とだ九条の会blog

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「憲法を暮らしの中に生かそう」

2006年05月31日 | 国際・政治
「憲法を暮らしの中に生かそう」とは、戦後、1950年から1978年まで7期28年もの間、京都府知事を務め、1981年に享年84歳で亡くなった蜷川虎三府知事が、府庁正面玄関に垂れ幕を下げて、モットーとしていたスローガンです。
蜷川さんが亡くなって四半世紀たった今日、府庁には当時のスローガンはありません。


「憲法を暮らしに生かす」とはどういうことか、当時の蜷川さんは二つの点を強調しました。

一つ目は、憲法第92条にある「地方公共団体の組織および運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」と規定しているように、結局、地方自治体とは住民の暮らしの組織であって、その本旨というのは「住民の暮らしを守る」ということ。また、その守り方は、第13条にあるように「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定しているのだと。
特に第25条では、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定しています。
しかし、国はこれらやるべきことをやっていない。われわれ国民は、この最高法規にしたがって、どこまでも主権者として要求していく、それが「暮らしの中に憲法を生かす」ということだ、と言います。

もう一つは、国や自治体が憲法を守らないようなら、これは鼓をたたいて攻め寄せなければならないということ。国あるいは国の機関として住民の暮らしを守るために、これだけのことは最低限しなければならないことは要求するし、これだけはしてはいけないということに関しては断固として糾弾するということだ、と言います。
「憲法を暮らしの中に生かそう」というのは、この二つのことだと蜷川さんは言います。


憲法と教育基本法を記した豆本を作って京都府の全職員はもとより、府民にも配布し、自らも常にポケットに入れて持ち歩いたといわれる蜷川さん。
25年たった今日の改憲の動きを天国の蜷川さんはどう見ているのでしょうか。


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「冬のソナタ」から見えてくるもの

2006年05月30日 | 本と雑誌
Fuyusona
新聞の書籍紹介で高柳美知子さんの名前が目にとまりました。
『「冬のソナタ」から見えてくるもの』(高柳美知子・岩本正光=編著、かもがわ出版)というタイトルの本です。
ご存知のように、高柳美知子さんは戸田市在住で「とだ九条の会」呼びかけ人代表。中学・高校の国語教師を経て、現在は“人間と性”教育研究所所長、上海性科学研究センター名誉顧問、北京性健康教育研究会名誉理事、東京総合教育センター相談員、他、などの肩書きを持ち、多くの著書を出版されています。

新聞の書籍紹介では、「韓国ドラマ『冬のソナタ』が、なぜ日本で社会的現象まで巻き起こし、中高年女性の心をとりこにしたのか、それがどうして両国の歴史的関係に結びつかないのか、この2つの“なぜ”を考えるツアーを企画し、……ユン・ソクホ監督が描きたかったことやドラマの分析、“慰安婦”問題、歴史に学んで実りある日韓交流へ……」と本を出版するにいたった動機や『冬のソナタ』から見えてくるものは何かを問題提起し、分析しています。

「とだ九条の会」の呼びかけ人代表だからという訳ではありませんが、その本の題名とともにこの紹介文に引かれ、早速買って読んでみました。

私も高柳さん同様、昨今の“韓流ブーム”には様々な“なぜ”がつきまとっていました。『冬のソナタ』への日本国民、特に中高年女性の熱狂それ自体もそうですが、それ以上に、自分自身も含めてなぜ韓国が「近くて遠い国」と認識されるのか。なぜ両国の歴史的関係が語られないのか…などです。

本書でも語られていますが、韓国についてはかつての“独裁政権”“軍事政権”の暗いイメージがあり、関心をそそられなかったのかも知れません。そして本書を読んで、日本の教育などで韓国との関係が正しく語られてこなかったということが分かりました。

