竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 大伴三中を鑑賞する

2011年02月21日 | 万葉集 雑記
万葉集 大伴三中を鑑賞する

 大伴三中を鑑賞しますが、例によって、紹介する歌は、原則として西本願寺本の原文の表記に従っています。そのため、紹介する原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。
 また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や一部に解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話で、学問ではありません。

 今回は、このいつもの決まり文句が重要です。最初に紹介する集歌1016の歌は宴での歌ですが、歌の標に示すように直接には詠み人知れずの歌とするのが相当です。ただ、普段の解説では、呼び名称のような扱いでの記号の感覚で巨勢宿奈麻呂朝臣の歌とするようです。

春二月、諸大夫等集左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家宴謌一首
標訓 (天平九年)春二月に、諸(もろもろ)の大夫(まへつきみ)等(たち)の左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣の家に集(つど)ひて宴(うたげ)せる謌一首

集歌1016 海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎将見登 莫津左比曽来之
訓読 海原(うなはら)の遠き渡(わたり)を遊士(みやびを)の遊ぶを見むとなづさひぞ来(こ)し

私訳 海原の遠い航海ですが、風流な人がその風流を楽しんでいるのに参加しようと、苦労して風流の宴での歌を記す筆を持って還って来ました。

右一首、書白紙懸著屋壁也。題云蓬莱仙媛所嚢蘰、為風流秀才之士矣。斯凡客不所望見哉。
注訓 右の一首は、白き紙に書きて屋(いへ)の壁に懸著(か)けたり。題(しる)して云はく「蓬莱の仙媛(やまひめ)に蘰(かづら)を嚢(おさ)めむは、風流秀才の士(をのこ)の為なり。斯(こ)は凡客(ぼんかく)の望み見るところにあらずかも」といへる。
注意 左注での「嚢」の漢字には、動詞では「おさめる、受け入れる」と云う意味もあります。


 立教大学の沖森卓也教授の素晴らしい著書に「日本語の誕生 古代の文字と表記」(吉川弘文館)があります。この本は、私のような素人が万葉集を鑑賞する時に、その鑑賞の道しるべとして頼るような重要なものです。こうした時、集歌1016の歌を鑑賞しますと、歌の「莫津左比曽」は謎かけであろうと想像が出来ます。それで左注の「右一首、書白紙懸著屋壁也」の文章が利いてきます。つまり、筆で墨書し壁に貼り出して人に見せることで歌意が判る仕掛けとなっています。歌の「莫津左比曽」は万葉仮名としてそのまま「なつさひそ」と訓めますが、漢字の意味合いからは「津」の文字の中で並立するもの(「比」の漢字の意味)の左側を取り去るとも解釈できます。それで「津」の文字から筆を意味する「聿」の文字が表れて来ます。(なぜ、このような酔論が出来るのかは、先の「日本語の誕生 古代の文字と表記」を参照して頂ければ幸いです)
 また、天平九年二月の宴で「海原之遠渡乎」と歌を詠いますから、当然、その時、新羅との宗主問題で世の話題になった遣新羅使の帰国者一行であることが想像できます。その人物が「海を渡って宴に来た」と詠うのですから、想定される歌人は遣新羅使副使であった大伴三中となります。そして、この宴は大伴三中の遣新羅使の労をねぎらい、無事の帰国を祝うような宴であったと思われます。

参考資料 続日本紀より抜粋
天平九年正月辛丑(27) 遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂・少判官正七位上大蔵忌寸麻呂等入京。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂泊津嶋卒、副使従六位下大伴宿禰三中染病、不得入京。
天平九年二月己未(15) 遣新羅使奏「新羅国、失常礼。不受使旨」


