TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その147 『北海道横断・東藻琴、阿寒湖』

2014年06月30日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
ちょっとバタバタしていて、間が空いてしまいました。
北海道横断旅行の最後は、道東の東藻琴(ひがしもこと)の『東藻琴芝桜公園』に寄りました。



東藻琴は比較的網走や北見からは近い場所です。



関東で一度芝桜を観に行きたいと思っていたのですが、なかなか日程の調整ができず今年は諦めていたところでした。
北海道でなんとか満開のピークは過ぎたものの、芝桜を楽しむことができました。



10万㎡の公園内の斜面に咲き誇る芝桜は、白、ピンクなど4種類です。



南斜面から徐々に咲き始め、西側斜面まで順次咲いていくそうです。



芝桜は、白や、薄いピンク、薄紫、赤の花を咲かせるハナシノブ科の多年草で、花の形が桜に似ていること、芝のように地面を覆い尽くすことから、『芝桜』と呼ばれています。
1周820メートルのゴーカートも、芝桜に囲まれて走ると爽快でしょう。



東藻琴の芝桜公園は、1977年から最初はたった一人で山の斜面の開墾と苗付けを行い1991年に現在の広さになりました。



約10ヘクタールにも及ぶ広大な公園の斜面一面に芝桜が植えられていて、特に山の斜面が南から西にかけて弧を描くように取り囲んでいる為、あたかもピンク色の芝桜に取り囲まれているように感じます。



今回の旅行の最終地は全域が阿寒国立公園の阿寒湖と雄阿寒岳です。



トッポパパは確か高校の修学旅行で来たような記憶があります。
阿寒湖に生育するマリモと木彫りの熊がお土産だったように思います。
コタンの入り口の大きな木彫りのフクロウです。
最近はフクロウの木彫りのほうが人気のようです。



アイヌ民族は、カムイ モシリ(神の国)とアイヌ モシリ(人間の国)の二つの国があると信じています。
その二つの世界を結びつけ、村を守ってくれる神の使いとして、熊(キムニ カムイ)や鶴(サルルン カムイ)などの動物がいますが、その最も位の高い動物がフクロウ(コタン コル カムイ)とのことです。



長い間アルバム整理?にお付き合いありがとうございます。
今日は大学病院で、またMRI検査を受けました。
結果が良ければ、今度はは何処へ行こうか思案中です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その146 『北海道横断・知床 その2』

2014年06月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
知床国立公園の知床五湖に到着です。
北海道の異常な猛暑も、ここまで来ると少し和らぎました。



知床五湖とは、北海道斜里町にある湖(沼?)です。
五湖あり、一湖から五湖までの名前がついていますが、湿地帯にあるため融雪期には数が増えるそうです。



羅臼岳の北東山麓に点在し、羅臼岳の溶岩流による堰止湖で、原生林に囲まれています。



5/10~7/31はヒグマ活動期とのことで、専門のガイド抜きでは地上遊歩道(高架木道)からの散策になります。



まさに原始の中の楽園にふさわしく、数多くの植物、動物たちを目にすることができまるそうです。
ヒグマに出会うことはありませんでしたが、エゾシカは何度か遭遇しました。



知床連山の大パノラマが見渡せます。



知床連山と呼ばれる山脈です。



原生林に囲まれてたたずむ幻想的な湖です。





周りの樹林や知床連山を湖面に映しながら静寂を保つ景観は、幻想的な風景です。、



この角度の写真が一番きれいな景色になるようです。



続く.................................................................................................。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その146 『北海道横断・知床 その1』

2014年06月21日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
網走経由知床に向かいます。
高倉健主演の『網走番外地』シリーズの人気で、刑務所は全国区の観光名所に躍り上がりました。
その後、刑務所の全面改築に伴い、旧刑務所の一部を移築した『博物館網走監獄』は、開館25年で通算入館者1000万人を超えたそうです。
車中から観た現在の網走刑務所です。
現在の刑務所は総面積1700haもあり、農業や畜産業、林業を生業とする刑務所です。
歴史ある煉瓦の塀が続く中、近代的な鉄筋建築が並びます。



