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吉井英勝衆院議員(共産)の「原発問題とエネルギー政策」講演を聞きました。

2011年06月30日 | 国際・政治

2011年6月24日(金)、とある団体の会合で「原発問題とエネルギー政策」と題し、日本共産党衆議院議員の吉井英勝氏の講演を聞きました。そこで、その概要を紹介します(文責:サイト管理者)

冒頭、吉井氏は、今回の福島第一原発の事故は、(1)氏などが国会などでたびたび地震や津波による事故の可能性について警告をしていたにもかかわらず、歴代政府と東電が警告を無視して「安全神話」に胡坐をかいて事前に対策をとらず、重大事故を引き起こしたこと、(2)地震・津波により外部電源・内部電源の全てが喪失し、機器冷却系ポンプが不能となった際、一刻も早く海水を使ってでも原子炉を冷却する必要があったにもかかわらず、海水での冷却では廃炉にしてしまうことと、今後の儲けを損なう責任を問われるという意味で「株主代表訴訟」を恐れて対応が遅れたこと、これが“二重の人災”であると指摘しました。

さらに、吉井氏は東電が(1)地域独占の電力会社であること、(2)発電や送電を一手に行い、電力の販売にかかる費用を料金に転嫁する「総括原価方式」によって経営を守られてきた企業であり、(3)東芝や日立、三菱重工などの電機、鉄鋼などの原発メーカーや鉄とセメントのゼネコン、資金を提供し決して不良債権にならない企業として東電にたかるメガバンク、研究費欲しさの大学や研究者、広告費で牛耳られているマスコミ、政治献金を受け取り便宜を払う自民党などの国会議員や東電労組出身の民主党国会議員、天下り先を保障された官僚など、東電と原子力政策に群がる利権屋集団としての「原発利益共同体」のからくりを説明しました。

その上で、吉井氏は、今回の東電の過失に対し、今後我々の税金で面倒を見ることも、不当な電気料金値上げを認めさせることはできず、あくまでも東電に全面保障の責任を果たさせる必要があると強調しました。
再生可能エネルギーは原発の40倍ある、原発政策を転換し、地域に根付いた再生可能エネルギー、自然エネルギーの開発・普及をすすめれば、雇用の拡大、中小企業、農林漁業と結び、地域経済の再生につながると訴えました。

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コメント (1)

「日本原子力史とアイゼンハワー」(4) ピーター・カズニック

2011年06月29日 | 国際・政治

昨日に引き続き、ピーター・カズニック氏の論文「日本原子力史とアイゼンハワー」をご紹介します。(サイト管理者)

■アトムズ・フォア・ピース、核軍備拡大を隠す

アイゼンハワーは、原子力平和利用を煙幕として利用しつつ、歴史上最も急速かつ無謀な核エスカレーションを追求した。アメリカの核軍備は、かれの政権の発足時における核兵器の保有数1千基超から、退任時のおよそ2万2千基へと拡大した。しかし、この数字すら誤解を与えるものである。アイゼンハワーが承認した調達案件は1960年代に入って現物納入され、そのためかれはケネディ政権期の核兵器保有水準に責任を負わねばならなかったのであり、事実、核兵器はこの間、3万基超に増加した。核兵器の爆発威力そのものでみると、アメリカは1961年に広島型原爆136万発相当の核兵器を積み上げていた。また、アイゼンハワーが戦域司令官やその他の特定の司令官に対して、もしかれらが状況により必要となったと信じ、かつ、大統領との通信が途絶えていた場合、あるいは、もし大統領が無能力状態に陥っていた場合、核攻撃を実行する権限をあらかじめ移譲していたことは、ほとんど知られていない。しかも、アイゼンハワーの承認のもと、これらの戦域司令官のなかには、同様の権限を配下の司令官に移譲したものすらいたのであった(この情報については、私はダン・エルズバーグ氏に感謝する)。そして、当時、核兵器が施錠されていなかったという事実を与件とすると、これよりもはるかに多くの人々が核攻撃を実行する権限でないにせよ実際の能力を持っていた。その中には航空機のパイロット、中隊レベルの指導者、基地司令官そして航空母艦艦長が含まれていた。

1960年、アイゼンハワーは第1次単一統合作戦計画(SIOP)を承認した。この計画は、戦争発生後、最初の24時間以内における中国・ソ連ブロックに対する同時攻撃のさいの米国戦略核戦力の配置を規定していた。そののち、統合参謀本部はこうした攻撃による死者数を推定するよう求められた。その回答の数字は衝撃的であった。ソ連と中国における死者数は3億2千5百万人;東欧の死者数、1億人;西欧における放射性降下物による死者数、1億人;ソ連と国境を接する諸国における放射性降下物による死者数、1億人以内;合計6億人超がその回答であった。