大河ドラマなどで“英雄視”されている豊臣秀吉が1592年に10数万余の大軍で朝鮮出兵し朝鮮を侵略したこと、そしてそのとき古来一般の戦功の証としての首級の代わりに10万人の耳と鼻を切り削いで日本に持ち帰り埋められたといわれる「耳塚(鼻塚)」が京都にあること。
その「耳塚」の存在は朝鮮半島ではほぼ誰もが知っているにもかかわらず、日本人はほとんど知らないのではないかということ。
また、先ごろまで千円札の肖像としてこれまた“英雄視”されていた伊藤博文が、朝鮮での主導権争いのための日清・日露戦争で勝利した後、朝鮮支配のための統監府の初代統監として朝鮮民衆を苦しめたこと、そしてその反感を受け、安重根(アン・ジュングン)という男性に射殺されたこと。この安重根は死刑になるのですが、韓国では今でも深い尊敬の念を持って迎えられ記念館もあるのに、日本では全くと言っていいほど知られていないこと。
さらには、関東大震災の時、デマから6千人にのぼる朝鮮人が虐殺されたこと。そして、北朝鮮と韓国が同じ民族で一つの国だったことさえ知らない子ども(生徒)がいて、北朝鮮の拉致は知っていても、日本軍が太平洋戦争時に行った“日本の拉致(強制連行)”については知らないこと。
ましてや「従軍慰安婦(日本軍の性奴隷)」については全く知らないということ。韓国に「ナヌムの家」という元「慰安婦」の女性たちが共同生活をしている場があって、日本に対して国家賠償と謝罪、犯罪者訴追を求めていること。2000年に東京で戦時性暴力を裁く「女性国際戦犯法廷」が開かれ、最高責任者として昭和天皇に有罪判決を下したこと(「慰安婦」問題については、次の機会に触れることにします)。
………などです。

学校教育も含めてマスコミでも、子どもも大人も、こうした“過去の事実”を知らされていないだけでなく、日本がいま国際的にも非難を受けているという“現在の事実”さえも知らされていないのです。

「小泉首相の“靖国参拝”で、何であんなに中国・韓国などが抗議するのか、よく分からない」という声をよく聞くのも“過去と現在の事実”が知らされていないからではないでしょうか。

近代の日本と韓国・朝鮮の関係は、日本の植民地支配によって、最も近い隣国の韓国・朝鮮を「近くて遠い国」にしてしまった。
『冬ソナ』への「恋」も、日本と韓国の間の真実の歴史に向き合わないと、ひとりよがりの一方的なもので終ってしまう。
日本国憲法九条を守ること、それが過去への「謝罪」の最も大きな証である――本書が指摘してくれたこれらの言葉を心に刻み、もう一度日本と韓国・朝鮮との関係を考えてみたいと思います。


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「尺には尺を」

2006年05月29日 | 国際・政治
小泉首相が退任を表明している今年。また「構造改革」と称して一連の改悪法案を一気に押し通し、最後の平和の砦・憲法まで改悪をもくろんでいる今年。「耐震強度偽装事件、ライブドア事件、米国産輸入牛肉問題、防衛施設庁の談合事件」といういわゆる“4点セット”が、小泉首相の前に立ちふさがりました。
今年の年末に1年を振り返って漢字1字で表したら、絶対それは共通して「偽」だろうと思えるような新年早々からのこれらの事件は、小泉自公政権が推進した「規制緩和」『構造改革」から生まれた必然として浮き彫りになったと事件だと思います。
確かに小泉自公政権の「偽」の政治から生まれたボロが露呈したと思われましたが、民主党の例の「メール問題」でどこか追及と焦点がボケてしまったのは本当に残念です。

こうした「偽」の社会や「権力」への批判などをテーマとした社会派の演劇を続けている劇団に青年劇場があります。
その青年劇場の公演「尺には尺を」を観劇してきました。原作はあのシェークスピア。すでに今回の東京での公演は終了してしまっていますが、ストーリーは今後再演されるであろう公演を観てのお楽しみということで、紹介は差し控えることにします。
ただ、チラシに掲載された案内ぐらいなら許されるでしょう。
チラシには、「偽装、粉飾、虚偽、虚飾。――笑いの中に浮かび上がる混沌〔カオス〕の時代の人間模様」とキャッチフレーズが書かれています。
「権力と倫理の問題をテーマにしたこの作品は、21世紀以降に世界的に新たな演出が試みられています。政治の混迷を前に、統治権を副官に押し付けてその顛末を見届け様とする公爵や、権力を手にして、目の前の欲求を押さえられなくなる副官の姿は、そのまま今の日本に重なるものがあります」とは、この劇の演出家・高瀬久男氏の言葉です。