正面の橋が鏡橋で、ここが娑婆との別れを意味してたのでしょう。
『網走番外地』の映画では脱走もありますが、第二次世界大戦後の混乱期でも、選抜された収容者が道内各地で道路、河川工事などに加わりましたが、脱走などのトラブルは発生しなかったとのことです。
現在の刑務作業は農作業のほか、『ニポポ人形』などの小物工芸品づくりも行われています。



知床に到着しました。
大きな『ニポポ人形』の出迎えです。
ニポポ人形 の語源は樺太アイヌの人たちのニィ・ポポ(小さな木の子供)から名付けられたそうです。
北方の地に暮らす人たちは木製の人形を作り家の中に飾ったり、持ち歩いて狩りでのけがや家族の病気から身を守る“お守り”として大切にしていました。



こちらはアイヌの像です。



オホーツク海と太平洋の接点にあたる知床は自然がそのまま残る数少ない場所です。
これより観て回る知床は平成17年に国内3件目の世界自然遺産として登録されています。



北海道の東端に長く突き出たいくつかの半島があります。
海岸線は断崖絶壁が続き、多くの川が滝となって直接海に流れ込み、迫力のある断崖・絶壁の半島が続いています。



ウトロの街から知床五湖へ向かう途中、奇岩が続くウトロ海岸です。
こちらは親子岩?との説明です。



こちらは亀岩と聞きましたが、トッポパパにはカメレオン岩の雰囲気です。



世界自然遺産に登録された北海道・知床の原生林が観えてきました。
昔は、その人を寄せ付けない地形・環境によって、『最後の秘境』と呼ばれてきた地域です。



車中から車道脇にあらわれたエゾシカです。
生態系調査用の鑑識札をぶら下げています。



知床五湖に向かいます。

続く.................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その145 『北海道横断・富良野、美瑛 その4』

2014年06月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
川と富良野の中間にある白金温泉街に来ました。
この辺りが北海道の中心に当たるそうで、旭川と富良野より車で約1時間ぐらいの位置です。
十勝岳の中腹に白金温泉街があるので、背景の残雪を抱えた十勝岳が絶景です。



昭和25(1950)年の開湯時に、当時の町長がその価値の高さを白金(プラチナ)になぞらえて名付けた温泉です。



この温泉街の真ん中にある滝が『白髭(しらひげ)の滝』があります。
この滝は十勝岳に染み込んだ雨水や雪解け水が長い年月をかけて地下水となり、溶岩層の割れ目から、白髭のように美瑛川に流れ落ちていきます。

 


この美瑛川は通称ブルーリバーとも呼ばれていて、青い色をした美瑛川の岩肌を伝うように流れる白い滝が、幻想的な コバルトブルーに見えます。
これから層雲峡に向かいます。



層雲峡は、北海道上川町にある峡谷です。
大雪山国立公園に位置し、大雪山に源をもつ石狩川を挟み約24kmの断崖絶壁が続く一大渓谷で、四角・六角の断面をもつ柱状節理の大岸壁から落下する数々の滝の風景が観られます。



層雲峡温泉を代表する景勝地で、この滝は『流星の滝』呼ばれ、約90mの落差を激しく流れ落ちる滝です。
水量も多く勇壮な迫力ある滝なので、『男滝』と呼ばれています。



滝が流れ込む石狩川沿い遊歩道がります。
この時期は水量も多いということで、ご機嫌のトッポママです。



こちらは『銀河の滝』です。
流星の滝より高い位置から流れ、120mの落差を水が白糸のように穏やかに落ちる様子から『女滝』とも呼ばれています。



優雅に流れ落ちる『銀河の滝』と力強く豪快な『流星の滝』の二本の滝は、日本の滝100選にも選ばれている名瀑です。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その145 『北海道横断・富良野、美瑛 その3』

2014年06月17日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『展望花畑 四季彩(しきさい)の丘』に来ました。
人気者の『ロール君』です。
ロールは冬に備えた牧草のロールのようです。



