竹取翁と万葉集のお勉強

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笠朝臣麿  譬喩謌二首、卿に贈れる謌と大宰府烏梅の宴の歌

2011年01月31日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
譬喩謌二首
 集歌391の歌と集歌393の歌は、万葉集巻三の譬喩歌の分類において、それぞれ一首単独で採歌された歌です。このため、これらの歌を鑑賞する上で、それぞれの歌に譬喩する世界を見る必要があります。
 例えば、集歌391の歌で使われる漢語としての「木」と「樹」では、その意味が違います。丁寧にお祭りして伐る立派な材料になる樹木とままに伐る立木の差があります。普段の解説では集歌391の歌は女性の婚姻の比喩ではないかとしていますが、漢語の感覚からは外国にも通用する人材を、ままに下役人に使っているような比喩が窺えます。なお、足柄山に注目すると、不遇な人材は武蔵国や常陸国の人だったのでしょうか。
 次に集歌393の歌は、詠い手と聞き手とが、何かの前兆を見て、その行方を想像し、その後を期待しています。ほのかに見た女性との恋の行方でしょうか、それとも、仏法が説く仏の貴さでしょうか。素人の感覚では、仏教典から仏陀の姿を想像して尊ぶ沙弥である満誓の姿を見てしまいます。


造筑紫觀世音寺別當沙弥満誓謌一首
標訓 造筑紫觀世音寺の別當沙弥満誓の謌一首
集歌391 鳥総立 足柄山尓 船木伐 樹尓伐歸都 安多良船材乎
訓読 鳥(とり)総(ふさ)立(た)て足柄山に船木(ふなき)伐(き)り樹(き)に伐(き)り行きつあたら船木(ふなき)を

私訳 鳥総を立てて足柄山で船を作る材木を伐る作業に対して、単なる生えている立木として伐りにわざわざ都から行った。立派な船の材木を(得るためなのに)。


満誓沙弥月謌一首
標訓 満誓沙弥の月の謌一首
集歌393 不所見十方 孰不戀有米 山之末尓 射狭夜歴月乎 外見而思香
訓読 見えずとも誰れ恋ひざらめ山の末(ま)にいさよふ月を外(よそ)に見てしか

私訳 たとえその姿が直接に見えなくても、誰が恋慕をしないでいられるでしょうか。山際に出かかっている月の明かりから月の姿を想像して、その姿を思い描くではありませんか。



卿に贈れる謌
 この歌は、天平二年暮れから三年春頃の歌です。沙弥満誓が奈良の京に戻った大伴旅人に贈る歌二首に対して、万葉集ではその返歌二首が残されています。
 なお、大伴旅人が詠う返歌には、別れの悲しさと懐かしさがありますが、同時に軽い遊び心を歌の表記に取り入れています。奈良時代の風流人の漢字表記の遊びも楽しんでください。

太宰帥大伴卿上京之後沙弥満誓贈卿謌二首
標訓 太宰帥大伴卿の上京の後に、沙弥満誓の卿に贈れる謌二首

集歌572 真十鏡 見不飽君尓 所贈哉 旦夕尓 左備乍将居
訓読 真澄鏡(まそかがみ)見飽かぬ君に後れてや朝(あした)夕(ゆふべ)にさびつつ居(を)らむ

私訳 見たい物を見せると云う真澄鏡で日々見ても見飽きることがない貴方に、私はここに残されて、朝に夕べにさびしく暮らして行くでしょう。


集歌573 野干玉之 黒髪變 白髪手裳 痛戀庭 相時有来
訓読 ぬばたまの黒髪変(かは)り白髪(しらけ)ても痛(いた)き恋には逢ふ時ありけり

私訳 真っ黒な黒光りする黒髪が変わり白髪となる年になっても、このような辛い恋慕の想いに逢うことがあるのですね。


参考歌
大納言大伴卿和謌二首
標訓 大納言大伴卿の和(こた)へたる謌二首
集歌574 此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思
訓読 ここにありて筑紫(つくし)や何処(いづち)白雲のたなびく山の方(かた)にしあるらし

私訳 ここ都にいて筑紫はどちらの方向になるのだろう。白雲のたなびく山の西の彼方にあるのだろう。


集歌575 草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天
訓読 草香江(くさかえ)の入江に求食(あさ)る葦(あし)鶴(たづ)のあなたづたづし友無しにして

私訳 草香江の入江に餌をあさる葦べの鶴のように、ああ心もとないことよ。多くの友は遠くに無くして。



大宰府烏梅の宴の歌
 この集歌821の歌は、大宰府で開かれた烏梅の宴で詠われた三十二首の歌の中の一首です。
 この宴は、日本の和歌の歴史では非常な重要なもので、日本最初の和歌を一字一音の万葉仮名を使って表記してから、その歌を口唱して詠うことを目的に行われた大和歌を詠う会の宴です。ここで、私は歌の表記が先で口唱は後としていて、口唱する歌を書記が一字一音の万葉仮名で速記したとする立場ではありません。
 ご存じのように、一字一音の万葉仮名で表記された歌は、それを表記する筆記体により、楷書の万葉仮名、草書連綿、草仮名、平仮名と意図的に区分が可能ですが、その歌の本質に相違はありません。ただし、この一字一音の万葉仮名で表記された歌は、その調べの美しさが歌の命となり、歌自体の奥行は漢語を含む表記に比べ浅くなります。現在の和歌は、人麻呂の漢詩のような表記する和歌と旅人が行った一字一音の万葉仮名での調べの和歌の中間に位置します。

集歌821 阿乎夜奈義 烏梅等能波奈乎 遠理可射之 能弥弖能々知波 知利奴得母與斯 (笠沙弥)
訓読 青柳(あほやぎ)梅との花を折り插頭(かざ)し飲みての後(のち)は散りぬともよし (笠沙弥)

私訳 青柳と梅との枝や花枝を、手折って皆の前に飾って眺め、この宴会で酒を飲んだ後は花が散ってしまってもしかたがない。



参考歌 烏梅の宴で詠われた三十二首
(大貳紀卿)
集歌815 武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎岐都々 多努之岐乎倍米
訓読 正月(むつき)立ち春の来(き)たらば如(かく)しこそ梅を招(を)きつつ楽しきを経(へ)め
私訳 正月の立春がやって来たら、このように梅の花が咲くのを招き、そして客を招き、楽しい風流の宴の一日を過ごしましょう。

(少貳小野大夫)
集歌816 烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我覇能曽能尓 阿利己世奴加毛
訓読 梅の花今咲ける如(ごと)散り過ぎず吾(わ)が家(いへ)の苑(その)にありこせぬかも
私訳 梅の花は今咲いているように散り去ることなく吾が家の庭に咲き続けてほしいよ。

(少貳粟田大夫)
集歌817 烏梅能波奈 佐吉多流僧能々 阿遠也疑波 可豆良尓須倍久 奈利尓家良受夜
訓読 梅の花咲きたる苑(その)の青柳(あほやぎ)は蘰(かづら)にすべく成りにけらずや
私訳 梅の花の咲く庭に、青柳もまた、蘰に出来るように若芽を付けた枝を垂らしているではないか。