同じく青年劇場が公演のレパートリーにしている『真珠の首飾り』(ジェームス三木=作)は、日本国憲法を起草したGHQ民政局の内幕を舞台化したもの。
さらに、『銃口―教師・北森竜太の青春』は、軍国主義から民主主義へ敗戦を境に大きく変貌を遂げた昭和の時代に、軍国少女であり、軍国教師であった自らへの深い憤りと懺悔、「教育」への限りない理想と情熱を主人公・北森竜太の青春に託して書き上げた三浦綾子さん原作の舞台化です。昨年は初の韓国公演を成功させていますが、そうした取り組みには意義深いものを感じます。

国民に痛みを押し付け、偽りの「構造改革」を進め、改憲をめざしてひた走る小泉首相。この5年間の「小泉劇場」こそ「尺には尺を」のお仕置きをしなければなりません。


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『曙は訪れるのか』~作家・瀬戸内寂聴さんの随筆より~

2006年05月28日 | 国際・政治
米国によるイラク開戦から3年。ブッシュ米政権が開戦理由として挙げたフセイン旧政権の大量破壊兵器とテロリスト支援は、完全に“誤認”だったことが明らかとなりました。しかし、この5月25日に行われた米英首脳会議においても両首脳とも「誤りがあった」とは認めたものの、「フセイン政権を追い落とすという決断は正しかった」と改めて戦争を正当化しています。
此の期に及んで何ということでしょう。
当時、国際社会の和平交渉を中断させ、軍事攻撃にふみきったブッシュ米大統領の目的は、フセイン政権の打倒しかなかったと言えます。そして日本の小泉首相は、このブッシュ政権の軍事攻撃を支持することが“国際協調”だといち早く表明し、「イラク復興支援特措法」を強行成立させて、陸海空自衛隊をイラクに派兵し、ブッシュ大統領に加担したのです。

この戦争での死者は、イラク軍4千数百人、幼い子どもや女性を含むイラク民間人は3万人とも10万人とも言われています。把握さえできないのです。一方、「多国籍軍」でも米兵2千数百人、その他(英国やイタリア、韓国など)で2百人と多くの犠牲者を生みました。
人の命は、何よりも尊いものです。国際世論や国連の制止を無視し、戦争をしかけ、多くの人命を奪っておいて今ごろ「誤り」だったとは何事でしょうか。
ブッシュ大統領と小泉首相は、この責任をどうとるのでしょう。

謂れなきイラク戦争で死に追いやられた幼い子どもや女性など罪なきイラク市民の無念に想いをはせながら、次に、作家・瀬戸内寂聴さんが2004年『京都新聞』に書かれた随筆『曙は訪れるのか』の一節をご紹介します。


イラク中部、バクダッドに近いファルージャに駐留米軍とイラク軍が猛攻撃をかけた。まだブッシュ大統領再選の勝利のざわめきのさめない時期で、大統領の示威運動の一端のように見えて気持ち悪い。
なぜ、今、総攻撃なのか。心ある者なら、みんな慄然(りつぜん)としている。アナン国連事務総長だって、この攻撃を止めたそうだが、ブッシュ大統領は聞く耳を持たなかった。
そしてまた例によって、小泉首相は、
「この攻撃を成功させねばならぬ」と胸を張って言い放った。
その時の首相の顔は晴れやかで、快楽的な笑みさえ浮かんでいた。
私は目と耳を疑って、その時の小泉さんのおごりきった態度と表情に呆然としてしまった。

…………………………(略)…………………………

どこかこの世界は狂ってしまっている。この理不尽な猛攻撃を、正義の旗のもとに貫き通そうとする人々、それに随喜する人々が人間の皮をかぶった怪物のように見えてくる。
無辜(むこ)の一人の青年を殺したといってテロリストをののしったばかりのこの国の外相は、この総攻撃で、五歳や十歳の無防備で非力な幼児たちが無差別に虐殺されていくのを平然と見逃せるのだろうか。

…………………………(略)…………………………

何がアメリカを世界の警察のように思いあがらせてしまったのか。
何が日本をこうも自主性のない情けないアメリカ追随の国にしてしまったのか。
末法の世には、あらゆる正義が失せ、非道がまかり通り、裏切りと悪徳がのさばるという。今こそまさに末法の末世でなくて何であろう。一方では、南極の氷が解けはじめている。いよいよノアの方舟の用意が必要なのであろうか。あたりの闇はいまだ濃く、曙はまだ訪れそうもない。
(『京都新聞』2004年11月14日付『天眼』より抜粋)