一番の見ごろは初夏、7月頃からなのでしょうが、この時期でも十勝岳を背景の丘は眺望抜群です。



ご年配の方にやさしいトラクターに乗って四季彩の丘をひと回りできます。



展望花畑四季彩の丘は、ここ美瑛に7ヘクタールもの広さを有しています。



春から秋にかけ30種類もの花畑が見られる花の楽園です。
わんこと一緒の散策もOK野ようですが、トッポには遠すぎて叶わぬ夢です。



このロール君、なかなか良くできていますね。



ロール君に別れを告げて、最近話題の『青い池』に向かいます。



青い池(あおいいけ)は北海道上川郡美瑛町白金にある人造池の通称で、『白金の青い池』、『美瑛白金青い池』とも呼ばれています。
途中、白樺の散策路を歩いていきます。



青い池の水が青い理由は白金温泉街の『白ひげの滝』から、アルミニウムを含んだ水が流れ込み、この滝が美瑛川の水と混ざると目に見えないコロイド状という粒子が生成されるのが原因とのことです。
この粒子から波長の短い青い光が散乱され、水そのものには色はないのですが青く見えるそうです
水の青さと立ち枯れた木々の幻想的な景観に、多くのカメラマンに人気のスポットです。



この青い池が世界的に有名になったのは、2012年7月に発売されたアップル社のOS X Mountain Lionの15種類の壁紙のひとつに、白石健人さんが撮影した北海道美瑛町の青い池の写真が採用されました。
世界のアップル社の歴史の中で、 初めて北海道美瑛町の風景がPCの壁紙になって海外からも多くの観光客が来るようになったそうです。



続く.................................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その145 『北海道横断・富良野、美瑛 その2』

2014年06月16日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
美瑛と富良野の間に標高288mの深山峠があります。



十勝連峰を背景に、遠目に畑、手前に花畑が広がる景色は絶景です。



7月になると、ラベンダーやポピーの花が咲きだすのでさらに彩が鮮やかになるのでしょう。



ここからの景色は十勝連峰、畑、花畑のバランスがとても良く、かみふらの八景にも選ばれている眺望です。





ここから歩いて5分ぐらいのところにトリックアート美術館があります。



トリックアートとは、人間の目の錯覚を利用して平面の作品を立体的に描くアートです。



エントランスには、日本テレビ「行列のできる法律事務所」のオークションで落札したX-JAPANのYOSHIKIさんと磯野貴理さんの作品を展示し公開しているそうです。



入場料が近代美術館並みと知り、是非入場して見たい絵でもないので早々に退散です。



続く............................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その145 『北海道横断・富良野、美瑛 その1』

2014年06月15日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
十勝岳連峰を背景に富良野盆地の田園風景を紹介していきます。



ラベンダーで有名な『ファーム富良野』を訪問しました。



ファーム富良野では、およそ15ヘクタールのラベンダーが栽培されるそうです。
残念ながら、ラベンダー開花には少々早すぎたようです。



十勝岳連峰を背景にしたラベンダー畑です。
7月に入ると一面がラベンダーの開花で、色鮮やかな景色になるのでしょう。



ラベンダーだけでなく、各種の花々も植えられるそうです。
畑はそれぞれ花人の畑、倖の畑、春の彩りの畑、秋の彩りの畑、彩りの畑などに分かれ、咲きそろうと鮮やかな色合いの丘になるようです。



こちらはファーム富良野のメイン施設、『花人の舎』です。



温室では、早咲きのラベンダーが満開を迎えていました。
富田さんはフランス・オートプロバンスから、『ラベンダーナイト』の称号を受けています。



ネットでの情報です;
60年代から北海道のラベンダーは、一時は富良野地に適した花として次々と農家が生計の為に植えていた。
だが、時代と共に値段の安い化学香料に押され、ほとんどの農家が作物栽培へと転換して姿を消してしまう。
そんな中で、今では富良野の代表的な花畑として知られる『ファ−ム富田』の富田忠雄氏は、こんな状況の中でも孤軍奮闘して栽培を続けていた。
だが、「もう来年はラベンダー畑をやめて整地しよう」と、思ったが、妻の助言もあり、1年だけ延期した。
そして翌年の75年6月、ラベンダー畑がたまたま当時の国鉄のカレンダーに載り、その光景の美しさは魅せられ全国の人々が訪れ始めた。
そんな人たちが感動する姿に、富田氏は励まされて再度、栽培に打ち込んだ。
そして何とかラベンダーを生かそうと家族総出で作ったラベンダーの匂い袋や香水が富良野のお土産として評判になり、植物性香料の優秀性が見直された。
一度は、あきらめようと思ったラベンダー畑には、遠くアジアなど海外からも含めて年間100万人以上の人々が訪れている。
ラベンダーに打ち込んだ富田氏の熱意が生んだ、美しい花畑の風景に多くの人々は魅了されている。