■否定の代価

アメリカが核兵器による人類絶滅の準備を進めている間、日本はかれらなりの形式をとった否定の方針の下に生きていた。1950年代の危なかしいスタートから始まった日本の原子力産業は、1960年代から1970年代にかけて繁栄し、その後も成長を続けた。この3月、津波の引き起こした福島事故のまえの時点において、日本は、54基の発電用原子炉を運転し、電力需要の30%を賄っていたうえ、50%の大台に到達するのも遠くないと見通すものすらいた。しかし、福島における恐るべき核の大災害は、日本国民に対して、核時代の悪夢的側面に三たび対処することを余儀なくさせたばかりか、かれらの原子力計画がクリーンで安全なエネルギーという幻想の中で生まれただけでなく、広島・長崎の得手勝手な忘却と米国核戦力の強化の中で生まれたという事実にも直面することを余儀なくさせた。

日本核遺産の根本的な評価がいま行なわれつつある。日本国民は、かつて、第2次世界大戦の恐怖を体験したのち平和憲法と反核主義の道を切り開いた。それと同様に、日本国民が、今回の悲劇を契機として、グリーン・エネルギーと米国の核の傘の下での抑止の拒絶の双方への道を設定するため前進することが望まれる。

【ピーター・カズニック】
カズニック氏は20世紀米国史の専門家。アメリカン大学歴史学准教授で、同大学の核問題研究所を主宰している。参照:木村朗・ピーターカズニック著[乗松聡子訳]『広島・長崎への原爆投下再考?日米の視点』法律文化社。 

【出典】「非核の政府を求める会」
http://www1.odn.ne.jp/hikaku/

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「日本原子力史とアイゼンハワー」(3) ピーター・カズニック

2011年06月28日 | 国際・政治

昨日に引き続き、ピーター・カズニック氏の論文「日本原子力史とアイゼンハワー」をご紹介します。(サイト管理者)

■原子力平和利用の日本への売り込み

ワシントン・ポスト紙はこのマレー委員長の考えを取り上げて、「核軍備競争をめぐる現在の脅迫観念から人の心を転換させる」方法であると激賞した。「いま、日本への原爆投下が不必要であったと意識するアメリカ人は多い。・・・日本に対する償いの一助として、原子力平和利用の手段のオファーに勝るものがあるであろうか。実際のところ、アメリカが東洋人をたんなる核爆弾の餌食と見なしているとするアジアの印象を払いのけるため、これ以上の方法があるであろうか!」

マレーとシドニー・イェーツ下院議員(民主党、イリノイ州選出)は最初の発電用原子力施設を広島に立地するよう提案した。1955年はじめ、イェーツは「原子力を殺害でなく発電のための手段とする」6万キロワット発電施設を同市に建設する法案を提出した。6月までに、アメリカと日本は原子力の研究開発に協力する合意書に調印を済ませた。

しかし、この考えを日本国民に売り込むのはそう簡単ではなかった。米国大使館、米国国務省情報局(USIS)、そして中央情報局(CIA)は、日本に原子力を普及させる強力なキャンペーンを開始するにあたって、日本プロ野球の父であり、読売新聞と日本テレビの経営者である正力松太郎に助力を求めた。A級戦争犯罪人として2年間収監されたあと、正力は裁判にかけられることなく釈放されていた。アメリカ人の目から見て、かれの猛烈な反共主義は自らの名誉回復に役立った。(参照:有馬哲夫著「正力松太郎の日本における原子力普及キャンペーンとCIAの心理戦争」、2006年11月25日東京経済大学に提出された未公刊文書。英文原題:Tetsuo Arima, "Shoriki's Campaign to Promote Nuclear Power in Japan and CIA Psychological Warfare")。正力の新聞は1955年11月1日、アメリカが大騒ぎのすえ開催にこぎつけた日本への原子力の復帰を歓迎する展示会を共催することに同意し、東京で神道のお祓い式典を提供した。アメリカ大使はアイゼンハワー大統領のメッセージを代読して、この展示会こそ「偉大なる原子の力が本日以降、平和の創造に捧げられるとする日米両国の相互的決意の象徴である」と宣言した。