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「そもそも憲法とは何ぞや」

2006年05月27日 | 国際・政治
自民党の「新憲法草案」が、おおよそ“憲法”とは呼べないものであるということは先日も書きました(5月24日のブログ)。今日は「そもそも憲法とは何ぞや」という憲法の生い立ちから見た自民党「新憲法草案」について書くことにしましょう。
【参考文献】「自民党『新憲法草案』は日本をどこに導くか」憲法会議のパンフレット(頒価300円)から。

自民党の「新憲法草案」は、前文の“国”を「愛情と責任と気概をもって自ら支え守る責務」からはじまり、自由や権利を「公益及び公共の秩序に反しないように責務」を負い、地方自治の「負担を公正に分任する義務」を負うなど、大幅に国民に“義務”を負わせる立場をとっていることが一つの大きな特徴です。

これは、天皇や国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員など、“権力の行使”に関わるものだけに“憲法尊重擁護の義務”を負わせている日本国憲法の立場とは180度逆の考え方です。
確かに、日本国憲法も憲法が保障する自由や権利は「国民の不断の努力」が必要と、国民の“義務”を定めていますが、これは政府などの“権力”が国民の自由や権利を踏みにじることがないよう、国民に対して権力を監視する「不断の努力」の義務付けです。

そもそも近代憲法の基本的な考え方を示した「アメリカ独立宣言」では、「政府をつくるのは、人々の自由や幸福のためであって、政治がその目的から逸脱した場合、人々はその政府を変える権利がある」としていますが、日本国憲法もその立場と同じ。憲法とは本来そういうものなのです。

もともと憲法が制定されるようになったのは、近代社会になって国民が主権者としての権利を獲得するようになってから。それまで、つまり封建制社会では、君主が絶対的権力を持っていましたから、国民は厳しい身分制度のもとで、自由や権利など与えられていませんでした。国民が主権者になるためには、この封建君主との闘いが避けられなかったわけで、多くの国で「市民革命」が起こったわけです。そして、勝利した市民(国民)が、君主の権利行使を制限するためのものとして「憲法」が作られたというわけです。

しかし、日本には明治維新後、君主制と闘い、近代社会を発展させるだけの力が国民の間に成熟していませんでした。明治政府は「富国強兵」の国策で国内の資本主義的な発展を図りながら、国外には植民地支配をめざして侵略をくりひろげました。こうした明治政府の政治を推進するために、「明治憲法(大日本帝国憲法)」が作られたわけで、欧米の「憲法」とは全く違うものです。天皇の絶対主義的な支配体制が確立され、国民は臣民として自由や権利は制限されました。日本はその後、数々の侵略戦争に突き進んでいくわけです。
太平洋戦争後、日本国憲法を制定する際にも、当時の支配層は民主主義的な観点が欠けていましたから、それまでの明治憲法を少し手直しすればいいくらいにしか考えていなかったのでしょう。GHQによるお手本が示された所以です。

国民の義務ばかりを強調した自民党「新憲法草案」。“国が富んで(民は格差ができ)軍事が強くなる”まさに「富国強兵」の時代をほうふつとさせるような今回の自民党「新憲法草案」も、明治憲法のもとで、国民の自由や権利をことごとく抑制し、国民を相次ぐ侵略戦争にかりたてたことに何の反省もしない人たち、「憲法とは何ぞや」ということも理解しない人たちが作ったと言えるのではないでしょうか。


■改憲手続き法案1日審議入りへ
自民党は5月25日、国民投票を含めた憲法改定の手続き法案の与党案を承認、26日には公明党と共同で国会に提出しました。与党は6月1日に衆議院本会議で審議入りすることを目指しています。
法案は改憲発議のために国会法改定と国民投票法案を一体にしたのが特徴。22日の当ブログでも紹介したように、与党案は、①投票年齢は20歳以上、②有効投票総数の過半数の賛成で改憲案の承認と認定、③投票は改憲に限定―などとしています。
また国会法改定では、発議の要件として衆院100人、参院50人の賛成としています。
教育基本法改悪案、医療改悪法案とともに緊迫した事態を迎えています。


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