 この歌の内容は、宴に招かれた主賓の大伴三中がとりあえず、あいさつの歌を披露した風景でしょうか。左注の「蓬莱仙媛所嚢蘰」に示すように漢文には葛洪の神仙伝の麻姑の説話があり、その意に「今日は季節柄、あいにくこの宴には花などの風流は無いが、唐国の風流士が神仙伝から麻姑の姿を思い描くように、我々もまた、梅花や桜花を想像して楽しもう」との提案があります。
 今回もまた長々しく、このような酔論を紹介しましたのは、この酔論を下にしないと集歌1016の歌を十分に鑑賞出来ないのではないかと危惧するためです。
 参考に普段の万葉集の解説で集歌1016の歌人とされる巨勢朝臣宿奈麻呂の、その本人が詠った本当の歌を紹介します。集歌1645の歌の内容が集歌1016の歌の左注に示す意図に従ったものですので、場合により、同じ宴での歌かもしれません。なお、景色を想像して歌を詠うと云う巨勢宿奈麻呂の歌の世界には、先行する大伴旅人の集歌1640の梅謌や同時代として安倍朝臣奥道の雪謌があります。当時の風流士は、これらの中国の故事や大和歌の歴史を知った上で宴に臨む必要があったようで、非常に高度な教養と風景を想像する感性が必要だったと思われます。


巨勢朝臣宿奈麻呂雪謌一首
標訓 巨勢朝臣(こせのあそみ)宿奈麻呂(すくなまろ)の雪の謌一首
集歌1645 吾屋前之 冬木乃上尓 零雪乎 梅花香常 打見都流香裳
訓読 吾が屋前(やど)の冬木(ふゆき)の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも

私訳 私の家の冬枯れした樹の上に降る雪を、梅の花かとつい見間違えた。


参照歌
太宰帥大伴卿梅謌一首
標訓 太宰帥大伴卿の梅の謌一首
集歌1640 吾岳尓 盛開有 梅花 遺有雪乎 乱鶴鴨
訓読 吾が岳(おか)に盛(さか)りに咲ける梅の花残れる雪を乱(まが)へつるかも

私訳 私が眺める岳に花盛りと咲ける梅の花よ。枝に融け残った雪を梅の花と間違えたのだろうか。


安倍朝臣奥道雪謌一首
標訓 安倍朝臣(あべのあそみ)奥道(おきみち)の雪の謌一首
集歌1642 棚霧合 雪毛零奴可 梅花 不開之代尓 曽倍而谷将見
訓読 たな霧(き)らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代(しろ)に擬(そ)へてだに見む

私訳 地には霧が一面に広がり、そこに雪も降って来ないだろうか。梅の花が咲かない代わりに、雪を梅の花に擬えてだけでも、この景色を眺めたい。



 再び、大伴三中の歌に戻ります。普段の解説では巻十五にのる遣新羅使の歌で「副使」とされるものもこの大伴三中の歌としますが、別のところで紹介しましたように非常に疑問のあるものです。従いまして、素人のする酔論では大伴三中と思われる歌は先の集歌1016の歌とここで紹介する集歌443の長歌・短歌の都合四首だけとなります。
 さて、この歌群は不思議な表記をしています。それは判官大伴宿祢三中から班田史生丈部龍麿に対する挽歌ですが、これら三首の歌すべてに「公」の漢字が使用されていることです。大伴三中はこの時に従六位下での少判事と思われますから、少初位下または無官と思われる丈部龍麿に対して使用するような表記でありません。すると、丈部龍麿は、大伴三中が非常に尊敬するような理由で天平元年(又は神亀六年)に自殺をしたのでしょうか。非常に意味深な「公」の漢字の採用です。

天平元年己巳、攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時、判官大伴宿祢三中作謌一首并短謌
標訓 天平元年己巳、攝津國の班田(はんでん)の史生(ししやう)丈部(はせつかべの)龍麿(たつまろ)の自(みずか)ら經(わな)き死(みまか)りし時に、判官大伴宿祢三中の作れる謌一首并せて短謌

集歌443 天雲之 向伏國 武士登 所云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉 玉葛 弥遠長 祖名文 継徃物与 母父尓 妻尓子等尓 語而 立西日従 帶乳根乃 母命者 齊忌戸乎 前坐置而 一手者 木綿取持 一手者 和細布奉乎 間幸座与 天地乃 神祇乞祷 何在 歳月日香 茵花 香君之 牛留鳥 名津匝来与 立居而 待監人者 王之 命恐 押光 難波國尓 荒玉之 年經左右二 白栲 衣不干 朝夕 在鶴公者 何方尓 念座可 欝蝉乃 惜此世乎 露霜 置而徃監 時尓不在之天

