでした。

庭師が一生懸命手入れをしていました。 今でも綺麗に二の丸跡を保存しているのは、この人達の努力なのでしょう。





さて、その上が本丸です。 もう一段、上に登ります。





本丸に登る前に、二の丸の展望台より駒ケ岳を望みました。
少し山側は雲が多く、残念です。





そして、本丸跡に到着です。

石垣城跡の石碑で、トッポの記念撮影です。





50選の石碑も、史跡には負けてしまうのですね。
ここからの眺望は素晴らしいものがあるようです。

天気がもう少しよければ、もっときれいな画像を届けられたと思うのですが、残念です。





あと本丸跡の写真がありますので、もう少しお付き合いを.

続く..........。

神奈川の景勝50選、 その10の1 『石垣山(太閤一夜城跡)』

2005年11月25日 | 神奈川の景勝50選

豊臣秀吉は小田原城攻撃のための本陣をここに置くことを決め、巨大な陣城を築いたのである。

伝説によれば秀吉は城の完成を急がせ、そのためには骨組みに白紙を貼って漆喰塀に見せかけ、また一夜のうちに周囲の樹木を伐採して城が突如として出現したように見せかけたという。

小田原城中の将兵はこれを見て天魔の降臨かと大いに恐れ驚き、ために開城を早めたと言われている。


しかし現存の遺構から、これは多くの資材を投じて建設された本格的な城塞であり(のべ4万人が動員された)、関東では初の総石垣の城であったことが判明している。

「一夜城」というパフォーマンスを行わずとも城の完成は豊臣政権の実力を見せつけるものであり、小田原北条氏の運命は既に決していたのであった。





ここも、名所旧跡なので神奈川の景勝50選の石碑は立っていませんでした。

城はありませんが、ここが上り口です。





うっそうとした木立の間を、暫く登ります。
トッポはまだ無理をさせられないので、バッグの中で登ります。
途中で記念撮影です。





この奥の掲示板に、石垣山の説明がありました。





しばらく森林浴を楽しみながら歩くこと15分ぐらいで広々とした庭園のようなところに到着しました。





ここが、二の丸と呼ばれる跡地だそうです。
まだ、上があるのです。 フゥー疲れますね。

続く...........。

神奈川の景勝50選、 その9の2 『秋谷の立石』

2005年11月24日 | 神奈川の景勝50選

国道と海岸との間に、小さいけれど手入れが行き届いた小公園があります。





素敵な松ノ木がたくさんあります。 松と海岸は、いつも絵になりますね。





立石と呼ばれるこの奇岩は約2500万年前に海底に積み重なってできた地層が固まり長い間波に削られ続けてこのような形になったそうです。

もう一度、トッポの記念撮影です。 海に向けて写真を撮ろうとすると、どうしても逆光になるので、トッポの顔がハッキリしませんね。





右側を見ると素敵な松と海岸が一体化した景色を堪能できます。





公園を離れる前に、海を覗くとゴールデンリトリバーが投げられた枝を追いかけて何度も海に飛び込んで遊んでいました。

さすがに大型犬の泳ぎは豪快ですね。 
タイミングよく撮れました。





寒くないんですかね? たくましいワンちゃんでした。

神奈川の景勝50選、 その9の1 『秋谷の立石』

2005年11月22日 | 神奈川の景勝50選

秋谷海岸にある大きな岩礁です。
巨岩が海中にそそり立っています。

かつて安藤広重の版画 『相州三浦秋谷の里』 にも描かれた景勝地として知られ、今は夕日のポイントとして人気のある 『秋谷の立石』 を紹介します。

だいぶ石碑との記念撮影に慣れてきたようです。
トッポがガイド役ですので、トッポが写っていないとね。





巨岩の後ろのぼんてんケ鼻の岩場に松が自生しています。

天気の良い日には、相模湾をへだてて丹沢、箱根、伊豆の連山さらに遠く富士山を望むことができます。

絵画的な美しさは、誰でもシャッターを押したくなる景色ですね。





何とも言えぬこの奇岩「立石」は高さ約12メートル周囲約30メートル
快晴の日の青い海と空・日没前の夕日は素晴らしいそうです。





泉鏡花が明治41年に発表した小説 「草迷宮」の一節が碑になっていて、訪れる人も多い。





トッポ、『難しくて僕には、良く分からないけどパパわかるの?』
バカ親父、 『.............恥かかすな!』

続く.......。

神奈川の景勝50選、 その8の3 『小田原城』

2005年11月21日 | 神奈川の景勝50選
天守閣は、明治の廃城令にともない破却され昭和35年5月に再建されたものですが、往時から今に残っているものは、城石と周囲の松なのです。
歴史をずっと見守ってきた、とても立派な松の巨木を紹介します。