(筑前守山上大夫)
集歌818 波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武
訓読 春さればまづ咲く屋戸(やと)の梅の花独り見つつや春日(はるひ)暮らさむ
私訳 春になると最初に咲く屋敷の梅の花よ、私独りで眺めながら、ただ、春の一日を暮らしましょう。

(豊後守大伴大夫)
集歌819 余能奈可波 古飛斯宜志恵夜 加久之阿良婆 烏梅能波奈尓母 奈良麻之勿能怨
訓読 世間(よのなか)は恋繁しゑや如(かく)しあらば梅の花にも成らましものを
私訳 この世の中は私から女性に恋することが多いなあ。このようであるのなら人に恋われる梅の花になれたら良いのに。

(筑後守葛井大夫)
集歌820 烏梅能波奈 伊麻佐可利奈理 意母布度知 加射之尓斯弖奈 伊麻佐可利奈理
訓読 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり
私訳 梅の花は今が盛りです。親しい友よ梅の花枝を飾って眺めましょう。花は今が盛りです。

(笠沙弥)
集歌821 阿乎夜奈義 烏梅等能波奈乎 遠理可射之 能弥弖能々知波 知利奴得母與斯
訓読 青柳(あほやぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬともよし
私訳 青柳と梅との枝や花枝を、手折って皆の前に飾って眺め、この宴会で酒を飲んだ後は花が散ってしまってもしかたがない。

(主人)
集歌822 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母
訓読 吾(わ)が苑(その)に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
私訳 私の庭に梅の花が散る。遥か彼方の天より雪が降って来たのだろうか。

(大監伴氏百代)
集歌823 烏梅能波奈 知良久波伊豆久 志可須我尓 許能紀能夜麻尓 由企波布理都々
訓読 梅の花散らくは何処(いづく)しか清(す)がにこの城(き)の山に雪は降りつつ
私訳 梅の花が散るのは何処でしょう。それにしてもこの城の山に雪は降りつづくことよ。

(小監阿氏奥嶋)
集歌824 烏梅乃波奈 知良麻久怨之美 和我曽乃々 多氣乃波也之尓 于具比須奈久母
訓読 梅の花散らまく惜しみ吾(わ)が苑(その)の竹(たけ)の林に鴬鳴くも
私訳 梅の花の散ることを惜しんで、私の庭の竹の林に鴬が鳴くことよ。

(小監土氏百村)
集歌825 烏梅能波奈 佐岐多流曽能々 阿遠夜疑遠 加豆良尓志都々 阿素比久良佐奈
訓読 梅の花咲きたる苑(その)の青柳(あほやぎ)を蘰(あづら)にしつつ遊び暮らさな
私訳 梅の花の咲く庭の青柳の若芽の枝を蘰にして、一日を宴会で過ごしましょう。

(大典史氏大原)
集歌826 有知奈比久 波流能也奈宜等 和我夜度能 烏梅能波奈等遠 伊可尓可和可武
訓読 うち靡く春の柳と吾(わ)が屋戸(やと)の梅の花とを如何(いか)にか分(わ)かむ
私訳 春風に若芽の枝を靡かせる春の柳と私の屋敷の梅の花の美しさを、どのように等別しましょうか。

(小典山氏若麻呂)
集歌827 波流佐礼婆 許奴礼我久利弖 宇具比須曽 奈岐弖伊奴奈流 烏梅我志豆延尓
訓読 春されば木末(こぬれ)隠(かく)れて鴬ぞ鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづゑ)に
私訳 春がやって来ると木の梢の葉に姿も隠れてしまって、鴬は、鳴いて飛び去って行く。梅の下の枝の方に。

(大判事丹氏麻呂)
集歌828 比等期等尓 乎理加射之都々 阿蘇倍等母 伊夜米豆良之岐 烏梅能波奈加母
訓読 人ごとに折りかさしつつ遊べどもいや愛(め)づらしき梅の花かも
私訳 宴会の人毎に梅の花枝を手折って広間に飾って、宴で風流を楽しんでいるが、なお、愛すべきは梅の花よ。

(藥師張氏福子)
集歌829 烏梅能波奈 佐企弖知理奈波 佐久良婆那 都伎弖佐久倍久 奈利尓弖阿良受也
訓読 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや
私訳 梅の花は咲いて散ってしまったら、桜の花が続いて咲くようになっているではないか

(筑前介佐氏子首)
集歌830 萬世尓 得之波岐布得母 烏梅能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多留倍子
訓読 万代(よろづよ)に年は来経(きふ)とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし
私訳 万代の後まで年は区切りを付けてあらたまり来るとも、梅の花は絶えることなく咲きつづけなさい。

(壹岐守板氏安麻呂)
集歌831 波流奈例婆 宇倍母佐枳多流 烏梅能波奈 岐美乎於母布得 用伊母祢奈久尓
訓読 春なれば宜(うべ)も咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝(ね)なくに
私訳 春になれば、まことによく咲いた梅の花よ。あなたを思ふと夜も安心して寝られないものを

(神司荒氏稲布)
集歌832 烏梅能波奈 乎利弖加射世留 母呂比得波 家布能阿比太波 多努斯久阿流倍斯
訓読 梅の花折りてかさせる諸人(もろひと)は今日の間(あひだ)は楽しくあるべし
私訳 今日の宴会で梅の花枝を手折りかざして指し示す人々は、今日の一日は楽しいことでしょう。

(大令史野氏宿奈麻呂)
集歌833 得志能波尓 波流能伎多良婆 可久斯己曽 烏梅乎加射之弖 多努志久能麻米
訓読 毎年(としのは)に春の来らばかくしこそ梅をかさして楽しく飲まめ
私訳 毎年の春がやって来たら、このように梅の花枝を宴の中央に飾って楽しく酒を飲みましょう

(小令史田氏肥人)
集歌834 烏梅能波奈 伊麻佐加利奈利 毛々等利能 己恵能古保志枳 波流岐多流良斯
訓読 梅の花今盛りなり百鳥(ももとり)の声の恋(こい)しき春来るらし
私訳 梅の花は今が盛りです。多くの鳥の声の恋しい春が来たらしい。

(藥師高氏義通)
集歌835 波流佐良婆 阿波武等母比之 烏梅能波奈 家布能阿素比尓 阿比美都流可母
訓読 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日(けふ)の遊びに相見つるかも
私訳 春がやって来たら逢おうと思っていた梅の花のあなた。今日の宴会であなたに逢うことが出来るでしょう。

(陰陽師礒氏法麻呂)
集歌836 烏梅能波奈 多乎利加射志弖 阿蘇倍等母 阿岐太良奴比波 家布尓志阿利家利
訓読 梅の花手折りかさして遊べども飽き足らぬ日は今日(けふ)にしありけり
私訳 梅の花枝を手折り広間に飾って宴会に臨んでも、なお、風流に飽きることのない日は、今日なのだなあ。

