最近は手術前ということもあり、体力温存を優先し外出も控えています。
トッポも出かけることがなくなり不満顔ですが、運動不足の解消は手術後に頑張ることにします。
トッポ、『僕は今日血液検査してきて、全部正常だったけど、パパ、大丈夫かな?』
この歳になるまで、トッポパパもある意味で、忙しいを日々を過ごしてきたようです。
その昔、業界誌にエッセイを書いたこと思い出し、もう一度思いつくままに半世紀近くに及ぶ海外出張を、謹慎中(?
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)の身なので、暇に任せて振り返ってみました。
トッポパパが社会人になって、海外出張に出ることになったのは20代の後半で、今から35年も前のことです。(歳がバレバレですね。
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)
海外に販路を広げようという会社の意向で、海外出張を考え、最初はアメリカか、それともヨーロッパがいいのか迷ったのですが、英語圏でもあり、多少近い?ということもあり、オーストラリアへ飛び立ちました。
当時はオーストラリアドルは、当時1ドル=400円(現在は80円前後)です。
メルボルンに到着し、一般的なレベルのホリデイインに宿泊。1泊90ドル=36000円にビックリし、出張費が瞬時に消えてなくなると、朝食を山ほど食べて昼食抜きの出張でした。
当時の給料は、確か5-6万円だったので、2泊すると給料が消えてしまう勘定になります。 会社にとっても、大変な経費だったと思います。
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当時は独身でしたので、オーストラリアから母にエアメールを送り、驚きの様子を伝えました。
後日、母が娘にそのエアメールを見せたので、『お父さんも、可愛いところあるね。』と言われく苦笑したものです。
現在は、格安のパック旅行を探せば、数万円で海外旅行が出来る時代ですので、昔に比べれば夢のような世界です。
当時はまだまだ日本全体が貧しい国だった頃なので、大きな庭付きプール付きの家に招待されたり、オペラハウスを自家用クルーザーで案内された週末は、カルチャーショックに陥り、この格差は何なのだと驚きの毎日でした。
またオーストラリア人は開拓民族が主流なので、レディーファーストの徹底振りと、オーストラリア独特の英語の発音への戸惑いを、いまでも思い出します。
帰りに寄った国がシンガポールです。
シンガポールがマレーシア連邦から独立したのが1965年ですから、まだ独立して10年も経っていないころです。
現在はGDPも日本を抜いて、 近代国家に生まれ変わっていますが、当時は一部値域を除いて、まだまだ目抜き通りでさえ街灯もまばらで閑散としていた時代です。
日本のデパートも、たしかヤオハン(経営破綻で現在はイオングループ)だけだったと思います。
以来30年以上の付き合いになりますが、昔からの知人が今は会社の社長になっていたり、パートナーになっています。
シンガポール人は欧米のビジネスライクな感覚と、中国人の商売感覚を同時に持ち合わせ、現在は東南アジア諸国では、もっとも活力ある国に変貌しました。
シンガポールは現在、東南アジアの拠点としてビジネスも多くよく出張します。
ブログに良く登場する『島流しさん』の、駐在先でもあり、トッポパパには、第2のホームタウン感覚の国です。
半世紀の間にトッポパパが一番出かけた国はやはり韓国でしょう。
最近は若い人たちにバトンタッチして、1年に数回の短期の訪問になりましたが、30代40代は毎月のように出かけていたので、延べ200回以上も訪韓したのでしょう。
当初は戦争の後遺症?なのか、対日感情も微妙なものがあり、ソウルの街を歩いていると、子供達に石を投げられたこともありました。
一番の思いでは、1979年の朴大統領暗殺事件です。
トッポパパが仕事を終え、空港へ向かう途中でこの事件が報道され、暗殺者が日本人の可能性もあるとの臨時ニュースで、あわや出国停止になりそうでした。
暫くして、日本人ではないと確認されたようで無事帰国が出来ましたが、心中穏やかではありませんでした。
当時は戒厳令下で、確か、夜12時間以降は韓国人は外出禁止、日本人はパスポートを携行するよう指示されていました。
韓国人曰く、韓国では大統領の次は監獄行きか暗殺だと冗談を言っていましたが、今回の盧泰愚大統領の自殺が報道されると、大統領も大変なんだと思いますね。
しかし、日本に追いつき追い越せを合言葉に、愛国心が強い韓国のここ20年ほどの経済の急成長は目を見張るものがあります。