十勝岳連峰です。



続く............................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その144 『北海道横断・定山渓温泉』

2014年06月14日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
小樽を離れ定山渓温泉で宿泊です。



定山渓温泉には『かっぱ伝説』があります。
かっぱは定山渓のマスコットになっていて、街路や遊歩道に多数の河童の像が置かれています。



古くはアイヌに知られた定山渓です。
1815(文化11)年に岡山県の寺院で生まれた、後の美泉定山がアイヌから山奥の渓谷に温泉が湧き出るところがあることを聞き、アイヌの案内で山を越えて源泉へと辿り着きます。
そこに小屋を建てて湯治湯を開くことにしたのが定山渓温泉の始まりです。



温泉が流れる湯の滝です。
定山は繁栄していた小樽から湯治にこれるようにするため、距離にして40km弱の険しい山道の測量を続けましたが、こころざし半ばで、1877(明治10)年、小樽で62年の生涯を閉じることになりました。



遊歩道脇に咲いていた花です、スズランでいいのかな?



ネット情報によるかっぱ伝説を転載します;

かっぱ豊平川は、明治42年銚子の口発電所のダムが出来るまでは、この奥から胴木(柾の原木)を流送する程、流れも多く、 至るところの深淵には大きな川魚類が沢山棲息していた。その頃道路工事に従事していた青年、瀬山某がこの淵で魚取りしていた時、 足すべらせた訳でもないのに、急に引込まれるように、川底に沈んでいった。
これを附近にいて目撃していた胴木流送中の人達がすぐに飛込んだが、 淵が深くて救助する事が出来なかっ たばかりでなく、この青年の姿は遂に発見する事なく日が過ぎた。そして一年、一周忌の当夜、件の青年が故郷の父の夢枕に立って、 「私は今かっぱの妻と子供と一緒に幸せに暮らしている」と語った。
きっての美男子だったこの青年、ここに住んでいるかっぱに魅入られたのだろう………… ということで、以来ここをかっぱの淵と称するようになったが、その後は此処で遭難する者は全く無くなったという。



ひょうきんなかっぱの像です。



『かっぱ家族の願かけ手湯』があり、子かっぱの口から流れる湯で手を清め、呪文をとなえると願い事がかなうそうです。
子かっぱの皿に湯を溜め、口から出てきた湯で手を清めてから『オンカッパヤウンケンソワカ』という呪文を唱えると、願いがかなうということです。



こちらは『ミスかっぱ』です。



ゆっくり温泉に入り、明日は富良野を散策します。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その143 『北海道横断・小樽 その5』

2014年06月11日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
メルヘン交差点に建つ国内最大級のオルゴール専門店、小樽オルゴール堂です。
1912年(明治45年)に建てられた木骨造りの建物で、1500以上のオルゴールが展示販売されているそうです。



入口前には、シンボルであるカナダ製の蒸気時計があり、15分ごとに蒸気でメロディーを奏でています。



北一硝子のアウトレットです。
アウトレットと聞くと吸い込まれるように、観光客が入っていくようです。



メルヘン交差点につながる道路沿いは、たくさんのガラス関係、オルゴール関係のお店が並んでいます。



旅行案内書によく出てくる、北一硝子3号館です。
北一硝子3号館は、北一硝子が再利用する以前は、旧名木村倉庫だったそうです。
明治24年(1891)の建造で、木骨石造2階建ての三角屋根の重厚な倉庫で、もとは海産物用倉庫でした。



その三号館の建物の中に、トロッコの軌道があります。
海産物倉庫だったので、往時は鰊漁で獲たニシンを倉庫内まで運ぶのに使用されたのでしょう。



こちらも北一硝子なのですが、外観は18世紀のヴェネツィアの宮殿をモデルにした外観です。



昨日アップした写真の中に、メルヘン交差点で一際目立つ塔がありますが、『ルタオ本店』です。
本店前の雰囲気もお洒落ですね。
ルタオの名称の意味は『オ・タ・ル』を逆から呼んで名づけられたと聞いたこともありますが、実際は小樽を反対にしたのではなく、フランス語で『小樽の親愛なる塔』、『Le Tour Amitie Otaru』の頭文字をとったそうです。