展示会は、東京における6週間の後、広島とそのほか6都市へ旅した。それは、電力生産、ガン治療、食糧保存、害虫制御、科学研究のための原子力平和利用を呼び物にした。軍事利用は慎重に除外された。核の未来は安全かつ豊かであり、興奮に満ちかつ平和であるように見えた。参会者は期待を上回った。京都の場合、USIS報告によると、15万5千人が雪と雨をおして参集した。

映画、講演そして報道記事の滔々たる洪水はとてつもない成功であった。関係当局の報告によれば、「1954年から1955年にかけて原子力に関する世論の変化は目覚ましかった。・・・原子ヒステリーはほとんど除去され、1956年初めまでに日本世論は原子力平和利用を一般的に受容するに至った」。

しかし、こうした歓喜は時期尚早であった。左翼政党や労働組合による反核組織化は一般大衆の共感を呼んだ。1956年4月に行なわれたUSIS調査によると、日本国民の60%は原子力が「人類にとって恵みというより呪い」であろうとし、わずかに25%だけがアメリカは核軍備撤廃にむけて「誠実に努力している」と考えていた。毎日新聞はこの米国のキャンペーンについて、「はじめに放射能雨による洗礼ありき、ついで海外からの『アトムズ・フォア・ピース』を装った巧みな商業主義の高揚」と書いて、こき下ろした。毎日紙は日本国民に対して、「いま日本において『白い手』により繰り広げられつつある原子力競争の背後にあるものを冷静に吟味する」ことを呼びかけた。

しかし、そののち何年にもわたってUSISの活動は強化され、そして実を結び始めた。米国宣伝キャンペーンに関する秘密報告が示しているところによると、1956年には日本国民の70%が「原子」を「有害」と同一視していたが、1958年までにその比率は30%に下落していた。日本が近代的な科学・産業国家となることを願い、また日本がエネルギー資源を欠くことを知っているだけに、一般大衆は原子力が安全かつクリーンであると信じ込むようになった。かれらは広島と長崎の教訓を忘れていた。

1954年には、日本政府は原子力研究計画に資金を提供し始めた。1955年12月になると、原子力基本法が議会を通過し、日本原子力委員会(JAEC)が設置された。正力は原子力担当国務大臣と初代JAEC委員長になった。日本は最初の商業用原子炉を英国から購入したが、その後まもなく米国設計の軽水炉に切り替えた。1957年半ばまでに日本政府はさらに20基の原子炉を購入する契約を結んだ。

アメリカでは、AECが原子力を積極的に市場に売り込んだ。AECは、原子力が輸送手段の動力となり、飢えた人に食を与え、都市を明るくし、病人を癒し、地球を掘り起こす、などの万能薬となると宣伝した。アイゼンハワーは、原子力を動力とする商船や原子力航空機の計画を発表した。1955年7月、アメリカは初めて商業用原子力発電を行なった。1956年10月、アイゼンハワーは国連にたいして、アメリカが37カ国との間で原子炉建設の協定を締結したこと、およびその他の14カ国と同様の協定を交渉中であることを通知した。

1958年までには、アメリカはAECのプロジェクト・プラウシェア(鋤先計画)の下での地球掘り起こし作業でほとんど目が回り始めていた。この計画は、平和的核爆発の利用によって、港湾を建設する、到達不可能であった石油貯蔵層を開放する、巨大な地下貯水池を建設する、パナマ運河を拡大・改良するなどを提案した。ハリケーンの目の近くで20メガトンの核爆弾を破裂させて気象パターンを変えることを提案した者もいた。ある気象局の科学者は10メガトンの核爆弾を破裂させて極地の氷冠の解凍を加速させる計画を提起した。アイゼンハワーがソ連のイニシアティブによる核実験モラトリアムを一方的に破棄することに難色を示したことから、この全く愚劣な行為は中止された。

だが、プロジェクト・プラウシェアはその目標を達成した。AECのルイス・ストローズ委員長はプラウシェアが「核爆発装置の平和利用を強調すること、および、それによって核兵器の開発と実験にとってより好都合な世界世論の風土を創造すること」を意図していたと認めたのである。

(つづく)

【ピーター・カズニック】
カズニック氏は20世紀米国史の専門家。アメリカン大学歴史学准教授で、同大学の核問題研究所を主宰している。参照:木村朗・ピーターカズニック著[乗松聡子訳]『広島・長崎への原爆投下再考?日米の視点』法律文化社。 


【出典】「非核の政府を求める会」
http://www1.odn.ne.jp/hikaku/

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「日本原子力史とアイゼンハワー」(2) ピーター・カズニック

2011年06月27日 | 国際・政治

昨日に引き続き、ピーター・カズニック氏の論文「日本原子力史とアイゼンハワー」をご紹介します。(サイト管理者)

■銃弾とまったく同様か?