(笇師志氏大道)
集歌837 波流能努尓 奈久夜汗隅比須 奈都氣牟得 和何弊能曽能尓 汗米何波奈佐久
訓読 春の野に鳴くや鴬なつけむと吾(わ)が家(いへ)の苑(その)に梅が花咲く
私訳 春の野に鳴くよ。その鴬を呼び寄せようと、私の家の庭に梅の花が咲くことよ

(大隅目榎氏鉢麻呂)
集歌838 烏梅能波奈 知利麻我比多流 乎加肥尓波 宇具比須奈久母 波流加多麻氣弖
訓読 梅の花散り乱(みだ)ひたる岡(をか)びには鴬鳴くも春かたまけて
私訳 梅の花の散り乱れる岡べには、鴬が鳴くことよ。春の気配が濃く。

(筑前目田氏真上)
集歌839 波流能努尓 紀理多知和多利 布流由岐得 比得能美流麻提 烏梅能波奈知流
訓読 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る
私訳 春の野を一面に霧が立ち渡り、降る雪と人が見間違えるように梅の花が散る。

(壹岐目村氏彼方)
集歌840 波流楊那宜 可豆良尓乎利志 烏梅能波奈 多礼可有可倍志 佐加豆岐能倍尓
訓読 春(はる)柳(やなぎ)鬘(かづら)に折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に
私訳 春の柳の若芽の枝を鬘に手折り、梅の花を誰れもが浮かべている。酒坏の上に。

(對馬目高氏老)
集歌841 于遇比須能 於登企久奈倍尓 烏梅能波奈 和企弊能曽能尓 佐伎弖知流美由
訓読 鴬の音(ね)聞くなへに梅の花吾家(わがへ)の苑(その)に咲きて散る見ゆ
私訳 鴬の音を聞くにつれて、梅の花が我が家の庭に咲きて散っていくのを見る。

(薩摩目高氏海人)
集歌842 和我夜度能 烏梅能之豆延尓 阿蘇比都々 宇具比須奈久毛 知良麻久乎之美
訓読 吾(わ)が屋戸(やと)の梅の下枝(しづゑ)に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ
私訳 私の家の梅の下枝に遊びながら鴬が鳴くことよ。上枝(ほつえ)に鳴けと梅の花が散るのを惜しんでいるように。

(土師氏御道)
集歌843 宇梅能波奈 乎理加射之都々 毛呂比登能 阿蘇夫遠美礼婆 弥夜古之叙毛布
訓読 梅の花折りかさしつつ諸人(もろひと)の遊ぶを見れば都しぞ思(も)ふ
私訳 梅の花枝を手折り宴場に飾って、この宴会で人々が梅の花を見ながら風流を楽しむのを見ると、都での宴の様子が想像されます。

(小野氏國堅)
集歌844 伊母我陛邇 由岐可母不流登 弥流麻提尓 許々陀母麻我不 烏梅能波奈可毛
訓読 妹が家(へ)に雪かも降ると見るまでにここだも乱(まが)ふ梅の花かも
私訳 私の愛しい貴女の家に雪が降るのかと見間違うように、一面に散り乱れる梅の花よ。

(筑前拯門氏石足)
集歌845 宇具比須能 麻知迦弖尓勢斯 宇米我波奈 知良須阿利許曽 意母布故我多米
訓読 鴬の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため
私訳 鴬が花が咲くのを待ちかねていた梅の花よ。その花を散らさずにあってほしい。私が恋いしているあの子に見せるために。

(小野氏淡理)
集歌846 可須美多都 那我岐波流卑乎 可謝勢例杼 伊野那都可子岐 烏梅能波那可毛
訓読 霞立つ長き春日(はるひ)をかさせれどいや懐(なつか)しき梅の花かも
私訳 霞が立つ長き春の日に梅の花枝を手折り、こうして飾っていますが、ますます心が引かれる梅の花よ。


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笠朝臣麿  沙弥満誓の謌一首

2011年01月29日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
沙弥満誓の謌一首
 この歌は、有名な大伴旅人の酒を讃へる歌十三首の直後に置かれていますから、大伴旅人の歌をある種の長歌と見做すと、その反歌に位置するような歌です。また、その内容も、互いに世の無常を嘆きます。
 ここらは、ブログ「日本挽歌を鑑賞する」を参照願います。普段の解説とは違う世界があり、この集歌351の沙弥満誓の謌と大伴卿の酒を讃へる歌十三首との関係が理解いただけるものと思っています。それで、原文の「且」を「旦」の誤字とはしていません。「且」と「旦」では、世の無常観が違うとする立場です。

沙弥満誓謌一首
標訓 沙弥満誓の謌一首
集歌351 世間乎 何物尓将譬 且開 榜去師船之 跡無如
訓読 世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ且(そ)は開(ひら)き榜(こ)ぎ去(い)にし船の跡なきごとし

私訳 この世を何に譬えましょう。それは、(実際に船は航海をしても)帆を開き帆走して去っていった船の跡が残らないのと同じようなものです。


参考歌
太宰帥大伴卿讃酒謌十三首
標訓 太宰帥大伴卿の酒を讃へる歌十三首

集歌338 験無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師
訓読 験(しるし)なき物を念(おも)はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし

私訳 考えてもせん無いことを物思いせずに一杯の濁り酒を飲むほうが良いのらしい。


集歌339 酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左
訓読 酒の名を聖(ひじり)と負(お)ほせし古(いにしへ)の大き聖(ひじり)の言(こと)の宣(よろ)しさ

私訳 酒の名を聖と名付けた昔の大聖の言葉の良さよ。


集歌340 古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良師
訓読 古(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし

私訳 昔の七人の賢人たちも欲しいと思ったのは酒であるらしい。


集歌341 賢跡 物言従者 酒飲而 酔哭為師 益有良之
訓読 賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし

私訳 賢ぶってあれこれと物事を語るよりは、酒を飲んで酔い泣きするほうが良いらしい。


集歌342 将言為便 将為便不知 極 貴物者 酒西有良之
訓読 言(い)はむすべ為(せ)むすべ知らず極(きは)まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし

私訳 語ることや、ことを行うことの方法を知らず、出所進退が窮まると、そんな私に貴いものは酒らしい。


集歌343 中々尓 人跡不有者 酒壷二 成而師鴨 酒二染甞
訓読 なかなかに人とあらずは酒壷(さかつぼ)になりにてしかも酒に染(し)みなむ

私訳 中途半端に人として生きていくより、酒壷になりたかったものを。酒に身を染めてみよう。


集歌344 痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見 猿二鴨似
訓読 あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む