ルタオのドゥーブル・フロマージュ(チーズケーキ)が大ヒットし、ルタオの名が全国に知れ渡ったそうです。
娘がよく知っていました。
トッポパパが頂いたのはミルフィーユです。
美味しいけど、トッポパパには甘すぎでした。



トッポママがドゥーブル・フロマージュを頂きました。
少し食べてみましたが、女性には人気のケーキ味のようです。
トッポパパには新鮮な帆立の串焼きのほうがあっているようです。(笑)



これから宿泊先の定山渓温泉に向かいます。

続く.............................................................................................。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その143 『北海道横断・小樽 その4』

2014年06月10日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
出発点の小樽運河に戻ると、さらに暑くなってきました。
そろそろ水分補給をしないと脱水状態になりそうなりそうです。
周囲を見回すと交差点に近いところに『小樽出抜小路』の火の見櫓があります。



明治、大正の街並みを再現したちょっと落ち着く、いくつものお店が集まっている路地裏野ようです。
歴史を感じさせる石造りの建物が並ぶこの界隈は、小樽の繁栄とともに賑わったのでしょう。



丁稚奉公から事業を興し、腕一本で成功した小樽の先達をイメージした『うだつ小僧』を眺めながら、まずはビールで喉をうるおします。
最近はあまり飲まなくなったのですが、この時の冷えたビールは、『プファー.....美味い!』でした。



往時『北のウォール街』と呼ばれた道内一の銀行街は数多くの近代建築が残っていて、小樽運河の景観などと共に観光名所となっています。



1912(明治45)年に完成し、5つの緑色のドームをのぞかせるルネッサンス様式の建物で、赤レンガの東京駅を設計した辰野金吾の設計による荘厳な建物です。



日本銀行旧小樽支店の建物で現在は『日本銀行旧小樽支店金融資料館』となっています。



こちらは『 旧北海道拓殖銀行小樽支店』です。
この建物も、小樽経済絶頂期に建設され、三菱、第一各銀行小樽支店と共に北のウォール街の交差点を飾っています。



明治45年建築の歴史的石造建造物を利用したワインカフェ、『小樽バイン」』もあり、 地元食材を使った料理と道産ワインが楽しめます。    



小樽オルーゴール館前の景観です。



トッポパパは常夜灯の前で小休止です。



続く...........................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その143 『北海道横断・小樽 その3』

2014年06月09日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
小樽の運河沿いにある『旧日本郵船小樽支店』です。
明治39年に海運業を営む日本郵船の支店として建築された石造りの洋風な建築で、国の重要文化財に指定されています



ポーツマス条約に基づく日露の樺太国境画定会議が開かれた場所で、英国ルネッサンス風の左右対称で美しい石造りの2階建て建築物は国指定重要文化財に指定されています。



正面に向かい左側に『赤い靴 親子の像』が建っていました。
横浜の山下公園にある『赤い靴はいてた女の子像』との関係に興味をそそられました。

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった

横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
童謡『赤い靴』は、多くの人が口ずさんだメロディーです。



ネット情報を簡略して転記します;

赤い靴の少女は岩崎きみ(1902-1911年)で、きみと母かよは、1903年、静岡から函館へ。
かよは、函館から現在の留寿都村に入植する前、内縁の夫との間に生まれた幼いきみを米国人宣教師夫妻に預ける。
その後、かよは鈴木志郎という別の男性と結婚。

その後きみは宣教師夫妻の帰国時に重い結核のため横浜から船で米国に渡れず、東京の孤児院に託され、わずか9歳でこの世を去った。
1907年に志郎は札幌の北鳴新報に就職し、そこで野口雨情と出会い家族ぐるみの交流を深める。
母は娘きみの話を打ち明け、それが雨情の詩となり本居長世が曲を付けて1922年童謡、『赤い靴』が生まれた。
札幌の後、志郎・雨情は「小樽日報社」で石川啄木と机を並べて親交をもつ。
鈴木夫妻は各地を転職した後、1940年小樽のカトリック富岡教会の門前に居を構え、きみの死を知らずその幸せを信じ、熱心なキリスト信者として暮らし、今は中央墓地で眠っている。
私達は、世界中の苦しみを抱えた家族の幸せを願い、小樽市民をはじめ全国からの温かい募金によって、ゆかりのある小樽の地に「赤い靴・親子の像」を建てた。