アイゼンハワーは時折、傲慢ともいえる調子で核兵器の使用を語ることがあった。1955年、かれはある記者にこう言った。「そう、もちろん、あれらは場合によって使われるであろう。ああいった物が厳密な意味での軍事標的にたいし、また厳密な軍事目的のために使用されうる戦闘においては、あれらが銃弾などとまったく同様に使用されてはならないとする理由は見当たらない。」ウィンストン・チャーチルの特使ジョック・コルビルにたいして、アイゼンハワーは「“通常”兵器と原子兵器との間に区別はなかった。すべての兵器は時の経過のなかで通常兵器になる」と語った。コルビルは、そのときのことを想い起こすとゾッとする、「私はとても自分の耳を信じられなかった」と言っている。

アイゼンハワーは核兵器の管理を原子力委員会(AEC)から軍部へと移し始めた。欧州諸国はアメリカが核戦争を始めることを恐れた。実際、アイゼンハワーは朝鮮について、スエズ運河について、そして台湾海峡の金門・馬祖については2度も核戦争を始めると威嚇した。欧州の同盟国はアイゼンハワーに自制するよう懇願した。

核戦争正常化に対する一般大衆の反発はアイゼンハワー政権のこうした計画を頓挫させる勢いとなった。国家安全保障会議(NSC)1953年3月会合の議事録は次のように書いている。「大統領と[ジョン・フォスター、原注]ダレス[国務、訳注]長官は原子兵器の使用をめぐるタブーがなんらかの方法で解消されねばならないとすることで完全に意見の一致をみた。ダレス長官は、現在の世界世論の状況下において、われわれが原爆を使用することはできないと認める一方、われわれはこうした感情を消滅させるため、いまあらゆる努力を払うべきであろう[と述べた。訳注]」

■アトムズ・フォア・ピース、放射能灰に埋もれる

こうしたタブー解消の最良の方法として、アイゼンハワーは核エネルギーの軍事的利用方法から社会的利益にかなう活用方法へと焦点を移さねばならないと決断した。国防総省心理戦略委員会のステファン・ポッソニー顧問は「もし原子力が建設的目的にも同時に使われているならば、原子爆弾はもっとずっと容易く受け入れられるであろう」と論じていた。1953年12月8日、アイゼンハワーは国連において「アトムズ・フォア・ピース」演説を行なった。かれは、アメリカが自らの「全身全霊を捧げることによって、人間の奇跡的な発明心がその死ではなく、その生に捧げられる方途を見出すであろう」と約束した。かれは国内、国外双方において原子力平和利用の恩恵を広めることを誓約した。

しかし、それに続く1954年3月のブラボー核実験はこうした諸計画をほとんど頓挫させるところであった。米国水爆実験の放射性降下物がマーシャル諸島の236島とともに、実験地点から85マイルの距離をおき、指定危険水域の外にいた第5福竜丸の日本人船員23人を汚染した。放射線を浴びたマグロが日本の都市で売られ、多くの人々がそれを食べたとき、パニックが起きた。国際社会はこの核爆発実験に愕然とした。ベルギー外交官のポール=アンリー・スパーク[ベルギーの首相、外相をつとめた;NATO事務総長も。訳注]は「大統領演説の考え方――すなわち、アメリカとしては原子力を平和目的のために利用したいという考え方――を復活させるために何らかの手が打たれなければ、アメリカの国名は欧州において野蛮と恐怖の同義語になるであろう」と警告した。インドのネルー首相は、アメリカの指導者が「自らの政策に邪魔立てをするいかなる人も国も爆殺する」つもりの「危険な自己中心的狂人」である、と宣言した。

アイゼンハワーは1954年5月の国家安全保障会議において、「すべての人がわれわれをスカンクだ、武力誇示者だ、戦争屋だと思っているように見える」とのべた。ダレスは「いま、われわれの軍隊とヒトラーの軍隊とが比較されている」と不満をもらした。

こうした批判は日本においてもっとも激烈であった。東京の杉並区では、主婦たちが水爆禁止の請願署名運動を開始した。運動は瞬く間に日本全土に広がった。翌年までに、日本人口の3分の1に相当する3千2百万人の人々が水爆反対の請願に署名した。