私訳 なんと醜い。賢ぶって仏教の教えに従い酒を飲まない人をよく見るとまるで猿に似ている。


集歌345 價無 寳跡言十方 一坏乃 濁酒尓 豈益目八
訓読 価(あたひ)なき宝といふとも一杯(ひとつき)の濁れる酒にあにまさめやも

私訳 価格を付けようもない貴い宝といっても、一杯の濁った酒にどうして勝るでしょう。


集歌346 夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遣尓 豈若目八方
訓読 夜光る玉といふとも酒飲みて情(ここら)を遣(や)るにあに若(し)かめやも

私訳 夜に光ると云う玉といっても、酒を飲んで心の憂さを払い遣るのにどうして及びましょう。


集歌347 世間之 遊道尓 冷者 酔泣為尓 可有良師
訓読 世間(よのなか)の遊(みや)びの道に冷(つめた)きは酔ひ泣きするにあるべくあるらし

私訳 世間で流行る漢詩の道に疎いこととは、酒に酔って泣いていることであるらしい。


集歌348 今代尓之 樂有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武
訓読 この世にし楽しくあらば来(こ)む世には虫に鳥にも吾はなりなむ

私訳 この世が楽しく過ごせるのなら、来世では虫でも鳥でも私はなってもよい。


集歌349 生者 遂毛死 物尓有者 今在間者 樂乎有名
訓読 生(い)ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間(ま)は楽しくをあらな

私訳 生きている者は最後には死ぬものであるならば、この世に居る間は楽しくこそあってほしい。


集歌350 黙然居而 賢良為者 飲酒而 酔泣為尓 尚不如来
訓読 黙然(もだ)居(を)りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほ若(し)かずけり

私訳 ただ沈黙して賢ぶっているよりは、酒を飲んで酔い泣きすることにどうして及びましょう。

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笠朝臣麿  綿を詠ふ謌

2011年01月27日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
笠朝臣麿
 笠朝臣麿は、官僚としては現在の岐阜県から北部愛知県を中心とする一帯を行政した人物ですので、そちらの歌を詠っても良いようですが、万葉集に載る歌は大宰府での大伴旅人との交遊での歌七首が残るばかりです。経歴からすると、万葉集に残る歌に非常に偏りがあるような雰囲気です。

綿を詠ふ謌
 この歌は、取りようによっては非常な頓知があります。ここでは集歌328の歌から集歌337の歌までを一連の歌群として捉えて、大宰少弐に就任した小野老を歓迎する神亀五年初夏頃の宴会での歌としています。
 歌の雰囲気は、沙弥満誓が大伴旅人の集歌335の歌の「夢のわた」の言葉尻を捉えた上に、それに漢語の組み合わせで「身箸而」を「身は端」と「身に着ける」との両方の意味で、技巧を凝らして集歌336の歌を詠っています。その沙弥満誓が詠う頓知に対抗したのが、山上憶良が詠う有名な「宴を罷るの謌」です。その「宴を罷るの謌」は、今でも若い女を抱けるのか、どうか不安な、もうそろそろ七十歳になろうかとする病苦に苦しむ憶良が、「家で子が泣きながら待ち、その若い妻が待っている」と詠えば、大笑いの内に宴会はお開きになるのではないでしょうか。
 実に楽しく、笑いと諧謔のある風流の宴です。

沙弥満誓詠綿謌一首  造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麿也
標訓 沙弥満誓の綿を詠ふ謌一首  造筑紫觀音寺の別当、俗姓は笠朝臣麿(かさのあそみまろ)なり。

集歌336 白縫 筑紫乃綿者 身箸而 未者妓袮杼 暖所見
訓読 しらぬひ筑紫の綿(わた)は身に付けていまだは着ねど暖(あたた)かに見ゆ

私訳 不知火の地名を持つ筑紫の名産の白く縫った「夢のわだ」のような言葉の筑紫の綿(わた)の衣は、僧侶になったばかりで仏法の修行の段階は端の、箸のように痩せた私は未だに身に着けていませんが、女性のように暖かく見えます。



参考歌 大宰少弐に就任した小野老を歓迎する宴として、一連に捉えた。

太宰少貳小野老朝臣謌一首
標訓 太宰少貳の小野老朝臣の謌一首
集歌328 青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
訓読 青丹(あをに)よし寧樂(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほふ)がごとく今盛りなり

私訳 青葉が輝くように美しい奈良の都は咲く花が輝くばかりに今が盛時です。


防人司佑大伴四綱謌二首
標訓 防人司佑大伴四綱の謌二首
集歌329 安見知之 吾王乃 敷座在 國中者 京師所念
訓読 やすみしし吾(あ)が王(おほきみ)の敷きませる国の中(うち)には京師(みやこ)し念(おも)ほゆ

私訳 すべからく承知される我々の王が統治される国の中心にある京(みやこ)を偲ばれます。


集歌330 藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君
訓読 葛浪(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり平城(なら)の京(みやこ)を念(おも)ほすや君
表訳 今は藤の花が盛りの季節です。そんな京(みやこ)を想うでしょう。貴方達は。

私訳 今は藤原の花が盛りの季節です。そのような藤原が盛りな京(みやこ)を相応しいと想うでしょうか。貴方達は。


帥大伴卿謌五首
標訓 帥大伴卿の謌五首
集歌331 吾盛 復将變八方 殆 寧樂京乎 不見歟将成
訓読 吾が盛りまた変若(をち)めやもほとほとに寧樂(なら)の京(みやこ)を見ずかなりなむ

私訳 私の人生の盛りが再び帰り咲くことがあるでしょうか。ほとんどもう奈良の都を見ることはないでしょう。


集歌332 吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為
訓読 吾が命も常にあらぬか昔見し象(ころ)の小河を行きて見むため

私訳 私の寿命も長くあるだろうか。昔、御幸に同行して見た吉野の阿知賀の小路の小川をまた行って見たいために。


集歌333 淺茅原 曲曲二 物念者 故郷之 所念可聞
訓読 浅茅(あさぢ)原(はら)つばらつばらにもの思(も)へば古(ふ)りにし里し念(おも)ほゆるかも

私訳 倭の三輪の浅茅の原をつくづくと過去を振り返って物思いをすると、故郷の明日香の里を想い出します。


集歌334 萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 不忘之為
訓読 萱草(わすれくさ)吾が紐に付く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため

私訳 中国の故事に、萱草(カンゾフ)の咲く花の美しさのために世の憂さを忘れると云う、その萱草(わすれくさ)を私は紐に付ける。世の憂さの無かった善き香具山の懐かしい故郷を忘れないために。


集歌335 吾行者 久者不有 夢乃和太 湍者不成而 淵有毛
訓読 吾が行きは久にはあらじ射目(いめ)のわた湍(はや)はならずて淵(ふち)にありこそ

私訳 私のこの世の寿命は長くはないであろう。射目を立てる吉野の阿知賀にある川の曲りは急流に変わることなく穏やかな流れの淵であってほしいものです。


沙弥満誓詠綿謌一首  造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麿也
標訓 沙弥満誓の綿を詠ふ謌一首  造筑紫觀音寺の別当、俗姓は笠朝臣麿(かさのあそみまろ)なり。
集歌336 白縫 筑紫乃綿者 身箸而 未者妓袮杼 暖所見
訓読 しらぬひ筑紫の綿(わた)は身に付けていまだは着ねど暖(あたた)かに見ゆ