この松の、説明がありましたので。
推定樹齢、400年とはすごいですね。
秀吉はじめ多くの武将がこの松を見てきたと思うと、城よりもこの松のほうが歴史の生き証人なのでしょうね。



大河ドラマ新選組4話で使用された門ですー!!
銅門とよばれたそうです。 もう少し近くで撮ればよかったですね。



松の巨木を、城壁の外から見るとまた違う景色になります。



最後に、本丸の近くに小動物園があり大きな象がいました。
動物園と城との混在は、多少賛否の意見はあるようですが、カメラを向けたらポーズ?を撮ってくれたので、トッポの代わりに紹介します。



今度は、太閤一夜城跡の石垣山へ足を運びたいと思います。
今回はトッポの出番がなく、すいませんでした。

神奈川の景勝50選、 その8の2 『小田原城』

2005年11月20日 | 神奈川の景勝50選
『小田原城』をネット上の資料を基に紹介します。
小田原城は15世紀初めごろ、大森氏によって築かれる。
明応4年(1495)に戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点となり、豊臣秀吉の小田原攻めに備えて大外郭を完成させ、日本最大の城郭となった。
江戸時代は徳川家康の家臣・大久保氏が城主となり、城の規模は三の丸以内に縮小される。その後、稲葉氏が一時城主となるが再び大久保氏が城主となり、幕末まで続いた。
明治に入り廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災により崩壊してしまいます。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と大外郭の一部が、国の史跡に指定。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣を復元。次いで昭和46年(1971)には常盤木門が復元された。



それでは、小田原城天守閣の紹介です。
この角度が、この天守閣が一番美しく見える角度のようです。
バカ親父にしては、良く撮れたと自画自賛しているのですが!




小田原城の歴史です。
応永24年(1417) 大森頼春、駿河鮎沢より小田原に移り城を修築。
明応4年(1495)  宗端(北条早雲)、大森藤頼を相模真田城へ追い、小田原城を奪う。以後、氏綱・氏康・氏政・氏直と、後北条氏5代の居城として栄える。
永禄4年(1561)  長尾景虎(上杉謙信)。小田原を攻める。
永禄12年(1569) 武田信玄、小田原を攻める。
天正15年(1587) 小田原城の大修築。
天正17年(1589) 秀吉、後北条氏討伐を諸大名に告げる。
天正18年(1590) 豊臣群の侵攻に備え、大外郭ほぼ完成。

豊臣秀吉、早雲寺に本陣を置く。石垣山一夜城を築き、小田原城を包囲。 
氏直、降伏して小田原城を明け渡す。
徳川家康の家臣大久保忠世、遠江二俣城より移り入城。

慶長19年(1614) 大久保忠隣改易となり近江に配流。城の大外郭は破壊される。以後幕府の直臣が番城。
この頃、初期の天守閣が完成しました。



上の写真は常磐木門と呼ばれています。小田原城本丸の正門で、最も大きく堅固に造られていたそうです。
常磐木とは常緑樹の意味で、門のそばにあった松になぞらえてこの名が付けられたようです。
被写体がどれもこれも大きすぎて、トッポの出番がないのですが最後に門を出たあたりから撮ってみました。



小さいトッポが、ますます小さく見えます。
まだ素敵な写真がありますので、もう1回続く........。

神奈川の景勝50選、 その8の1 『小田原城』

2005年11月20日 | 神奈川の景勝50選
50選は景勝地なので、神奈川の場合は海沿いに景勝地が多く点在しています。
今回は、ちょっと趣を変えて 『小田原城』 を紹介します。
最初にお断りしておきますが、2時間もかけて城跡周辺を探しましたのですが、石碑を見つけることができませんでした。
城内の関係者数人に石碑があるか聞いたのですが、知っている人がいませんでした。
名所旧跡には石碑に優るものが多いので設置されていないようですね。



駐車場に車を停めて、小田原城紹介の看板を通り遊歩道を歩いて登ります。
トッポの記念撮影を試みましたが、外面のよいトッポは観光客に声をかけららると愛想を振りまいて落ち着いて撮影ができませんでした。



小田原城は戦国時代関東一円を治めた北条家五代の居城であったところです。
天守閣の前で早速、トッポと記念撮影です。
ところが、被写体が大きすぎてトッポは米粒大になってしまいました。