日本の良い点は真似ても良いと思いますが、悪い点はそれなりにと思ってしまうトッポパパです。
韓国についで訪問回数が多いのが台湾です。
台湾人は比較的親日家が多く、知り合った人たちは、とても良い人ばかりで歓待してくれました。
戦中戦後の蒋介石の動向や、日本の北方領土問題の引き金になったヤルタ会談など、台湾の政治的背景は複雑なものがあったようです。
でも台湾の友人達が、戦後中国よりいち早く戦後の復興を果たすことが出来たのは、日本の教育の影響が大きかったと聞かされたときは、複雑な心境ではあるが、多少なりとも救われた感覚を持ったものです。
『友遠方より来る....』の気持ちで、胸襟を開いてくれた台湾の友人に感謝です。
まだまだ元気で活躍されている人もたくさんいますが、半分以上の友人はすでに他界され、一つの時代が終わりつつあるなと思います。
紹興酒を水代わりのように飲み、日本ではとても高価なヘネシーなどのブランディー(当時は1本30,000円)を、乾杯、乾杯と浴びるように飲んでいた豪快な人達です。
トッポパパが酒に強くなったのは、彼らのおかげでしょう。(笑)
余談ですが、台湾人がフランスを旅して、夜な夜なブランディやワインを一気飲みする姿を見て現地の人は眉をひそめたそうですが、台湾人曰く『こんな美味しいものを、今まで味わうことがなかった。 だから急いで飲んでいるんです。』......台湾人らしい逸話です。
その後、中国へのビジネスが盛んになります。
蒋介石率いる国民党政府は台湾島に移った後、1949年に毛沢東が天安門で中華人民共和国の建国を宣言しました。
その後も毛沢東主導による共産主義社会の強化、中ソ対立、文化大革命と中国は激動の時代に入っていきます。
トッポパパが最初に中国を訪問したのは、田中角栄による1972年の日中国交樹立(正常化)前後の頃で、文化大革命で外国人の入国が制限されていた時期です。
当時は香港経由での広東交易会が唯一の商談の場所でした。
その後国交正常化により上海に訪問するようになりましたが、当時の上海は街灯も少なく、女性もすべて白のブラウスとグレイのスラックス姿で、『同士』と呼びながら、商談をしなければならない共産主義の色濃い時代でした。
もちろん、女性もパーマ(古いね
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)などかけた人など皆無で、御土産店での一番の売れ筋商品も、硯や筆そして香港で有名な万能塗り薬、萬金油の類でした。
現在の上海は、東京と同じようなファッション感覚で、日本の50年を10年で通過してきたようです。
一番の強烈な思い出は、中華人民共和国河南省東部に位置する、中国でも最も歴史が古い都市で、北宋の首都であった開封を訪問した時に、ご馳走になった?『さそり』です。
二度と口にすることはないと思いますが、カルシウム豊富だと言われても、これはなんとも表現できない経験でした。
近未来の潜在需要ということでは、人口も多く経済が急成長している中国やインドが、各国注目の市場なのは疑問の余地もないでしょう。
中国の人口の30%の人が携帯電話を使うだけで、その数は日本の人口の数倍になるわけですから、想像を絶する可能性を秘めたマーケットです。
また貧富の差が大きく、富裕層は人口の10%だけとも報告されていますが、日本の人口と同じくらいの人が富裕層だと考えると驚きです。
今後どのように中国が変貌していくのかで、世界経済に与える影響も変わっていくのでしょう。
世界で第2の人口を誇るインドへ出かけたのも、同じ時期でした。
インドの国営企業との商談で、デリーとカルカッタには何度か訪問しました。
デリー訪問時、世界遺産であるタージマハルを案内されました。
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、22年の歳月をかけて亡き妻に捧げた白亜の霊廟で『王冠宮殿』とも呼ばれる建築物は、正確無比で左右対称なパレス風の建物で、見事なものでした。
もし機会があれば、もう一度訪問してみたい場所です。
ボンベイ(現在のムンバイ)では、技術供与契約の際記念植樹もしたので、今頃は大木になっているのでしょう。
インドでは九死に一生を得た経験もあります。
帰国便が離陸前に、直径2m近いジェット噴射口?より火炎放射器のような火を噴出し、窓際の席から目の前で起こった突然のトラブルに爆死を覚悟したものでした。
幸いに自動消化作用?のようなものが働いたようで、大事には至りませんでしたが、もし離陸時に起きていたら、間違いなくあの世行きでした。
