昨日に引き続き、「九条の会」講演会『小田実さんの志を受けついで』より、澤地久枝さんのお話(要旨)をご紹介したいと思います。 【出典:川越「九条の会」(文責:ぱちくりさん)より】
小田さんがやったこと、歴史の上でというとおおげさですが、彼がやったひとつの大きなことはこの日本の社会に市民というものを定着させたことだと思います。日本という国では市民という言葉は人民という言葉と同じようにかつては無かった。戦争が終わって負けるまでは国民であり、皇国民であり、いつも国というものの中で生かしてもらっているような人間で在ったわけです。それで非常に象徴的であると思うのは1928年(昭和3年)、第一次世界大戦が終わったときに、殺し、殺されたもの同士がなんて虚しいのかと思い、もう二度とこのようなことは繰り返すまいということから「パリ不戦条約」が結ばれた。ここには“今後戦争に訴えて国家の利益を増進せんとする諸盟国は本条約が供与する利益を拒否せざるべきものであることを確信し……”とある。さらにはっきりと“戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する”と。
これは私たちが大事にしている憲法の精神と繋がると思う。しかし、この人民の名においてというのは日本では通らなかった。この条約に加わりますという批准があるが、その批准する前に国会で問題になって、日本だけが条件をつけた。条約第一条中の“その各自の人民の名において”なる字句は“帝国憲法よりみて、日本国に限り適用なきものと了解することを宣言す”というんですね。
このように宣言することで人民は居てはならない。無視される存在だったということを私たちは考えた方がいい。
無視された側が自分はちゃんとした一人の人間だという誇りを育ててきたのならいいがそうではない。日本では個としての意識、市民としての自覚、或いは権利感覚というものが弱いまま来ているのではないかと思う。市民運動といわれるようなものは中々育たなかった。その前にあったのは労働組合であるとか、イデオロギーが中心の組織とかいうものの運動の方が主流であって、“一人ひとりバラバラで思想信条も問わない、だけど何かひとつの目的で一致できたらそれで運動しよう、世の中に呼びかけていこう”というような運動の育ちにくい世の中、戦後もそんな社会であったと思う。
「ベトナムに平和を市民連合」を最初に高畠通敏さんが“ベトナムに対するアメリカの介入は酷いと、何とかこれから反対の行動を起こそうじゃないか”と考えた。一人ですね。次に鶴見俊輔さんに声をかけた。これで二人。鶴見さんは誰か事務局になる人間が必要だと小田さんに声をかけた。これで三人になった。小田さんは「じゃあ、東京へ出て行くよ」といって加わるけれど、その前に作家の開高健さんに電話を掛けて「一緒にやろうや」といったから四人。市民運動というのはそこに立派な主義主張があって集まってくるのではなくて、どうだどうだといって、だんだんそうだなとみんなが考えを浮かべながらじわじわじわじわと、気が付いてみると厚い層のようになっていく、というのが市民運動のひとつのでき方だろうと思う。「ベ平連」は確かにひとつの時代を作りました。去年は、脱走したアメリカ兵を匿い、国外に非合法に連れ出して亡命を成立させてから40年という記念の年でした。アメリカとの主従関係のようなものを考える。或いは各国とも軍隊というのは戒律・規律が厳しいわけですから、そこから戦争がいやだといって脱走するということはやはり大罪なんですよね。脱走してきた米兵を、あろうことかアメリカの属国みたいな日本の人が逃がしちゃったんですよ。これは私はすごいと思います。それでいろいろなことをしてきた中で、小田さんという人を考えるときにいつも忘れられないのは、エンタープライズという問題のベトナムへ爆撃に出している船が佐世保に入港したときに、小田さんと吉川さんという二人は、小さなボートを雇って看板を手に持ち、大きな船の周りをぐるぐる回りながら“ベトナム戦争から手を引け”、それから反戦のアピールを英語で行なった。私が打たれたのは「必要なことはまず自分からやる」ということ。
私は病気のこともあり、時々投書するくらいのことしかできなかったが、「ベ平連」というもので、日本の社会の中で、市民運動のひとつの形ができたと思っている。この九条の会もまさにそれを受けついで、思想信仰は一人ひとり聞いていったら多分違いますよね。それを統一にしてしまおうと思っていない。だから今日隣に座っている人は信仰も違うかも知れないし、自民党支持かもしれない、共産党支持かも知れない。でもそれはいいじゃないの。そのことはそれとしておいてそれをつつかないでおく。
今日本の政治はものすごく悪いところにきていて、九条というのは有るけれども形骸化もいいところだ。だからこれを何とかしようということで、今日もここにきている。その一点で、九条を護ることで、日本の酷い政治をまずこれ以上悪くならないようにおしとどめ、できればもっといい方へと。
憲法の原典に戻っていく方が、みんなにとってもそれから他国の人達にとっても多分幸せになる。そのことで一致できる人達が集まった九条の会は、全国でおそらく事務局で把握していない数もありますから7千越えていると思います。私たちは吹けば飛ぶような九条の会かもしれないと思います。自分の力はささやかだと私は正直思います。そして時々落ち込んだりして、いやいやそうではないと思っているんです。
(つづく)
※このブログをお読みの方で、「私も九条の会のアピール(「とだ九条の会」HPをご覧ください。)に賛同し、憲法九条を守る一翼になりたい」という方は、 「とだ九条の会」HPに「WEB署名」がありますので、「賛同署名」にご協力ください。
■「とだ九条の会」公式ホームページもご覧ください。