これではガイド役のトッポが可愛そうなのでアップを一枚。
ただ、改築用?の木材がおいてあり、少し興ざめですね。



素敵な写真がたくさん撮れましたので順番に紹介します。

続く.........。

神奈川の景勝50選、 その7 『盗人狩』

2005年11月19日 | 神奈川の景勝50選
三浦半島南岸。宮川湾と毘沙門湾のちょうど真ん中あたりに『盗人狩』と呼ばれる景勝地があります。

今回はこの盗人狩を少し紹介します。
ところでなんと読むのでしょうか?  『ぬすとがり』 が正解です。



三浦市のネット情報によると、三浦半島先端部は、中央に当たる毘沙門海岸あたりから、宮川湾真ん中の八景原付近までの海岸線にかけて、直角に近いほど鋭く切り立った絶壁が海に向かって続き、その真下には、さまざまな姿をした岩礁が、台地状に広がっています。



こうした海蝕風景が続くなかに、ひときわその奇景が目立つ“盗人狩”です。
歩く人の頭上に覆いかぶさるような巨岩が、その下をえぐられて海に突き出て、足元の岩に波がぶつかっては砕け散って渦を巻き、荒々しい音をたてています。
言い伝えによると、あるとき盗賊のひとりが追われてこの絶壁の上まで逃れてきましたが、崖の下からは異様な物音が聞こえ、ふと下を見ると、吸い込まれるような絶壁と逆巻く激浪がぶつかり合う光景に足がすくんで動けなり、盗賊は追ってに捕らわれたそうです。
これがこのあたりを、盗人狩と呼ばれるようになった由来です。



トッポは伝説の話しを微妙に感じたのか、断崖絶壁の異様さに驚いたのかバッグの中で興奮しています。



平らな岸壁のほうに連れて行って記念写真です。



こっちのほうがいいよね。 トッポは靴履いていないから足が痛いそうです。
険しい海岸の様子は、次回機会がありましたらもう一度訪問して紹介します。

神奈川の景勝50選、 その6 『城ヶ島と大橋』

2005年11月18日 | 神奈川の景勝50選
城ヶ島は三浦半島の南東端に位置し、周囲4キロ、東西2キロ、南北500メートルほどの小島です。

北原白秋の「城ヶ島の雨」で有名ですが、三崎港の自然の防波堤の役割があります。

城ヶ島大橋を渡ると城ヶ島公園に到着です。 
展望休憩所等あり、海岸の岩礁地帯にも降りられますので子供連れの観光客やピクニックにくる人も多いようです。





石碑は無料駐車場の方の白秋碑の近くにあります。
公園のなかに入ると分岐路になっています。 その分岐路のところに公園50選の石碑があり、トッポの記念撮影をしました。





最初の展望台横から、下をのぞくと岩礁地帯がのぞけます。
トッポはさすがに急階段ですので、バッグに入れて移動です。





海岸線は、波に浸食された険しい岩礁地帯となっています。





天気が変わりやすかったせいもあり、3時ごろには夕方のような景色にかわっていました。





名もないと思っていた小さな灯台には、ちゃんと名前がありました。
安房崎灯台と呼ばれているそうです。

トッポが歩ける岩場ではないので、バッグごと撮影、わかりますか?





その後、10分ぐらいで日没を待たずに薄暗くなってしまいました。





釣り人は、暗闇で足場の悪いところを大丈夫なのかと心配しながら帰路につきました。

神奈川の景勝50選、 その5の2 『森戸の夕照と裕次郎』

2005年11月17日 | 神奈川の景勝50選
50選の石碑の横を抜けて右側の海岸です。

とても小さくて海岸ともいえない入江ですが、箱庭のように全体がまとまっていてなんとも言えない趣があります。



1181年、頼朝が衣笠城へ向かう途中にこの地で休憩をとった。
そのとき、この岩の上に立つ松の木を見て頼朝が、「とても珍しい松だ」
と言ったところ、迎えに出ていた三浦の和田義盛は、「これは千貫の価値がある
松なので、地元では千貫松と呼んでいます」と答えたそうです。

そして、ここに裕次郎の記念碑が建っているのです。
ちょうど、海上の森戸の鳥居、裕次郎灯台、そしてたくさんのヨットを背にして。



なんて書いてあるのか、アップで紹介します。
いったい誰だ! 裕次郎の顔を汚したのは! (本気でムカツク!)



そして下に、兄、慎太郎が書いた言葉が刻まれています。



夢はとおく 白い帆に のって
消えていく 消えていく 水のかなたに
太陽の季節に 実る
狂った果実たちの 先達
石原裕次郎を 偲んで

こんな言葉が刻まれた石碑の先に、白い”裕ちゃん灯台”が見えるのです。
トッポは出番なしでした。 すいません。