危険な経験といえば、イラク出張も同じです。
日本のエンジニアリング会社のプラント建設ラッシュに伴い、何度かバグダッドとバスラにもでかけました。
当時のバグダッドは、滞在中のホテルでも満足な食事も取ることができず、時々持参のソーメンをすすって仕事を続けていました。
ある日、早朝にシャワーを浴びていると、窓際に閃光が走り、直後、ドーンという爆発音が響きました。
これが1980年9月に始まったイラン・イラク戦争の始まりです。
ホテルから1.5Km程の地点にミサイルが落ちたそうです。
外国人滞在者に緊急連絡がまわり、我々もあわててチェックアウトし、夜中に空港へ直行しました。
各国で自国民を帰国させようと緊急手配した特別便を待つ空港内は、少しでも情報を取ろうと罵声が飛び交う混乱になり、パニック映画を観ているような感じでした。
『アメリカ人!』、『韓国人!』『フランス人』と、到着便に合わせて、自国民を招集する拡声器による大音響が響来ました。
日本人は比較的我慢強いのか、心配顔ながらも混乱もなく、おとなしく待っていました。
でも、最後まで『日本人!』の声は聞けませんでした。
何故、韓国からは飛行機が来たのに、日本からは特別便がこないのかと、ガッカリして、疲れた身体でホテルに逆戻りです。
結局、翌日の便で、無事成田に到着しましたが、空港で関係者から『お疲れ様でした!』の言葉に、『うるせい! 日本はどうなているのだ!』と返したい言葉を飲み込んだものです。
それから数年後、ドイツに出張中の1985年、湾岸戦争の再燃を知りました。
テレビで相互の都市をミサイルで攻撃しあう映像を見ながら、ほんとに出張時にいろいろなことが起こると、考え込んでいました。
前後して、イラクの王子様を日本に迎え、参議院議長に挨拶し、京都にも案内したこともありましたが、ブッシュ大統領のイラク侵攻後、消息が不明になりました。
政治の世界はよく分かりませんが、戦争は絶対にいけませんね。
その後、1980年代はヨーロッパ諸国への出張が多くなり、北欧、ヨーロッパ、南アフリカ、北米と駆け回る時代を過ごしました。
どの国にも、それなりの思い出がたくさんありますが、一冊の本にしても書ききれないでしょう。
家族との海外旅行は、インドネシアのバリ島でのダイビングやジェットスキー、象に乗っての散歩も懐かしい思い出です。
マレーシアのペナンで孤島へ向かい、入れ食いの釣りや、トローリングでブルーマリンを釣り上げた思い出も忘れられません。
しかし悲惨な思い出は、1993年に家族でグアムに出かけたある日の夕刻、美味しいステーキでも食べようと鉄板焼きレストランでビールを飲もうとしたその瞬間、グアム島をマグニチュード8.1の大地震が襲いました。
まるで遊園地の乗り物に乗っているような、大きな横揺れでした。
吹き抜けの天井からシャンデリアは落ちるし、部屋の冷蔵庫、セイフティボックスそしてベットまでも壁から数十センチも移動し、倒壊したものも多く、地震には慣れているはずの日本人にも、経験したことのない大地震でした。
雨が降る屋外に傘も持たずに避難させられ、津波の不安におびえる大勢の人の前を、傘を指しながら指示しているホテル関係者にトッポパパが激怒し、『予備の傘や毛布を避難している人に配れ! ダメなら俺が取りに行く!』と叫んでいた。
傍で、ママや娘が、頼むから傍にいてくれと止められなかったら、ホテルの中に入って行ってしまったかもしれないと、あとで見境の付かないトッポパパが反省させられました。
幸い人的被害が少なかったのは、震源が深海であったことと、グアムが台風の通り道なのでリスク・マネジメントがしっかりしていたからでしょう。
トッポパパはほんとに色々な経験をさせてもらっているようです。
娘が一昨年結婚しました。 奇遇ですが、娘の結婚相手も、この地震の時グアムに旅行に来ていたようです。
不思議な縁があったのも知れませんね。
左手の痺れは今も続いているので、これだけ入力するのに1週間もかかってしまいました。
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支離滅裂な思い出話で中身はありませんが、ちょっと思い出すだけでも、いろいろなことを経験した半世紀でした。
しかし、こうして振り返ると、トッポパパは強運のようです。
15日は、また院長診察です。
どのような手術日程になるのか分かりませんが、もう一度強運を信じたいと思います。
元気になって、機会があれば後半の半世紀も書いてみたいと思います。
皆さんのブログは定期的に訪問させていただいています。
まだ余裕がなく、いましばらくコメントは残せませんが、ご容赦ください。