昨日に引き続き、ピーター・カズニック氏の論文「日本原子力史とアイゼンハワー」をご紹介します。(サイト管理者)
■原子力平和利用の日本への売り込み
ワシントン・ポスト紙はこのマレー委員長の考えを取り上げて、「核軍備競争をめぐる現在の脅迫観念から人の心を転換させる」方法であると激賞した。「いま、日本への原爆投下が不必要であったと意識するアメリカ人は多い。・・・日本に対する償いの一助として、原子力平和利用の手段のオファーに勝るものがあるであろうか。実際のところ、アメリカが東洋人をたんなる核爆弾の餌食と見なしているとするアジアの印象を払いのけるため、これ以上の方法があるであろうか!」
マレーとシドニー・イェーツ下院議員(民主党、イリノイ州選出)は最初の発電用原子力施設を広島に立地するよう提案した。1955年はじめ、イェーツは「原子力を殺害でなく発電のための手段とする」6万キロワット発電施設を同市に建設する法案を提出した。6月までに、アメリカと日本は原子力の研究開発に協力する合意書に調印を済ませた。
しかし、この考えを日本国民に売り込むのはそう簡単ではなかった。米国大使館、米国国務省情報局(USIS)、そして中央情報局(CIA)は、日本に原子力を普及させる強力なキャンペーンを開始するにあたって、日本プロ野球の父であり、読売新聞と日本テレビの経営者である正力松太郎に助力を求めた。A級戦争犯罪人として2年間収監されたあと、正力は裁判にかけられることなく釈放されていた。アメリカ人の目から見て、かれの猛烈な反共主義は自らの名誉回復に役立った。(参照:有馬哲夫著「正力松太郎の日本における原子力普及キャンペーンとCIAの心理戦争」、2006年11月25日東京経済大学に提出された未公刊文書。英文原題:Tetsuo Arima, "Shoriki's Campaign to Promote Nuclear Power in Japan and CIA Psychological Warfare")。正力の新聞は1955年11月1日、アメリカが大騒ぎのすえ開催にこぎつけた日本への原子力の復帰を歓迎する展示会を共催することに同意し、東京で神道のお祓い式典を提供した。アメリカ大使はアイゼンハワー大統領のメッセージを代読して、この展示会こそ「偉大なる原子の力が本日以降、平和の創造に捧げられるとする日米両国の相互的決意の象徴である」と宣言した。
展示会は、東京における6週間の後、広島とそのほか6都市へ旅した。それは、電力生産、ガン治療、食糧保存、害虫制御、科学研究のための原子力平和利用を呼び物にした。軍事利用は慎重に除外された。核の未来は安全かつ豊かであり、興奮に満ちかつ平和であるように見えた。参会者は期待を上回った。京都の場合、USIS報告によると、15万5千人が雪と雨をおして参集した。
映画、講演そして報道記事の滔々たる洪水はとてつもない成功であった。関係当局の報告によれば、「1954年から1955年にかけて原子力に関する世論の変化は目覚ましかった。・・・原子ヒステリーはほとんど除去され、1956年初めまでに日本世論は原子力平和利用を一般的に受容するに至った」。
しかし、こうした歓喜は時期尚早であった。左翼政党や労働組合による反核組織化は一般大衆の共感を呼んだ。1956年4月に行なわれたUSIS調査によると、日本国民の60%は原子力が「人類にとって恵みというより呪い」であろうとし、わずかに25%だけがアメリカは核軍備撤廃にむけて「誠実に努力している」と考えていた。毎日新聞はこの米国のキャンペーンについて、「はじめに放射能雨による洗礼ありき、ついで海外からの『アトムズ・フォア・ピース』を装った巧みな商業主義の高揚」と書いて、こき下ろした。毎日紙は日本国民に対して、「いま日本において『白い手』により繰り広げられつつある原子力競争の背後にあるものを冷静に吟味する」ことを呼びかけた。
しかし、そののち何年にもわたってUSISの活動は強化され、そして実を結び始めた。米国宣伝キャンペーンに関する秘密報告が示しているところによると、1956年には日本国民の70%が「原子」を「有害」と同一視していたが、1958年までにその比率は30%に下落していた。日本が近代的な科学・産業国家となることを願い、また日本がエネルギー資源を欠くことを知っているだけに、一般大衆は原子力が安全かつクリーンであると信じ込むようになった。かれらは広島と長崎の教訓を忘れていた。
1954年には、日本政府は原子力研究計画に資金を提供し始めた。1955年12月になると、原子力基本法が議会を通過し、日本原子力委員会(JAEC)が設置された。正力は原子力担当国務大臣と初代JAEC委員長になった。日本は最初の商業用原子炉を英国から購入したが、その後まもなく米国設計の軽水炉に切り替えた。1957年半ばまでに日本政府はさらに20基の原子炉を購入する契約を結んだ。
アメリカでは、AECが原子力を積極的に市場に売り込んだ。AECは、原子力が輸送手段の動力となり、飢えた人に食を与え、都市を明るくし、病人を癒し、地球を掘り起こす、などの万能薬となると宣伝した。アイゼンハワーは、原子力を動力とする商船や原子力航空機の計画を発表した。1955年7月、アメリカは初めて商業用原子力発電を行なった。1956年10月、アイゼンハワーは国連にたいして、アメリカが37カ国との間で原子炉建設の協定を締結したこと、およびその他の14カ国と同様の協定を交渉中であることを通知した。
1958年までには、アメリカはAECのプロジェクト・プラウシェア(鋤先計画)の下での地球掘り起こし作業でほとんど目が回り始めていた。この計画は、平和的核爆発の利用によって、港湾を建設する、到達不可能であった石油貯蔵層を開放する、巨大な地下貯水池を建設する、パナマ運河を拡大・改良するなどを提案した。ハリケーンの目の近くで20メガトンの核爆弾を破裂させて気象パターンを変えることを提案した者もいた。ある気象局の科学者は10メガトンの核爆弾を破裂させて極地の氷冠の解凍を加速させる計画を提起した。アイゼンハワーがソ連のイニシアティブによる核実験モラトリアムを一方的に破棄することに難色を示したことから、この全く愚劣な行為は中止された。
だが、プロジェクト・プラウシェアはその目標を達成した。AECのルイス・ストローズ委員長はプラウシェアが「核爆発装置の平和利用を強調すること、および、それによって核兵器の開発と実験にとってより好都合な世界世論の風土を創造すること」を意図していたと認めたのである。
(つづく)
【ピーター・カズニック】
カズニック氏は20世紀米国史の専門家。アメリカン大学歴史学准教授で、同大学の核問題研究所を主宰している。参照:木村朗・ピーターカズニック著[乗松聡子訳]『広島・長崎への原爆投下再考?日米の視点』法律文化社。
【出典】「非核の政府を求める会」
http://www1.odn.ne.jp/hikaku/
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