1945年原爆投下にたいする長く抑制されていた憤怒は、米占領軍当局による原爆投下に関する議論の全面禁止の下に置かれてきただけに、ここでついに爆発した。国家安全保障会議の作戦調整委員会は、アメリカが「原子力の非戦争利用に関する強力な攻勢」をかけて損害を食い止めること、および、日本に実験用原子炉の建設を申し出ることをあわせて勧告した。原子力委員会のトマス・マレー委員長はこれに同意し、次のように宣言した。「広島と長崎の記憶がきわめて鮮明であり続けているいま、日本におけるこうした原子力プラントの建設は、両都市の大虐殺の記憶からわれわれをみなきっぱりと解き放つことができる、劇的にしてキリスト教徒的な意思表示となるであろう。」

(つづく)

【ピーター・カズニック】
カズニック氏は20世紀米国史の専門家。アメリカン大学歴史学准教授で、同大学の核問題研究所を主宰している。参照:木村朗・ピーターカズニック著[乗松聡子訳]『広島・長崎への原爆投下再考?日米の視点』法律文化社。 

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「日本原子力史とアイゼンハワー」(1) ピーター・カズニック

2011年06月26日 | 国際・政治

このほど、「非核の政府を求める会」は、ピーター・カズニック氏の論文「日本原子力史とアイゼンハワー」を掲載しました。原爆の投下を受けた唯一の被爆国として、平和憲法を持つにいたった日本が、再び核の脅威である原子力を使った発電所を受け入れたのか、その真相がわかるものです。大変、興味深い内容ですので、何回かに渡って転載させていただきご紹介します。(サイト管理者)

「日本原子力史とアイゼンハワー」
ピーター・カズニック 

福島第1原子力発電所の大惨事の発生をうけて、米「ブレティン・オブ・ゼ・アトミック・サイエンティスツ」誌電子版は4月13日、ピーター・カズニック氏の論文を掲載した。
論文冒頭の「主な論点」は次の3点をあげている。

●アメリカは第2次世界大戦後、日本に対して原子力を猛烈に売り込んだ。当初、市民の間に躊躇いがあったものの、原子力産業はやがて花開いた。
●アイゼンハワー大統領の原子力平和利用の公約は戦争計画における大規模な軍備拡張と核兵器依存の強化を隠すものとなった。
●福島原発事故の大災害は、アメリカの「核の傘」が必要であるとの認識の拒絶へとつながる、日本原子力政策の再評価を導くことになるかもしれない。

以下、カズニック論文の抄訳。
資料:Peter Kuznick, “Japan's nuclear history in perspective: Eisenhower and atoms for war and peace,” BULLETIN On-line, April 13, 2011.

    

日本は、平和憲法と非核3原則および核軍備撤廃公約を持っている、地球上で最も強烈な反核の国である。悲劇的なことに、その日本が過去4半世紀を通じて最も危険かつ長期にわたる核の危機に襲われつつあり、被害は25年前のチェルノブイリの被害を上回る恐れすらある。しかし、日本の反核主義は、過去66年間にわたり最も恥ずかしげもなく好核の国であり続けてきたアメリカへの依存を特徴とするファウスト的契約にもとづいて、つねに成り立ってきた。福島危機の根源と意義はこの奇妙な組み合わせの同盟国ペアの間の不可思議な関係のなかに埋もれていた。

日本が原子力計画に乗り出したのはアメリカのドワイト・アイゼンハワー大統領の政権期であった。アイゼンハワーは、皮肉なことに、自らが創設に尽力した軍産複合体そのものの台頭に警告を発したとして、いま最もよく知られている人物である。かれは、また、広島と長崎に対する原子爆弾投下を批判した唯一のアメリカ大統領でもある。かれは、原爆投下が戦後におけるアメリカの対ソ友好関係の展望を無にすることを恐れて、一時、原子力の国際管理および米国保有核兵器を破棄するため国連への引き渡しを提唱した。

しかし、1953年の大統領就任までに、アイゼンハワーの核兵器に関する見解は一変した。米国が「膨大な軍事支出の積み重ねで窒息死する」ことを望まず、またソ連とのいかなる戦争も早々に核戦争に転化することを想定して、かれは高価な通常兵器戦力から強化された戦略空軍による大量核報復へと重点を移した。ハリー・トルーマン大統領が核兵器を最後の手段と考えていたのに対して、アイゼンハワーの「ニュールック」政策は核兵器を国防戦略の基礎と位置づけた。

(つづく)

【ピーター・カズニック】
カズニック氏は20世紀米国史の専門家。アメリカン大学歴史学准教授で、同大学の核問題研究所を主宰している。参照:木村朗・ピーターカズニック著[乗松聡子訳]『広島・長崎への原爆投下再考?日米の視点』法律文化社。 


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