私訳 不知火の地名を持つ筑紫の名産の白く縫った「射目(いめ)のわた」のような言葉の筑紫の綿(わた)の衣は、僧侶になったばかりで仏法の修行の段階は端の、箸のように痩せた私は未だに身に着けていませんが、女性のように暖かく見えます。


山上憶良臣罷宴謌一首
標訓 山上憶良臣の宴(うたげ)を罷(まか)るの謌一首
集歌337 憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽
訓読 憶良らは今は罷(まか)らむ子哭(な)くらむそのかの母も吾を待つらむぞ

私訳 私たち憶良等は、今はもう御暇しましょう。子が私を待って恨めしげに泣いているでしょう。その子の母も私を待っているでしょうから。

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車持朝臣千年を鑑賞する  夫の君に戀ひたる謌

2011年01月24日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
夫の君に戀ひたる謌
 万葉集巻十六には「戀夫君謌」の題をもつ歌が二首あり、その内の一首です。紹介する集歌3811の歌の左注には車持氏の娘女の歌とありますので、参考として歌を鑑賞します。なお、集歌3811の歌は奈良時代に流行った歌物語と思われますので、何らかの事件を脚色して成立した歌として鑑賞しています。

戀夫君謌一首并短謌
標訓 夫(せ)の君に戀ひたる謌一首并せて短謌
集歌3811 左耳通良布 君之三言等 玉梓乃 使毛不来者 憶病 吾身一曽 千磐破 神尓毛莫負 卜部座 龜毛莫焼曽 戀之久尓 痛吾身曽 伊知白苦 身尓染保里 村肝乃 心砕而 将死命 尓波可尓成奴 今更 君可吾乎喚 足千根乃 母之御事歟 百不足 八十乃衢尓 夕占尓毛 卜尓毛曽問 應死吾之故

訓読 さ丹つらふ 君が御言(みこと)と 玉梓の 使(つかひ)も来ねば 思ひ病(や)む 吾が身ひとつぞ ちはやぶる 神にもな負(おほ)ほせ 占部(うらへ)据ゑ 亀もな焼きそ 恋ひしくに 痛き吾が身ぞ いちしろく 身に染み透り むらきもの 心砕けて 死なむ命(いのち) にはかになりぬ 今さらに 君か吾を呼ぶ たらちねの 母の御事か 百足らず 八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆふけ)にも 占(うら)にもそ問ふ 死ぬべき吾がゆゑ

私訳 私の体を通すような美しい貴方のお言葉だと、立派な梓の杖を携えその伝言を伝える使いも来ないので、恋患う私の身はただ独り。神の岩戸を開けるような立派な神に託すことなく、卜の斎瓮を据え亀の甲羅を焼くことなどなさるな。片恋するのが長くなり痛ましい私の身の上、その苦しみがはっきりと身に染み透り、むらきもの心は張り裂けて死にいくこの命。その時は迫ってきた。今、再び、貴方でしょうか、私の名を呼ぶ。私の心を満たす実母の行いでしょうか。百に満たない八十のような多くの辻に立って夕占でも、占でも、貴方に逢うことを問う。きっと、恋で死に行く私だから。


反謌
集歌3812 卜部乎毛 八十乃衢毛 占雖問 君乎相見 多時不知毛
訓読 占部(うらへ)をも八十(やそ)の衢(ちまた)も占(うら)問へど君を相見むたどき知らずも

私訳 卜の斎瓮にも、八十の辻の辻占にも占い問うが、貴方に直接に逢う手段を知ることもありません。


或本反謌曰
標訓 或る本の反謌に曰はく
集歌3813 吾命者 惜雲不有 散退良布 君尓依而曽 長欲為
訓読 吾が命は惜しくもあらず然(さ)たらふ君によりてぞ長く欲(ほ)りせし

私訳 私の命は惜しくはありません。死に行く身であっても、せめてそうであっても貴方に寄り添い、長くそばに居たいと思うだけです。


右、傳云、時有娘子。姓車持氏也。其夫久逕年序不作徃来。于時娘子、係戀傷心、沈臥痾疹、痩羸日異、忽臨泉路。於是遣使喚其夫君来。而乃歔欷流啼、口号斯謌。登時逝歿也

注訓 右は傳へて云はく「時に娘子(をとめ)あり。姓は車持氏なり。その夫久しく年序(とし)を逕て徃来を作(なさ)ず。時に娘子、係る戀に心を傷(いた)ましめ、痾疹(やまひ)に沈み臥(こや)り、痩羸(そうるい)日に異(け)にして、忽(たちま)ちに泉路(せんろ)に臨みき。ここに使を遣りその夫(せ)の君の来(きた)るを喚ぶ。すなはち歔欷(なげ)き流啼(りゅうてい)して、この謌を口号(くちずさ)み。登時(すなはち)逝歿(みまか)りき」といへり。

注訳 右は伝えて云うには「ある時、娘がいた。姓を車持氏であった。その夫、久しく年を経ても通って来なかった。或る時、娘は、このような恋に心を痛めて、病に罹り床に臥し、痩せ細り日々に病状は悪化して、遂に死に望むこととなった。そこで使いを遣って、その夫が来るようにと呼んだ。そして、娘は涙を流し泣きながら、この歌を口ずさんで、すぐに死んでしまった」という。


 先に養老七年五月の芳野御幸で、車持千年が吉野御幸での恋歌を詠うと、その恋は養老七年五月の出来事だと万葉集を編む人々が承知するような有名な話としました。この歌も、万葉の時代の人々が知る有名な車持氏の娘女の純愛を詠った歌です。この集歌3811の歌の「君之三言(御言)」や「玉梓乃使」の詞から、そのままストレートに歌意を解釈しますと、夫君は高貴な大宮人と想像されます。内容として真実かは不明ですが、集歌3811の歌の背景には高貴な男性と一時は恋仲になり、その後、その男性と別れ、恋に死んだ歌詠みの車持の姓を持つ女性がいたようです。そうした時、車持千年が吉野御幸で恋歌を詠った、その恋の行方が非常に気になります。これらの情景から、車持氏の娘女を車持千年とする考えもあるようです。
 さて、先に見た歌などを参考にして宮中で職務の関係から笠金村と車持千年が非常に親しい仲であったとしますと、気になる笠金村の歌があります。ここで、その歌を再掲します。この笠金村が詠う歌の、笠金村が良く知る娘女に成り代わって歌を贈られた大宮人とは、どんな人物だったのでしょうか。歌では「公」と表記しています。
 恣意的な参考として、膳親王は神亀元年に二十一歳となり初めて従四位下の官人として任官していますので、この神亀元年(724)十月の御幸に随行することは可能です。なお、前年の養老七年(723)の芳野御幸には未成年で、まだ官人でもないため「官人」として随行することは出来ません。また、場合により養老七年の芳野御幸の時点では、官職を持つ車持千年が、律令制下での官僚制度の建前では、未成年で官人でもない膳親王の上位に位置することになります。こうした時には神亀元年と養老七年とでは、恋人への敬称が「君」から「公」へと変わる可能性があります。