天国できみちゃんが幸せに暮らす姿を夢に描いて…
2007年11月23日 「赤い靴・親子の像」建設委員会

歌では異人さんと横浜から旅立ったとされたが、実際は孤独の中、東京でわずか9歳の生涯を閉じていた。



現地の人に是非公園内の歩道のタイルを見てくださいと言われました。
ガラスで有名な小樽らしく、歩道のタイルにもガラスの粉末が散りばめられていました。



ここから見る小樽運河のほうが運河らしい風情です。
出発点の運河は観光スポット化されすぎですね。



小樽で一番古い倉庫は、1890-94年に建造された瓦屋根に鯱のある『旧小樽倉庫』です。



小樽運河ターミナル (旧三菱銀行小樽支店) です。



出発点に戻り温度計を見ると(写真だとはっきりしませんが)33.6℃、北海道らしくマイナス表示もできるようになっているのに真夏日並みとは.....................汗だくです。



続く........................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その143 『北海道横断・小樽 その2』

2014年06月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
小樽には高島岬、オタモイ積丹半島へと続く海岸線が美しい国定公園があると聞き、『ニセコ積丹小樽海岸国定公園』まで足をのばしました。



展望台に登る途中で観た、絶景の赤石海岸です。
この海岸は小樽市高島岬より東側にある赤岩山から崖になっている奇岩や絶壁が連なるダイナミックな眺望海岸です。
テレビのサスペンスドラマの最後に登場してくる海岸線のようです。



小樽の北7Km、高島岬の先端の赤と白の中型灯台が日和山灯台(ひよりやまとうだい)で、その手前が小樽鰊御殿です。



ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されている、この辺り一帯は日本海を望める景勝ポイントです。
ご年配の方は、皆さんよくご存じの映画、『喜びも悲しみも幾年月(木下惠介監督)』で主役の2人 佐田啓二、高峰秀子が階段を降りるラストシーンを撮影した場所です。
トッポパパの年齢でも、名優佐田啓二、高峰秀子の記憶はおぼろげですので、若い人には遠い昔の俳優になってしまうのでしょう。
佐田啓二は現在映画やテレビで活躍中の中井喜一のお父さんと言ったら、ちょっと身近に感じるかな!

この映画の中で歌われた『喜びも悲しみも幾歳月』、作詞:木下忠司・作曲:木下忠司・歌唱:若山彰の;

俺ら岬の 灯台守は
妻と二人で 沖行く船の
無事を祈って 灯をかざす
灯をかざす

冬が来たぞと 海鳥啼けば
北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が 呼びかける
呼びかける

のメロディならもう少し若い人でも聴いた記憶があるのではと思います。
こう説明していると、トッポパパも歳を経ったものだと実感します。



小樽が繁栄したのは、鰊の漁業が盛んになってからです。
安永年間に、松前、江差方面から鰊の魚影が姿を消し、回遊が高島岬から小樽の海岸に来るようになりました。
以来、昭和の初めまで鰊漁は栄え、それと共に小樽の町としての繁栄が始まります。
この小樽鰊御殿の建物は、一切釘を使用せず、継ぎ目のない長い木材を使用していたため、移築時はその頃の道路状況により夜間に搬送し、復元には0日を要し、延べ2,000人が動員され現在の地にその姿が甦ったそうです。



春になると、鰊は大群で産卵のために海岸に押し寄せ、これを郡来と呼びます。
案内してくれた地元の年配の人の話でも、群来の時は海岸線の海が盛り上がり、雄の白子で海が真っ白に染まったそうです。
これを待ち受け、沖に建網が張られ、 網の一組を『網一ヵ統』と呼び、網一ヵ統ごとに漁夫が20-30人ほど必要としたそうです。
漁夫は『ヤン衆』と呼ばれ、東北地方からの出稼ぎ人が大半でした。
明治20年代には、小樽地方の建網は約200ヵ統あり、ヤン衆も5000-6000人に及んだそうです。