訓読 天雲の 向伏(むかふ)す国の 武士(ますらを)と 云はれし人は 皇祖(すめおや)の 神(かみ)の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ち候(さもら)ひ 内(うち)の重(へ)に 仕(つか)へ奉(まつ)り 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(おや)の名も 継ぎ行くものと 母父(ははちち)に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命(みこと)は 斎瓮(いはひへ)を 前に据ゑ置きて 片手には 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和細布(にぎたへ)奉(まつ)るを ま幸(さき)くませと 天地の 神を祈(こ)ひ祷(の)み いかならむ 年の月日(つきひ)か つつじ花 香(にほ)へる君が 牛留鳥(にほとり)の なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 押し照る 難波の国に あらたまの 年経るさへに 白栲の 衣(ころも)も干(ほ)さず 朝夕(あさゆふ)に ありつる公(きみ)は いかさまに 思ひいませか 現世(うつせみ)の 惜しきこの世を 露霜の 置きて往(ゆ)きけむ 時にあらずして

私訳 空の雲が遠く地平に連なる国の勇者と云われた人は、皇祖である神が祀られる御門の外の重なる塀に立ち警護して、内の重なる御簾の間に仕え申し上げて、美しい蘰の蔓のようにいよいよ長く、父祖の誉れの名を後世に継ぎ行くものと、母や父に妻に子供にと語らって国を旅立った日から、乳を飲ませ育てた実の母上は、祈りを捧げる斎甕を前に据えて置いて、片手には木綿の幣を取り持って、もう一方の片手には和栲を捧げて、無事に居なさいと天と地の神に祈り願う、いつの年の月日にか、ツツジの花が香るような貴方が、にほ鳥のように道中を難渋して帰って来るかと、家族が立ったままで待っていた人は、大王の御命令を承って、天と地から光が押し輝くような難波の国に、新しき年に気が改まる、そんな年を経るにくわえて、白い栲の衣も着替えて干さず、朝に夕に勤務をしていた貴方は、どのように思われたのか、人が生を営む、死ぬには惜しいこの世を露や霜を置くように、その足跡をこの世に置いてあの世に逝った。まだ、あの世に旅立つ時ではないのに。


反謌
集歌444 昨日社 公者在然 不思尓 濱松之上於 雲棚引
訓読 昨日(きのふ)こそ君はありしか思はぬに浜松の上(うへ)を雲のたなびく

私訳 昨日までこそは、貴方は生きてこの世に在った。思いがけずに、浜松の上を人の霊だと云う雲が棚引く。


集歌445 何時然跡 待牟妹尓 玉梓乃 事太尓不告 徃公鴨
訓読 いつしかと待つらむ妹に玉梓(たまづさ)の事(こと)だに告(つ)げず往(ゆ)きし公(きみ)かも

私訳 いつ帰ってくるのかと待っているでしょう貴方の妻に、美しい梓の杖を持つ朝廷からの使者から頂いた叙任も告げることなく、死に逝った貴方です。



 検索の労を省くために、参考に普段の解説で天平八年の遣新羅使副使大伴三中の歌とされるものを紹介します。なお、この遣新羅使副使は「見れば」や「居れば」と詠いますが、大伴三中の歌風とは少し違うのではないでしょうか。
 素人の酔論で、集歌 3701の歌や集歌 3707の歌は、その万葉集での前後の歌から神亀元年秋の対馬から新羅へと渡って行く風景と思っています。ところが、大伴三中は天平八年秋に逆に新羅から対馬へと戻って来ます。それも天然痘と思われる病人である遣新羅使大使の阿倍朝臣継麻呂を抱えて。

集歌 3701 多可之伎能 母美知乎見礼婆 和藝毛故我 麻多牟等伊比之 等伎曽伎尓家流
訓読 竹敷(たかしき)の黄葉(もみち)を見れば吾妹子が待たむと云ひし時ぞ来にける

私訳 竹敷の黄葉を見ると私の愛しい貴女が、私の還りを待っていると云ったその時が来てしまった。
右一首、副使
左注 右の一首は、副使


集歌 3707 安伎也麻能 毛美知乎可射之 和我乎礼婆 宇良之保美知久 伊麻太安可奈久尓
訓読 秋山の黄葉(もみち)をかざし吾(あ)が居れば浦(うら)潮(しほ)満ち来いまだ飽(あ)かなくに

私訳 秋山の黄葉を髪に挿して、私がここに居ると浦に潮が満ちて来た。まだ、この風景に飽きてはいないのに。
右一首、副使
左注 右の一首は、副使

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