神龜元年甲子冬十月、幸紀伊國之時、為贈従駕人、所誂娘子笠朝臣金村作謌一首并短謌
標訓 神亀元年甲子の冬十月に、紀伊國(きのくに)に幸(いでま)しし時に、従駕(おほみとも)の人に贈らむがために、娘子(をとめ)に誂(あとら)へて笠朝臣金村の作れる謌一首并せて短謌

集歌543 天皇之 行幸乃随意 物部乃 八十伴雄与 出去之 愛夫者 天翔哉 軽路従 玉田次 畝火乎見管 麻裳吉 木道尓入立 真土山 越良武公者 黄葉乃 散飛見乍 親 吾者不念 草枕 客乎便宜常 思乍 公将有跡 安蘇々二破 且者雖知 之加須我仁 點然得不在者 吾背子之 徃乃萬々 将追跡者 千遍雖念 手嫋女 吾身之有者 道守之 将問答乎 言将遣 為便乎不知跡 立而爪衝

訓読 天皇(すめろぎ)の 行幸(みゆき)のまにまに 物部(もののふ)の 八十伴(やそとも)の雄(を)と 出で去(ゐ)きし 愛(うつく)し夫(せも)は 天飛ぶや 軽の路より 玉(たま)襷(たすき) 畝傍を見つつ 麻(あさ)裳(も)よし 紀路(きぢ)に入り立ち 真土山(まつちやま) 越ゆらむ君は 黄葉(もみぢは)の 散り飛ぶ見つつ 親(にきびに)し 吾は思はず 草枕 旅を宜(よろ)しと 思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに 點然(もだ)もありえねば 吾が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千遍(ちたび)思へど 手弱女(たわやめ)の 吾が身にしあれば 道(みち)守(もり)の 問はむ答へを 言ひ遣(や)らむ 術(すべ)を知らにと 立ちて爪(つま)づく

私訳 天皇の行幸に随って、たくさんの武官の者と共に出発して行った私が愛する夫は、雁が空を飛ぶ軽の道から美しい襷を懸けたような畝傍の山を見ながら、麻の裳にも良い生地の、その紀伊の国への道に入っていく。真土山を越えていくでしょうあの御方は、黄葉の葉々が散り飛ぶのを見ながらそれを親しみ、私はそうとは思いませんが、草を枕にする苦しい旅も好ましい常のことと思いながら、あの御方は旅路にいらっしゃると、私はぼんやりとは想像しますが、しかしながら何もしないではいられないので、愛しい貴方が出かけていったように追いかけて行こうと千度も思いますが、手弱女である女である私は、道の番人が旅行く私に浴びせかける質問に答えるすべも知らないので、旅立とうとしてためらってしまう。


反謌
集歌544 後居而 戀乍不有者 木國乃 妹背乃山尓 有益物乎
訓読 後れ居て恋ひつつあらずは紀伊(き)の国の妹背(いもせ)の山にあらましものを

私訳 後に残されて一人で貴方を恋い慕っていないで、紀伊の国にある妹背の山の名に因んだ貴方に愛される妹背でありたいものです。


集歌545 吾背子之 跡履求 追去者 木乃關守伊 将留鴨
訓読 吾が背子が跡(あと)踏(ふ)み求め追ひ行かば紀伊(き)の関守(せきもり)い留(とど)めてむかも

私訳 私の愛しい背の君の跡を辿って追いかけて行けば、紀伊の関の番人は私を関の内に留めるでしょうか。


 鑑賞への感想として、繰り返しになりますが車持朝臣千年は、性別も含めて一切が不明の歌人です。養老七年五月の芳野御幸の歌についても、御幸に随行する下級官吏が奈良の京に残る高貴な女性に恋をしているとして、その女性に対して「君」の表記を使ったとの鑑賞も成り立ちます。そうした時、車持朝臣千年は御輿を掌るような下級官吏の男性との推定が可能です。おおむね、このような鑑賞が主流と思います。
 ここでは、神亀六年二月までは大王と天皇とは政教分離で、車持千年は天皇の随員として御幸に随行したとして鑑賞しました。そのため、密接に連絡が想像できる笠金村と車持千年ですが、大王の御幸である神亀三年播磨国への御幸には車持千年は随行していなくて、車持千年は歌を詠う機会がなかったと思っています。また、大王の御幸ではその統治を詠い、天皇の御幸では国土の祝福を詠うのが基本ではなかったでしょうか。このように万葉集の歌々を標や左注を下にその場面を照合して組み合わせることで、色々な解釈や鑑賞が楽しめるのではないかと考えています。
 実に与太話でした。
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車持朝臣千年を鑑賞する  神亀五年(728)の歌 幸于難波宮

2011年01月22日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
神亀五年(728)の歌 幸于難波宮
 集歌953の歌の左注の「笠朝臣金村之謌中出也」の意味合いは、笠朝臣金村歌集の中にある歌として良いと思います。そして、「或云、車持朝臣千年作也」とありますから、万葉集の編纂者は「確信は無いが、作歌者は車持朝臣千年であろう」と判断したようです。
 この推測を展開しますと、その状況は「神亀五年の難波宮への御幸の折りに笠金村が車持千年の詠う歌を書き留めた」となります。ここでは、この推測を下に歌を鑑賞します。また、万葉集の編纂を尊重して、車持朝臣千年の歌四首と膳王の詠う集歌954の歌とになんらかの関連があるとして同時に鑑賞します。
 なお、普段の解説では集歌952の歌で「嶋待尓」の表記について、これでは意味が取れないとして「嬬待尓」と改字します。ここではこの「嶋待尓」の表記には四首の歌の中心的意味合いがありますので、改字することなくままに、一種、巫女が詠う童謡(わざうた)の感覚で鑑賞します。

五年戊辰、幸于難波宮時作謌四首
標訓 五年戊辰に、難波宮に幸しし時に、作れる謌四首
集歌950 大王之 界賜跡 山守居 守云山尓 不入者不止
訓読 大王(おほきみ)の境ひ賜ふと山守(やまもり)据ゑ守(も)るといふ山に入らずは止まじ