鰊の漁獲量は明治20年代は20000-50000トンもありその後徐々に漁獲量が減り始めます。
昭和にはいると落ち込みはさらにひどくなり、昭和24年は346トン、昭和29年は1409トン、そして昭和30年以降は全く姿を消してしまったそうです。

この高島岬から見下ろす海も群来時は海が盛り上がり、白く染まったのでしょう。



鰊漁最盛期には、ここに120人のヤン衆と網元の家族が寝泊りしていたそうで、毎日ヤン衆が酒を飲みながら歓声を上げていた場所なのでしょう。



今は静かな漁港です。
耳を澄ませば石狩挽歌が聞こえてきそうです。

海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
雪に埋もれた 番屋の隅で
わたしゃ夜通し 飯を炊く
あれからニシンは どこへ行ったやら
破れた網は 問(と)い刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー



こちらは小樽水族館の海獣公園です。
海獣公園は自然の入り江を利用しており、海鳥も飛来しています。
海岸から野生のトドやゴマフアザラシが迷い込むことがあり、そのまま飼育される例もあるそうです。
トドやアザラシも見かけたのですが、望遠レンズをバッグの中においてきたので残念ですが写真は撮れませんでした。




続く...................................................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その143 『北海道横断・小樽 その1』

2014年06月07日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
ここ数ヶ月、植木の手入れとゴルフだけで変化のない毎日を過ごしています。
ブログネタもなくご無沙汰でしたが、ボケるといけないので気分転換も兼ねて北海道横断のパック旅行に参加しました。
千歳空港まで飛び、まずは小樽運河から旅の始まりです。



横浜では夏日が続き、ようやく梅雨入り前で暑さが和らいだころですが、涼を求めての北海道はこの時期何年かぶりの猛暑です。
運河到着時の温度はすでに30.6℃、湿度が低くカラッとしているとはいえ汗ばむ陽気で、半袖姿で散策開始です。



小樽は何度も訪問していますが、いつもは運河周辺だけ観て回り、美味しいお寿司を食べた記憶がほとんどです。
今回はトッポママとのんびり写真を撮りながら観て回るつもりです。

小樽には『鰊御殿』と呼ばれる建築物がいくつかあるようです。
最初に北海道屈指の歴史的建造物で『国の登録有形文化財』に指定されている、『旧青山別邸・貴賓館』を訪問しました。



青山家は明治・大正を通じ、鰊漁で巨万の富を築き上げたそうです。



その三代目の娘、政恵が17歳の時、六年半余りの歳月をかけ大正12年(1923)に完成した『北の美術豪邸』と呼ばれる別荘が旧青山別邸です。



当時約31万円という莫大な費用をかけ、約1500坪の敷地内に建坪190坪の木造2階建てです。
家屋の中は6畳~15畳の部屋が18室あります。その時代、東京の新宿伊勢丹デパートが50万円で建設されたそうです。
いかに、金に糸目をつけず建てられた豪邸ということがわかります。



約650株の牡丹・芍薬が見頃です。



庭園一面に咲く大輪の花々は大変見事で、小樽の人も多く訪れる初夏の小樽の風景です。



『立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花』と美女を表現する言葉があります。
トッポパパは芍薬と牡丹の区別がつきませんでしが、芍薬はすらっと伸びた茎の先に美しい花を咲かせ、牡丹は樹木である為、枝の先に花を咲かせるそうです。



正面玄関を入ってすぐ左手に、当時の鰊漁の栄華を偲んだ昭和の名曲『石狩挽歌”ゆかりの地である記念碑と、作詩家なかにし礼氏の直筆の歌碑があります。



作詞:なかにし礼、作曲:浜 圭介 歌唱:北原ミレイ

海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
雪に埋もれた 番屋の隅で
わたしゃ夜通し 飯を炊く
あれからニシンは どこへ行ったやら
破れた網は 問(と)い刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー
沖を通るは 笠戸丸(かさとまる)
わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る

注)笠戸丸(かさとまる)とは? と思い調べたら移民船のことでした。

続く......................................................................................................。