http://www15.ocn.ne.jp/~toda9jo/
小田さんがやったこと、歴史の上でというとおおげさですが、彼がやったひとつの大きなことはこの日本の社会に市民というものを定着させたことだと思います。日本という国では市民という言葉は人民という言葉と同じようにかつては無かった。戦争が終わって負けるまでは国民であり、皇国民であり、いつも国というものの中で生かしてもらっているような人間で在ったわけです。それで非常に象徴的であると思うのは1928年(昭和3年)、第一次世界大戦が終わったときに、殺し、殺されたもの同士がなんて虚しいのかと思い、もう二度とこのようなことは繰り返すまいということから「パリ不戦条約」が結ばれた。ここには“今後戦争に訴えて国家の利益を増進せんとする諸盟国は本条約が供与する利益を拒否せざるべきものであることを確信し……”とある。さらにはっきりと“戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する”と。
これは私たちが大事にしている憲法の精神と繋がると思う。しかし、この人民の名においてというのは日本では通らなかった。この条約に加わりますという批准があるが、その批准する前に国会で問題になって、日本だけが条件をつけた。条約第一条中の“その各自の人民の名において”なる字句は“帝国憲法よりみて、日本国に限り適用なきものと了解することを宣言す”というんですね。
このように宣言することで人民は居てはならない。無視される存在だったということを私たちは考えた方がいい。
無視された側が自分はちゃんとした一人の人間だという誇りを育ててきたのならいいがそうではない。日本では個としての意識、市民としての自覚、或いは権利感覚というものが弱いまま来ているのではないかと思う。市民運動といわれるようなものは中々育たなかった。その前にあったのは労働組合であるとか、イデオロギーが中心の組織とかいうものの運動の方が主流であって、“一人ひとりバラバラで思想信条も問わない、だけど何かひとつの目的で一致できたらそれで運動しよう、世の中に呼びかけていこう”というような運動の育ちにくい世の中、戦後もそんな社会であったと思う。
「ベトナムに平和を市民連合」を最初に高畠通敏さんが“ベトナムに対するアメリカの介入は酷いと、何とかこれから反対の行動を起こそうじゃないか”と考えた。一人ですね。次に鶴見俊輔さんに声をかけた。これで二人。鶴見さんは誰か事務局になる人間が必要だと小田さんに声をかけた。これで三人になった。小田さんは「じゃあ、東京へ出て行くよ」といって加わるけれど、その前に作家の開高健さんに電話を掛けて「一緒にやろうや」といったから四人。市民運動というのはそこに立派な主義主張があって集まってくるのではなくて、どうだどうだといって、だんだんそうだなとみんなが考えを浮かべながらじわじわじわじわと、気が付いてみると厚い層のようになっていく、というのが市民運動のひとつのでき方だろうと思う。「ベ平連」は確かにひとつの時代を作りました。去年は、脱走したアメリカ兵を匿い、国外に非合法に連れ出して亡命を成立させてから40年という記念の年でした。アメリカとの主従関係のようなものを考える。或いは各国とも軍隊というのは戒律・規律が厳しいわけですから、そこから戦争がいやだといって脱走するということはやはり大罪なんですよね。脱走してきた米兵を、あろうことかアメリカの属国みたいな日本の人が逃がしちゃったんですよ。これは私はすごいと思います。それでいろいろなことをしてきた中で、小田さんという人を考えるときにいつも忘れられないのは、エンタープライズという問題のベトナムへ爆撃に出している船が佐世保に入港したときに、小田さんと吉川さんという二人は、小さなボートを雇って看板を手に持ち、大きな船の周りをぐるぐる回りながら“ベトナム戦争から手を引け”、それから反戦のアピールを英語で行なった。私が打たれたのは「必要なことはまず自分からやる」ということ。
私は病気のこともあり、時々投書するくらいのことしかできなかったが、「ベ平連」というもので、日本の社会の中で、市民運動のひとつの形ができたと思っている。この九条の会もまさにそれを受けついで、思想信仰は一人ひとり聞いていったら多分違いますよね。それを統一にしてしまおうと思っていない。だから今日隣に座っている人は信仰も違うかも知れないし、自民党支持かもしれない、共産党支持かも知れない。でもそれはいいじゃないの。そのことはそれとしておいてそれをつつかないでおく。
今日本の政治はものすごく悪いところにきていて、九条というのは有るけれども形骸化もいいところだ。だからこれを何とかしようということで、今日もここにきている。その一点で、九条を護ることで、日本の酷い政治をまずこれ以上悪くならないようにおしとどめ、できればもっといい方へと。
憲法の原典に戻っていく方が、みんなにとってもそれから他国の人達にとっても多分幸せになる。そのことで一致できる人達が集まった九条の会は、全国でおそらく事務局で把握していない数もありますから7千越えていると思います。私たちは吹けば飛ぶような九条の会かもしれないと思います。自分の力はささやかだと私は正直思います。そして時々落ち込んだりして、いやいやそうではないと思っているんです。
(つづく)
※このブログをお読みの方で、「私も九条の会のアピール(「とだ九条の会」HPをご覧ください。)に賛同し、憲法九条を守る一翼になりたい」という方は、 「とだ九条の会」HPに「WEB署名」がありますので、「賛同署名」にご協力ください。
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http://www15.ocn.ne.jp/~toda9jo/