私訳 大王が境をお定めになったと山守りを置いてその山を警護すると云う。その禁断の山に入らずにはいられない。


集歌951 見渡者 近物可良 石隠 加我欲布珠乎 不取不巳
訓読 見渡せば近きものから石(いは)隠(かく)りかがよふ珠を取らずはやまじ

私訳 見渡すと近くにあるのだから、禁断の山の巌陰に隠れている、その輝く珠を手に入れずにはいられない。


集歌952 韓衣 服楢乃里之 嶋待尓 玉乎師付牟 好人欲得
訓読 韓衣(からころも)服(き)楢(なら)の里の嶋松(しままつ)に玉をし付けむ好(よ)き人もがも

私訳 韓の衣を着ると云う服楢の里にある山斎(しま)で待つ、その山斎の松に玉を付ける高貴な人がいてほしい。
呆訳 韓人の織る綾の衣を身に着けると云う奈良の京にある松林苑で待っています。松林苑で天下を冒(おお)う公を玉座に就ける高貴な人が居て欲しい。
注意 呆訳では「待つ」から「松」を導き、その漢字を「木」と「公」に分解してみました。その「木」には大地を冒(おお)うと云う意味があります。また、松林苑は平城京における天皇が宴を催すための大規模な山斎である禁苑とされています。この松林苑は天平元年三月に聖武天皇が宴を開いたとの記録がありますので、神亀五年秋の段階では奈良の人には有名な山斎です。


集歌953 竿牡鹿之 鳴奈流山乎 越将去 日谷八君 當不相将有
訓読 さ雄鹿(をしか)の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ

私訳 立派な角を持つ牡鹿が鳴いている山を越えて行こう。その山を越えて行くその日さえも、貴方にはまだ逢えないのでしょうか。
注意 詩経の小雅に載る「鹿鳴」の故事から、松林苑で君王が臣下に対し宴を張ることを暗示します。ここでの「君」は松林苑での宴の主催たる君王への就任を示すとして鑑賞しています。

右、笠朝臣金村之謌中出也。或云、車持朝臣千年作也。
注訓 右は、笠朝臣金村の謌の中に出ず。或は云はく、車持朝臣千年の作なり。


膳王謌一首
標訓 膳王(かしはでのおほきみ)の謌一首
集歌954 朝波 海邊尓安左里為 暮去者 倭部越 鴈四乏母
訓読 朝(あした)は海辺(うみへ)に漁(あさり)し夕(ゆふ)されば大和へ越ゆる雁し羨(とも)しも

私訳 朝には海辺で餌をあさり、夕べには大和へ峠を越えて行く雁よ、(その姿に思うと大和を思い出し)、吾を忘れてしまう。
右、作謌之年不審。但、以謌類便載此次。
注訓 右は、謌の作れる年の審(つばび)らかならず。但し、謌の類(たぐひ)を以つて便(すなは)ち此の次(しだい)に載す。

 非常に恣意的な鑑賞です。以下、この恣意的な鑑賞を下に述べます。
 万葉集の編纂者は、集歌954の歌の左注において、車持千年の詠う神亀五年の難波御幸での歌四首と膳王の詠う歌は関連があるとします。そうしたとき、私は集歌951の歌の「見渡者 近物可良」の意味合いに興味を惹かれます。
 ここで、この膳王を紹介しますと、本来は和銅八年の詔勅からすると膳親王が正しい表記で、父親が長屋王で、母親が吉備内親王です。長屋王は太政大臣であり後日並皇子と称された高市皇子と御名部皇女との長子で、この御名部皇女は元明天皇の実の姉です。また、吉備内親王は草壁日並皇子と元明天皇との御子ですので元正天皇とは実の姉妹になり、当時、元正天皇にとって唯一の身寄りです。つまり、膳王は奈良時代では最高の血筋を引く親王となりますし、皇位継承において天武天皇の、皇子の母親の血筋を重要視する勅命からすると皇位継承の筆頭に位置します。また、長屋王と吉備内親王との婚姻には叔母であり母親である元明天皇も直接に関与したでしょうから、長子である膳親王の立場は、正史に載るものとは相当に違うのではないでしょうか。事実、長屋王遺跡の発掘等の成果から、従来の「普段の解説では正史とされるもの」は訂正されつつあるようです。
 こうしたとき、万葉集に元明天皇と御名部皇女との関係を示す歌があります。


和銅元年戊申
天皇御製謌
標訓 天皇(すめらみこと)の御(かた)りて製(つく)らしし謌
集歌76 大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母
訓読 大夫(ますらを)の鞆(とも)の音(おと)すなり物部の大臣(おほまえつきみ)盾立つらしも

私訳 立派な武人の弓の鞆を弦がはじく音がする。そして、物部の大臣が日嗣の大盾を立てているらしい。


御名部皇女奉和御謌
標訓 御名部(みなべの)皇女(ひめみこ)の和(こた)へ奉(たてまつ)れし御謌(おほみうた)
集歌77 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
訓読 吾(わ)ご大王(おほきみ)物(もの)な念(おも)ほし皇神(すめかみ)の嗣(つ)ぎ而(ぢ)賜へる吾れ無けなくに

私訳 吾らの大王よ。御心配なされるな。皇祖から日嗣をその貴女に賜られたのです。それに、吾らがいないわけではありません。

 この歌の限りでは、元明天皇と御名部皇女とは非常に仲の良い姉妹であったことが判ります。ここで、先の車持千年の詠う歌四首に戻り、私の恣意的な鑑賞が正しいものとしますと、車持千年は元正天皇の意向を汲んで歌を詠った可能性が出てきます。つまり、正史とは違いますが政教分離があるならば、元正天皇から大王に対して自分や母親の血にきわめて近い膳親王に対する皇太子への擁立の要請か、自己の天皇位の譲位の意向です。奈良時代の漢詩集である懐風藻に載る漢詩によると、神亀年間に長屋王は新羅使節を招いた宴で漢語の「君王」と尊称されていますから大和言葉での「大王」に相当します。
 歴史を眺めますと、集歌953の歌や集歌954の歌が示す季節感から、この車持千年の詠う歌四首が神亀五年の秋に詠われたものならば、ご存知のように、この元正天皇の意志表示の直後の神亀六年二月に首王(聖武天皇)とその支持者である藤原氏により、後年に「長屋王の変」と呼ばれるクーデタによって膳親王は殺害されます。そして、そのクーデタで反乱軍を率いたのは、難波宮で車持千年の詠う歌を聞いた知造難波宮事の藤原宇合です。その藤原宇合は難波宮から奈良の京に駆け戻り、近衛大将で禁裏を警護する藤原房前を監禁した上で、長屋王の邸宅を急襲します。

 参考に、歴史の専門家は知っていても一般には決して説明しないことですが、日本後紀の本文にあるように、日本紀と続日本紀前編は、一度は成立したものに対して桓武天皇の勅命で延暦十三年の続日本紀前編の奉呈直後に、その改定作業が開始されています。そして、延暦十六年二月にその続日本紀前編の改定作業が完了し、再度の奉呈が行われています。このとき、どうも、持統天皇に関する記述などから推定して、続日本紀前編の改定に沿うように日本紀も改定されたようです。つまり、桓武天皇にとって延暦十三年時点での日本の正史は、その意にそぐわなかったようです。さらに日本後紀は時の朝廷の意にそぐわない、諸家に伝わる皇統紀に関する書籍は大同四年(809)二月の平城天皇の詔により朝廷によって回収されたとしています。それを歴史の専門家は神皇正統記の記載から「桓武天皇の焚書事件」と称します。これは正史である六国史に載る歴史ですが、まず、世の人には紹介しない事項です。
 その上、桓武天皇の「延暦十六年の日本紀」は「日本書紀」へと再度、編纂・改名されたものだけが今日に伝わっていますので、日本書紀、続日本紀と万葉集の記事や内容を比べたとき、なにが正しいかの判定は難しいものがあります。現在の万葉集の研究は、延暦十六年の続日本紀前編や藤氏家伝が正しい正史を伝えていることを前提として「必要に応じて万葉集を校訂して」組み立てられていることは、ご承知の通りです。

参考資料その一 持統天皇に関する日本後紀の記事
日本後紀巻三逸文(欠補類聚国史)の延暦十三年八月の項より
原文
若、夫襲山肇基以降、清原御寓之前、神代草昧之功、往帝庇民之略、前史所著、燦然可知。除自文武天皇、訖聖武皇帝、記注不昧、余烈存焉。

訓読
若(けだ)し、夫れ襲山の基を肇(ひら)くを以つて降(の)ち、清原御寓(注)の前、神代の草昧(そうまい)の功、往(いに)しへの帝の庇民の略、前史の著すところ、燦然として知るべし。除(さず)くる文武天皇より聖武皇帝までの、記する注は昧(くら)からず、余(あま)す烈(れつ)は焉(ここ)に存(あ)る。

意訳
それは瓊瓊杵尊(神武天皇)が襲山(高千穂峰)に降臨して日本国の基を開いて以降、明日香清御原(天武天皇)の朝廷まで、神代の草創の功績、過去の天皇の人民愛護の政略、それらは前史(日本紀)に著述してあり、燦然として明らかである。前史に入らない文武天皇より聖武皇帝までの間の歴史を記録したもの(続日本紀前編三十巻)は、不確かな記述はなく、すべての功績はここに纏められている。

注 続日本紀慶雲四年七月の記事から、持統天皇の尊称は「藤原宮御宇倭根子天皇」であって、「清原御寓」には相当しません。また、養老六年十二月に次のような記事があり、「浄御原宮御宇」と「藤原宮御宇」とは別な天皇であることが判りますから、日本最初の本格的な王都である藤原宮の規模を思う時に、やはり、日本後紀巻三逸文にある「清原御寓」を持統天皇の尊称(又は在位)と解釈することは出来ません。ただし、正式な学会の日本史では、正史にどのように書いてあっても日本後紀の「清原御寓」を持統天皇の尊称(又は在位)と解釈して日本書紀や続日本紀を研究するのが約束です。逆に日本後紀巻三逸文(欠補類聚国史)の延暦十三年八月の項は、真実を後年に託した平安朝の大和人学者の良心です。
 推理として、先代の国学者や史学者にとって昭和四十年代中ごろまで都としては藤原京自体が存在しない扱いとなっていましたので、日本最初の本格的な王都としての藤原京の存在を前提にした史学や万葉集研究は認められなかったと云う歴史を確認する必要があります。そのため、万葉学でも藤原京に関係する歌々(人麻呂以降の雑歌・相聞・挽歌に分類されるすべての歌々)については、その誘導された歴史観から昭和五十年頃以前に発表された研究については特にその扱いに注意が必要です。ご承知のように藤原京を本格的な王都として、平城京や平安京とその規模において比較するようになるのは平成八年の「大藤原京」の研究報告以降のことです。


養老六年(722)十二月戊戌朔庚戌(13)の記事より
原文
十二月庚戌、勅奉為浄御原宮御宇天皇、造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇、釈迦像。其本願縁記、写以金泥。安置仏殿焉。

訓読
十二月の庚戌に、勅(みことのり)して浄御原宮(きよみはらのみやに)御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)(天武天皇)の為に弥勒像を造らしめ、藤原宮(ふぢわらのみやに)御宇(あめのしたしらしめし)太上天皇(おほきすめらみこと)(持統天皇)の為に釈迦像を造らしめ、奉(たてまつ)らしめる。其の本願の縁(えにし)を記し、金泥を以つて写す。仏殿に安置せしむ。


参考資料その二 懐風藻より長屋王を君王と尊称する資料
大學頭從五位下山田史三方
五言 秋日於長王宅宴新羅客 一首並序
秋日長王の宅において新羅の客を宴す
君王以敬愛之沖衿、      君王敬愛の沖衿を以つて
廣闢琴樽之賞         廣く琴樽の賞を闢く
使人承敦厚之榮命、      使人敦厚の榮命を承け
欣戴鳳鸞之儀         鳳鸞の儀を欣戴す
於是琳瑯滿目、蘿薜充筵    是に於て琳瑯目に滿ち、蘿薜筵に充つ
玉爼彫華、列星光於煙幕    玉爼華を彫りて、星光を煙幕に列ね
珍羞錯味、分綺色於霞帷    珍羞味を錯へて、綺色を霞帷に分つ
羽爵騰飛、混賓主於浮蟻    羽爵騰飛して、賓主を浮蟻に混じ
清談振發、忘貴賤於窗鶏    清談振發して、貴賤を窓鶏に忘る
歌臺落塵、郢曲與巴音雜響   歌臺に塵を落して、郢曲と巴音と響を雜へ
笑林開靨、珠輝其霞影相依   笑林に靨を開けば、珠輝と其の霞影相依る
于時、露凝旻序、風轉商郊   時に、露旻序に凝り、風商郊に轉ず
寒蝉唱而柳葉飄、       寒蝉唱へて柳葉飄り
霜雁度而蘆花落        霜雁度りて蘆花落つ
小山丹桂、流彩別愁之篇    小山の丹桂、彩を別愁の篇に流し
長坂紫蘭、散馥同心之翼    長坂の紫蘭、馥を同心の翼に散ず
日云暮矣、月將除焉      日云に暮れむとし、月將に除せんとす
醉我以五千之文、       我を醉むるに五千の文を以てし
既舞踏於飽之地       既に飽の地に舞踏し
博我以三百之什、       我を博むるに三百の什を以てし
且狂簡於劔志之場       且つ劔志の場に狂簡す
請寫西園之遊、        請う西園の遊を寫し
兼陳南浦之送         兼て南浦の送を陳ぶ
含毫振藻、式贊高風、     毫を含みて藻を振り、以つて高風を贊す
云爾             と云うことしかり

白露懸珠日          白露 珠を懸くる日
黄葉散風朝          黄葉 風に散ずる朝
對揖三朝使          對し揖す 三朝の使
言盡九秋韶          言に盡す 九秋の韶
牙水含調激          牙水 調べを含み激し
虞葵落扇飄          虞葵 扇に落ちて飄る
已謝靈臺下          すでに謝す 靈臺の下
徒欲報瓊瑤          徒らに瓊瑤に報いむと欲す

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